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その二十五 戒め
しおりを挟む白淡峡門まであと少しというところで、ついに小雨がぱらつきだした。
曇天に合わせて、海原も色あせ蒼さがくすみ、世界がたちまち灰色となる。
しとしと降る雨音がはっきり聞こえるほどに、波がおとなしい。
かといって静寂とはちがう。
これは戦の前の緊張を孕んだ静けさ。
ここからは商船を装った囮船と、その護衛役の船の二艘のみにて先行させる。
そして獲物が姿を見せたら、すぐさま反転して引き返す手筈になっている。
いかに操船に長けた紀美水軍とて、内海と外海が交わり潮流激しい、あの気難しい場所では存分に力を発揮できない。
数を活かした包囲網を敷くには、まんまと相手を誘い出し、自陣深くへと取り込む必要がある。
イッカクが率いる鮫の群れは、確認されているだけで総勢十と一匹。
属する鮫はどれも二から三丈ほどもあり、通常の個体の倍以上の大きさ。どいつもこいつもみずから大型帆船に突撃するのを躊躇わない、好戦的な性格だという。
それに輪をかけた狂暴さを誇るのが、イッカク。
体だけで五丈はあり、頭にある角を合わせると全長七丈近くにもなる。これは大型帆船の甲板床面積に匹敵する大きさ。にもかかわらず厳しい潮流をものともせずに、水中を自在に泳ぐ膂力をその身に宿す。
全身これ泳ぐための筋肉の塊のような存在。
体当たり、尾ひれによる一撃、角による突進、そして忘れてはいけない牙による噛みつき……。
どれもこれもが人の身には脅威。
そんなイッカクにこのまま航路に居座られては、紀美水軍にとっては死活問題となる。
ゆえに不退転の決意にて、こたびの一戦に臨んでいる。
◇
囮船が配置につくのを、船の縁にて並んで見守っている忠吾と正孝。
「……イッカクもまた禍躬なのでしょうか」
若き武官がぽつりとつぶやく。
その言葉に、忠吾は首を横にふる。
「ちがう。海に禍躬はいない」
禍躬は大地の気が濃厚な場所にて成ると昔から伝わっている。
ゆえに海では成り得ない。
他には雷に打たれることで成るから「雷成る」より「かみなりなる」「かみなる」らが変じて、いまのように「禍躬」と呼ばれるようになったという説もあるが「これはさすがにこじつけがすぎるだろう」と忠吾は否定する。
「もしも本当にそうならば、わりと雷が多い紀伊国はいまごろ禍躬だらけにて、とても人が住めるような場所ではなくなっているはずだからな」
忠吾の言葉にうなづきつつも正孝は首をひねる。
「しかし、あらためて考えてみますと、禍躬とは不思議な存在です。あれはいったい何なのでしょうか」
この世のすべて、万物みな、天の神が創造したという。
ならば地に沸く禍躬もまたしかり。
悪戯に破壊と暴虐の限りを尽くす、生きとし生ける者らの敵。
災厄のごときその身、その存在意義はどこにあるというのか?
若者が疑問に抱くようなこと、長らく禍躬狩りとして生きてきた忠吾は、すでに数えきれないほど考えてきた。だが、いまだに明確な答えは得られていない。
ただなんら根拠はないが、感じていることならばある。
それは「戒め」
禍躬という存在はたしかに災厄と呼ぶに相応しい。けれどもその存在があるがゆえに、人間同士の争いが、近隣諸国を巻き込むほどの大乱が起きていないのもまた事実。
最古の禍躬と呼ばれるケイテン。
それが出現したのは、およそ千年ほど前のこと。
当時はたいそうな戦国乱世にて、安住の地はどこにもなかったというが、皮肉にもケイテンという共通の脅威が、これを終わらせることになったという。
禍躬と幾たびもまみえ、戦い、命のやり取りをしてきた忠吾。
だからこそ骨身に染みているのは、人がひとりでは絶対に勝てない相手だということ。相棒となる山狗や黒翼。ともに戦う禍躬狩りの同胞たち。その他の者たち。
大勢の者たちが手をたずさえることではじめて対抗できる存在、それが禍躬……。
◇
正孝の言葉をきっかけに、しばし物思いに耽っていた忠吾ではあったが「出たぞっ! イッカクだ」との声に、思考を中断し顔をあげる。
猛然と囮船へと近づいていく背びれの群れ。
その中でもひと際立派で黒々とテカっている背びれがあった。
背びれだけでも牛ほどもあろうかという大きさ。
「あれがイッカクか……」
海の暴君の登場に、「グルル」と唸り声をあげたのはかたわらにいるコハク。
全身の毛を逆立て闘志をみなぎせる山狗の子。それを横目に忠吾は静かに火筒の準備をはじめる。
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