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連載
其の八十九 人魚の呪い
しおりを挟むいまの侍の世をひっくり返す。
忍びくずれの士郎の口からはじめて聞かされたときには、「何を世迷言を」と吐き捨てたものである。しかし男を知るうちに、その身に宿る黒い復讐の炎と間近に接するうちに、次第に賛同する同士が増えるうちに、「まんざら絵空事ではないのかもしれない」と比丘尼は考えるようになる。
なにより彼らのそばはたいそう居心地がよかった。
みな世の中から拒絶され、はじかれた異能、異質のはぐれ者ばかり。
同病相憐れむではないが、似たような過酷な境遇を経てきたがゆえに、分かり合えることもあれば結ばれる絆もあるということを、比丘尼ははじめて知った。
現在、江戸市中にておろち一党は暗躍し、国崩しの第一歩となる工作を施しているところ。細工は流々にてあとは仕上げをごろうじろ。
浅草寺大法会での大一番を前にして、ごろんと横になって体を休めている比丘尼は夢を見ていた。
何度も何度も繰り返し見た胸くその悪い夢。
すっかり飽き飽きしているというのに、ことあるごとに、それも大事を成そうとするときにかぎって見る。
もしかしたら死んだ母がそうすることで自分を止めようとしているのかもしれない。あるいはとっくにどこぞに捨て置いてきたはずの良心が疼くのか。
◇
比丘尼の母は混じり者の化生であった。
ただし妖と人が結ばれた末に産まれたものではない。
あれは母の母、比丘尼にとっては祖母にあたる人物が身重のときのこと。家が土地持ちのけっこうな長者であったせいか、方々より届けられる祝いの品。その中に壺に入った珍しい味噌漬けの肉がまぎれ込んでいた。添えられた手紙には「喰えば滋養強壮がつく鯨肉」とあったので、さっそくいただくことにした祖母。
おかげでじきに元気な女の赤子を産んだ。
産まれてきた赤子の様子がおかしいと周囲が気づいたのは、湯につけているときにうっかり落としてしまったとき。
湯の中で赤子は平然と笑っていた。溺れるでもなく、きゃっきゃと楽しそうに。
心配になった両親が寺の住職に相談したところ、「うむむ、この子は水妖に魅入られておる。何か心当たりはないか」と逆に問われ、あれこれ考えるうちに辿り着いたのがあの壺の肉。
あれは鯨の肉なんぞではなくて人魚の肉であったのだ。
少し食べる程度ならば問題はなかった。しかし腹の中の子の健やかなることを願い、ひとり毎日こつこつと食べ続けたことが仇となる。
かくして人魚との混じり者になってしまった赤子は、成長するほどに不思議な力に目覚めていく。
天候を読むことにはじまり、地下の水脈の流れをピタリと探し当て、ひとの何倍もの長い時間を水中で過ごし、ときに暴れる川の流れを鎮め、鉄砲水を予見し、霧を起こしたり雨雲を呼び寄せたり……。
もしも男の身であれば仏門に入り名僧として後世に名を残したかもしれない。
けれども女の身ではそれはかなわぬ。いくら髪をおろしたとて男女ではあつかいに天と地の差がある厳しい時代であったのだ。
そして比丘尼の母の身に起きた不幸は皮肉にも、彼女を守り育てていた家族によってもたらされる。
噂を聞いてご利益にあやかろうと訪ねてくる者多々。
それがまた評判となり、助けを求める者がずんずん増えていつしか屋敷の門前に、連日鈴なりとなる。
救われた者たちが礼として置いていく心づけが、どんどんと膨れ上がっていき、労せずして得た大金が人心を狂わせるまで、さして時間はかからなかった。
「このまま自分が実家に留まれば、きっと家族が駄目になる」
密かに心を痛めていた比丘尼の母は、ある日、忽然と姿を消した。
◇
女一人にて各地を巡っては、行く先々で困っている人たちを助け、次へと旅立つ。
自分がひと所に留まれば同じ不幸を繰り返す。それがわかっていたからこその終わりなき旅路。
だがそれは彼女が想定していたよりも、ずっとずっと長く続く。
なにせ人魚との混じり者ゆえに、ふつうの人々よりも老いが来るのがやたらと遅いのだから。
永遠の美?
不老長寿?
世の権力者や美に執着する者にとっては垂涎のしろものだが、実際に手に入れたからこそわかる。これは断じて祝福なんぞではない。呪いだ。人の身に過ぎたる力を持った者が背負う業。
いかに肉体が若かろうとも、精神はそうはいかない。各地を彷徨うほどに心が疲弊して着実に朽ちていく。
ある旅先でのこと。
崖の上のきわに立ち、眼下に滝つぼを眺めていた比丘尼の母はふと「この高さから飛び込めば死ねるかも」と思った。
心身ともに疲れ切っていたのだ。
衝動のままに崖から一歩踏み出そうとする。
そのとき背後から「危ない!」と女の身を抱きすくめたのは猟師の青年。
これがのちに比丘尼の父となる男であった。
◇
猟師の青年はすべてを承知の上で比丘尼の母を受け入れ嫁とした。
しばらく心安らかな時間が流れる。
だがそれも比丘尼が産まれるまでのこと。
どこまで逃げても追いかけてきては、からみつく因果。
末代まで祟るとはよく言った。恐るべき人魚の呪いが、よりにもよって新たに産まれた命にまでおよんだのである。
それを知ったときの母の絶望たるや筆舌にしがたいものがあった。
しかし子を持つ親となったことにより女は強くなった。
彼女は夫の前に両手をついて毅然と告げる。
「私はこの子を連れてふたたび旅に出ます。そしていつかきっと自分とこの子の身に宿る忌まわしい人魚の呪いに打ち勝つ方法を見つけ出してみせましょうとも。ですから今日をかぎりにお暇をいただきとうございます」
母の決意は固く、老いた両親のいる父はこれを置いて共に旅立つことかなわず。涙ながらに「ずっと待っているからな。たまには便りを寄越しておくれ」と委細を承知した。
かくして母はまだ乳飲み子であった比丘尼を抱いて、ふたたび旅へと出た。
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