(新章開始)当て馬だった公爵令息は、隣国の王太子の腕の中で幸せになる

蒼井梨音

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当て馬にされた公爵令息は、今も隣国の王太子に愛されている

北への進軍⑨

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まだ陽が低い。
夜露を吸った土が重たく、冷たい風が草原を渡っていく。
詰所の前では護衛や医官たちが準備を整え、馬が鼻を鳴らしていた。

僕は毛布をたたみ、簡素な朝食を済ませると、少しだけ空を見上げた。
雲の切れ間に光が差し始める。
今日もまた、殿下のいる方角へ――そう心の中でつぶやいて、馬車へ向かった。

リュシアンはすでに座席にいた。
朝から書類を広げ、筆先で軽く紙を叩いている。
その几帳面な所作に、少し緊張を覚えながら向かいに腰を下ろした。

「おはようございます、リュシアン」
「おはようございます。体調にお変わりは?」
「はい。……少し、慣れてきたように思います」
「それは何よりです。今日の行程は、丘陵地を抜けて第二詰所まで。昼前に村で休憩を取ります」
「ありがとうございます」

淡々とした口調。
それ以上、リュシアンは何も言わない。
少し気まずくて、外の風景に視線を向けた。

馬車の揺れが昨日よりも激しく、書類の端がひらりと舞う。
僕が反射的に手を伸ばすと、リュシアンの指と触れた。

「っ、すみません!」
「……お気になさらず」
リュシアンは書類を整え、冷静に言葉を続けた。
「殿下。移動中は揺れが多く、貴重な文書に手を触れないようお願いいたします」

その言い方に、胸がちくりと痛んだ。
責められたわけではないけど。
ただ、丁寧すぎる口調の奥にある距離感が、冷たく感じる。

少し沈黙が続いた後、小さな声で尋ねた。
「……リュシアンは、殿下の近くでお仕えしていたのですか?」
「ええ。主に外交文書の整理と、対外折衝の補佐を。王太子殿下から、直接こちらの任を拝命いたしました」
「そう、ですか……」
「殿下は、あなたを“守るように”と仰いました」
その言葉に、僕は目を見開いた。

だが、次の一言で胸が締めつけられた。
「ですので――私は、殿下の信頼を損なうようなことがないよう、あなたの行動を記録し、報告する義務があります」

「……報告、ですか」
「ええ。どんな些細なことでも、王都に伝わることと思って、行動してください」

静かに、だが確実に釘を刺すような口調。
背筋が自然と伸びる。
「わかりました」
それだけを答えるのが精一杯だった。

馬車の中には、再び静寂が落ちた。
外では小鳥の声が聞こえるのに、車内の空気は冷たい。

昼前。
休憩のために立ち寄った小さな村で、リュシアンが護衛と何か話しているのが見えた。
その横顔は整っていて、まるで氷の彫像のように整然としている。
リュシアンは有能で、忠実で、正しい。

――けれど、殿下や僕の周りのみんなのようには温かくない。

湯気の立つ携行食を手にしながら、そっと胸の奥で呟いた。

マクシミリアン殿下なら、同じ言葉を言うとき、きっともう少し優しい声で言ってくれるのに――。

午後の馬車はさらに静かだった。
書類の音、車輪の軋む音。
リュシアンは一度も顔を上げず、僕も話しかけられないまま夕暮れを迎える。

それでも、マクシミリアン殿下の命を忠実に果たそうとするその姿に、ほんの少しだけ敬意が芽生えかける。
だが同時に、どうしようもなく寂しかった。

夜。
風の音が、軋む木の壁をわずかに揺らしていた。
詰所の中では護衛たちが交代で仮眠を取り、焚き火の赤い光がぼんやりと床を照らしている。
毛布の上で目を閉じてみたが、眠れなかった。
昼間のリュシアンの言葉が、頭の奥で何度も反芻される。

「あなたの行動を記録し、報告する義務があります」

――つまり、自分のすべてがマクシミリアン殿下に伝わる。
良くも悪くも、評価の対象として。
それがわかっていても、どうしようもなく苦しかった。
信用されていないような気がしたのだ。

息を詰めるようにして立ち上がり、そっと扉を開ける。
夜気が頬に触れ、冷たく、澄んでいる。
少し歩けば、詰所の裏に人影があった。

リュシアンが焚き火の明かりのそばに立っていた。
帳簿を片手に、外の灯りで記録を取っていたようだ。

「……まだ起きていたんですね」
「仕事の確認をしていました。殿下こそ、どうされました」
「眠れなくて……少し、外の空気を吸おうと思っただけです」

「そうですか」
リュシアンは一度頷くだけで、再び帳簿に視線を落とす。
その冷静な横顔に、思わず口を開いてしまった。

「……リュシアンは、マクシミリアン殿下の命をとても忠実に守っているんですね」
「当然です。あの方の信頼に応えるのが、私の務めですから」
「では……僕は、あなたにとって“見張る対象”なんですね」

リュシアンの手が止まった。
「そうお感じになりますか」
「はい、感じます。あなたは僕に何の感情もない。でも、殿下のために忠実です」

リュシアンは一瞬、言葉を探すように息を吸った。
やがて、視線を上げる。
「私は、あなたを敵視しているわけではありません。
ただ……殿下にとって、あなたが“どんな方なのか”を確かめる任務を負っています」

「確かめる?」
「はい。王太子妃としてふさわしいかどうか、ではなく――
殿下を支える者として、どれほどの覚悟をお持ちかを」

僕は目を伏せる。
焚き火の音がぱちりと鳴る。

「……覚悟なら、あるつもりです」
「では、見せてください。
そのお覚悟を、あなたの言葉で、行動で。
私は、殿下に嘘は報告できませんので」

冷たい言葉。
けれど、ほんのわずかに――心の奥に熱が宿った気がした。

リュシアンは帳簿を閉じて言った。
「夜気が冷えます。お体を冷やさぬよう、お戻りください」

「……ありがとう」
それだけ答えて、小さく頭を下げた。

詰所に戻る途中、ふと気づく。
リュシアンが最後にかけた言葉――
それは業務口調ではあったが、確かに“気遣い”の響きを含んでいた。

もしかして、あの人なりに僕を守ろうとしているのかな……?

ほんの少しだけ、胸の奥があたたかくなった。
それでも眠れぬ夜は長く、僕は毛布を握りしめて目を閉じた。
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