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⑯ 見慣れぬ背中
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香坂をカフェに呼び出して、納見は今まで言えなかったことを、全て話すことにした。
何度も頭の中でシミュレーションしたが、上手く説明できる自信がなかった。
それでも伝えないといけないと思って腹に力を入れた。
初めに勢いよく謝ってから、自分がDomの擬似プレイ配信をしていたところまで話した。
するとなんと香坂は配信者としての名前、agehaを知っていた。そして、驚いたのか椅子から転げ落ちてしまった。
「大丈夫!? 仁、ごめん、急にこんな話して、驚かせちゃったよね」
「……………」
手を掴んで引き寄せて、また椅子に座ってもらったが、香坂はずっと下を向いたままだった。
「ずっと……話そうと思っていたんだけど、プレイ配信なんて……嫌がる人もいるから。仁に嫌われたくなくて。で……でも、もうやってなくて、辞めたんだ。仁と付き合い出してから無理になって……」
香坂は納見が話している間、微動だにせずに無言だった。一度もこちらを見てくれなくて、納見は全身が冷えていくのを感じた。
(まずい、怒ってるんだ……。隠していたから? 呆れられたかもしれない……)
鼻の奥がツンとして、胸が痛くなった。
どうすれば香坂に許してもらえるのか、胸に手を当てて恐る恐る香坂を見つめると、香坂はまたフラリと揺れて横に倒れそうになった。
納見は慌てて席を立って横に付いて香坂の体を支えた。
「ごめっ……そんなに、ショックを受けるなんて……、俺、どうしたら……」
「ショック……? 違う」
「え?」
「本当に……agehaなの?」
怒りを孕んだ目で見られると思っていたのに、顔を上げた香坂は、耳まで真っ赤になっていて、潤んだ瞳で納見を見つめてきた。
「う……うん」
「嘘ぉ……こんなことって……、どうしよう、死んじゃう」
「ええ!? 大丈夫?」
「だって……大ファンだったagehaが目の前にいて、それが……陽太だったなんて……目眩が……」
「え……ファン……?」
「そう、だよ。生配信は必ず見ていたし、毎日過去に上げたやつを何度も見返して……大ファン、ずっと妄想して……どうしよ、夢が叶っちゃった」
口元を両手で覆いながら、香坂はキラキラした目で納見のことを見てきた。
予想外の好反応だったのに驚いたが、あまりの熱量の違いに納見は目を瞬かせて固まった。
「え、ええと……、ちょっと待って。整理してもいい? agehaの昔からのファンで、……え? もしかして仁がパートナーになりたいってと思っていた人って……」
「ええっ……アオイさんに聞いた? そ……その、もしagehaと恋人だったらとか妄想はしていたけど……」
(これって、喜んでいいのか……、仁は怒っているわけじゃなさそうだけど……。これはこれで、自分のことなのにagehaに嫉妬してしまう……)
すっかり推しを見つめる目になっていた香坂だったが、納見のテンションが明らかに下がったので、それに気がついて慌てた様子で椅子に座り直した。
納見も対面の椅子に戻って、二人でコーヒーを飲んでいったん冷静になることにした。
一息ついたところで、香坂が納見の様子を伺いながら口を開いた。
「……agehaは優しいプレイをしてくれるDomで、俺の理想だったわけでさ。パートナーになりたいなんて言って騒いで、色々妄想しちゃったワケだけど、あくまで妄想擬似プレイの相手で、ちゃんと一緒いて触れて呼吸を感じて、嬉しいと思えるのは陽太だけだよ」
「仁………」
「ごめん、変なテンションになっちゃって。陽太のこと、agehaと似てるから好きになったワケじゃなくて、それだけは知って欲しい」
「ごめんは俺の方だよっ。俺、嫉妬してたんだ。仁がパートナーになりたいって思った男がいるって知って。おかしいよね、それが自分だったって分かっても、今度はそっちに嫉妬して……、うわっ何だろう、俺、心が狭いな」
一人で喜怒哀楽の劇でもやってるんじゃないかと思うくらい、混乱してしまった。
カッコ悪いなと思いながら、下を向いていたら、机の上に置いていた納見の手の上に、香坂が自分の手を重ねてきた。
「不安にさせてごめん。俺がパートナーが欲しくて、Domと会っていた話はしていたし、はっきり伝えていなかったから、気になるよね。とりあえず、マッチングとかで会ったDom全員気が合わなかったし、agehaは恋愛というより憧れだったから。俺は……俺がいいなって、ちゃんと、パートナーになりたいって心から思ったのは、陽太だけだよ」
「仁……、ごめん。実はもう一つ、ちゃんと伝えられなくて、俺……Dom性が……実は……強い方で、仁は弱い人の方がいいって言っていたのに……嫌われると思って言えなかった! 本当にごめん!!」
頭を下げて大きな声で謝る納見の姿は目立ってしまい、カフェの店内は静かになって、人々の視線が納見と香坂に集中してしまった。
香坂はフゥと息を吐いた後、周りには聞こえないように声を抑えて話し始めた。
「陽太、それは薄々気がついていたよ。そもそもDom性弱いやつがグレア放つなんてできないし、飲み会に残ってた人全員気絶させるなんて、強すぎるくらいだとしか思えない……。というかさ、俺、性が弱い方がいいなんて言ってたこともすっかり忘れていたよ。なんかそういうのどうでもいいくらい、……なんて言うか、陽太に夢中だったから」
最後の方は真っ赤になりながら、話してくれた香坂が可愛すぎて、納見もつられて赤くなって、そのまま抱きしめたくてたまらなくなった。
「ありがとう……仁、俺のことを好きになってくれて」
いつの間にか香坂が乗せてくれていた手は、納見の方が上になってガッチリと掴むことになっていて、指のはらで香坂の手の甲を優しくなぞった。
「んっっ……」
肌の感触にわずかな快感を覚えたのか、香坂から甘い声が漏れた。
「陽太……、今日この後は予定はある? うちに来ないか?」
目元を赤らめた香坂が物欲しげな目で誘ってきたので、納見の頭はクラクラしてしまった。
その薄くて柔らかそうな唇に意識は集中してしまい、どくどくと鳴る心臓の音を感じながら素直に頷こうとしたところで、大事なことを思い出した。
「ああっっ!! そうだ!」
突然納見が大きな声を上げたので、香坂は驚きで目を瞬かせてた。
少し前は見られていたが、興味を失ったように周囲の視線は散っていた。
それがまた再び注がれることになってしまった。
「眺めがいいけど、毎日じゃ飽きるかな。好きに使っていいって言われているから。もともと倉庫みたいになってるから物が多くてごめんね。あっ、クリーニングはそこの番号にかけるとやっておいてくれる。こういうところはホテルって便利だよな」
手短に使い方を説明して歩くと、納見は口を開けたまま、魂が抜けたみたいな顔で部屋の中心に立っていた。
「言葉が出ないんだけど、仁のお母さんって本当何者?」
「うちの母親の実家の方が、会社やってて、相続対策で貰ったみたい。母親は今、昔のモデル仲間と小さい事務所やってるから、その倉庫として使ってた感じだよ。とは言っても、ただの物置きだから、誰か使ってくれたらいいって言われてたんだ」
雑然と置かれていた段ボール箱を部屋の端に移動させていたら、ぼけっと立っていた納見も慌てて手伝ってきた。
その様子を見ながら、香坂は小さく息を吐いた。
「まさか、そんなことになっているなんて。確かに一部のファンが暴走しているとは聞いていたけど、困ったことになったな」
そう言って声をかけると、納見はシュンとした顔になってコクンと頷いた。
納見がDom配信のagehaだったと打ち明けられたのがつい数時間前。
そのまま家に連れて帰ろうとしていたら、面倒なことになっていると聞かされた。
agehaの引退に納得できない一部のファンが暴走して、どうやら家を突き止められてしまったらしい。
今日事務所で手続きがあって、その時に注意しろと言われて、そういえばと違和感に気がついたようなので、納見の行動範囲をどこまで知られているか分からない。
そこでしばらく身を置ける場所として、香坂は母親の会社が所有しているホテルの部屋に納見を案内した。
様子を見つつ諦めてくれるのを待とうという話になった。
「事務所の方でも、警察に相談してるし、警告文とかも出してもらったから、それで収まってくれるといいけど」
「俺も一緒に泊まるし、この階は居住エリアで、かなりセキュリティは高いから、しばらくここから通勤するといいよ」
「……うん、色々とありがとう」
最近は過激なファンも多いらしい。
テレビでやっていたニュースなどを目にして、心配になってしまった。
ホテルに移動するなんて、大げさかもしれないけれど、念のためにもこれくらいは必要だと思った。
申し訳なさそうに項垂れた納見に近寄った香坂は、背中に手を回して安心させるようにぎゅっと抱きしめた。
それから二週間は何事もなく過ぎた。
今のところ怪しいものといえば、郵便受けに入っていた手紙くらいで、その他は普段通りの日常だった。
納見が抜けた擬似プレイ配信にはすぐに新しい配信者が投入された。
もともと声優をやっていたという人で、すでに固定のファンもいて、話題はあっという間にそちらに流れていった。
こういった世界は移り変わりが早いものだ。
ホテル生活にも慣れてきたが、そろそろ元に戻ってもいいかと思い始めていた。
「香坂先生ー!」
のんびり廊下を歩いていたら、担任するクラスの生徒に声をかけられた。
今は週末に行われる学園祭の準備で、生徒達は大忙しだ。
今年の出し物は喫茶店をやると聞いていた。飲み物やお菓子は市販のものをそのままセットにするだけなので、大した準備も必要ないと香坂は甘く考えていた。
「それは衣装か……、本当に作るんだな。女子は制服にメイクで男子は……」
「コスプレ! うんと怖いやつね」
「それで、俺もゾンビだっけ? 破れたシャツでも着て顔を緑に塗ればいいのか?」
普通の学生喫茶をやってもつまらないということで、クラスの実行委員が提案したのはホラー喫茶だった。
女子は制服のまま、血糊をつけて女子高生ゾンビ。男子はボロボロの衣装を着てゾンビメイクをするということに決まった。
教室内をそれっぽく飾って暗くするのはもちろんだが、担任も参加した方がウケるという話になり、出てくれとお願いされてしまった。
「仁ちゃんはね、特別なの用意しているから楽しみにしておいて」
「ははは……、あんまりひどいのはやめてくれよ。いちおう先生にだって小ちゃいプライドってもんがなぁ……」
「大丈夫、大丈夫、任せておいてー」
衣装担当の生徒達は楽しそうに笑いを噛み殺した顔をして走って行ってしまった。
教師の勘として、これはお笑い担当みたいな服を着せられそうだなと香坂は頭をかいて苦笑いをした。
「陽太のクラスは、手作り石鹸のお店だっけ……、どうなってるかな。ちょっと覗いてみようかな」
自分のクラスからは手伝わなくていいと追い出されるので、仕方なく納見のクラスにでも顔を出してみようと香坂はくるりと向きを変えて歩き出した。
すると校内を歩く生徒の中に、やけに目立つ後ろ姿が目に入った。
長い襟足の毛先だけ金色に染まっていて、見た目に関してはそれなりに校則の厳しい学園では、明らかに問題になりそうだった。
香坂はいつだったか、自分のマンションの廊下ですれ違った子のことを思い出した。
ハンカチを拾ってあげたその子も同じように毛先だけ染めていた。
そこでフッと嫌な予感がした。
制服は着ているが、どう考えても見覚えのない生徒。
しかもそれが、一度だけ接触のあった子によく似ている。
納見の周りに何か良からぬ影を感じていたが、それがもしかしたら、熱狂的なファンの子に、もっと早めに自宅を突き止められていて、香坂のマンションまで知られていたかもしれない。
あの日、自宅にいなかった納見が、通っている恋人の家にいるかもしれないと、見に来ていたのだとしたら……。
そして家の前で待ち伏せていても会えないから、職場に忍び込んだ。
その可能性が思い浮かんだら離れなくて、頭の中で危険信号が鳴り響いて香坂の背中を押した。
(呼び止めて、俺の思い違いならそれでいい。でももし、校舎にまで部外者が入り込んでしまったら、大事になってしまう)
生徒の波をかき分けて、小走りで例の子に近づいた香坂は、ちょっといいかなと声をかけて、肩に軽く手を置いた。
その子がゆっくりと振り向くと、香坂を見て驚いたように目が大きく開いた。
目元が印象的で綺麗な顔をした男の子。思った通り、あの時ハンカチを手渡した彼だった。
やはり、何度考えても生徒の中で、見た覚えがない顔だった。
「間違っていたらごめんね。君はうちの生徒じゃないよね?」
大きく開かれていた目が、キリッと細められた。
そこに、敵意の色を見た香坂はぐっと足に力を入れた?
「アンタさ……agehaの何なの?」
その台詞が聞こえたら、もう肯定したとしか考えられなった。
緊張で手からじんわりと汗が出てきたのを感じた。
とにかく自分がどうにかしないといけない。
香坂は息を飲み込んだ後、逃さないように手に力を込めて、話ができるところへ誘導することにした。
□□□
何度も頭の中でシミュレーションしたが、上手く説明できる自信がなかった。
それでも伝えないといけないと思って腹に力を入れた。
初めに勢いよく謝ってから、自分がDomの擬似プレイ配信をしていたところまで話した。
するとなんと香坂は配信者としての名前、agehaを知っていた。そして、驚いたのか椅子から転げ落ちてしまった。
「大丈夫!? 仁、ごめん、急にこんな話して、驚かせちゃったよね」
「……………」
手を掴んで引き寄せて、また椅子に座ってもらったが、香坂はずっと下を向いたままだった。
「ずっと……話そうと思っていたんだけど、プレイ配信なんて……嫌がる人もいるから。仁に嫌われたくなくて。で……でも、もうやってなくて、辞めたんだ。仁と付き合い出してから無理になって……」
香坂は納見が話している間、微動だにせずに無言だった。一度もこちらを見てくれなくて、納見は全身が冷えていくのを感じた。
(まずい、怒ってるんだ……。隠していたから? 呆れられたかもしれない……)
鼻の奥がツンとして、胸が痛くなった。
どうすれば香坂に許してもらえるのか、胸に手を当てて恐る恐る香坂を見つめると、香坂はまたフラリと揺れて横に倒れそうになった。
納見は慌てて席を立って横に付いて香坂の体を支えた。
「ごめっ……そんなに、ショックを受けるなんて……、俺、どうしたら……」
「ショック……? 違う」
「え?」
「本当に……agehaなの?」
怒りを孕んだ目で見られると思っていたのに、顔を上げた香坂は、耳まで真っ赤になっていて、潤んだ瞳で納見を見つめてきた。
「う……うん」
「嘘ぉ……こんなことって……、どうしよう、死んじゃう」
「ええ!? 大丈夫?」
「だって……大ファンだったagehaが目の前にいて、それが……陽太だったなんて……目眩が……」
「え……ファン……?」
「そう、だよ。生配信は必ず見ていたし、毎日過去に上げたやつを何度も見返して……大ファン、ずっと妄想して……どうしよ、夢が叶っちゃった」
口元を両手で覆いながら、香坂はキラキラした目で納見のことを見てきた。
予想外の好反応だったのに驚いたが、あまりの熱量の違いに納見は目を瞬かせて固まった。
「え、ええと……、ちょっと待って。整理してもいい? agehaの昔からのファンで、……え? もしかして仁がパートナーになりたいってと思っていた人って……」
「ええっ……アオイさんに聞いた? そ……その、もしagehaと恋人だったらとか妄想はしていたけど……」
(これって、喜んでいいのか……、仁は怒っているわけじゃなさそうだけど……。これはこれで、自分のことなのにagehaに嫉妬してしまう……)
すっかり推しを見つめる目になっていた香坂だったが、納見のテンションが明らかに下がったので、それに気がついて慌てた様子で椅子に座り直した。
納見も対面の椅子に戻って、二人でコーヒーを飲んでいったん冷静になることにした。
一息ついたところで、香坂が納見の様子を伺いながら口を開いた。
「……agehaは優しいプレイをしてくれるDomで、俺の理想だったわけでさ。パートナーになりたいなんて言って騒いで、色々妄想しちゃったワケだけど、あくまで妄想擬似プレイの相手で、ちゃんと一緒いて触れて呼吸を感じて、嬉しいと思えるのは陽太だけだよ」
「仁………」
「ごめん、変なテンションになっちゃって。陽太のこと、agehaと似てるから好きになったワケじゃなくて、それだけは知って欲しい」
「ごめんは俺の方だよっ。俺、嫉妬してたんだ。仁がパートナーになりたいって思った男がいるって知って。おかしいよね、それが自分だったって分かっても、今度はそっちに嫉妬して……、うわっ何だろう、俺、心が狭いな」
一人で喜怒哀楽の劇でもやってるんじゃないかと思うくらい、混乱してしまった。
カッコ悪いなと思いながら、下を向いていたら、机の上に置いていた納見の手の上に、香坂が自分の手を重ねてきた。
「不安にさせてごめん。俺がパートナーが欲しくて、Domと会っていた話はしていたし、はっきり伝えていなかったから、気になるよね。とりあえず、マッチングとかで会ったDom全員気が合わなかったし、agehaは恋愛というより憧れだったから。俺は……俺がいいなって、ちゃんと、パートナーになりたいって心から思ったのは、陽太だけだよ」
「仁……、ごめん。実はもう一つ、ちゃんと伝えられなくて、俺……Dom性が……実は……強い方で、仁は弱い人の方がいいって言っていたのに……嫌われると思って言えなかった! 本当にごめん!!」
頭を下げて大きな声で謝る納見の姿は目立ってしまい、カフェの店内は静かになって、人々の視線が納見と香坂に集中してしまった。
香坂はフゥと息を吐いた後、周りには聞こえないように声を抑えて話し始めた。
「陽太、それは薄々気がついていたよ。そもそもDom性弱いやつがグレア放つなんてできないし、飲み会に残ってた人全員気絶させるなんて、強すぎるくらいだとしか思えない……。というかさ、俺、性が弱い方がいいなんて言ってたこともすっかり忘れていたよ。なんかそういうのどうでもいいくらい、……なんて言うか、陽太に夢中だったから」
最後の方は真っ赤になりながら、話してくれた香坂が可愛すぎて、納見もつられて赤くなって、そのまま抱きしめたくてたまらなくなった。
「ありがとう……仁、俺のことを好きになってくれて」
いつの間にか香坂が乗せてくれていた手は、納見の方が上になってガッチリと掴むことになっていて、指のはらで香坂の手の甲を優しくなぞった。
「んっっ……」
肌の感触にわずかな快感を覚えたのか、香坂から甘い声が漏れた。
「陽太……、今日この後は予定はある? うちに来ないか?」
目元を赤らめた香坂が物欲しげな目で誘ってきたので、納見の頭はクラクラしてしまった。
その薄くて柔らかそうな唇に意識は集中してしまい、どくどくと鳴る心臓の音を感じながら素直に頷こうとしたところで、大事なことを思い出した。
「ああっっ!! そうだ!」
突然納見が大きな声を上げたので、香坂は驚きで目を瞬かせてた。
少し前は見られていたが、興味を失ったように周囲の視線は散っていた。
それがまた再び注がれることになってしまった。
「眺めがいいけど、毎日じゃ飽きるかな。好きに使っていいって言われているから。もともと倉庫みたいになってるから物が多くてごめんね。あっ、クリーニングはそこの番号にかけるとやっておいてくれる。こういうところはホテルって便利だよな」
手短に使い方を説明して歩くと、納見は口を開けたまま、魂が抜けたみたいな顔で部屋の中心に立っていた。
「言葉が出ないんだけど、仁のお母さんって本当何者?」
「うちの母親の実家の方が、会社やってて、相続対策で貰ったみたい。母親は今、昔のモデル仲間と小さい事務所やってるから、その倉庫として使ってた感じだよ。とは言っても、ただの物置きだから、誰か使ってくれたらいいって言われてたんだ」
雑然と置かれていた段ボール箱を部屋の端に移動させていたら、ぼけっと立っていた納見も慌てて手伝ってきた。
その様子を見ながら、香坂は小さく息を吐いた。
「まさか、そんなことになっているなんて。確かに一部のファンが暴走しているとは聞いていたけど、困ったことになったな」
そう言って声をかけると、納見はシュンとした顔になってコクンと頷いた。
納見がDom配信のagehaだったと打ち明けられたのがつい数時間前。
そのまま家に連れて帰ろうとしていたら、面倒なことになっていると聞かされた。
agehaの引退に納得できない一部のファンが暴走して、どうやら家を突き止められてしまったらしい。
今日事務所で手続きがあって、その時に注意しろと言われて、そういえばと違和感に気がついたようなので、納見の行動範囲をどこまで知られているか分からない。
そこでしばらく身を置ける場所として、香坂は母親の会社が所有しているホテルの部屋に納見を案内した。
様子を見つつ諦めてくれるのを待とうという話になった。
「事務所の方でも、警察に相談してるし、警告文とかも出してもらったから、それで収まってくれるといいけど」
「俺も一緒に泊まるし、この階は居住エリアで、かなりセキュリティは高いから、しばらくここから通勤するといいよ」
「……うん、色々とありがとう」
最近は過激なファンも多いらしい。
テレビでやっていたニュースなどを目にして、心配になってしまった。
ホテルに移動するなんて、大げさかもしれないけれど、念のためにもこれくらいは必要だと思った。
申し訳なさそうに項垂れた納見に近寄った香坂は、背中に手を回して安心させるようにぎゅっと抱きしめた。
それから二週間は何事もなく過ぎた。
今のところ怪しいものといえば、郵便受けに入っていた手紙くらいで、その他は普段通りの日常だった。
納見が抜けた擬似プレイ配信にはすぐに新しい配信者が投入された。
もともと声優をやっていたという人で、すでに固定のファンもいて、話題はあっという間にそちらに流れていった。
こういった世界は移り変わりが早いものだ。
ホテル生活にも慣れてきたが、そろそろ元に戻ってもいいかと思い始めていた。
「香坂先生ー!」
のんびり廊下を歩いていたら、担任するクラスの生徒に声をかけられた。
今は週末に行われる学園祭の準備で、生徒達は大忙しだ。
今年の出し物は喫茶店をやると聞いていた。飲み物やお菓子は市販のものをそのままセットにするだけなので、大した準備も必要ないと香坂は甘く考えていた。
「それは衣装か……、本当に作るんだな。女子は制服にメイクで男子は……」
「コスプレ! うんと怖いやつね」
「それで、俺もゾンビだっけ? 破れたシャツでも着て顔を緑に塗ればいいのか?」
普通の学生喫茶をやってもつまらないということで、クラスの実行委員が提案したのはホラー喫茶だった。
女子は制服のまま、血糊をつけて女子高生ゾンビ。男子はボロボロの衣装を着てゾンビメイクをするということに決まった。
教室内をそれっぽく飾って暗くするのはもちろんだが、担任も参加した方がウケるという話になり、出てくれとお願いされてしまった。
「仁ちゃんはね、特別なの用意しているから楽しみにしておいて」
「ははは……、あんまりひどいのはやめてくれよ。いちおう先生にだって小ちゃいプライドってもんがなぁ……」
「大丈夫、大丈夫、任せておいてー」
衣装担当の生徒達は楽しそうに笑いを噛み殺した顔をして走って行ってしまった。
教師の勘として、これはお笑い担当みたいな服を着せられそうだなと香坂は頭をかいて苦笑いをした。
「陽太のクラスは、手作り石鹸のお店だっけ……、どうなってるかな。ちょっと覗いてみようかな」
自分のクラスからは手伝わなくていいと追い出されるので、仕方なく納見のクラスにでも顔を出してみようと香坂はくるりと向きを変えて歩き出した。
すると校内を歩く生徒の中に、やけに目立つ後ろ姿が目に入った。
長い襟足の毛先だけ金色に染まっていて、見た目に関してはそれなりに校則の厳しい学園では、明らかに問題になりそうだった。
香坂はいつだったか、自分のマンションの廊下ですれ違った子のことを思い出した。
ハンカチを拾ってあげたその子も同じように毛先だけ染めていた。
そこでフッと嫌な予感がした。
制服は着ているが、どう考えても見覚えのない生徒。
しかもそれが、一度だけ接触のあった子によく似ている。
納見の周りに何か良からぬ影を感じていたが、それがもしかしたら、熱狂的なファンの子に、もっと早めに自宅を突き止められていて、香坂のマンションまで知られていたかもしれない。
あの日、自宅にいなかった納見が、通っている恋人の家にいるかもしれないと、見に来ていたのだとしたら……。
そして家の前で待ち伏せていても会えないから、職場に忍び込んだ。
その可能性が思い浮かんだら離れなくて、頭の中で危険信号が鳴り響いて香坂の背中を押した。
(呼び止めて、俺の思い違いならそれでいい。でももし、校舎にまで部外者が入り込んでしまったら、大事になってしまう)
生徒の波をかき分けて、小走りで例の子に近づいた香坂は、ちょっといいかなと声をかけて、肩に軽く手を置いた。
その子がゆっくりと振り向くと、香坂を見て驚いたように目が大きく開いた。
目元が印象的で綺麗な顔をした男の子。思った通り、あの時ハンカチを手渡した彼だった。
やはり、何度考えても生徒の中で、見た覚えがない顔だった。
「間違っていたらごめんね。君はうちの生徒じゃないよね?」
大きく開かれていた目が、キリッと細められた。
そこに、敵意の色を見た香坂はぐっと足に力を入れた?
「アンタさ……agehaの何なの?」
その台詞が聞こえたら、もう肯定したとしか考えられなった。
緊張で手からじんわりと汗が出てきたのを感じた。
とにかく自分がどうにかしないといけない。
香坂は息を飲み込んだ後、逃さないように手に力を込めて、話ができるところへ誘導することにした。
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