薔薇の死神と神殺しの聖女

紺坂紫乃

文字の大きさ
上 下
10 / 14

しおりを挟む



 神は人に非ず。人も神に非ず。
しかし、神格化され神の御座に登った人間を、こう呼ぶ。
――“聖人”と。


 暮れ行くノートルダム橋の上で、想いを交わしたヴィンセントとリリィは、熱が冷めれば急激に襲い来る羞恥心でお互いに顔を逸らした。冷静になってみれば、周囲の視線を否が応にも気になってくる。橋の上を行く者はひやかしで口笛を鳴らす者までいる始末だ。むしろなぜ気にしていなかったのか恥ずかしいことこの上ない。
 リリィを欄干からそっと下ろす。その手はまるで壊れ物でも扱うようだった。

「……帰ろう。ジャンヌも心配しているはずだ」
「うん……」

 頭は冷静さを取り戻すが、胸に灯った蝋燭の炎のような灯りはそのままに、二人は手を繋いでアパルトマンに帰った。
 部屋に一歩入るなり、ジャンヌの雷が落ちる。

「ごめんなさい。もうしません」

「『クラン』の惣領である自覚を持って欲しいわね、リリィ。グランパと違って、貴女の顔と名前は大々的に公表されているのよ!? 世界各国から狙われていると思いなさい。安全第一!!」

「……はい」

 ソファに並んでヴィンセントとリリィは滾々こんこんと垂れる終わりの見えない説教にひたすら謝っていた。殊勝にも謝っていたのはリリィだけだが。ヴィンセントは我知らずと暢気にコーヒーを啜っていたが、それもジャンヌに没収されてしまった。

「……いい度胸ね、貴方。誰のせいでリリィが脱走まがいを起こしたのか、解っていないのかしら……?」

「あー……悪かった」

「謝る時は人の目を見なさい!! ……ったく、もう怒り疲れたわ」

「なら、俺達は引っ込んで良いな。リリィ、風呂入って来い」

「……反省がないのも、ここまで来るといっそ清々しいわね。駄目よ。お風呂の前に、これ、神界から二人に“お仕事”の通達」

 ジャンヌが差し出した見覚えのある白い封書をヴィンセントが受け取る。

「例の神格位不正売買の件か?」

「そ。やーっと主犯が付き止められたの。二人揃っての“お仕事”よ。くれぐれもまた仲をこじらせないでよね。それともう一通――これは“聖女”に」

「青い封筒? 初めて見る」

「そりゃそうよ。これは神界からの正式通達だけれど、あくまで実行に移すかどうかは“聖女”の判断に委ねるという特別任務だもの。中身は“聖女”以外の者は見てはいけないの。――だから、よく考えなさい」

 リリィは青い封筒を受け取ることを躊躇した。“聖女”の判断とは即ち守護神と天使の判断である。彼らには一切の慈悲がない。それでも受け取らざるを得ないリリィは、そっと青い封書を手にした。いつ開けようか、と悩みに悩んだ末、ヴィンセントとジャンヌが寝静まった夜半にこっそりとベッドサイドチェストに入れておいたそれを開いた。
 ある程度の覚悟はしていたつもりであったが、その内容にリリィは内臓が冷え切って行くようだった。

 ――曰く「薔薇の死神ヴィンセント・シルバの神格位剥奪を命じる」



 希望と絶望の相関性を最初に述べたのは誰であったか。それを最初に悟った人類であれ、神であれ、リリィは全力の同意を示したい。
 あの命令書を読んでから、二日後、ヴィンセントとリリィは不正売買案件の任務に就いた。主犯は沈黙の神・ガレオスとニコラス・ウーという人間だった。ガレオスは中位の神であったがゆえに人間に神格位を与えて使い魔を増やすことで、己の勢力拡充を目的としていたという実に単純明快なものであった。

「使い魔が増えると、神格が上がるの?」

「いや、必ずしもそうとは限らない。現に俺の使い魔はハウンドとパンサーだけだ。これは俺の職務性質上では、身軽な方が何かと便利だから少数精鋭にしている。その分、二匹の能力値は高い。だが、反対に自分の勢力範囲を広げて、神界での情報を仔細に把握したい奴は使い魔を多く使役する。――要は役職と好みの問題でもあるから、一概に後者が悪とは判じかねるんだが……ガレオスの場合は手あたり次第、しかも人間を巻き込んでというところと万神庁を通さずに人間に神格位を付与したから罰せられる」

「ふーん……じゃあ、まだ刑罰も軽めかなぁ」

「さてな。匙加減はお前の守護神が決めることだ」

 リリィを肩に乗せて、ヴィンセントはガレオスとニコラスが取引を行っている現場へと直行した。



 現場に到着すると、ヴィンセントは道場破りかと見紛うほどに粗雑な行動をする。扉は足で蹴破り、ちょうど犯人の二人が神界の外れにある亜空間内で話し合っているところを、ニコラス始め神格位を買った人間達を次々と問答無用で薔薇に変えていく。あっという間に亜空間の端に逃げたガレオスの周辺には、見事な黒薔薇の花畑ができた。
 ガレオスはひょろりとした、色白の男だった。とても不正を働いているようには見えず、むしろ大勢の中に埋没してしまいそうな痩身の神である。しかし、不正を働いたのは明らか。
かの神の前には黄金の翼と双眼をした少女が立ちはだかり、彼女は右手を差し出し、口上を告げる。

「沈黙の神・ガレオス、“聖なる白百合”の名の下に神格位の剥奪および煉獄れんごくでの強制労働二百年を命じる」

 一枚の羽根をふっとガレオスに向かって飛ばすと、腰を抜かしていたガレオスは神気を奪われ、一人の人間の青年となった。さらに彼の足元に生じたブラックホールのような渦から発生した鎖に絡めとられ、ガレオスは声を上げることも叶わず、闇の中へと落ちて行った。

「さて、任務は終わった。私と話したいのだろう、死神」

「ほう、バレていたか」

 相変わらず情の籠らない金の瞳は、いつも通りなんの感情もなく、ヴィンセントと相対する。

「リリィには聞かれたくないんだが」

「問題ない。そう思って娘は眠らせてある」

 用意周到なことだ、とヴィンセントは舌打ちを漏らす。こちらの意図などすべて見通しているに違いない。その上で、ヴィンセントの口から話をさせようという姿勢が不快だった。

「我らの正体を知ってなんとする?」

「大事な女の命がかかってんだ。手段を選んではいられない。――率直に聞く。お前達は太古の昔に封じられた双子の天使『メタトロンとサンダルフォン』か?」

 ヴィンセントの威圧も、ただのそよ風のように守護神と天使は微動だにしない。
 反応がなかろうともヴィンセントは問い詰めることをやめなかった。以前、アベルの言葉にグランパは「原初の頃から“聖女”の制度ができた」と答えた。思い返せば布石はいくつも転がっていた気がする。
 確証を持ったのは、やはりラーラ・ファントムの言葉である。“失われた古の神”が示すのが、メタトロンとサンダルフォンならば得心がいく。彼らは神に等しく、また最高神以上の力を持っている天使だからだ。

「答えろ。今、万神庁ではリリィへの神格位の授与が検討されている。もしも、お前達が最高神以上の力を持つ双子の天使だというのなら、神格位を授からないまま任務をこなしていれば、いずれリリィは破滅する。俺はそれを防ぎたい」

「……相も変わらず、お前はこの娘が大事なのだな。愛を知った死神か。実に滑稽だ」

「なんだと?」

「勘違いするな。この『リリィ=アンジェ』は幸せ者だと思ったまでよ」

「どういう」

 意味か、という質問は「クロリスはどこまで話した?」という問いにかき消された。渋面を作りながらも、ヴィンセントはクロリスから得た情報をつまびらかに話した。

「クリスタルの中には確かにメタトロンとサンダルフォンの『身体』が封じられていること。あくまで『身体』だけを封じている、と。その魂の行先まではつきとめられなかったが……」

「だろうな。例え管理を任されているとは言え、花の女神はそれ以上を知る必要がない。――ヴィンセント・シルバ、これが最後だ。これより先を知れば、間違いなくお前は神格位を剥奪されるだろう。現に我々には秘密裏にその命が出ている。……それでも聞くのか? お前が大切にしている娘の手で、お前の存在意義を奪うことになろうとも真実を暴くのか!?」

 守護神の圧力に屈した訳では無かった。怖気づいたはずもない。しかし、この神はヴィンセントの弱みを適格についてくる。彼らの言う通り、死神がなんて様だ。ここまで恋に盲目では、彼らがいう通りなんとも滑稽ではないか。
 ヴィンセントは右手で顔を覆い、腹を抱えて笑い始めた。――愛するリリィを盾に取られては、彼には選択権などない。ましてや、姿形はリリィのままでヴィンセントに詰問するのだから勝敗も何もないも同然だ。

「伊達に何度も任務に同行していた訳じゃないってことか……。俺の負けだ。最高神に勝てるはずもない。中身は違うと解っていても、その顔で詰め寄られちゃあな……俺はこれ以上リリィの心を壊すような真似は、どんな瑣末なことだろうができやしないんだ」
 ずるずると背後の壁とも言えない障壁にヴィンセントは座り込んだ。

 ――しかし、愛おしいゆえに、明確にしておかなければならないことがたった一つだけあった。

 ヴィンセントは項垂れながらも、未来の為にたった一つを問うた。

「なあ……頼む。これだけは教えてくれ。――お前達に憑かれたまま“聖女”の仕事をしても、こいつは天寿をまっとうできるのか? 俺の神格位なんぞ惜しくはないが、それだけが気がかりだ」

 守護神は、座り込んだまま哀しい笑みを浮かべるヴィンセントを見降ろしていた。逡巡するように、口を開いては閉じる。いつも決定事項のように淀みなど一切なく話す彼ららしくない、とヴィンセントは思った。

「……始めからお前の神格を奪う任は放棄するつもりだった。いくら主導権が我々にあろうと、拒む娘の言葉など意にも介さず最愛の父を殺した。我々のせいで生まれながらに傷まみれだったこの娘の唯一の光を。――更にやっと取り戻しかけている心を崩壊に導くことなど、私が実行しようともメタトロンが許しはしまいよ」

「……おい」

「ヴィンセント、君が正しい。――天使は確かにメタトロンだ。そして、私はユダヤの者が『YHWH』と表し、キリスト教信者が『神』と呼び、イスラムでは唯一神『アッラー』とされる者」

「な……おい、それを話せば……」

「神の正体を死神に話してなにが悪い? 都合の良いことに、ここは亜空間。万神庁に届きはしない」

「さっき言ったことと矛盾しているぞ」

「そうだな」

 短い返答の後、守護神はリリィの身体から離れた。金色のもやがリリィの身体から離れ、気を失った彼女を慌てて抱き留める。腕の中を見れば、リリィはすうすうと寝息を立てて眠っている。その無垢な寝顔を靄がそっとなぞる。
 リリィから離れた金色の靄は未だ曖昧なままだ。しかし、徐々に幽体の人の姿を為していく。背中に黄金の羽根を持った天使は、隣の靄に縋りながら怖々ヴィンセントを見つめる。波打つ短い髪は羽根と同じ金色、性別不明の面差しは憂いを帯びていた。

「……メタトロンか」

 天使はこくりと頷く。その所作はどこまでも幼い。

「では、サンダルフォンはどこに居る? お前の隣に居るのは天使ではないのだろう?」

 メタトロンは言葉を発しようとはしなかった。おずおずと無言で眠るリリィを指し示す。

 それがなにを意味するのか、瞬時には解らなかった。しかし、導かれる答えには鉄面皮のヴィンセントも驚愕が隠せない。信じられないと信じたくないが綯い交ぜになったものが、足元からじわじわと浸食してくる。

「ま、さか……!?」

「そのまさかだ。『リリィ=アンジェ』こそサンダルフォンだ。正しくはサンダルフォンだった、だが。ゆえに、この娘に神格位など必要はない。真実を知らない万神庁の若い神々が勝手に論議しているだけだ」

 冗談にしては悪質すぎる。ヴィンセントは笑い飛ばすこともできなかった。そんな彼の愕然とする様子などお構いなしに守護神は話を進めていく。

「真実はすべて“聖女”の右手が示している。“聖なる百合サン・ド・リス”――フルール・ド・リスの三枚花弁は三位一体を表し、白百合は聖母の象徴。神を裁くとは言え、只人ただびとの娘では我らとの融合は不可能だ。ゆえに双子でありながらメタトロンよりもより人間に近いサンダルフォンを最初の“聖女”であるマリアに埋め込んだ。彼女は“聖母”でもあるのだよ。だが、もう時間が経ちすぎた……すでにサンダルフォンの力はなく、我らの受け皿でしかない。――この真実を知っても、まだお前はこの娘を愛せるか?」

 この問いは、ヴィンセントの怒りの琴線に触れた。ヴィンセントの眉が、不快を露わに動く。
「愚問だな。こいつと想いが重なった瞬間の喜びと安息がどれほどか知らねえだろう。――死神が形無しだ。笑いたければ笑え。……もう離してくれと言われても離せない。それほど俺は狂っている」

「熱烈なことだ。ならば、愛してやってくれ……これまでの傷を癒すように」

 ――よかったな、リリィ=アンジェ。

 そう言い残すと、守護神とメタトロンはまたリリィの中に吸い込まれるように消えて行った。

「ん……ヴィンセント。あれ? いつの間に終わったの?」

 まだ眠いのか、目を擦りながら、舌足らずな声でリリィはヴィンセントを見つめ返してくる。その声があまりに間抜けだったのでヴィンセントはようやく安堵を覚えた。

「なんでもない。俺もお前も充分に働いた。――さっさと帰ろう。またジャンヌがうるせえからな」

 額に軽いキスをしてやれば、納得しないようだったが「うん」と答えが返ってくる。

「ああ、リリィ。あの青い封書、破って捨てろ。守護神からの伝言だ」

「え、ヴィンセント……もしかして中身聞いたの?」

「いや。ただ任意なんだろ? なら、敢えて背負う必要はないとさ」

 心なしか、どこか嬉しそうなヴィンセントの様子が不可解だったが、あの封書の内容を実行せずに済むならリリィにとって、肩に乗っていた大きな荷が下りた気分だった。

「夕飯、なにかな!」

「俺は日本で食い損ねたテンプラが食いてえ」

 リリィは飛び跳ねるようにヴィンセントの隣に並んで歩く。他愛もない話ができることが嬉しかった。しかも、ヴィンセントが当たり前のようにリリィを引き寄せて、マントの中に入れてくれるものだから尚更だ。

 ――忘れていた、喜びの日々を少し思い出したように感じた。


続...
しおりを挟む