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その百十六 角
しおりを挟む禍躬狩り南部弥五郎と禍躬ギサンゴ。
現時点でのお互いの距離は八十五間ほど。
新式火筒・可変忠吾式の有効射程距離はおよそ百と八間。
ただしこれは天候や風などの諸条件に恵まれた状況下での話。そして相手が禍躬に限定してのこと。もしも人や他の獣に向けたのならば、おそらく二百間を越えても殺傷能力を維持するであろう。
この土砂降りの雨の中、ひねくれた風が吹く谷間となれば、いかに南部弥五郎の腕を持ってしても限界値を叩き出すのは難しい。ゆえの差し引き二十三間分。
放たれた弾が雨の幕を切り裂く。激しい螺旋回転にて、水飛沫をあげながら突き進んでゆく。
南部弥五郎が狙ったのは、自分の方へと跳ね駆けてくる禍躬ギサンゴの眉間。
弾は貫通性の高いもの。いかに硬い頭蓋骨を持つ禍躬とて、まともに喰らえばただではすむまい。
本当ならば物陰に潜んでやり過ごし、側面から禍躬を仕留めるときの定番である目元を狙いたかったのだが、牡鹿が成ったギサンゴの両目の位置は草食動物のそれに準拠しており、正面からでは狙いにくかったのである。
一撃で決めるつもりで放たれた火筒。
しかし相手は獣の理からはずれた存在。
これで倒せるだなんぞという甘い考え、南部弥五郎にははなからない。禍躬は強い。千差万別にてひと筋縄ではいかない。つねに人間の想定の上を越えてくる。圧倒的な力の差、脅威を見せつけてくる。そんな相手に立ち向かう以上は、こちらも相応の腹積もりでいないと、たちまち足下をすくわれる。
すると案の定であった。
南部弥五郎が引き金をひき、弾き金が作動するときに立てるカチンというわずかな音。
これに禍躬ギサンゴがぴくりと反応。耳は雨音にて埋め尽くされているはずなのに、異音に気がつく。
自身へと迫ってくる危険を敏感に察知。移動速度はそのままにとっさに頭を下げたもので、弾が当たったのはギサンゴの左角の根元近くの太いところ。
チュィィン!
甲高い音が鳴る。
角の表面にわずかなヒビが入り少し欠けたのみ。
弾は後方へとそらされてしまった。
とたんに雨の渓谷内に充ちたのは禍躬の威圧。怒気が目には見えない濁流となって、南部弥五郎へと押し寄せる。気の弱い者であれば、それだけで心臓が止まりそうなほどの殺意を孕んでいる。
だが南部弥五郎はその場を動かず。一切逃げる素振りはみせず。腹ばいのままにて、ただ手元にてすばやく次弾を装填したかとおもえば、ふたたび遠眼鏡を片目でのぞき照星を目標へと向けて合わせることに集中。
そしてふたたび引き金をひく。
第二射を放つ刹那のこと。
遠眼鏡のガラス越しに禍躬と禍躬狩りの目が合う。
瞬間、禍躬ギサンゴの姿が遠眼鏡の中から消えた。
直進を続けていたギサンゴが急に左へと大きく跳躍、最寄りの大きな岩を足場にしたかとおもえば、今度は反対側へと跳ねる。天嶮をものともしない健脚による得意の俊敏さを発揮して、まるでかみなりのような軌道にて駆けだす。
動きを変えたギサンゴ。
放たれた弾は雨幕の彼方へと虚しく消えた。
「撃つ呼吸を読まれた? あるいはよほど耳がいいのか」
独りごちながら装填作業をすませる南部弥五郎。
この時点ですでに禍躬ギサンゴは、およそ五十間ほどの距離にまで迫っていた。
身を起こし片膝立ちの姿勢となった南部弥五郎、しかしやはりその場からは一歩も動かず。
顔は迫り来る禍躬を見据えながらも、手元を動かし火筒・可変忠吾式の組み換えを実施。たちまち長距離仕様から中距離用へと換装完了。
これは彼および彼が率いる山楝蛇の隊員たちならば、みなできること。目隠しにて火筒の分解組み立てを、わずかな時間でも行えるようにと繰り返し鍛錬したがゆえの賜物。
「やれやれ、囮役としてはまずまずの働きだが、このまま跳ね飛ばされたのでは部下たちに少々示しがつかないな」
つぶやきながら南部弥五郎は遠眼鏡を筒身よりはずし、懐へとねじ込む。
「小夜には悪いが、最後に頼りになるのはやはり己の目だな。どれ」
やや薄目となり、一点ではなくて全体を面として捉えるように視界を作った南部弥五郎。「ふぅ」と軽く息を吐き、肩の力を抜いてから第三射を放つ。
狙うは禍躬ギサンゴの左角。
岩場を駆ける俊敏な動きに惑わされることなく、狙いあやまたず。
弾が当たったのは先に傷をつけたのと寸分たがわぬ箇所。
禍躬ギサンゴの名前の由来となった珊瑚色の角。雄々しく枝葉を広げるその姿はたいそう見事。ときに人心を狂わす魔奏を放つ恐ろしいモノであり、自身を守る武器でもあり、とても強固だ。
だがその硬さが逆に弱点となることもある。ときに小さな穴が堤を崩壊へと至らせることがあるように、いったん傷がつくと案外モロいもの。
表層を削られ、ほんのわずかながらもあらわとなっていた角の内部。
そこに南部弥五郎の針の穴を貫くかのごとき精密射撃が容赦なく突き刺さる。
実際に破壊できたのは三分の一程度であろう。
だがそこに角そのものの自重、根元という場所などの事情が加味されることで、破壊は留まることを知らない。
不穏かつ致命的な軋み音がしたとおもったら、あっという間に傾いでボキリと折れた角。
全力に近い状況にて、激しく飛び跳ねて駆けていた禍躬ギサンゴ。いきなり左角を失いぐらりと大きく体勢を崩す。なんとか建て直そうとするもうまくいかない。ふらついたとおもったらそのまま足をもつれさせて派手に転倒。
けれどもこの時点で、すでに南部弥五郎との距離は十間を切っており、すぐそこにまで肉塊が迫っていた。
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