山狗の血 堕ちた神と地を駆けし獣

月芝

文字の大きさ
25 / 154

その二十五 戒め

しおりを挟む
 
 白淡峡門まであと少しというところで、ついに小雨がぱらつきだした。
 曇天に合わせて、海原も色あせ蒼さがくすみ、世界がたちまち灰色となる。
 しとしと降る雨音がはっきり聞こえるほどに、波がおとなしい。
 かといって静寂とはちがう。
 これは戦の前の緊張を孕んだ静けさ。

 ここからは商船を装った囮船と、その護衛役の船の二艘のみにて先行させる。
 そして獲物が姿を見せたら、すぐさま反転して引き返す手筈になっている。
 いかに操船に長けた紀美水軍とて、内海と外海が交わり潮流激しい、あの気難しい場所では存分に力を発揮できない。
 数を活かした包囲網を敷くには、まんまと相手を誘い出し、自陣深くへと取り込む必要がある。

 イッカクが率いる鮫の群れは、確認されているだけで総勢十と一匹。
 属する鮫はどれも二から三丈ほどもあり、通常の個体の倍以上の大きさ。どいつもこいつもみずから大型帆船に突撃するのを躊躇わない、好戦的な性格だという。
 それに輪をかけた狂暴さを誇るのが、イッカク。
 体だけで五丈はあり、頭にある角を合わせると全長七丈近くにもなる。これは大型帆船の甲板床面積に匹敵する大きさ。にもかかわらず厳しい潮流をものともせずに、水中を自在に泳ぐ膂力をその身に宿す。
 全身これ泳ぐための筋肉の塊のような存在。
 体当たり、尾ひれによる一撃、角による突進、そして忘れてはいけない牙による噛みつき……。
 どれもこれもが人の身には脅威。
 そんなイッカクにこのまま航路に居座られては、紀美水軍にとっては死活問題となる。
 ゆえに不退転の決意にて、こたびの一戦に臨んでいる。

  ◇

 囮船が配置につくのを、船の縁にて並んで見守っている忠吾と正孝。

「……イッカクもまた禍躬なのでしょうか」

 若き武官がぽつりとつぶやく。
 その言葉に、忠吾は首を横にふる。

「ちがう。海に禍躬はいない」

 禍躬は大地の気が濃厚な場所にて成ると昔から伝わっている。
 ゆえに海では成り得ない。
 他には雷に打たれることで成るから「雷成る」より「かみなりなる」「かみなる」らが変じて、いまのように「禍躬」と呼ばれるようになったという説もあるが「これはさすがにこじつけがすぎるだろう」と忠吾は否定する。

「もしも本当にそうならば、わりと雷が多い紀伊国はいまごろ禍躬だらけにて、とても人が住めるような場所ではなくなっているはずだからな」

 忠吾の言葉にうなづきつつも正孝は首をひねる。

「しかし、あらためて考えてみますと、禍躬とは不思議な存在です。あれはいったい何なのでしょうか」

 この世のすべて、万物みな、天の神が創造したという。
 ならば地に沸く禍躬もまたしかり。
 悪戯に破壊と暴虐の限りを尽くす、生きとし生ける者らの敵。
 災厄のごときその身、その存在意義はどこにあるというのか?

 若者が疑問に抱くようなこと、長らく禍躬狩りとして生きてきた忠吾は、すでに数えきれないほど考えてきた。だが、いまだに明確な答えは得られていない。
 ただなんら根拠はないが、感じていることならばある。
 それは「戒め」
 禍躬という存在はたしかに災厄と呼ぶに相応しい。けれどもその存在があるがゆえに、人間同士の争いが、近隣諸国を巻き込むほどの大乱が起きていないのもまた事実。

 最古の禍躬と呼ばれるケイテン。
 それが出現したのは、およそ千年ほど前のこと。
 当時はたいそうな戦国乱世にて、安住の地はどこにもなかったというが、皮肉にもケイテンという共通の脅威が、これを終わらせることになったという。

 禍躬と幾たびもまみえ、戦い、命のやり取りをしてきた忠吾。
 だからこそ骨身に染みているのは、人がひとりでは絶対に勝てない相手だということ。相棒となる山狗や黒翼。ともに戦う禍躬狩りの同胞たち。その他の者たち。
 大勢の者たちが手をたずさえることではじめて対抗できる存在、それが禍躬……。

  ◇

 正孝の言葉をきっかけに、しばし物思いに耽っていた忠吾ではあったが「出たぞっ! イッカクだ」との声に、思考を中断し顔をあげる。
 猛然と囮船へと近づいていく背びれの群れ。
 その中でもひと際立派で黒々とテカっている背びれがあった。
 背びれだけでも牛ほどもあろうかという大きさ。

「あれがイッカクか……」

 海の暴君の登場に、「グルル」と唸り声をあげたのはかたわらにいるコハク。
 全身の毛を逆立て闘志をみなぎせる山狗の子。それを横目に忠吾は静かに火筒の準備をはじめる。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

14歳で定年ってマジ!? 世界を変えた少年漫画家、再起のノート

谷川 雅
児童書・童話
この世界、子どもがエリート。 “スーパーチャイルド制度”によって、能力のピークは12歳。 そして14歳で、まさかの《定年》。 6歳の星野幸弘は、将来の夢「世界を笑顔にする漫画家」を目指して全力疾走する。 だけど、定年まで残された時間はわずか8年……! ――そして14歳。夢は叶わぬまま、制度に押し流されるように“退場”を迎える。 だが、そんな幸弘の前に現れたのは、 「まちがえた人間」のノートが集まる、不思議な図書室だった。 これは、間違えたままじゃ終われなかった少年たちの“再スタート”の物語。 描けなかった物語の“つづき”は、きっと君の手の中にある。

星降る夜に落ちた子

千東風子
児童書・童話
 あたしは、いらなかった?  ねえ、お父さん、お母さん。  ずっと心で泣いている女の子がいました。  名前は世羅。  いつもいつも弟ばかり。  何か買うのも出かけるのも、弟の言うことを聞いて。  ハイキングなんて、来たくなかった!  世羅が怒りながら歩いていると、急に体が浮きました。足を滑らせたのです。その先は、とても急な坂。  世羅は滑るように落ち、気を失いました。  そして、目が覚めたらそこは。  住んでいた所とはまるで違う、見知らぬ世界だったのです。  気が強いけれど寂しがり屋の女の子と、ワケ有りでいつも諦めることに慣れてしまった綺麗な男の子。  二人がお互いの心に寄り添い、成長するお話です。  全年齢ですが、けがをしたり、命を狙われたりする描写と「死」の表現があります。  苦手な方は回れ右をお願いいたします。  よろしくお願いいたします。  私が子どもの頃から温めてきたお話のひとつで、小説家になろうの冬の童話際2022に参加した作品です。  石河 翠さまが開催されている個人アワード『石河翠プレゼンツ勝手に冬童話大賞2022』で大賞をいただきまして、イラストはその副賞に相内 充希さまよりいただいたファンアートです。ありがとうございます(^-^)!  こちらは他サイトにも掲載しています。

生贄姫の末路 【完結】

松林ナオ
児童書・童話
水の豊かな国の王様と魔物は、はるか昔にある契約を交わしました。 それは、姫を生贄に捧げる代わりに国へ繁栄をもたらすというものです。 水の豊かな国には双子のお姫様がいます。 ひとりは金色の髪をもつ、活発で愛らしい金のお姫様。 もうひとりは銀色の髪をもつ、表情が乏しく物静かな銀のお姫様。 王様が生贄に選んだのは、銀のお姫様でした。

お姫様の願い事

月詠世理
児童書・童話
赤子が生まれた時に母親は亡くなってしまった。赤子は実の父親から嫌われてしまう。そのため、赤子は血の繋がらない女に育てられた。 決められた期限は十年。十歳になった女の子は母親代わりに連れられて城に行くことになった。女の子の実の父親のもとへ——。女の子はさいごに何を願うのだろうか。

極甘独占欲持ち王子様は、優しくて甘すぎて。

猫菜こん
児童書・童話
 私は人より目立たずに、ひっそりと生きていたい。  だから大きな伊達眼鏡で、毎日を静かに過ごしていたのに――……。 「それじゃあこの子は、俺がもらうよ。」  優しく引き寄せられ、“王子様”の腕の中に閉じ込められ。  ……これは一体どういう状況なんですか!?  静かな場所が好きで大人しめな地味子ちゃん  できるだけ目立たないように過ごしたい  湖宮結衣(こみやゆい)  ×  文武両道な学園の王子様  実は、好きな子を誰よりも独り占めしたがり……?  氷堂秦斗(ひょうどうかなと)  最初は【仮】のはずだった。 「結衣さん……って呼んでもいい?  だから、俺のことも名前で呼んでほしいな。」 「さっきので嫉妬したから、ちょっとだけ抱きしめられてて。」 「俺は前から結衣さんのことが好きだったし、  今もどうしようもないくらい好きなんだ。」  ……でもいつの間にか、どうしようもないくらい溺れていた。

【完結】またたく星空の下

mazecco
児童書・童話
【第15回絵本・児童書大賞 君とのきずな児童書賞 受賞作】 ※こちらはweb版(改稿前)です※ ※書籍版は『初恋×星空シンバル』と改題し、web版を大幅に改稿したものです※ ◇◇◇冴えない中学一年生の女の子の、部活×恋愛の青春物語◇◇◇ 主人公、海茅は、フルート志望で吹奏楽部に入部したのに、オーディションに落ちてパーカッションになってしまった。しかもコンクールでは地味なシンバルを担当することに。 クラスには馴染めないし、中学生活が全然楽しくない。 そんな中、海茅は一人の女性と一人の男の子と出会う。 シンバルと、絵が好きな男の子に恋に落ちる、小さなキュンとキュッが詰まった物語。

ノースキャンプの見張り台

こいちろう
児童書・童話
 時代劇で見かけるような、古めかしい木づくりの橋。それを渡ると、向こう岸にノースキャンプがある。アーミーグリーンの北門と、その傍の監視塔。まるで映画村のセットだ。 進駐軍のキャンプ跡。周りを鉄さびた有刺鉄線に囲まれた、まるで要塞みたいな町だった。進駐軍が去ってからは住宅地になって、たくさんの子どもが暮らしていた。  赤茶色にさび付いた監視塔。その下に広がる広っぱは、子どもたちの最高の遊び場だ。見張っているのか、見守っているのか、鉄塔の、あのてっぺんから、いつも誰かに見られているんじゃないか?ユーイチはいつもそんな風に感じていた。

四尾がつむぐえにし、そこかしこ

月芝
児童書・童話
その日、小学校に激震が走った。 憧れのキラキラ王子さまが転校する。 女子たちの嘆きはひとしお。 彼に淡い想いを抱いていたユイもまた動揺を隠せない。 だからとてどうこうする勇気もない。 うつむき複雑な気持ちを抱えたままの帰り道。 家の近所に見覚えのない小路を見つけたユイは、少し寄り道してみることにする。 まさかそんな小さな冒険が、あんなに大ごとになるなんて……。 ひょんなことから石の祠に祀られた三尾の稲荷にコンコン見込まれて、 三つのお仕事を手伝うことになったユイ。 達成すれば、なんと一つだけ何でも願い事を叶えてくれるという。 もしかしたら、もしかしちゃうかも? そこかしこにて泡沫のごとくあらわれては消えてゆく、えにしたち。 結んで、切って、ほどいて、繋いで、笑って、泣いて。 いろんな不思議を知り、数多のえにしを目にし、触れた先にて、 はたしてユイは何を求め願うのか。 少女のちょっと不思議な冒険譚。 ここに開幕。

処理中です...