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その百二十一 太古の禍躬
しおりを挟む黒翼ロタはかつてとある禍躬狩りに仕えていた。
しかしその男は死んだ。今回の戦いよりもずっと先のこと。討伐に加わり、そこで命を落とした。
主人を失った場合、黒翼はたいてい飛ぶことを止めてしまう。そして相棒の眠る墓所の守り人となることが多い。あるいは何処かへと飛び去りそれきりとなることも。
そしてこのロタは、前者でもありまた後者でもあった。
ロタにとってはこの宝雷島が主人の眠る地であり、墓と同義であったからだ。
コハクは相手の目に浮かぶ悲哀を感じ、すぐにロタが自分と同じだとわかった。
それは大切な相棒を失った者。半身に先立たれ残された者のみが宿す色……。
しかしコハクとロタ、両者には決定的にちがう点がひとつある。
それはいまなお戦い続けているのか、いなかということ。
「おれはコハク。この木は天樹というのか、ずいぶんとご大層な名前だな」
見上げながら山狗が名乗り返すと、目の前にひらりと落ちてきたのは黒い羽。ロタの翼より抜けたもの。
宙を右へ左へと揺らめきながら、ゆっくりゆっくり、そして音もなくふわりと舞い降りる羽。視線がついついその行方を追わずにはいられない。
その落ちる様を見届けてから、ふたたび顔をあげたコハクは、そこでようやくあることに気がついた。
天樹の枝の上にいるロタ。畳まれたその両翼。全体の黒い色味がずいぶんと薄い。すけている。羽の数がかなり少ない。あれでは風をおこせない。きっともう二度と空には舞い上がれまい。
そんなこと当人もとっくに承知しているはず。
わかっていてロタはそうしているのだ。静かに最期の刻を迎えるために。
「すまない。どうやら邪魔をしてしまったようだな」
コハクが詫びるもロタは「気にするな」とわずかに身じろぎするばかり。
一礼ののちにその場を立ち去ろうとするコハクだが、そのときロタが言った。
「禍躬を殺しにきたのか?」
その問いにコハクは黙ってうなづく。
するとロタが意外な言葉を口にする。
「そうか……ならば天樹の森もそう長くはないな」
意味がわからずコハクが首をかしげると、ロタが「すべては繋がっているんだ。自分たちはかんちがいをしていたのだ。天地、森羅万象、ヒトもトリも獣も、ありとあらゆるもの、それこそ禍躬もまた。あれらとて世の理からはずれてなんぞはいなかった」と言い出す。
禍躬は災厄。
巡り合うは不幸以外の何者でもない。
だが禍躬という圧倒的な存在があるからこそ、ヒトとヒトとの争いは最小限に留められており、またヒトと獣の境界も保たれているという側面がある。
これを討ち滅ぼす。
救われる命は多いだろう。しかしながらそれは一時的な結果に過ぎない。長い目でみればより多くの命が失われることになるやも。
禍躬という脅威が失せたとたんに、ヒトたちはより深く山へと分け入り、森を侵し、ついには見渡すかぎりの大地のすべてをたいらげる。
きっとそうせずにはいられない。トリが空を飛ぶように、魚が水の中を泳ぐように、アレはそういう生き物なのだ。
ゆえにこの「島で行き場を失くした者らが最後に辿り着く場所」もまた押し寄せるヒトの手によって浸蝕されずにはいられまい。
禍躬を倒したがゆえに起こりうる未来。
川の上流にて大岩をどければ、水の流れが劇的に変わるのと同じ。
強大過ぎる存在であるがゆえに、失われたときに周囲に与える衝撃、影響もまた大きくなる。
それを説かれたコハクはキッとロタをにらみつけながら語気を強める。
「だからとて禍躬の暴虐を見過ごせというのか? 許して、認めて、求められるままにその身を差し出し、ひたすら虐げられるのを我慢せよというのか!」
これに対してロタは「ちがう」と小さく首を振る。
「自分はただコハクにも知ってもらいたかっただけだ。この天樹を見よ。まだ気づかないのか? よくよく幹の根元に鼻を押しつけて、そのニオイを嗅ぐがいい。さすればわかるはずだ」
コハクは言われるままに試してみる。そして微かに漂うニオイを拾って、愕然とした。
「そんな……これは禍躬のニオイ……。ということは、まさか、この木の正体は!」
天樹は禍躬。
いや、より正しくはかつて太古に禍躬であったものが変じたもの。
死した禍躬、その骸が大地に根を張り、これに呼応するかのようにして出来上がっていったのが、この植生豊かな森。
討伐された禍躬は通常、その身はバラバラに解体されて、血肉は大地に撒かれて地鎮祭が執り行われる。すると禍躬が暴れ荒廃した土地が蘇り、かつて以上の隆盛を誇るとされている。
奪われた魂が解き放たれて、浄化されることにより救われるのだという。
そのことはコハクも知っていた。
だからせいぜい「そういうものか」ぐらいの感覚であった。
けれども、もしもこれが真実だとしたら……。
「もしかしておれや、忠吾たちがやってきたことこそが、大自然の摂理に反することであったのか」
自分の中の価値観がごっそり裏返る。足下が崩れるような錯覚に襲われて、コハクは眩暈を覚えた。
そんな山狗に朽ちかけている黒翼がまたしても「ちがう」と言った。
「そうではない。どちらが正しいとか、まちがっているとかではないのだ。山狗が山狗の血に従って生きているように、禍躬もまた禍躬の血がもたらす衝動により突き動かされている。その過程での生であり、闘争であり、その果ての死であるということ。この世に無意味で無価値な命なんぞは、ただのひとつもないということ。そのことをどうかコハクには頭の片隅にでも置いていてもらいたいのだ」
その言葉をコハクはぼんやり聞き流す。
ふと脳裏をかすめたのは、まだ子どもの頃、駆け出しの時分に忠吾よりとくとくと言われたこと。
『いいか、コハク。命を喰らうということは、その命を己がうちにとりこみ宿すということだ。命も想いもその一切合切を引き受けて背負い、ともに生きていくということだ。だからけっして感謝を忘れてはいけない。敬意を忘れてはいけない。それがたとえ禍躬であろうともだ。
憎しみで狩りをしてはいけない。なぜなら憎しみは心を惑わし、まなこを曇らせる。そうなれば、相手へと向けた牙や爪はたちまち己に跳ね返るということを、よぉく覚えておけ』
コハクは自問自答せずにはいられない。
はたして自分はその道を歩んでこられたのであろうか?
ふたたびあの世で忠吾と再会したときに、彼は「よくやった」と褒めて、あのゴツゴツした手でこの頭を撫でてくれるだろうか……。
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