(新章開始)当て馬だった公爵令息は、隣国の王太子の腕の中で幸せになる

蒼井梨音

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当て馬にされた公爵令息は、今も隣国の王太子に愛されている

北への進軍⑩

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灰色の空の下、馬車は進み、被害の大きい村に到着した。
焼け跡の匂いが、まだ土に残っている。
瓦礫のあいだから、焦げた木片や壊れた生活道具が顔を出している。
村人たちはその中で静かに疲れた顔で、それでも礼儀正しく頭を下げた。

「王太子妃殿下……ようこそ、お越しくださいました……」

その声に、僕は小さく微笑んでうなずく。
背後ではリュシアンが同行の者たちに指示を出し、支援物資や治療の手配を淡々と進めていた。

僕は集まった人々の前に立つと、胸の前で両手を組み、静かに祈りの言葉を口にした。
淡い光が手の間から零れ、あたたかい風が村を包み込む。

「どうかこの地に再び光が満ち、皆さまの心が癒やされますように――」

光が収まるころ、村人たちの目には涙が浮かんでいた。
加護は穏やかで優しく、壊れた家の柱にも、傷ついた子どもの頬にも、やさしい温もりを残していく。

「ありがとう、王妃様……」
「殿下のおかげで、きっとまた……」

その言葉に、僕は何度も笑顔で応えた。
けれど、微笑むたびに足が少しずつ重くなっていく気がしてきた。
魔力の使用と、慣れない環境、そして心の緊張――すべてが静かに僕の体力を削っていた。


日が暮れるころ、詰所に戻った僕は、ほっと息をついた。
リュシアンが机の上に帳簿を置き、簡素な夕食の準備をしている。
香ばしいスープの匂いが、疲れた体にしみる。

「……お疲れさまでした、殿下」
「ありがとう。今日は……村の人たちが少しでも笑顔になれて、よかったです」
「殿下の加護は見事でした。あの場の空気が変わったのを、皆が感じていました」

リュシアンの言葉に、エリアスは思わず顔を上げた。
「……褒めてくださるんですね」
「事実を申し上げただけです」
「ふふ……でも、少し嬉しいです」

久しぶりに心がほどけた。
緊張の糸が、すうっと緩む。

その瞬間だった。

スプーンを持った指先が震え、視界がふっと揺れた。
「……あれ?」
リュシアンがすぐに立ち上がる。
「殿下?」

「大丈夫、です……ちょっと、目眩が――」
言い終わる前に身体が傾いた。
リュシアンが咄嗟に支え、そのまま膝をつく。

「魔力の使いすぎと疲労です。……まったく、無理をされる」
リュシアンは眉をひそめ、そっと僕の頬から髪を払った。
いつもの冷静さの中に、ほんのわずか、焦りのようなものが滲んでいるようだった。

「殿下。殿下、聞こえますか」
「……ごめんなさい……すこし、安心したら……眠く……」

そのまま、リュシアンの腕の中で意識を失った。


リュシアンはしばらく無言のまま、胸の奥で深く息を吐く。
帳簿の中の冷たい文字では測れない“人の弱さ”を、初めて目の前に見た気がした。
「……報告には、“無理をされて倒れられた”とは書かないでおきましょう」
リュシアンは低くそうつぶやき、毛布を取りに立ち上がった。



次の朝、まだ夜明けきらぬ灰色の空に、焚き火の煙が細く昇っていた。
湿った土の匂いと、煮出した薬草の苦い香りが漂っている。
薄く目を開け、天幕の布の隙間から差し込む朝の光に瞬きをした。

昨夜の記憶はあやふやだった。
確か、夕食の席でリュシアンに何か言われて――「今日はよく働かれましたね、殿下」――
その言葉に、肩の力が抜けた瞬間、視界が白く染まった。

「……ここは……」
身を起こそうとした瞬間、外から軽い足音が近づき、天幕の布がめくられた。
リュシアンが入ってくる。
手には木の皿と湯気の立つスープ。
普段と変わらぬ無表情だが、その目にはどこか躊躇いがあった。

「お目覚めになりましたか、エリアス殿下」
「……ごめんなさい。昨日は、倒れてしまって……」
「謝ることではありません。むしろ、我々が配慮に欠けておりました」

そう言いながら、リュシアンは手際よく皿を差し出した。
スープの中には乾燥肉と刻んだ根菜。簡素だが、胃にやさしそうだ。

僕は両手で受け取りながら、ふとリュシアンの指先がかすかに震えているのに気づいた。

「リュシアン……もしかして、あの村の件で……夜遅くまで報告を?」
「ええ。記録はすべて終えました。ですが……あなたが倒れられたのは、私のせいかもしれません」

「そんなこと、ないよ」
小さく首を振る。
「リュシアンの言葉で、安心したんだと思う。少しだけ、ほっとしたの」
その言葉に、リュシアンの目が一瞬だけ柔らいだ。
だがすぐに視線を逸らし、硬い声で言う。

「……無理はなさらぬように。あなたが倒れたら、殿下は――マクシミリアン殿下は、悲しまれる」
名前を口にした瞬間、リュシアンの声がわずかに揺れた。
僕は胸の奥がちくりと痛み、微笑を浮かべる。
「そうだね……殿下は、心配性だから」

リュシアンは短く息を吐き、外に視線を向けた。
朝日がようやく山影を越え、金色の光が野営地を照らし始める。

「今日も長い一日になります。――出発の準備が整いましたら、お呼びします」
「ありがとう、リュシアン」

天幕を出ていく背中を見送りながら、そっと胸元に手を当てた。
まだ少しだけ痛む頭を押さえながらも、その胸の奥には不思議な安堵が灯っていた。

少しずつ――信頼が芽生え始めているのを感じていた。

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