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第三章:鬼の貌(かんばせ)、人の心
第五十二話:心の枷
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おみつが意識を失った玄庵を診療所まで連れ帰るのは、至難の業だった。細身に見える玄庵の体は、気を失うとずっしりと重く、おみつの華奢な腕ではとても支えきれない。
途方に暮れていると、遠くからこちらへ駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「おみつさん! 玄庵先生! 無事ですか!」
古尾だった。彼もまた、あの凄まじい妖気にただならぬ気配を感じ、居ても立っても居られず様子を見に来たのだろう。古尾は、変わり果てた廃寺の跡地と、意識を失った玄庵の姿に目を見開き、息を呑んだ。
「これは……先生が、本気を出したようですね……。まさか、ここまでとは……」
古尾の声には、驚きと、どこか畏怖の念が混じっていた。彼はすぐに玄庵の異変を察し、その瞳の奥に、得体の知れない恐怖が浮かんだ。
しかし、すぐに彼は持ち前の冷静さを取り戻し、おみつに助けの手を差し伸べた。
「おみつさん、先生は?」
「意識がありません。身体中が冷え切っていて……。このままでは、診療所まで連れて帰れません」
古尾は玄庵の腕を肩に回し、その重さを感じた。
「これほどの力を解放すれば、身体に大きな負担がかかるのは当然です。早く診療所へ戻って、手当をしないと」
古尾の助けも借り、なんとか玄庵を診療所まで運び込むことができた。
おみつはすぐに玄庵を診察台に寝かせ、彼の身体を調べていく。幸い、目立った外傷はないものの、全身が激しく衰弱しているのが見て取れた。肌にはまだ、妖気の奔流に耐えきれなかったひび割れが残っている。
「妖力が身体を巡りすぎて、気が乱れている。まずは、これを落ち着かせないと」
古尾は、慣れた手つきで薬棚からいくつかの薬草を選び出し、煎じ始めた。玄庵の側で働くようになってから、おみつも薬草の知識を少しずつ学んでいたが、古尾の知識は玄庵に匹敵するほどだ。
玉藻も心配そうに玄庵の周りをうろうろと歩き回り、彼の顔を舐めたり、毛繕いをしたりしている。その行動は、普段の気まぐれな猫とは違い、どこか必死さを含んでいた。
数時間後、古尾が煎じた薬を飲ませると、玄庵の乱れていた呼吸が少しずつ落ち着いてきた。
顔色も、ほんのわずかだが生気を取り戻している。
夜が明ける頃、玄庵はうっすらと目を開けた。彼の瞳は、もはやあの血のような赤ではなく、いつもの深い静謐な色に戻っていた。
「……おみつ……古尾……」
弱々しい声だったが、確かに玄庵の声だった。おみつは安堵のあまり、目に涙が浮かんだ。
「先生! よかった……!」
「心配をかけたな」
玄庵はゆっくりと身体を起こそうとしたが、その全身に激しい痛みが走った。
「動かない方がいい」
古尾が、薬を煎じた湯呑を差し出す。玄庵はそれをゆっくりと飲み干した。
「あの力は……」
玄庵は、苦しそうに言葉を絞り出した。彼の視線は、虚空をさまよっている。
「私の中の、鬼の血……。あれを解放すれば、私は……私ではなくなる」
その声には、深い恐怖と、自らの力を制御しきれなかったことへの絶望が滲んでいた。彼は、あの力が、己の理性を奪い、ただ破壊を求める存在へと変えてしまうことを、何よりも恐れていたのだ。
「先生……」
おみつは、かける言葉が見つからなかった。
あの時の玄庵の姿は、まさしく鬼そのものだった。しかし、おみつの呼びかけで、彼は確かに正気を取り戻した。それは、彼が完全に鬼になったわけではない、という証拠なのではないか。
「あの力は、過去に私が背負った『業』のようなものだ。解放すればするほど、私の心はあの闇に囚われる。まるで枷のように……」
玄庵は、自嘲するように呟いた。彼の心の中には、あの圧倒的な力と共に、深い後悔と恐怖が渦巻いているのが見て取れた。
古尾は静かに口を開いた。
「玄庵先生、あの力は、先生の身体と心を蝕むもの。使いすぎれば、いずれ先生自身が壊れてしまうでしょう。蝕組の狙いは、まさにそれです。先生の力を暴走させ、制御不能な『鬼』として利用しようとしているのですから」
古尾の言葉は、玄庵の抱える恐怖を明確に指摘していた。蝕組は、玄庵の力を手に入れたいのではなく、彼を暴走させ、自分たちの手駒としようとしているのだ。
玄庵は、深く息を吐いた。
「わかっている……。だからこそ、私はあの力を封じ込めてきた。だが、今回、奴らの罠に嵌り、解放せざるを得なかった」
彼の表情は、痛みと、自らの無力さへの苛立ちで歪んでいた。
おみつは、その姿を見て、胸が締め付けられるようだった。
玄庵は、ただ強大な力を持つだけの存在ではない。
その力ゆえに、深い苦悩と恐怖を抱え、それに抗い続けているのだ。
「先生、大丈夫です。私たちがいますから」
おみつは、玄庵の弱々しい手をそっと握った。彼女の掌から伝わる温かさが、玄庵の冷え切った身体にじんわりと染み渡る。
「私たちも、あの力に打ち勝つ方法を、一緒に考えましょう」
おみつの言葉に、玄庵はゆっくりと顔を上げた。彼の瞳には、まだ深い影が宿っているものの、その奥に、かすかな光が灯ったように見えた。
古尾も頷いた。
「そうですぜ、先生。あの娘が命がけで呼び戻してくれたんですから、無駄にはできませんや。それに、先生のあの力は、使い方次第では、厄介な相手を退ける切り札にもなり得ます。完全に封じ込めるだけでは、もったいない」
古尾の言葉に、玄庵は何も言わなかった。しかし、その表情は、少しだけ和らいだように見えた。
外からは、鬼灯横丁の賑やかな声が聞こえてくる。普段通りの日常が、そこにはあった。
しかし、あの夜、玄庵が解放した「鬼」の力は、おみつの心に大きな衝撃を与えた。
そして、玄庵自身もまた、自らの内に潜む力の恐ろしさと、それに抗うことの難しさを改めて痛感していた。
あの力は、彼にとっての「枷」だ。
だが、その枷を外した時、彼は本当に「鬼」になってしまうのだろうか。
そして、おみつは、その枷を解き放ちながらも、彼を「玄庵」として繋ぎ止めることができるのだろうか。
夜が明け、新しい一日が始まる。
しかし、診療所に残された傷痕は、彼らの戦いが、まだ終わっていないことを物語っていた。
途方に暮れていると、遠くからこちらへ駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「おみつさん! 玄庵先生! 無事ですか!」
古尾だった。彼もまた、あの凄まじい妖気にただならぬ気配を感じ、居ても立っても居られず様子を見に来たのだろう。古尾は、変わり果てた廃寺の跡地と、意識を失った玄庵の姿に目を見開き、息を呑んだ。
「これは……先生が、本気を出したようですね……。まさか、ここまでとは……」
古尾の声には、驚きと、どこか畏怖の念が混じっていた。彼はすぐに玄庵の異変を察し、その瞳の奥に、得体の知れない恐怖が浮かんだ。
しかし、すぐに彼は持ち前の冷静さを取り戻し、おみつに助けの手を差し伸べた。
「おみつさん、先生は?」
「意識がありません。身体中が冷え切っていて……。このままでは、診療所まで連れて帰れません」
古尾は玄庵の腕を肩に回し、その重さを感じた。
「これほどの力を解放すれば、身体に大きな負担がかかるのは当然です。早く診療所へ戻って、手当をしないと」
古尾の助けも借り、なんとか玄庵を診療所まで運び込むことができた。
おみつはすぐに玄庵を診察台に寝かせ、彼の身体を調べていく。幸い、目立った外傷はないものの、全身が激しく衰弱しているのが見て取れた。肌にはまだ、妖気の奔流に耐えきれなかったひび割れが残っている。
「妖力が身体を巡りすぎて、気が乱れている。まずは、これを落ち着かせないと」
古尾は、慣れた手つきで薬棚からいくつかの薬草を選び出し、煎じ始めた。玄庵の側で働くようになってから、おみつも薬草の知識を少しずつ学んでいたが、古尾の知識は玄庵に匹敵するほどだ。
玉藻も心配そうに玄庵の周りをうろうろと歩き回り、彼の顔を舐めたり、毛繕いをしたりしている。その行動は、普段の気まぐれな猫とは違い、どこか必死さを含んでいた。
数時間後、古尾が煎じた薬を飲ませると、玄庵の乱れていた呼吸が少しずつ落ち着いてきた。
顔色も、ほんのわずかだが生気を取り戻している。
夜が明ける頃、玄庵はうっすらと目を開けた。彼の瞳は、もはやあの血のような赤ではなく、いつもの深い静謐な色に戻っていた。
「……おみつ……古尾……」
弱々しい声だったが、確かに玄庵の声だった。おみつは安堵のあまり、目に涙が浮かんだ。
「先生! よかった……!」
「心配をかけたな」
玄庵はゆっくりと身体を起こそうとしたが、その全身に激しい痛みが走った。
「動かない方がいい」
古尾が、薬を煎じた湯呑を差し出す。玄庵はそれをゆっくりと飲み干した。
「あの力は……」
玄庵は、苦しそうに言葉を絞り出した。彼の視線は、虚空をさまよっている。
「私の中の、鬼の血……。あれを解放すれば、私は……私ではなくなる」
その声には、深い恐怖と、自らの力を制御しきれなかったことへの絶望が滲んでいた。彼は、あの力が、己の理性を奪い、ただ破壊を求める存在へと変えてしまうことを、何よりも恐れていたのだ。
「先生……」
おみつは、かける言葉が見つからなかった。
あの時の玄庵の姿は、まさしく鬼そのものだった。しかし、おみつの呼びかけで、彼は確かに正気を取り戻した。それは、彼が完全に鬼になったわけではない、という証拠なのではないか。
「あの力は、過去に私が背負った『業』のようなものだ。解放すればするほど、私の心はあの闇に囚われる。まるで枷のように……」
玄庵は、自嘲するように呟いた。彼の心の中には、あの圧倒的な力と共に、深い後悔と恐怖が渦巻いているのが見て取れた。
古尾は静かに口を開いた。
「玄庵先生、あの力は、先生の身体と心を蝕むもの。使いすぎれば、いずれ先生自身が壊れてしまうでしょう。蝕組の狙いは、まさにそれです。先生の力を暴走させ、制御不能な『鬼』として利用しようとしているのですから」
古尾の言葉は、玄庵の抱える恐怖を明確に指摘していた。蝕組は、玄庵の力を手に入れたいのではなく、彼を暴走させ、自分たちの手駒としようとしているのだ。
玄庵は、深く息を吐いた。
「わかっている……。だからこそ、私はあの力を封じ込めてきた。だが、今回、奴らの罠に嵌り、解放せざるを得なかった」
彼の表情は、痛みと、自らの無力さへの苛立ちで歪んでいた。
おみつは、その姿を見て、胸が締め付けられるようだった。
玄庵は、ただ強大な力を持つだけの存在ではない。
その力ゆえに、深い苦悩と恐怖を抱え、それに抗い続けているのだ。
「先生、大丈夫です。私たちがいますから」
おみつは、玄庵の弱々しい手をそっと握った。彼女の掌から伝わる温かさが、玄庵の冷え切った身体にじんわりと染み渡る。
「私たちも、あの力に打ち勝つ方法を、一緒に考えましょう」
おみつの言葉に、玄庵はゆっくりと顔を上げた。彼の瞳には、まだ深い影が宿っているものの、その奥に、かすかな光が灯ったように見えた。
古尾も頷いた。
「そうですぜ、先生。あの娘が命がけで呼び戻してくれたんですから、無駄にはできませんや。それに、先生のあの力は、使い方次第では、厄介な相手を退ける切り札にもなり得ます。完全に封じ込めるだけでは、もったいない」
古尾の言葉に、玄庵は何も言わなかった。しかし、その表情は、少しだけ和らいだように見えた。
外からは、鬼灯横丁の賑やかな声が聞こえてくる。普段通りの日常が、そこにはあった。
しかし、あの夜、玄庵が解放した「鬼」の力は、おみつの心に大きな衝撃を与えた。
そして、玄庵自身もまた、自らの内に潜む力の恐ろしさと、それに抗うことの難しさを改めて痛感していた。
あの力は、彼にとっての「枷」だ。
だが、その枷を外した時、彼は本当に「鬼」になってしまうのだろうか。
そして、おみつは、その枷を解き放ちながらも、彼を「玄庵」として繋ぎ止めることができるのだろうか。
夜が明け、新しい一日が始まる。
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