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第一章
虚しさに触れただけ
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風が止んだ。
高い山々に囲まれたこの地は、年中風が吹き抜けることで有名だ。皇女神殿参拝の一行が町を離れる時、今まで吹いていた風が止んだ。
神の祝福だと一行は湧き立ったが、ステファンだけは違った。神の怒りに触れてしまったかのような、不吉な予感に心の奥が震えた。
「ヘイズ隊長、これよりアザールの森に入ります。天候良し、障害物なし、前方、問題はありません」
「ご苦労、隊列を乱さず前進だ」
前方を警備する部下の報告を聞き、ステファンは静かに頷く。皇都への帰還は順調に進んでいる。三つの馬車が一列に並び、ステファンはその後方で指揮を取っていた。
アザールの森は皇都へ抜けるための道として使用されているが、途中道が幾重にも分かれており、崖のような危険な箇所もある。時々、大きな獣が出て、人を襲ったという報告もある。計画を実行するにはここだと確信した。アルフレッドは森の中程にある小屋の中で潜んでいるはずだ。
出発前、ステファンはアナスタシアが乗る馬車が壊れるように細工をした。雨季の影響で森の中はかなり道が悪い。この悪路で激しい振動が続けば車輪に負担がかかる。
他は荷馬車なので、皇族を乗せるようなことはできない。手の空いている者を修理に回し、騎士達は森の巡回に向かわせる。頃合いをみて、アナスタシアが外へ出たいと騒ぎ、ステファンが近くの木の下で休ませる。そこで小屋へ向かい、アルフレッドの元へ送り届ける。服を着替え、用意していた馬に乗り、二人は別の道を抜け港へ向かう。
港からアルフレッドの母の故郷へ向かい、そこで隠れ暮らす予定だ。
ステファンは隊に戻り、木陰で休んでいたアナスタシアが、目を離した隙に姿を消したとし捜索する。
近くの木に、獣が引っ掻いたような痕を残しておく。人を引き摺ったような形跡、血痕のついたドレスの切れ端を残しておけば、一人で休んでいたところを襲われたと考えるだろう。
これがステファンの考えた作戦だ。当然、責任者であり、アナスタシアの保護を怠ったステファンに全責任が向くことになる。
アナスタシアの乗る馬車を見ながら、ステファンは小さく息を吐く。
それでいい。
心残りなどない。
そう思うのに、胸が痛いのはなぜだろう。
脳裏にあの男の顔が浮かぶ。
数時間前、見送りはいいと言って、風のように去って行った男。
もう二度と会えないと思うと、胸の奥が疼く。
ステファンの心をかき乱したあの目。
強烈な存在感にあてられて、すっかり魅入られてしまったようだ。少しの間、本来の目的を忘れ、自分の命を預け、彼の剣になりたいとすら憧れを抱いた。
恩人とはいえ、姫を助けて牢屋に入り、処刑されるのが自分の人生なのか。
飾り物に見えたあの豪華な大剣を振り回し、魔獣を倒していくリュシアンの勇姿を、一度でいいから見てみたかった。
「クソ……今さら後悔など……」
突き動かされるような衝動に、手の震えが止まらない。馬上で顔に手を当て歯を食いしばった時、ガタンと激しい音が鳴った。
「隊長! 大変です。皇女殿下の馬車です。殿下はご無事ですが、車輪が壊れました。すぐに修理します」
「どれくらいかかる?」
「道具が限られており、少し時間をいただくかと……」
「わかった。騎士達はこれより警戒体制に入る。道の前方と後方に広がり、指示があるまで巡回を続けろ」
「はい! すぐに!」
順調だ。
考えていた通りに進めたことで、ステファンはモヤついていた頭を無理やり切り替える。もうやるしかない。それしかないところまで来ている。
視線を前方に送ると、傾いた馬車が見えた。何人か集まって、修理に取り掛かっている様子だ。
古いボロ馬車をあてがったのは皇家だ。悪路で壊れたとして、そこに誰も疑問は持たないだろう。
使用人は年若い者を集めている。本を確認しながらの作業は、かなりの時間がかかるだろう。
状況を確認するため、ステファンはアナスタシアの元へ移動する。ふと見上げると、木々の間から見える空の色が暗く思えた。
「……先ほどまで快晴だったはず」
天気の急変、一番恐れていた事態に、冷たい汗が背中を流れていく。緊張でハァハァを息をするステファンの髪を、吹き抜けてきた風が揺らす。
生暖かい嫌な風だった。
おかしい。
空気がおかしい。
順調だと思っていたが、この足元から震えるような感覚には身に覚えがある。護衛騎士となり、しばらく離れていた戦場の空気によく似ている。
「ありえない、このは皇都の近くだぞ」
思い出せ、思い出せと体の血が湧き立ってくる。緊張がゾワゾワと背中を走り、深く息を吸い込んだ時、森の奥から叫び声が聞こえてきた。
危険を感じた鳥達が一斉に空へと飛び立つ。
生と死は隣り合わせ。
訓練された者ならわかる。その均衡が崩れた感覚。
限りなく、死に傾いた臭いがする。
強く地面を蹴る音が聞こえて、ステファンはハッと息を吸い込んだ。一人の部下が転がるように馬を下り、ステファンの前へ駆けてきた。汗まみれで汚れた顔、肩で息をしている姿から、彼の混乱が見て取れる。
「隊長! ま、ま……魔獣です! 巡回中の騎士達が突然現れた魔獣に襲われています」
ありえない話だが、ステファンの体はすでに魔獣の気配を察知していた。部下の言葉を聞き、違うと否定し続けた心が根本から折れる。無言で頷いたステファンと違い、馬車の修理をしていた使用人達は恐怖に顔を歪める。
「魔獣だって! ここは皇都だぞ!」
「嘘だろう! し、死にたくない」
今にも逃げ出しそうな彼らを、駆けつけてきた部下が必死に止める。無理もないとステファンは思った。
皇都の町や近くの村で育った彼らは、魔獣を見たことがない。北部のアドラー家がそのほとんどを一掃しているからだ。
大昔、魔獣は大陸の至る所に現れ、人々を襲って喰らい続けた。人類存亡の危機に、当時のアドラー家当主が立ち上がる。魔獣が生まれるとされる、各地にある大気の淀みを制御し、北部の森へ集約させることに成功したのだ。これにより年に数回、淀みから魔獣が発生した時、集中して討伐することで、被害の拡大を防げるようになった。
ただし長い歴史の中で、稀に北部の森以外でも、帝国の山や森の中で淀みの発生が確認されている。その場合、現れた魔獣を倒せば、淀みは自然に消滅していた。だから完全にありえないことではないが、滅多にない事態が今ここで起きたことが信じられない。
ステファンはアナスタシアが乗っている馬車を見た。危険が迫っている中、アナスタシアを逃がすことはできない。こんなことなら、馬車に細工をしなければよかったと後悔が押し寄せてくる。
「魔獣と交戦中ですが、魔獣の数は不明。四方に気配があります。隊長、隊は魔獣との戦いに不慣れな者ばかりです。どうすれば……」
「俺が行く。お前は皇女殿下を守り、早く馬車が動けるよう修理に手を貸すんだ。前の部隊が押されたら、ここまで危険が及ぶ」
「ステファン」
馬車のドアが開けられ、中からアナスタシアが顔を覗かせた。騒ぎはすでに聞こえているだろう。緊張が顔に出ないように、できるだけ笑顔を作る。
「魔獣が出たというのは本当なの?」
「はい。ですが、副隊長を残し、私が対処しますのでご心配には及びません。殿下は危ないので中でお待ちください」
「分かったわ」
アナスタシアが悲しげに目を伏せるのが分かる。こんな状態で森を走らせるわけにいかない。ステファンは他の者に聞こえないように、アナスタシアに近づいた。
「機会は必ず作ります。今は御身の安全が第一です」
アナスタシアは頷いた後、静かに馬車の座席へ座り直す。周囲を確認した後、ステファンは馬車のドアに手をかけた。
「すぐに戻ってまいります」
「ステファン」
ドアを閉める寸前、アナスタシアの澄んだ声が響く。目が合うとアナスタシアは小さく微笑んだ。
「貴方には本当に感謝しているわ」
「い……いえ、そんな。畏れ多いことです。必ず戻りますので、どうかお待ちください」
「ありがとう」
改まってお礼を言われたことが気になったが、ドアを閉めると、後方に展開していた騎士達が戻ってくるところが目に入った。戦いに頭を切り替えたステファンは、馬に飛び乗った。
部下に戦闘の指示を出し、手綱を強く握る。
今はアナスタシアを守ることだけを考え突き進むだけだ。
魔獣の数が少なければこの人数でも対処は可能である。どうかそうあってくれと願いながら、ステファンは前方を強く見据え、力強く走り出した。
◇◇◇
貴方は高いところにいるべきお方。
地など見る必要はありません。
地よりも空を、そしてもっと高みまで、貴方なら手が届くのです。
リュシアンは生まれて三日目に歩き出し、周囲にいた人々を驚かせた。
先祖代々から続く、戦闘民族としての特徴を色濃く受け継いでいる外見。神々しいまでに光り輝くその姿を見た者達は、地面にひれ伏した。その先頭で頭を下げていた母が恐る恐る顔を上げ、初めてリュシアンにかけた言葉。それは母から息子へ送るような言葉ではなかった。
私は神の子を産んだのです。そう言って満足そうに微笑んだ母の顔を、リュシアンは忘れない。
母はリュシアンの手を取ることをせず、ただ笑い続けたという。
遠い昔、魔獣で溢れかえり、人々の命は滅亡の危機にあった。世界を救うため、当時のアドラー大公と一人の従者が各地に蔓延る淀みを封印し、魔の淀みを北部の地に集めることに成功した。
救世主である大公は、銀髪に赤い目で、幼き頃より身体能力に優れ、剣を一振りするだけで周囲の敵を粉砕した。それは人を超える力。神から授かった力を持ち、世界を救う英雄となった。
北部は厳しい気候に加え、淀みを集約したことで魔獣と戦い続けなければならない。歴代の当主はその責務を受け継いできた。その中で、アドラー家に、伝説の救世主と同じ特徴を持つ子が生まれた。
同じように幼き頃より武に優れ、その者が統治する間、厳しい天候は穏やかになり、魔獣との戦いで国民が苦しむことは少なくなった。
人々はその存在を神の子と呼んだ。いつしか国民の希望となり、神の子の誕生を待ち侘びるようになる。
リュシアンの母は真面目で責任感の強い人だった。他国から嫁ぎ、初めて神の子を産まなければならないという重圧を知った。なかなか子宝に恵まれず、やっとできた最初の子は女で、神の子ではなかった。
もう何代も神の子と呼ばれる子は誕生しておらず、国民は神の子の誕生を切望していた。次こそは、という視線を受け続けた母は、少しずつ、少しずつ心を壊していった。
長い苦しみの果て、再び子を授かり、生まれてきたのがリュシアンだ。リュシアンの赤い瞳を見た母は、かろうじて繋がっていた糸が切れたように、人が変わってしまう。赤子のリュシアンを神のように崇め、やがて心が壊れ、抜け殻になってしまった。
リュシアンには愛情というものがよく分からない。
気づいた時には、誰もが母のように、リュシアンを神の子と呼んで、恭しく接してきたからだ。父や姉は、そんな光景を遠巻きに見ていた。彼らもどう接していいか分からなかったのだろう。
幼いリュシアンは言われた通りに、人々の期待に応えるように振る舞った。すると周囲はもっと頭を深く下げ、さすが神の子だと言った。
それはリュシアンにとって、心地よいものではなかった。まるで一線を引かれたような、自分だけ違う存在だと言われたように思えた。
成長とともに力は増し、高みへと登っていく。誰かを守り、助ける度、ありがとうございますと感謝させる。嬉しいと思う気持ちは、時を経るごとに霞んでいき、どこか虚しいものになった。
どんなに高く登っても、少しも満たされない。
自分を守り、包んでくれる温もりに触れたら、どんな気持ちになるだろう。
リュシアンはそう考えるようになった。
最強と謳われた男は、唯一の光を探して生きてきた。
「できました」
そう言われて、包帯が巻かれた腕を持ち上げると、リュシアンは目を細める。
「相変わらず手際がいいな」
「いつまでもそのままにしていたら、この辺りが全て大変なことになりますので」
深い森の中、切り株に座ったリュシアンは静かに頷く。侍従のギルバートは、こんな場所でも準備がよく、治療用道具を揃えていた。しっかり手当てされた腕を持ち上げ、来た道の方へ視線を向ける。もう少しすれば変化が起きるだろう。そのための準備は整えておいた。
「ステファンは大丈夫だろうか……。あれで演技が上手い男なら、もう少し事は簡単に進むのだが……。いや、でもあの素直なところがいいんだな」
腕を組みながら、一人でぶつぶつ呟いていると、ギルバートが呆れた視線を送ってくる。リュシアンは全く気にすることなく、フフンと笑った。
「何だ、ギル。文句があるのか?」
「あの、いちおう確認しておきますが、本当にヘイズ卿は殿下の提案を受け入れたのですか?」
「疑うのか? もちろん、向こうも俺と同じ気持ちだと確認した」
「それならいいのですが……」
ギルバートは変わらず心配そうな目で見てくるので、リュシアンは無視して空を仰ぐ。木々の間に黒い雲が見えて、天気の変わる気配がする。
リュシアンが視線を送ると、ギルバートは静かに頷いた。
「手筈は整えております」
リュシアンが無言で差し出した手の上に、ギルバートは大きな剣を置いた。対魔獣用に作られた剣カルシフ。長年使い続けて刃こぼれしたので打ち直したばかりだ。
「行くぞ」
生暖かい風が吹き抜けて、リュシアンの長い髪をふわりと持ち上げる。大剣を軽々と片手に持ったリュシアンは、風を切るように歩き出した。
高い山々に囲まれたこの地は、年中風が吹き抜けることで有名だ。皇女神殿参拝の一行が町を離れる時、今まで吹いていた風が止んだ。
神の祝福だと一行は湧き立ったが、ステファンだけは違った。神の怒りに触れてしまったかのような、不吉な予感に心の奥が震えた。
「ヘイズ隊長、これよりアザールの森に入ります。天候良し、障害物なし、前方、問題はありません」
「ご苦労、隊列を乱さず前進だ」
前方を警備する部下の報告を聞き、ステファンは静かに頷く。皇都への帰還は順調に進んでいる。三つの馬車が一列に並び、ステファンはその後方で指揮を取っていた。
アザールの森は皇都へ抜けるための道として使用されているが、途中道が幾重にも分かれており、崖のような危険な箇所もある。時々、大きな獣が出て、人を襲ったという報告もある。計画を実行するにはここだと確信した。アルフレッドは森の中程にある小屋の中で潜んでいるはずだ。
出発前、ステファンはアナスタシアが乗る馬車が壊れるように細工をした。雨季の影響で森の中はかなり道が悪い。この悪路で激しい振動が続けば車輪に負担がかかる。
他は荷馬車なので、皇族を乗せるようなことはできない。手の空いている者を修理に回し、騎士達は森の巡回に向かわせる。頃合いをみて、アナスタシアが外へ出たいと騒ぎ、ステファンが近くの木の下で休ませる。そこで小屋へ向かい、アルフレッドの元へ送り届ける。服を着替え、用意していた馬に乗り、二人は別の道を抜け港へ向かう。
港からアルフレッドの母の故郷へ向かい、そこで隠れ暮らす予定だ。
ステファンは隊に戻り、木陰で休んでいたアナスタシアが、目を離した隙に姿を消したとし捜索する。
近くの木に、獣が引っ掻いたような痕を残しておく。人を引き摺ったような形跡、血痕のついたドレスの切れ端を残しておけば、一人で休んでいたところを襲われたと考えるだろう。
これがステファンの考えた作戦だ。当然、責任者であり、アナスタシアの保護を怠ったステファンに全責任が向くことになる。
アナスタシアの乗る馬車を見ながら、ステファンは小さく息を吐く。
それでいい。
心残りなどない。
そう思うのに、胸が痛いのはなぜだろう。
脳裏にあの男の顔が浮かぶ。
数時間前、見送りはいいと言って、風のように去って行った男。
もう二度と会えないと思うと、胸の奥が疼く。
ステファンの心をかき乱したあの目。
強烈な存在感にあてられて、すっかり魅入られてしまったようだ。少しの間、本来の目的を忘れ、自分の命を預け、彼の剣になりたいとすら憧れを抱いた。
恩人とはいえ、姫を助けて牢屋に入り、処刑されるのが自分の人生なのか。
飾り物に見えたあの豪華な大剣を振り回し、魔獣を倒していくリュシアンの勇姿を、一度でいいから見てみたかった。
「クソ……今さら後悔など……」
突き動かされるような衝動に、手の震えが止まらない。馬上で顔に手を当て歯を食いしばった時、ガタンと激しい音が鳴った。
「隊長! 大変です。皇女殿下の馬車です。殿下はご無事ですが、車輪が壊れました。すぐに修理します」
「どれくらいかかる?」
「道具が限られており、少し時間をいただくかと……」
「わかった。騎士達はこれより警戒体制に入る。道の前方と後方に広がり、指示があるまで巡回を続けろ」
「はい! すぐに!」
順調だ。
考えていた通りに進めたことで、ステファンはモヤついていた頭を無理やり切り替える。もうやるしかない。それしかないところまで来ている。
視線を前方に送ると、傾いた馬車が見えた。何人か集まって、修理に取り掛かっている様子だ。
古いボロ馬車をあてがったのは皇家だ。悪路で壊れたとして、そこに誰も疑問は持たないだろう。
使用人は年若い者を集めている。本を確認しながらの作業は、かなりの時間がかかるだろう。
状況を確認するため、ステファンはアナスタシアの元へ移動する。ふと見上げると、木々の間から見える空の色が暗く思えた。
「……先ほどまで快晴だったはず」
天気の急変、一番恐れていた事態に、冷たい汗が背中を流れていく。緊張でハァハァを息をするステファンの髪を、吹き抜けてきた風が揺らす。
生暖かい嫌な風だった。
おかしい。
空気がおかしい。
順調だと思っていたが、この足元から震えるような感覚には身に覚えがある。護衛騎士となり、しばらく離れていた戦場の空気によく似ている。
「ありえない、このは皇都の近くだぞ」
思い出せ、思い出せと体の血が湧き立ってくる。緊張がゾワゾワと背中を走り、深く息を吸い込んだ時、森の奥から叫び声が聞こえてきた。
危険を感じた鳥達が一斉に空へと飛び立つ。
生と死は隣り合わせ。
訓練された者ならわかる。その均衡が崩れた感覚。
限りなく、死に傾いた臭いがする。
強く地面を蹴る音が聞こえて、ステファンはハッと息を吸い込んだ。一人の部下が転がるように馬を下り、ステファンの前へ駆けてきた。汗まみれで汚れた顔、肩で息をしている姿から、彼の混乱が見て取れる。
「隊長! ま、ま……魔獣です! 巡回中の騎士達が突然現れた魔獣に襲われています」
ありえない話だが、ステファンの体はすでに魔獣の気配を察知していた。部下の言葉を聞き、違うと否定し続けた心が根本から折れる。無言で頷いたステファンと違い、馬車の修理をしていた使用人達は恐怖に顔を歪める。
「魔獣だって! ここは皇都だぞ!」
「嘘だろう! し、死にたくない」
今にも逃げ出しそうな彼らを、駆けつけてきた部下が必死に止める。無理もないとステファンは思った。
皇都の町や近くの村で育った彼らは、魔獣を見たことがない。北部のアドラー家がそのほとんどを一掃しているからだ。
大昔、魔獣は大陸の至る所に現れ、人々を襲って喰らい続けた。人類存亡の危機に、当時のアドラー家当主が立ち上がる。魔獣が生まれるとされる、各地にある大気の淀みを制御し、北部の森へ集約させることに成功したのだ。これにより年に数回、淀みから魔獣が発生した時、集中して討伐することで、被害の拡大を防げるようになった。
ただし長い歴史の中で、稀に北部の森以外でも、帝国の山や森の中で淀みの発生が確認されている。その場合、現れた魔獣を倒せば、淀みは自然に消滅していた。だから完全にありえないことではないが、滅多にない事態が今ここで起きたことが信じられない。
ステファンはアナスタシアが乗っている馬車を見た。危険が迫っている中、アナスタシアを逃がすことはできない。こんなことなら、馬車に細工をしなければよかったと後悔が押し寄せてくる。
「魔獣と交戦中ですが、魔獣の数は不明。四方に気配があります。隊長、隊は魔獣との戦いに不慣れな者ばかりです。どうすれば……」
「俺が行く。お前は皇女殿下を守り、早く馬車が動けるよう修理に手を貸すんだ。前の部隊が押されたら、ここまで危険が及ぶ」
「ステファン」
馬車のドアが開けられ、中からアナスタシアが顔を覗かせた。騒ぎはすでに聞こえているだろう。緊張が顔に出ないように、できるだけ笑顔を作る。
「魔獣が出たというのは本当なの?」
「はい。ですが、副隊長を残し、私が対処しますのでご心配には及びません。殿下は危ないので中でお待ちください」
「分かったわ」
アナスタシアが悲しげに目を伏せるのが分かる。こんな状態で森を走らせるわけにいかない。ステファンは他の者に聞こえないように、アナスタシアに近づいた。
「機会は必ず作ります。今は御身の安全が第一です」
アナスタシアは頷いた後、静かに馬車の座席へ座り直す。周囲を確認した後、ステファンは馬車のドアに手をかけた。
「すぐに戻ってまいります」
「ステファン」
ドアを閉める寸前、アナスタシアの澄んだ声が響く。目が合うとアナスタシアは小さく微笑んだ。
「貴方には本当に感謝しているわ」
「い……いえ、そんな。畏れ多いことです。必ず戻りますので、どうかお待ちください」
「ありがとう」
改まってお礼を言われたことが気になったが、ドアを閉めると、後方に展開していた騎士達が戻ってくるところが目に入った。戦いに頭を切り替えたステファンは、馬に飛び乗った。
部下に戦闘の指示を出し、手綱を強く握る。
今はアナスタシアを守ることだけを考え突き進むだけだ。
魔獣の数が少なければこの人数でも対処は可能である。どうかそうあってくれと願いながら、ステファンは前方を強く見据え、力強く走り出した。
◇◇◇
貴方は高いところにいるべきお方。
地など見る必要はありません。
地よりも空を、そしてもっと高みまで、貴方なら手が届くのです。
リュシアンは生まれて三日目に歩き出し、周囲にいた人々を驚かせた。
先祖代々から続く、戦闘民族としての特徴を色濃く受け継いでいる外見。神々しいまでに光り輝くその姿を見た者達は、地面にひれ伏した。その先頭で頭を下げていた母が恐る恐る顔を上げ、初めてリュシアンにかけた言葉。それは母から息子へ送るような言葉ではなかった。
私は神の子を産んだのです。そう言って満足そうに微笑んだ母の顔を、リュシアンは忘れない。
母はリュシアンの手を取ることをせず、ただ笑い続けたという。
遠い昔、魔獣で溢れかえり、人々の命は滅亡の危機にあった。世界を救うため、当時のアドラー大公と一人の従者が各地に蔓延る淀みを封印し、魔の淀みを北部の地に集めることに成功した。
救世主である大公は、銀髪に赤い目で、幼き頃より身体能力に優れ、剣を一振りするだけで周囲の敵を粉砕した。それは人を超える力。神から授かった力を持ち、世界を救う英雄となった。
北部は厳しい気候に加え、淀みを集約したことで魔獣と戦い続けなければならない。歴代の当主はその責務を受け継いできた。その中で、アドラー家に、伝説の救世主と同じ特徴を持つ子が生まれた。
同じように幼き頃より武に優れ、その者が統治する間、厳しい天候は穏やかになり、魔獣との戦いで国民が苦しむことは少なくなった。
人々はその存在を神の子と呼んだ。いつしか国民の希望となり、神の子の誕生を待ち侘びるようになる。
リュシアンの母は真面目で責任感の強い人だった。他国から嫁ぎ、初めて神の子を産まなければならないという重圧を知った。なかなか子宝に恵まれず、やっとできた最初の子は女で、神の子ではなかった。
もう何代も神の子と呼ばれる子は誕生しておらず、国民は神の子の誕生を切望していた。次こそは、という視線を受け続けた母は、少しずつ、少しずつ心を壊していった。
長い苦しみの果て、再び子を授かり、生まれてきたのがリュシアンだ。リュシアンの赤い瞳を見た母は、かろうじて繋がっていた糸が切れたように、人が変わってしまう。赤子のリュシアンを神のように崇め、やがて心が壊れ、抜け殻になってしまった。
リュシアンには愛情というものがよく分からない。
気づいた時には、誰もが母のように、リュシアンを神の子と呼んで、恭しく接してきたからだ。父や姉は、そんな光景を遠巻きに見ていた。彼らもどう接していいか分からなかったのだろう。
幼いリュシアンは言われた通りに、人々の期待に応えるように振る舞った。すると周囲はもっと頭を深く下げ、さすが神の子だと言った。
それはリュシアンにとって、心地よいものではなかった。まるで一線を引かれたような、自分だけ違う存在だと言われたように思えた。
成長とともに力は増し、高みへと登っていく。誰かを守り、助ける度、ありがとうございますと感謝させる。嬉しいと思う気持ちは、時を経るごとに霞んでいき、どこか虚しいものになった。
どんなに高く登っても、少しも満たされない。
自分を守り、包んでくれる温もりに触れたら、どんな気持ちになるだろう。
リュシアンはそう考えるようになった。
最強と謳われた男は、唯一の光を探して生きてきた。
「できました」
そう言われて、包帯が巻かれた腕を持ち上げると、リュシアンは目を細める。
「相変わらず手際がいいな」
「いつまでもそのままにしていたら、この辺りが全て大変なことになりますので」
深い森の中、切り株に座ったリュシアンは静かに頷く。侍従のギルバートは、こんな場所でも準備がよく、治療用道具を揃えていた。しっかり手当てされた腕を持ち上げ、来た道の方へ視線を向ける。もう少しすれば変化が起きるだろう。そのための準備は整えておいた。
「ステファンは大丈夫だろうか……。あれで演技が上手い男なら、もう少し事は簡単に進むのだが……。いや、でもあの素直なところがいいんだな」
腕を組みながら、一人でぶつぶつ呟いていると、ギルバートが呆れた視線を送ってくる。リュシアンは全く気にすることなく、フフンと笑った。
「何だ、ギル。文句があるのか?」
「あの、いちおう確認しておきますが、本当にヘイズ卿は殿下の提案を受け入れたのですか?」
「疑うのか? もちろん、向こうも俺と同じ気持ちだと確認した」
「それならいいのですが……」
ギルバートは変わらず心配そうな目で見てくるので、リュシアンは無視して空を仰ぐ。木々の間に黒い雲が見えて、天気の変わる気配がする。
リュシアンが視線を送ると、ギルバートは静かに頷いた。
「手筈は整えております」
リュシアンが無言で差し出した手の上に、ギルバートは大きな剣を置いた。対魔獣用に作られた剣カルシフ。長年使い続けて刃こぼれしたので打ち直したばかりだ。
「行くぞ」
生暖かい風が吹き抜けて、リュシアンの長い髪をふわりと持ち上げる。大剣を軽々と片手に持ったリュシアンは、風を切るように歩き出した。
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木や草花どれもやけに大きく見えるし、自分の体も妙に華奢だった。
色々疑問に思いながらも、1人は寂しくて人間に会うために森をさまよい歩く。
ようやく出会えた初めての人間に思わず話しかけたものの、言葉は通じず、なぜか捕らえられてしまい、無残な目に遭うことに。
捨てられ、意識が薄れる中、僕を助けてくれたのは、優しい騎士だった。
彼の献身的な看病に心が癒される僕だけれど、彼がどんな思いで僕を守っているのかは、まだ気づかないまま。
少しずつ深まっていくこの絆が、僕にどんな運命をもたらすのか──?
騎士×妖精
ブラコンすぎて面倒な男を演じていた平凡兄、やめたら押し倒されました
あと
BL
「お兄ちゃん!人肌脱ぎます!」
完璧公爵跡取り息子許嫁攻め×ブラコン兄鈍感受け
可愛い弟と攻めの幸せのために、平凡なのに面倒な男を演じることにした受け。毎日の告白、束縛発言などを繰り広げ、上手くいきそうになったため、やめたら、なんと…?
攻め:ヴィクター・ローレンツ
受け:リアム・グレイソン
弟:リチャード・グレイソン
pixivにも投稿しています。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
ガラスの靴を作ったのは俺ですが、執着されるなんて聞いてません!
或波夏
BL
「探せ!この靴を作った者を!」
***
日々、大量注文に追われるガラス職人、リヨ。
疲労の末倒れた彼が目を開くと、そこには見知らぬ世界が広がっていた。
彼が転移した世界は《ガラス》がキーアイテムになる『シンデレラ』の世界!
リヨは魔女から童話通りの結末に導くため、ガラスの靴を作ってくれと依頼される。
しかし、王子様はなぜかシンデレラではなく、リヨの作ったガラスの靴に夢中になってしまった?!
さらにシンデレラも魔女も何やらリヨに特別な感情を抱いていているようで……?
執着系王子様+訳ありシンデレラ+謎だらけの魔女?×夢に真っ直ぐな職人
ガラス職人リヨによって、童話の歯車が狂い出すーー
※素人調べ、知識のためガラス細工描写は現実とは異なる場合があります。あたたかく見守って頂けると嬉しいです🙇♀️
※受けと女性キャラのカップリングはありません。シンデレラも魔女もワケありです
※執着王子様攻めがメインですが、総受け、愛され要素多分に含みます
朝or夜(時間未定)1話更新予定です。
1話が長くなってしまった場合、分割して2話更新する場合もあります。
♡、お気に入り、しおり、エールありがとうございます!とても励みになっております!
感想も頂けると泣いて喜びます!
第13回BL大賞にエントリーさせていただいています!もし良ければ投票していただけると大変嬉しいです!
王子に彼女を奪われましたが、俺は異世界で竜人に愛されるみたいです?
キノア9g
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高校生カップル、突然の異世界召喚――…でも待っていたのは、まさかの「おまけ」扱い!?
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ざこてん〜初期雑魚モンスターに転生した俺は、勇者にテイムしてもらう〜
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