山狗の血 堕ちた神と地を駆けし獣

月芝

文字の大きさ
4 / 154

その四 コハク

しおりを挟む
 額ににじんだ汗をぬぐう。
 見上げると山の稜線がまず目に飛び込んでくる。それを越えた先、どこまでも広がる青い空に浮かぶのは白雲の隆盛。まるで伝説の巨人のごとくそびえ立っている。
 目線を下げれば鮮やかな深緑。
 山々が萌えていた。薫る濃厚な生命の息吹き。この地に集う生きとし生ける者たちが、こぞって気焔をあげている。
 無数の命が寄り集まっては、自然というより大きな命となっている世界の片隅で……。

 鼻からゆっくりと息を吸い込み、存分に山の神気を取り込んだのは滝の上に立つ隻腕の老人。かたわらには一頭の山狗の子の姿がある。
 灰の地に黒が混じった毛並みにて、瞳の色は樹液を煮詰めて固めたような琥珀色。
 伏せの姿勢にて、はっ、はっ、はっ。舌を出しながら尻尾をふり、見つめるのは老人の手元。右手には鉄の棒が握られている。
 老人はぞんざいな仕草にて鉄の棒をぽいと投げ捨てる。
 鉄の棒はくるくると回りながら、上から下へとつながる水の流れに沿って落ちていき、そのままドボンと滝つぼに沈んだ。
 それからゆっくり十を数えてから老人は言った。

「よし、行け、コハク」

 待ってましたとばかりに跳ね起きた山狗の子。
 濡れた岩肌をものともせずに足場としては、シュタ、シュタ、シュタと軽快に降りていく。
 滝を半ばほど降りたところで、おもむろに宙へと踊り出たコハクは、そのままアゴを引いて頭からざぶんと水面へ飛び込む。
 盛大にあがった水飛沫が陽光を受けてきらめき、小さな虹ができた。

  ◇

 上流から大量の水が運ばれてくる滝つぼには、大蛇が荒れ狂うように水流が渦を巻いている。
 その力はとても強い。抗おうとすればするほどに体力を奪われる。けれども逆に流れに身をまかせて利用をすれば、これほど心強い味方はない。
 コハクは四肢をだらりと脱力しながら静かに水と対峙し、全身でもって会話をする。
 水の声に耳を傾け、水の動きを知り、邪魔をすることなく、寄り添いともに歩む。
 轟々と煩わしい音はすぐに聞こえなくなった。

 水底には静謐が充ちている。
 潜るほどに陽の光が遠くなった。かわりに深淵の闇が濃くなっていく。
 すべてを呑み込む闇。はじめてこの鍛錬をしたときには、とても怖くてすぐに浮上してしまったものであったが、何度も繰り返すうちに落ち着いて対処できるようになった。
 幾度も交え知己となってみれば、ここに横たわる闇はとても優しい闇であった。少なくとも夜の森のソレのように、いきなり敵を吐き出すことはない。

 耳と鼻だけでなく目をも封じられ、呼吸もできない状況。
 もしも自身の心臓の鼓動を感じなければ、生きていることを見失いそう。
 気を引き締めなおも進むうちに、ずんと肌寒くなった。
 一定の深度を越えたとたんに水の温度が急激に下がったせいだ。
 骨身に染みる凍てつく雪の夜をおもわせる冷たさ。
 いよいよ水底が近づいている。

 何も見えない。何も匂わない。何も聞こえない。
 けれども闇の向こうに探すべき鉄の棒の存在をたしかに感じる。
 五感のうちの視覚、臭覚、聴覚の三つが使えず、口も閉じているから味覚も当てにはならない。残されたのは触覚のみ。
 それが滝つぼの深淵に漂う冷気と交わるうちに研ぎ澄まされていく。影のごとく薄い刃となり、さらにほつれて糸のようになり、幾筋もの糸が水流に乗ってゆるりふわりと漂っては、その先の様子を伝えてくれるので、コハクは迷うことなく闇の中から鉄の棒を探り当てた。

  ◇

 周囲の緑が映り込んでいるせいで濃緑色をした水面に生じていた波が収まる。
 幾重にも起こっていた波紋もすっかり見えなくなった頃。
 入れちがいにあらわれたのはブクブクという泡。
 はじめは小さな泡が単発的にぽつんぽつんと浮いていたのが、じょじょに増えていき、大小の泡が競うようにあらわれては消えるようになったところで、不意に水の表面が盛りあがった。

 滝つぼの底より帰還したコハク。その口元には鉄の棒がしっかりとくわえられている。
 四肢を前後させて水を掻き、最寄りの岸辺から陸地へとあがったところで、ぶるると全身をふるわし毛に染みついていた水気を払う。
 身軽となったところでコハクは、来た時と同じく滝の濡れた岩場を足場として、今度は登り始める。その速度は降りるときと同等か、それ以上に速かった。
 悪路をものともせずに、主人である隻腕の老人のもとへと駆けてゆくコハク。

 禍躬狩りの相棒として、一流の山狗となるべく日々課せられる鍛錬は厳しくつらい。
 ときにはへこたれ、尻尾をしゅんと丸めることもある。
 けれどもがんばってうまくいったときには、主人がごつごつとした武骨な手で頭を撫でてくれる。「でかしたぞ」「よくやった」と褒めてくれる。
 それがたまらなくうれしくい。胸の奥が温かくなり、どうにも心が踊る。
 だからコハクはひたすら主人のいる場所を目指し駆け続ける。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

14歳で定年ってマジ!? 世界を変えた少年漫画家、再起のノート

谷川 雅
児童書・童話
この世界、子どもがエリート。 “スーパーチャイルド制度”によって、能力のピークは12歳。 そして14歳で、まさかの《定年》。 6歳の星野幸弘は、将来の夢「世界を笑顔にする漫画家」を目指して全力疾走する。 だけど、定年まで残された時間はわずか8年……! ――そして14歳。夢は叶わぬまま、制度に押し流されるように“退場”を迎える。 だが、そんな幸弘の前に現れたのは、 「まちがえた人間」のノートが集まる、不思議な図書室だった。 これは、間違えたままじゃ終われなかった少年たちの“再スタート”の物語。 描けなかった物語の“つづき”は、きっと君の手の中にある。

星降る夜に落ちた子

千東風子
児童書・童話
 あたしは、いらなかった?  ねえ、お父さん、お母さん。  ずっと心で泣いている女の子がいました。  名前は世羅。  いつもいつも弟ばかり。  何か買うのも出かけるのも、弟の言うことを聞いて。  ハイキングなんて、来たくなかった!  世羅が怒りながら歩いていると、急に体が浮きました。足を滑らせたのです。その先は、とても急な坂。  世羅は滑るように落ち、気を失いました。  そして、目が覚めたらそこは。  住んでいた所とはまるで違う、見知らぬ世界だったのです。  気が強いけれど寂しがり屋の女の子と、ワケ有りでいつも諦めることに慣れてしまった綺麗な男の子。  二人がお互いの心に寄り添い、成長するお話です。  全年齢ですが、けがをしたり、命を狙われたりする描写と「死」の表現があります。  苦手な方は回れ右をお願いいたします。  よろしくお願いいたします。  私が子どもの頃から温めてきたお話のひとつで、小説家になろうの冬の童話際2022に参加した作品です。  石河 翠さまが開催されている個人アワード『石河翠プレゼンツ勝手に冬童話大賞2022』で大賞をいただきまして、イラストはその副賞に相内 充希さまよりいただいたファンアートです。ありがとうございます(^-^)!  こちらは他サイトにも掲載しています。

生贄姫の末路 【完結】

松林ナオ
児童書・童話
水の豊かな国の王様と魔物は、はるか昔にある契約を交わしました。 それは、姫を生贄に捧げる代わりに国へ繁栄をもたらすというものです。 水の豊かな国には双子のお姫様がいます。 ひとりは金色の髪をもつ、活発で愛らしい金のお姫様。 もうひとりは銀色の髪をもつ、表情が乏しく物静かな銀のお姫様。 王様が生贄に選んだのは、銀のお姫様でした。

お姫様の願い事

月詠世理
児童書・童話
赤子が生まれた時に母親は亡くなってしまった。赤子は実の父親から嫌われてしまう。そのため、赤子は血の繋がらない女に育てられた。 決められた期限は十年。十歳になった女の子は母親代わりに連れられて城に行くことになった。女の子の実の父親のもとへ——。女の子はさいごに何を願うのだろうか。

極甘独占欲持ち王子様は、優しくて甘すぎて。

猫菜こん
児童書・童話
 私は人より目立たずに、ひっそりと生きていたい。  だから大きな伊達眼鏡で、毎日を静かに過ごしていたのに――……。 「それじゃあこの子は、俺がもらうよ。」  優しく引き寄せられ、“王子様”の腕の中に閉じ込められ。  ……これは一体どういう状況なんですか!?  静かな場所が好きで大人しめな地味子ちゃん  できるだけ目立たないように過ごしたい  湖宮結衣(こみやゆい)  ×  文武両道な学園の王子様  実は、好きな子を誰よりも独り占めしたがり……?  氷堂秦斗(ひょうどうかなと)  最初は【仮】のはずだった。 「結衣さん……って呼んでもいい?  だから、俺のことも名前で呼んでほしいな。」 「さっきので嫉妬したから、ちょっとだけ抱きしめられてて。」 「俺は前から結衣さんのことが好きだったし、  今もどうしようもないくらい好きなんだ。」  ……でもいつの間にか、どうしようもないくらい溺れていた。

【完結】またたく星空の下

mazecco
児童書・童話
【第15回絵本・児童書大賞 君とのきずな児童書賞 受賞作】 ※こちらはweb版(改稿前)です※ ※書籍版は『初恋×星空シンバル』と改題し、web版を大幅に改稿したものです※ ◇◇◇冴えない中学一年生の女の子の、部活×恋愛の青春物語◇◇◇ 主人公、海茅は、フルート志望で吹奏楽部に入部したのに、オーディションに落ちてパーカッションになってしまった。しかもコンクールでは地味なシンバルを担当することに。 クラスには馴染めないし、中学生活が全然楽しくない。 そんな中、海茅は一人の女性と一人の男の子と出会う。 シンバルと、絵が好きな男の子に恋に落ちる、小さなキュンとキュッが詰まった物語。

ノースキャンプの見張り台

こいちろう
児童書・童話
 時代劇で見かけるような、古めかしい木づくりの橋。それを渡ると、向こう岸にノースキャンプがある。アーミーグリーンの北門と、その傍の監視塔。まるで映画村のセットだ。 進駐軍のキャンプ跡。周りを鉄さびた有刺鉄線に囲まれた、まるで要塞みたいな町だった。進駐軍が去ってからは住宅地になって、たくさんの子どもが暮らしていた。  赤茶色にさび付いた監視塔。その下に広がる広っぱは、子どもたちの最高の遊び場だ。見張っているのか、見守っているのか、鉄塔の、あのてっぺんから、いつも誰かに見られているんじゃないか?ユーイチはいつもそんな風に感じていた。

大人にナイショの秘密基地

湖ノ上茶屋
児童書・童話
ある日届いた不思議な封筒。それは、子ども専用ホテルの招待状だった。このことを大人にナイショにして、十時までに眠れば、そのホテルへ行けるという。ぼくは言われたとおりに寝てみた。すると、どういうわけか、本当にホテルについた!ぼくはチェックインしたときに渡された鍵――ピィピィや友だちと夜な夜な遊んでいるうちに、とんでもないことに巻き込まれたことに気づいて――!

処理中です...