幕末レクイエム―士魂の城よ、散らざる花よ―

馳月基矢

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四 斎藤一之章:My heart

誠義(一)

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 南の空に煙が立ち込めている。山影の向こうで若松が燃えている。
 今すぐ飛んでいってこの目で確かめたい。城は無事か。町は無事か。容《かた》保《もり》公は無事か。時尾は無事か。
 ともに戦った武士、剣術を教えてやった少年、世話を焼いてくれた女。たくさんの人の顔が頭をよぎる。胸を掻きむしるほどの焦燥。オレは今、ここにいていいのか。
 米沢街道、塩川宿。若松を出て北へ三里、米沢へ向かう道の最初の宿場が塩川だ。新撰組と伝習隊はここで体勢を立て直す。次の行き先は米沢。そこで幕府軍の再集結を呼び掛ける。若松には戻らない。
 肩へと伸びてきた手を、とっさに払いのけた。我に返って謝罪を口にする。
「失礼しました、大鳥さん」
「いや、こちらこそ、驚かせたようで悪かったな。連日の戦闘で気が立っているのも当然だ」
 戦闘があろうがなかろうが関係ない。人に触れられるのは、幼いころから苦手だ。人に触れるのも、いつしか苦手になった。少し力を加えるだけで、触れた相手の体をぐしゃりと壊してしまいそうに感じる。
 だから、多くのものをそばに置こうなどとは思わない。大事なものは新撰組だけでいい。新撰組の名の下にだけ、オレは何でもしよう。人を殺すことも欺《あざむ》くことも、何でも。
 けれど、だったら、この焦燥は何だ? この迷いは何だ? オレは新撰組に付いていく。それでいいはずじゃないのか?
 土方さんが凄まじい目をしている。思い詰めているように見える。一層強い覚悟を決めたようにも見える。迷いは少しも感じられない。
「斎藤、さっきから上の空だな。何を考えてる?」
 土方さんの問いに、どう答えようか迷う。言葉を濁す。
「若松から塩川へ逃れてくる者がひどく多い」
「城下に敵の侵入を許してしまったからな。一部の上級武家が城に籠《こも》ったようだが、身分の低い者や武家でない者は、取るものも取りあえず米沢へ避難しようとしている」
 負けた、という事実を改めて突き付けられた。オレは拳を固めて手のひらに爪を立てる。
「敵の勢いを止められなかった。また伊地知を仕留め損ねた。板垣も無傷だったみたいだ。オレは何もできなかった」
 塩川の宿屋にはもう空きがなく、新撰組と伝習隊は寺や神社に分宿することになった。野《の》晒《ざら》しでないだけましだ。落ち着く場所を定めるや、冷たい板張りの床に倒れ込んで眠った隊士も少なくない。
 オレと土方さん、島田さん、伝習隊の大鳥さんは、大きな寺の客人用の宿坊に通された。車座になったきり、ほとんど口を利いていない。日も暮れて、夕《ゆう》餉《げ》の煮炊きの匂いが漂《ただよ》ってくる。かえって吐き気がした。
 習い性のように袖《そで》章《しょう》を指先でなぞる。裏にびっしりと縫い取られていた術式の手ざわりは消えた。時尾が作った三組の縮地の術式は、土方さんが使ったぶんでおしまいになった。
 一組、残しておけばよかった。時尾が持っているなら、今すぐ使うのに。そんな考えを巡らせて、どきりとする。考えてはならないことを考えてしまった。オレは新撰組副長として、局長の土方さんを支えていくべきだ。
 廊下を踏む足音が三つ、近付いてくる。ほどなくして障子の向こうで寺の老僧が、新撰組の幹部に来客だと告げた。オレはいつでも刀を抜けるよう身構えながら、障子を開けた。
 少年が二人、老僧に伴われて立っていた。
「山口さま! よかった、山口さまはご無事だった」
「土方さまも。お怪我はねぇですか?」
 あどけない顔でオレを見上げて笑ったのが、時尾の弟の盛《もり》之《の》輔《すけ》。大人びた顔を泣きべそに歪めたのが、家老格の山川家の健次郎。
 土方さんが、ふっと肩の力を抜いた。
「盛之輔、健次郎、おまえさんたちも無事だったんだな。会津公をお守りして滝沢まで出陣したと聞いたが」
「はい、滝沢までは行きました。だけんじょ、おらや健次郎さんたち幼少組は待機するように言われて、殿がお戻りになるまで、じっとしていただけでした」
「土方さま、戦場に残った白虎隊士中二番隊は何《な》如《じょ》なったか、ご存じねぇですか? 四十人ほどのうち、帰ってきたと確認できた人が半分に満たねぇのです」
 顔がこわばるのがわかった。
 戸ノ口原の戦場で、白虎隊のうち、土方さんと面識があった篠田儀三郎の班の面倒を見るはずだった。だが、一度別れたきり合流できなかった。儀三郎たちは、曇った夜の暗さのために道に迷ったのか、気が逸《はや》っておとなしく待機していられなかったのか。
 たった十六、七歳の少年たちを戦場で見失って、そのままでいいはずはなかった。後悔が胸に迫る。オレが初めて人を殺した十九のときは、怖くて震えが止まらなかった。劣悪な戦場で初陣を飾った白虎隊は、きっとオレより恐ろしい思いをしたに違いない。
 盛之輔が訝《いぶか》しげに眉をひそめた。目尻の垂れた顔は、姉の時尾にそっくりだ。
「土方さま、何《な》如《じょ》しました? 白虎隊のこと、何かご存じだべし?」
 オレは土方さんを振り向いた。土方さんは青ざめている。言葉を聞かなくても、盛之輔の問いへの答えがわかるほどに。
 土方さんは肩で息をした。
「儀三郎たちは死んだよ」
「死んだ?」
「そうとも、盛之輔。俺の目の前で、篠田儀三郎の班は全滅した。遺体を改めたわけじゃあねぇが、一人も生き残ってやしねぇと思う」
 盛之輔がへたり込んだ。健次郎は部屋に踏み込んで、土方さんに詰め寄った。
「何があったのですか? 儀三郎さんの班には、剛胆で武芸の得意な有賀織之助や石山虎之助さんや野村駒四郎さんがいて、医術のできる石田和助さんもいて、そだに簡単にやられっつまう顔ぶれではねえ。死んだなの信じられません」
「ああ、あいつらは若いが、優秀だったよ。手前らの頭で戦況を見切って、めちゃくちゃになっちまった戦場から離脱して若松を目指した」
「儀三郎さんたち、若松に戻ったのですか? そんじゃら、なぜ死んだ……本当に、死んだ、のですか?」
 健次郎は震えていた。土方さんは健次郎から目を逸《そ》らさずに告げた。
「約束を違《たが》えてしまったことを悔いて、全員、自刃した」
「自刃? 全員が? まさか、そっだこと……」
「初陣で戦果を挙げてみせよう、若松の城下には敵の侵入を絶対に許さないと、儀三郎たちは約束していたんだろう? 飯《いい》盛《もり》山から見下ろすと、城下は燃えていた。無力な自分は誰にも合わせる顔がないからと、儀三郎は腹を切った」
 土方さんが言葉を切ると、しんと静かになった。盛之輔は呆然として、声もなく涙を流した。健次郎は歯を食い縛って土方さんを睨んでいる。
 オレは口を開いて閉じて、言葉を探して、ようやく一言だけ訊いた。
「盛之輔と健次郎は、新選組に助けを求めに来たのか?」
 土方さんが鋭い目でオレを見た。健次郎が苦しそうにうなずいた。盛之輔がへたり込んだまま、オレの袴《はかま》の裾《すそ》にすがった。
「幼少組にもできることはあるはずだと、お城のためにできることを探しました。役に立たねば、生きている意味がねえ。おらより幼い子供《こめら》の中には、足手まといにならねぇようにと母親から殺された者もいます。女《おな》子《ご》も沢山《よっぱら》死にました」
「女が死んだ? 自害か? 盛之輔、あんたの姉は?」
「時尾あねつぁは照姫さまの護衛でお城にいたから無事です。おらのおばんちゃや母上、健次郎さんの姉つぁや妹たちもお城に入りました。けんじょ、顔を知っている者が何人も死んで部屋じゅう血の海で、日新館も火が回って、街も燃えて、火に飛び込む人もいて……」
 盛之輔はオレにしがみ付いた。頼りない嗚《お》咽《えつ》が聞こえた。
 オレはたまらなくなって盛之輔の肩を抱いた。痩せっぽちだ。硬く薄い体の温かさに、おののいてしまう。まだ、ほんの子どもじゃないか。
「泣くな」
「山口さま、なぜ会津が、会津だけが、こっだ目に遭わねばなんねぇのですか? 会津が間違ったことをしたのですか? 会津は一所懸命に、主上《おかみ》のため、幕府のために働いてきたのではねかったのですか? 会津の武家は皆殺しにされねばなんねぇのですか?」
「盛之輔」
「このままではお城ごと、みんな殺されっつま。おらは男だから死なねばなんねぇかもしれねぇけんじょ、おばんちゃや母上や時尾姉つぁには死んでほしくねえ。殿も照姫さまも生きていてほしい。本当は誰にも死んでほしくねえ」
 健次郎が乱暴な手付きで涙を拭って、勢いよく頭を下げた。
「土方さま、山口さま、お力を貸してくなんしょ。会津を救ってくなんしょ。どうか、お願ぇいたします!」
 盛之輔も必死な目をして、居住まいを正して頭を下げた。
 沈黙が落ちる。喘《あえ》ぐような自分の呼吸が聞こえた。
 蒼白な顔の土方さんが、やがて言った。
「新撰組はこれから米沢へ向かう。戦意があるのなら、おまえたちも連れていこう」
 盛之輔と健次郎が、愕然とした顔を上げた。島田さんが何かを言い掛けた。大鳥さんがうつむいた。土方さんは淡々と続けた。
「正直なところ、今の新撰組に会津を救援するだけの力はない。兵力も武器も足りなけりゃ、城に運び込む食糧や物資を集める伝手《つて》もない、買う金もない。それも承知で若松に戻れば、待っているのは死だけだ。おまえたちは新撰組に会津で滅べと言うのか?」
 土方さんは正しい。今の状態で新撰組が戦い続けることは不可能だ。
 戦い続ける理由は何だろう? 答えはオレも知っている。新撰組は、命をくれてやると決めた幕府のために、本当の滅びの日が来るまで牙を剥《む》き続けなければならない。
 幾度も負け戦を重ねて、幾度もばらばらになりかけた。それでも、誠一文字の旗印は倒れず、戦う目的は消えずにいる。オレたちは命がある限り、生き抜いて戦い抜こうと足掻くべきだ。戦い続けられる道を選んで行くべきだ。
 わかっている。土方さんの正しさも、新撰組の目的も、何もかも全部。
 わかっているはずなのに、心が暴れるのはなぜだろう? 別の道が見えるのはなぜだろう? 黙って土方さんに従えないのはなぜだろう?
 頭も胸もぐちゃぐちゃで苦しい。迷っている。悩んでいる。焦っている。けれど今、オレは決断しなければならない。
 オレは言った。
「土方さん、オレは、米沢には行けない」
 能面のように冷たく静かだった土方さんの顔が、驚きに染まった。
「待て、斎藤、何を言い出すんだ?」
「申し訳ない」
「なぜ謝る? 米沢に行けないって、おまえ、若松に戻るということか? 新撰組を抜ける気か?」
 正座をする。両手を突いて、気色ばむ土方さんを見据える。
「掟《おきて》に反する行為だと承知している。オレは、新撰組を離れたい」
 新撰組からの脱走は、腹を切って詫《わ》びるべき罪。あるいは、追手を放って処刑すべき罪。オレ自身が脱走者を手に掛けたことが何度もある。見逃してくれと命乞いをされても斬った。
 立ち上がった土方さんがオレの正面に来た。眉を逆立ててオレを見下ろす。
「なぜだ、斎藤? 情にほだされたか? 高木時尾が鶴ヶ城にいるからか? それとも、俺のやり方が気に食わないのか?」
「土方さんのやり方が嫌いなわけじゃない。土方さんの言うとおりにしないと新撰組が壊滅する。それもわかる」
「だったら、なぜ俺に付いてこない? 俺はおまえを信頼している。今の新撰組で最大の戦力はおまえだ。俺以上に有能なおまえを、俺はここで失いたくない」
 オレは頭を下げた。
「勝手を許してほしい。オレは会津に残りたい」
 胸倉をつかんで起こされた。
「どうしても新撰組を抜けるってのか」
「会津を見捨ててはおけない」
「俺だって見捨てたいわけじゃねえ。そうせざるを得ねぇだけだ。新撰組はここで終わるわけにはいかねえ」
「だから、新撰組は先へ進んでくれ。オレは残る」
「馬鹿野郎! おまえは自分の立場がわかってねぇのか? 一時は局長を務めたおまえが抜けるなら、付いていきたがる隊士がいるだろう。敵のど真ん中の若松で、そいつらを守れるのか?」
「オレひとりで行く。ほかは全員、土方さんが連れていってほしい。オレには人を率いる資格も責任も器量もない」
「ふざけんな! おまえは局長の器だよ、おまえ自身が気付いてねぇだけだ。おまえは生まれながらの武士で、何だってできる男だろうが。俺なんかよりよっぽどおまえのほうが近藤勇に近いんだ。武士の血が一滴も流れてねぇ俺じゃあ、近藤勇になれねぇんだよ!」
 血を吐くように、土方さんは怒鳴った。取り乱す土方さんを見たのは初めてかもしれない。オレを睨む目は涙でぎらぎらしている。
 オレは胸倉をつかまれたまま、かぶりを振った。
「土方さんは近藤さんになれない。オレも近藤さんになれない。そんなの当たり前だ。土方さん、オレは、局長が土方歳三だからここまで付いてきたんだ。本当はこれからも付いていきたい」
 不意を打たれた顔で、土方さんが言葉を呑む。
 島田さんが口を開いた。
「斎藤が言うのが正しい。土方さん、あんたが近藤さんを慕っていたことはよくわかるが、あんたが近藤さんになる必要はないんだ。隊士一同、ほかでもない土方歳三を局長だと認めている」
「俺は武士の生まれじゃねえ」
「近藤さんだって、生まれは農家だ」
「でも、武家の養子になって、家柄と道場を背負っていた。俺が出会ったのは、武士の近藤勇だ。そして斎藤は、れっきとした武士だ。俺が持たねぇもんを持ってる」
 土方さんの手から力が抜けた。オレはもう一度、床に手を突いて土方さんを見上げた。
「勝手を許してくれ。オレは会津に残る。オレは、いつの間にか、会津のために戦っていた。そのことに今、気付いた」
「会津のため……幕府のためじゃなく、会津なのか?」
「ほかに何も見えない。会津だけだ」
「そいつは腹の底からの言葉か? 会津の戦場を離れたら、ほかのものも目に入るようになるんじゃねぇのか?」
「誓って本心だ。オレは会津に骨をうずめたい。新撰組の斎藤一じゃなくて、会津の山口二郎として」
 オレは貧乏武士の子だ。京都に出て働く口がなかったら、武士として暮らしていけたかどうかもわからなかった。それを引き立ててくれたのは、会津藩主、松平かた保《もり》公だった。
 幕府のために命を懸けていいとは言っても、幕府なんて巨大なもの、オレの目には見えなかった。見えるのは容保公だけ。新撰組が命懸けで働くのは、容保公への忠誠心があったからだ。
 負担の大きな京都守護の任も、京都を戦場にした責の憎まれ役も、収まり切れない倒幕派の武力の標的も、容保公は黙って引き受けた。オレは見過ごせない。容保公をお一人にしてはならない。オレは会津藩士になりたい。
 言葉にしたい思いが胸に渦巻いている。言葉にならない。何ひとつうまく言えない。ただ、じっと土方さんを見つめる。
 土方さんは唇を噛んだ。眉間にしわを寄せて目を閉じて、苦しそうな息をついた。そして、吹っ切れたように静かな顔をした。
「わかった。好きにしろ。首に縄を付けて引っ張っていくわけにはいかねえ。おまえがそこまで覚悟を決めているなら、俺は止めねぇよ」
「土方さん、すまない」
「いちいち謝るな。でもな、斎藤、おまえが新撰組の斎藤一の名を捨てることは認めねえ。会津での仕事が済んだら、いつになってもいい、俺のところへ戻ってこい。これは局長命令だ」
「承知した。生きていたら、必ず」
 土方さんは、そっと微笑んだ。
「斎藤、おまえはおまえの義を貫け。投げ出したり挫《くじ》けたりするなよ。近藤さんの墓が見守ってる会津で、誠の一文字に恥じるような生き様を晒《さら》すな」
 オレはうなずいた。土方さんの笑顔を見つめるばかりで、微笑み返すことはできなかった。
「約束する。オレは、オレの誠義を貫く。土方さんも、武運を」
 きっと今《こん》生《じょう》の別れになる。オレは涙をこぼすまいと歯を食い縛って、目を見開いて土方さんの姿を胸に焼き付けた。
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