薔薇の死神と神殺しの聖女

紺坂紫乃

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【番外編】 月光-DIVA-

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 本条ほんじょうゆえは夢を見る。
 決して気持ちの良い夢ではないのに、繰り返すそれは――まるで輪舞曲ロンド


 セーヌ河の水の上を草の匂いを孕んだ風が流れる頃、ある一人の歌手が世界を震撼させた。
ラジオから流れてくるのはシャンソンではなく、英語のポップスだった。

「あれ、おじさん。シャンソン好きじゃなかったっけ?」

 この店の常連であるリリィ=アンジェが小さなオレンジ色のブーケを作って貰っていると、花屋の店主は鼻息も荒く、このポップスについて作業を中断してまで力説してくる。

「え!? リリィちゃん、この歌手を知らないの!? もうネットもリアルも、この日本人歌手の話題で持ち切りだよ!?」

 リリィは、今年十八になったばかりとは言え、世界最大の情報シンジケート『クラン』の若き惣領である。この話題の歌手の正体を知らないはずがない。ましてや、この覆面歌手とはかつてリセで机を並べた仲だ。
 しかし、それも言えるはずがなく「そうみたいだね」と曖昧に言葉を濁す。

「あ、それと頼んでおいたプリザーブドフラワーは、いつ頃できあがる?」

「それなら、早くから注文してくれていたから、もう出来上がっているよ。姫百合とリラ(ライラック)だったね。持ってくるから、待っておいで」

「はーい」

 バックヤードに下がった店主と入れ替わるように、この店を切り盛りしている奥方がにこにこと笑って、リリィに簡易の椅子を差し出してくれた。

「変わった組み合わせだねぇ。旦那様へのプレゼントかい?」

「ううん、これは日本に居る親友へのプレゼントなの。今年は少し特別だから、いつもと違う物にしたくて、かなり悩んだわ」

「そうかい。日本人のお友達なら、きっとこの歌手のことも詳しいかもしれないね。うちの人も年甲斐もなくはしゃいで……恥ずかしいったらありゃしない」

「おばさんは、DIVAのファンではないの?」

「あたしは彼女の声はポップスよりもシャンソンの方が好きなだけさ」

 なんだかんだ言いながらも、しっかり奥方もこの覆面歌手――通称・DIVAディーヴァのファンのようだ。素直に認めない頑固なあたりが、ミーハーなご主人とは対照的で思わず笑みが零れる。
 きっとなんだかんだと言い合いながら、二人でDIVAの音楽を聴くのだろう。和気藹々わきあいあいとしていない様が、リリィにはおかしな話だが二人が重ねてきた年輪が想像できて喜ばしかった。

「はい、お待たせ」

「あ、差し色にピンクのリラにしてくれたのね。嬉しい!」

「いつも贔屓にしてくれているからね。細やかだけれど御礼だよ」

「これ、お代ね。ありがとう、きっと友人も喜ぶわ! じゃあ、また寄らせてもらいます」

 ブーケとプリザーブドフラワーを受け取ると、リリィはアパルトマンへの道を急いだ。



 日本――東京は新宿。JR新宿駅を西に向かうとオフィス街に入る。乱立する巨塔と人の波に紛れ、本条月は西新宿でも一際大きなビルに足を踏み入れた。
しかし、彼女の目的地はここではない。
 このビルを突き抜け、ちょうど真裏に位置する小さな雑居ビルの地下に入って行く。

「こんにちはー」

「あ、月ちゃん。お疲れ様」

 雑居ビルの地下は、秘密基地のように広大で、精密機器で溢れかえっていた。表の荒涼としたビルからは想像ができない。
 ここは桐嶋グループが保有する秘密のスタジオだった。

「白井さん、今日収録予定のデモ聴いてきたんだけどさ。あれ、試しに私のフィーリングで一回だけ自由に歌っても良いかな?」

「今日はまだ二時やし、早めやから構わんけど。送った歌詞は気に入らへんかったん?」

「んー、気に入らなかったと言うか……ちょっとメンバーに聴いて貰いたいのが浮かんでさ」

「ふーん。まあ、いきふんぱついちやったら、俺がどんな手を使っても上に掛けおうたるわ!」

「プロデューサー様々だね。じゃ、もしやっちゃったらA5ランクの神戸牛も追加してよ」

 メインプロデューサーである白井を挑発するように、月は羽織っていたチャコールグレイのロングカーディガンをパイプ椅子に適当に放り投げるとレコーディングスタジオの中に入って行った。
 そしてレコーディングの準備が整うまでに、月は持参したペットボトルの天然水で喉を湿らせ、赤いヘッドフォンを掛ける。そのまま音とも言葉とも取れない発声で喉のチューニングを済ませると、大きなガラス窓の向こうでも複数の人間が機材を弄っていた。

 ものの数分後、白井からOKサインが出される。それを合図に天上から吊り下げられたマイク前に立つと、すうっと月のオッドアイが纏う雰囲気を変える。

「……なんか、今日の月さん、いつもと違いますね」

 思わず、スタンバイを終わらせていたメンバー達の背に氷塊を当てられたように感じた。

「しっ! 始めるぞ。黙ってろ」

 若い音響スタッフの一人が漏らした呟きを白井が諫める。

「じゃ、じゃあ始めまーす!」

 マイク前の月からも「準備ができた」とハンドサインが送られる。

 それを合図に前奏イントロが流れ始めた。イ短調をベースにした切ない印象を与えられる前奏から、月は右手だけでリズムを取っていた。
 前奏を終え、Aパートへの四分の一拍子に息を吸い込み、月がありったけの感情を音に乗せた。

 ――その瞬間、スタジオ内は耳が痛いほどの静寂に包まれた。

 まるで一粒だけ流れる涙のような歌だ。
 この世の哀しみと過去の喜びが絶望に変わる転換を切り取ったような、心臓の痛みを知るメロディ。

『絶望に落ちるなら、なぜ希望を与えた』
『溢れる涙で、その温かい雨で、穢れた私を清めて欲しい』
『死にたい? 違う! 消えたい! ――消して、消して! 汚れた私よ、消してしまえ』

 英語で紡がれる歌詞は感情の奔流だった。いつもの月の透明なのに根幹が強い声ではなく、隠していた――否、吐き出したくても出せなかった気持ちが露呈するような歌い方だった。

『消して――お願い、アナタと共に……お願い』
 
 祈るように手を組んで、願いと同時に曲はフェードアウトしていく。そのか細い声にこの曲の真意が集約されているようだ。
 スタジオからははなをすする音が聞こえた。後奏を終えた月は汗をきらめかせて天を仰いだ。

「ねえ、どうだったー?」

 月は額に汗を浮かべて、ガラス板の向こうにいつもの調子で問いかける。
 その声で止まっていた全員の時間が動き出した。

「お、おい!! 今の、一音の漏れも無く録れてんな!?」

「は、はい!!」

「よし、急いで編集や!! おい、誰か社長と店長も呼んで来い!!」

 慌てて支持を飛ばす白井に、スタッフは思わずたじろぐ。

「な!? 店長はともかく社長も……ですか!?」

「せや。この歌は間違いなくこのプロジェクトの転機になる。今の一発で録ったヤツを、聴いて貰って即プロモーションに入るぞ! しばらく全員、寝る暇もないと思え!!」

 なにやらけたたましいスタッフらをスタジオから呆然と眺めていた月に、白井がマイクで追い込む勢いで問いかける。

「月、もしこれにタイトル付けるとしたら? お前の感性のままの歌や。お前が決めろ!」

「んー……そうだねえ。回りくどいのは好きじゃないし、相応しくない。――Rainだね」

「よっしゃ!! 決定!! プロモーションとジャケット撮影はすぐにスタジオを押さえるから、今日から三日は絶対にいつでも撮影できるように空けとけ!!」

「え!? ハイペースすぎない?」

「約束はA5の神戸牛やったな。社長のゴーサインを意地でももぎ取るから、全員に奢ったるわ!」

 白井の不敵な笑いに、月は口笛を鳴らす。

「豪胆だねえ。良いよ、海外ロケだろうが、無茶なスケジュールだろうが、いつでもなれるようにしておくよ――DIVAに」

 まるで挑発し合っているかのような、歌手とプロデューサーの遣り取りに周りはひやひやしたが、白井はDIVAプロジェクト創設時からのスタッフだ。信頼関係と表現するには、いささか乱暴な気もするが、二人は笑い合っていた。

◇ 

 桐嶋グループ系列である、このレコード会社では社長のことを「店長」と呼び、親会社であるK’sグループの社長を「社長」と呼ぶ。これはあくまでDIVAの正体を極秘としている為の隠語だ。
 白井に呼ばれ、録れたばかりでなんの編集もされていない「Rain」を聴いた店長と社長は共に唸る。お互いにそろりと顔を見合わせ、先に口を開いたのは社長だった。

「……確かに、この迫力はすごいな。いつも飄々ひょうひょうとしている彼女のどこにこんな激情があったのかを知りたいところだ」

「きっとこの歌が表に出れば、今までの彼女の顧客層がガラッと変わるかもしれません。社長が仰るようなインタビューも殺到するでしょう。――これは賭けでもあります。ですが、間違いなく彼女は世界を席巻するんです!! 文字通り、「歌姫」に!! 一切の責任は私が持ちます。お願いします!! この歌を発表させてください!!」

 頭が地に付くんじゃないかと思うような勢いで、白井は頭を下げた。

「では……すぐに重役会議にかけて」

「待っていられません!! さっき、仰られた通り、これはDIVAの激情そのものです!! それに圧倒されたスタッフ達の士気は今が最高潮です!! この波を止めてしまえば、全てが台無しなんです。だから、どうか」

「良いじゃないですか」

 白井の熱意が引き寄せたのか、渋る社長と店長のところに、黒いスーツと鮮やかなブルーのネクタイを締めた青年がにっこりと笑って立っていた。

明光あきてる!!」

「あ、明光さん……!」

 不意の社長令息の登場に、白井と店長は目を丸くする。

「こんばんは。すいません……極秘なのに、こっそり聴いちゃいました。俺は、月がなぜこんな歌を歌おうと思ったのかを知っているんだ。いつか発散させなきゃいけないと思っていたから、絶好の機会だと思うね。今までひた隠してきた架空の歌姫・DIVAを人間にする歌じゃないかな」

「……それもインタビューで来ると思いますよ」

「じゃあこれはオフレコにしてよ。これはね、月の中の一番柔らかい部分だから。それを知っている俺が乗らない訳にはいかないから、白井さんだけじゃなく、俺も責任をうけたまわろう。――さ、社長、ご決断を」

 ただ微笑むだけだと一人の好青年で済むだろう。だが、今の明光は決して「NO」を受け付けない、と空気が物語っている。

「……いいだろう。但し、何一つ妥協は許さない。予算もこの際無視しなさい!! しかし、それだけの成果は出してもらうぞ、良いな?」

「は、はい!! ありがとうございます!!」

 またもや、白井は深々と頭を下げた。それを見た明光が「白井さん、折れ曲がってるって表現が正しいね」と、けたけたと笑っていた。

 そこへ社長――もとい、明光の父が息子に向かって神妙な面持ちで尋ねた。

「明光、お前は月ちゃんの柔らかい部分だと言ったな。ならば、こんな細い糸のような感情を抱える彼女をお前は生涯支えられるのか?」

「父さん。勿論、俺も人間だから最初は戸惑ったし、一度は彼女から逃げた。それは知っているでしょ?」

「ああ……婚約を保留にしたいと言ったのは、何年前だったか……」

「でもね、俺の全身はもう彼女の存在が無いと呼吸もままならない。――これは離れて解った。あの歌に込められた激情を知ったから、俺は婚約を保留にしたことを、今では後悔していますよ」

「彼女の心は……大丈夫なのかね?」

「ええ。歌を辞めない限りは。ああやってDIVAとして、演じた歌じゃない。本条月の歌だということは、俺達だけが知っていればいい。――くれぐれも他言無用でお願いしますよ」

 それだけを言い残して、明光は踵を返した。

◇ 

 月が夜中にうなされ、パニックをおこす寸前で起きることを知ったのは、イギリスで出逢ってすぐのことだった。
 全身が汗だくで、震える自分を抱きしめて、明光と雪の存在を急いで確かめるのだ。

「夢を、見るの……私が、この手で明光と雪を殺す夢。手に感触が残ってる……雪は『私』を見て『御恨み、申し上げます』って言うの。なに、これ……夢なのに、どうして……」

 夜中にそう語る彼女の背を撫でて、水を飲ませて落ち着かせた。
 それを何度繰り返しただろう。
 明光は聖人君子ではない。どんな慰めも彼女には届かなかった。 だから、一年だけ、彼女から離れたことがある。
思い返せば、なんと味気の無い一年だったことか。


 そんな無為な生活を送っていた明光を、とある冬の日、大学の正門前で顔の半分がマフラーに埋もれた雪がガードレールに腰掛けて、彼を待ち伏せていた。記憶している雪よりも、ぐんと身長が伸びて、肩幅がしっかりしていた。だが、姉と同じく、猫のように目を細めて笑う癖はそのままだった。

「ご無沙汰しています。今日、これからご予定はありますか?」

「無いよ。……君たちから逃げた俺を責めに来たの?」

「そのつもりなら、もっと早くに来ていますよ。僕は……今日は誰の為にもならないけど、来ました」

 相変わらず、七つも年下とは思えない話し方をする。そんな意味深なことを言われては、同行せざるを得ないではないか、と内心で明光は雪の交渉術に降参した。

「じゃあ、何をする?」

「そうですね。ひとまずカフェにでも入りましょう。勿論、『サン・ミッシェル』以外の、です」

 二人は大学の最寄り駅にある有名なチェーン店に入った。ちょうど学生で溢れかえっていたので、テイクアウトにして湯気を立てるコーヒーを持って、ぶらりと適当に駅前広場を散策する。

「雪くんは、なんで俺を責めないの? 大事なお姉さんとの結婚に怖気づいた負け犬だよ?」

「ふふっ、明光さんが自分をそんな風にこけ下ろすって事は、まだ姉さんの事を想っているからじゃないんですか? 少なくとも、僕はそう感じます」

 雪の言葉に、舌が回ることには自信があったはずなのに、この時はなぜか反駁はんばくできなかった。

「あのね、姉さんが悪夢を見ること……僕は物心ついた時から知っているので、他人である明光さんが、姉さんの苦しむ姿に耐えられないのも解らなくはない。でもね、姉さんには歌がある。最初は僕への子守歌でした。それが、恋を知り、愛や自然を賛美するようになったのはいつからだろう」

 姉の影響だろうか、雪は歌うように語らう。

「あの悪夢はね、僕は姉の贖罪しょくざいなんだと思っているんです」

「贖罪? 別に、本当に俺達を殺した訳じゃあるまいし……」

「そうです。でも、あれは懺悔ざんげなんです。きっとオーリックのおじいちゃんと同じ。――僕はいつか姉はあれも歌にしてしまうんじゃないかと思っているんです。だって、明光さんが居なくなっても、姉さんは明光さんと初めて弾いた協奏曲を、家で弾いているんです。あの歌詞のない曲を、明光さんが隣でヴァイオリンを弾いているように、ピアノで」

 でもやっぱりピアノだけじゃ淋しいです、と雪は締めくくった。

「雪くんは嘘つきだ。なんだかんだ言って、やっぱり月の為に俺のところに来たんじゃないか」

「いいえ。僕はただ明光さんに伝えたかっただけです。姉は、今でも音楽を辞めていないこと。それとまだ心は明光さんに向いていることを」

 それ以上の言葉は必要なかった。雪が別れを告げようとするのを遮って、足は一人暮らしのボロアパートではなく、『サン・ミッシェル』に向いていた。隣を歩く雪と同じ歩調で――。

 雪に誘われるまま、『サン・ミッシェル』の厨房の奥に着いたら、あの誰もの魂を震えさせる歌声が聴こえてきた。
 どうやら最低限の防音をした上で、月が今はここで歌っていることを知る。

「ただいま。迷い犬が付いてきちゃった」

「は!? 元の場所に捨ててきな……って、あれ?」

 きょとんと目を丸くする月を見て、明光は「わん」と吼えてみた。

「なんだ、元気じゃん」

 月は、ニヒルに笑う。どうやら心配は不要だったようだ。

 ――そう思ったのに、はらはらと彼女は唐突に涙を流した。

「あは、良かった……元気、で……」

「ごめん、月……本当に、ごめん……!」

 勢いのままに、彼女を抱きすくめる。ところが「よっこいしょ」と言いながら、雪まで明光の腕の中に入ってくるものだから、笑いがこみ上げてくる。

 ――あの日から、また三人での暮らしが始まった。



 「Rain」は、リリースと同時に世界に波及した。事務所やレコード会社には国内外問わず、覆面歌手についての質問や問い合わせが殺到し、連日、応対の会社員は鳴り止まない電話と戦っていた。

 そんな社員達を尻目に明光は、くだんの「Rain」を手にする。

「ジャケットのさあ、この変装がムッシュウ・ヴィンセントを思い出すよね」

「そうかな? 黒髪だからでしょ」

「なんで全身真っ黒にしたんだよ? 目隠しは解るけど」

「黒は喪の色でしょ。私の気持ちが昇華されたから、ご供養にと思ってスタイリストさんに提案したの」

 なるほどね、と明光はすっきりとした月の横顔を見つめる。
 だが、彼女は突如スマートフォンを取りだす。

「ちょっとリリィに電話してくる。約束してたの、ヴィンセントの名前を聞いて思い出した」

 明光が止める間もなく、月は颯爽と外に出て行った。

「ま、いっか。ゆっくり行こう」

 明光は、空に一筋の飛行機雲を見つけて呟いた。


 ――あのね、笑い飛ばせるようになったから聞いて欲しいの。
 ――私ね、夢を見ていた。とても、辛い夢。

 遠い異国に居る親友は、相槌を打ちながら耳を傾けてくれる。その心地よさに酔いしれながら、月もまた空の飛行機雲を見ながら話し続けた。


end...
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