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その三十一 陸の男
しおりを挟む左右の腕を交互に動かしては水をかきわけ、両足にて力強く蹴って波間を越えて遠ざかっていく伊瑠。海賊の娘だけあって泳ぎは達者だ。
とはいえ、それはどこまでいっても人の身としての範疇に留まるもの。
彼女に目標を定めつけ狙うイッカク。尖った顔を半ば海中に没した格好のままにて、水面を滑るように進んでは、みるみる差を縮めていく。
背後から迫る圧力。
こらえきれずに、ついふり返ってしまった伊瑠。
彼女が目にしたのは、三角の形にて鋸の刃のようなギザギザがついた歯の渦。イッカクの口腔内である。
呑み込まれたが最期、あの渦に生きながら引き裂かれ、恐怖と苦しみにのたうちながら果てることになるであろう。そればかりか死してもなお魂を囚われて、しゃぶられ続けるのにちがいあるまい。
大口を開けて襲ってくるイッカク。これを目前にして伊瑠は腰につけていた小刀を抜いた。切っ先を相手へと向けて吠える。
「くるならきやがれっ! あたいは碧の組頭の瑠璃と隆瀬の娘伊瑠。紀美水軍の誇りにかけて、ただでは喰われてやらねえからなっ。口の中をズタズタにしてやる」
意地とせめてもの抵抗。
しかしそんな海賊の娘を嘲笑うかのようにして、イッカクは伊瑠を丸呑みにしようとする。
寸前のことであった。
ひゅんと風が鋭く鳴った。
飛来したのは一本の槍。
穂先が閃き、イッカクの潰れた左目のところへ深々と突き立つ。
傷口を重ねて抉られたイッカクは「がぁっ」とうめき、たまらず鮫首をのけ反らせる。
おかげで伊瑠はイッカクの鼻先がかすめたのみですんだものの、衝撃を受けて小柄な身はたやすくはじかれた。
それにはかまわずイッカクは、首を振りどうにか刺さった槍を抜こうと暴れながら海中へと没する。
槍を放ってイッカクを退けたのは小船の舳先に立つ若い武官、緒野正孝。同船には忠吾とコハクの姿もある。
当初は中型船に乗り込んで鮫退治に協力していた彼らであったが、戦いの趨勢の中、たまさか主力と分かれて殿(しんがり)となり、残りの群れと対峙することになる。そのさなか、遠目に見えたのが海の暴君の傍若無人っぷり。
大型帆船を沈め、包囲網をたやすく崩したというのに、そこから外へと出ることなく反転したイッカク。彼の者の興味がはなから囮船の若い娘たちにしかないと気がつき、すぐさま足が速い小船へと飛び乗っては、真っ先に救援へと駆けつけたのである。
◇
間一髪にて命拾いをしたかにおもえた伊瑠であったが窮地はまだ続く。海の暴君がすぐ間近を勢いよく通過した余波に呑まれてしまったのだ。
支離滅裂に荒れる海流。翻弄され、ずんずんと水底へともっていかれる身体。どうにかしようと伊瑠もあがくが海面は遠ざかるばかり。
次第に周囲が暗くなっていく。陽の光が届かないせいだ。それと同時にぐっと冷たさを増す水により、体温がみるみる失われていき、手足にも力が入らなくなる。
気づけば水面越しに揺らめく太陽がずいぶんと小さくなっていた。
「あぁ、自分はここで溺れて死ぬのだ」
と伊瑠。なのにまだジタバタしては懸命に手をのばしている。そのことが自分でもおかしくて、ついくすりとしてしまったひょうしに、ゴボリと口の中の空気が零れて泡となる。
ふっと遠のく意識。視界に闇の帳が降りてくるのに合わせて、思考までもがぼんやりとしていく。あとはただ静かに沈んでいくばかり。
けれどもそうはならなかった。
伊瑠の手をグイと掴むたくましい腕があらわれる。
正孝であった。槍を放ちイッカクを一時的に退けたものの、伊瑠がいっこうに浮かんでこないので、すぐさま甲冑を脱ぎ捨て、海へと飛び込んだのである。
◇
海面に浮上した正孝。
その腕の中には伊瑠の姿もある。
どうにか引きあげることには成功した。しかし彼女の様子がおかしい。ぐったりしており、いくら呼びかけても返事がない。それもそのはずだ。息が止まってしまっているのだから。
ちらりと小船の方をみれば、速度をやや落としながら周遊しては、イッカクの動向を警戒してくれている。あれを呼び寄せて船に運びこんでいたのでは、それだけ時間がかかってしまう。なによりいま船の足を完全に止めてしまうのは危険すぎる。イッカクのいい的になりかねない。
一刻を争う中、素早く状況を確認した若き武官は大きく息を吸い込むなり、そっと娘に己の唇を重ねた。
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