薔薇の死神と神殺しの聖女

紺坂紫乃

文字の大きさ
上 下
13 / 14

【番外編】 幻想曲(ファンタジア)

しおりを挟む
 
 ――今となっては、眩しい宝の日々。

「アベル!!」

「あ、ヴィンセント。お疲れ。今日は胡桃くるみとビターチョコのガレットだよ」

 パリのシテ島のアパルトマンに、黒ずくめの死神が現れた。その兄は暢気なことに、グランパとジャンヌ手製のおやつに舌鼓を打っていた。

「てめえ……毎度毎度、下界の偵察の度に、ここに入り浸ってるじゃねえか!!」

「だって、僕の仕事なんて君の使い魔が終わらせてるもん。それに、今日は二週間ぶりだよ」

 口下手な弟と違って、舌が回る兄はガレットを摘まむ手を止めず、怒り心頭の弟におやつを差し出す始末だ。シルバ兄弟のこの不毛な遣り取りも、グランパ達からすれば慣れたものである。
 力が強い弟に対して、力の弱い兄は頭が回る。対照的だが、実に面白い兄弟である、とグランパは考えている。

「まあまあ、ヴィンセント。お前さんも久しぶりじゃ。仕事終わりなんじゃろう。ゆっくりして行け」

「……あんたらが甘やかすから、うちの能天気が調子に乗るんだがな……」

 恨めしそうにグランパ達を睨むヴィンセントなどお構いなしに、アベルはガレットをヴィンセントの口の中に放り込んだ。

「ね、美味しいよね!」

「てんめえ!!」

「はい。口に物が入っている時は喋らない」

 弟を掌の上で転がすアベルは、心底楽しそうだった。兄に反論するために必死に口を動かす弟の様子を見ながら、アベルはもう一つのガレットを手にし、その場から動く様子はない。

「僕、今日はジャンヌに料理を教えて貰うんだあ。ところで、何を作るの? 僕、魚が食べたい」

「良いわよ。初心者には簡単なニシンのグリルと根菜のサラダ、あとはじゃがいものポタージュにしましょうか」

「美味しそう! ……ってなわけで、ヴィンセントは味見してよ。僕の初料理を神界まで持って帰ってたら冷めちゃう」

 やっとのことでガレットを飲み下したヴィンセントは顔をしかめる。

「できるまで書斎に居たら良いよ。君の好きそうなミステリー小説、たくさん揃ってたよ」

「おい!! 勝手に話を進めるな!」

「決まりだもーん」

 鼻歌を歌いながら、アベルはジャンヌと共に買い出しに行ってしまった。無情にも立ち尽くすヴィンセントを余所に扉はパタリと閉まる。それを見たグランパは肩を震わせていた。

「ヴィンセント、諦めい。アベルの方が一枚上手じゃよ」

 グランパに諭され、ヴィンセントは納得がいかないとばかりに、椅子の足を蹴った。

「……兄貴はいつもこうだ。力が弱いくせに、俺を振り回す」

「力が弱いからこそ、あの子は知恵を身に付けて応用するんじゃよ。振り回されるお前さんには気の毒じゃが、儂らはお前達兄弟を見ていると楽しくて仕方が無い」

「人を笑いものにすんな」

 そう言い捨てて、ヴィンセントはグランパの書斎に勝手にずかずかと入って行く。悔しいことに、アベルの言う通り、ここには両面の壁にぎっしりと本が詰まっている。分野も多岐に渡り、小さな図書館には負けないくらいに揃っているので、退屈はしなさそうだ。なにもかもが兄の言葉どおりに運ばれているのが無性に腹立たしい。ヴィンセントは苛立ちを治めるために、棚から一冊の小説を取り出した。
 適当に手にしたはずの小説はシリーズものだったようだ。心を鎮めるために読み始めたはずが、気がつけばのめり込んで、時を忘れていた。料理ができた旨を伝えにきたアベルの声で、ヴィンセントは現実に帰ってきた。

「だから言ったでしょ。君の好きそうなのが揃ってるって」

「……うるさい」

 不覚だ。結局、小説は現実と虚構がうまく入り混じった作品で、舞台もフランスだった。そのせいか、余計に集中して読んでしまった。

「……グランパ、あの本は未完なのか?」

「いや。あのシリーズは完結しておるが、スピンオフが出ておる。いつでも読みに来るといい」

 グランパは笑うと目が白い眉に埋もれてしまう。ヴィンセントは「また読みにくる」と短く答えて食卓についた。
 初めて料理を作ったとは思えないほど食卓は賑やかだった。ジャンヌの指導が上手いのだろう。彩りも豊かで、粗びきのブラックペッパーが効いたサラダはドレッシングまで手作りだった。

「アベルは手際が良いのね。頭も良いから、全部を言わなくても伝わるし、教える方も楽に済んだわ」

「ヴィンセント、美味しい?」

「普通に食える」

「なんで美味しいって言えないのかなー。この口は」

 素直に認めるのがしゃくだったからだとは言えない。隣から頬をつねってくる兄の手を叩いて食事を進める。グランパとジャンヌも食事を進めながら微笑ましい兄弟喧嘩を眺めていた。この日の食卓はとても華やいでいた。


 
 本格的に寒波が押し寄せた冬の日。
 人間でも無いくせに、アベルはわざわざ人間界で短期間のアルバイトをして羽毛百パーセントの黒いダウンジャケットと紅いマフラーを買った。ジャンヌに頼まれた買い物を二人で肩を並べて市場に向かっていると、ヴィンセントよりも厚着をしているくせに「寒い」とぶちぶち文句を垂れていた。

「ジャケットの中にもセーター着込んでんだろ。いい加減、うるせえぞ」

「寒いものは寒いもん!! 僕はそんなペラペラの革ジャケットだけの君の方がおかしいと思う」

 そんな言い争いとも言えない些細なぶつかり合いをしながら、シテ島とサン・ルイ島を結ぶ橋の上に差し掛かると、露店で焼き栗が売っているのを発見する。

「あ、ヴィンセント! あれ、食べよう!」

「はあ!? 帰ったら飯……って、待て!」

 ヴィンセントが制止する間もなく、さっきまでダンゴムシのように縮こまっていたアベルは露店の親父から一抱えほどもある焼き栗を買って戻ってきた。

「お前……この量を食うのか!?」

「そんなの無理だよ。君とグランパとジャンヌの分も含めてに決まってるじゃない。これを食べるとフランスの冬を感じるね」

 ほこほこと湯気がたつ黄色の栗を次々と口に放り込みながら、アベルは実に幸せそうに栗を食べ進めて行く。途中、無理やりヴィンセントの口に放り込みながら「ふふっ」と笑う。僅かに塩気のきいた栗は確かに美味かった。
 結局アパルトマンに帰り着く頃には、半分が二人の胃に消え、残りはジャンヌが細かく砕いて簡単なマロンソースにしてくれた。正直に言うと、もう固形物は飽きていたヴィンセントにとって、これはとてもありがたい。膨らむ胃に辟易へきえきして、ソファに沈み込むとうとうととしてくる。

「あれ? ヴィンセント、寝ちゃったのかぁ」

「態度がでかい割に、変なところで子供よね。待ってなさい。ブランケット持ってきてあげる」

「お前さん達は仲が良いのお」

「そうなのかな。僕がヴィンセントを振り回しているんだよ。こう見えて、この子は情に篤いから……たぶん、僕が死神でヴィンセントが雑務役だったら、きっと僕はこの子以上に残酷に人を殺す気がする」

 これはグランパからしてみたら意外な発言だった。アベルの真意が掴めず、目を丸くしていると彼は困ったように笑った。

「罪人であれ、土に還れるように薔薇に変えてやるなんてさ、優しさだと思うんだ。僕にはできない。だから僕は今のままで良かったなぁって。ヴィンセントは僕の自慢の弟だから」

 茶色い起毛のブランケットを肩までかけてやりながら、アベルは物語を読むように語った。

「儂は、お前の優しさが恐ろしいよ。いつかそれが命取りにならんかとな。ヴィンセントは自衛の手段も力も持っておるが、お前さんは違うじゃろう」

「僕? うーん、そうだね。じゃあ、グランパが心配にならないように長生きしなきゃ」

 そう、闊達かったつに笑っていた青年の、あの惨たらしい最期を誰が予見できたことだろうか。


  
 音程の狂った奇怪な曲でヴィンセントは目が覚めた。

「おい……目覚ましにしては最悪だぞ」

「えー、ねぼすけが早く起きるようにわざわざ歌ったんだよ」

「確信犯かよ」

 アベルは音楽が苦手だった。聴く分には良いのだが、歌わせるとお世辞にも上手いとは口が裂けても言えないくらい下手なのだ。音痴を自覚していながら弟に聴かせる辺り、性格の悪さが露見する。

「なに歌ってたんだ?」

「グリーンスリーヴス幻想曲」

「ああ、あの不倫が題材のイギリス民謡か」

「そうなの? 起源とかはよく知らないなあ」

「じゃあ、なんでその曲を選んだんだよ」

 起き抜けに珍妙な曲を聴かされた上に、まだ頭がぼんやりしているヴィンセントはアベルに問うた。

「単に好きだからだよ。音楽ってさ、楽譜との対話なんだって、誰かが言ってた。作曲者が一音に込めた意味を考えて……典型的なのはラヴェルのボレロかな。あれって、同じメロディの繰り返しで、しかもラヴェル自身がものすごく神経質な性格だったから、きちんと演奏すれば二十分ぴったりで終わるんだって」

「ラヴェルはお前と対照的だな」

「上手いこと言うね。そんなボレロも嫌いじゃないけど、僕はもっと人間臭い感情まみれの曲の方が好きだなあ。スメタナとかベートーヴェンとかさ。さっきのグリーンスリーヴスは道ならぬ恋だけど、幻想曲は作曲者が自由に造った曲なんだよ。僕はそういうところが好き」

 ヴィンセントは、グランパのコレクションである古いレコードを弄る兄の背中を見ながら「なぜ、こいつは人間に生まれなかったのだろう」と考えた。すぐに徒労に終わることを覚り、ソファから起き上がった。ダイニングと違う方向へと、のろのろと進むヴィンセントの背にアベルが問いかける。

「あれ? もうすぐご飯だよ?」

「顔を洗ってくる。まだ頭がぼうっとしてる」

「君の場合は働き過ぎじゃない? もっと眠っていても良いのに」

「誰かさんが仕事をしてくれたら、俺の負担も減るんだがな」

「そっか。じゃあ誰かさんにも頑張って貰わないとね」

 嫌味すら華麗に流される。ヴィンセントは起き抜けでよかったと思った。そうでなくば、また勝ち目のない言い争いが始まるからだ。アベルはヴィンセントが怒っていようがいまいが、歯牙にもかけない。昔から、この兄に勝てたことなど一度もないのだ。
 なにか一つでも兄に勝ちたいと思ったことは無かった。それ以前に、同じ土俵にいるとすら思っていなかったからだ。だが、兄は誰の心にも残る存在だった。自分勝手にやっているように見えて、その実、彼の行動はすべて「誰かの為」に起因する。あの料理も、焼き栗も、自分が欲しいというのも嘘ではないにしろ、ヴィンセントが――弟が一緒だったから、弟に食べさせたいからの行動だったのではないか。突飛に見えて、ちゃんと計算されている。
 
――兄はそういう人物だった。



 リリィを保護してからは、アベルは前にもまして、人間界で過ごす時間を長く取るようになった。その経緯を知っているので、ヴィンセントは何も文句を言わなかったし、アベルが居た方がリリィの傷ついた心身には最良の薬だと思ったから、多少のサボりも黙認していた。
 神界ではアベルの陰口をちらほらと聞いたが、それはヴィンセントが抑止力となっていた。ヴィンセントとて、あの傷だらけだった少女が、日に日に笑顔を取り戻す姿が可愛くて仕方がなかったからだ。
 その日は、偶然にも二人揃って神界での仕事を終わらせた。時計を確認すれば、時刻も午後二時ちょうどを指していた。

「ねえねえ、今日は二人で一緒にリリィのお迎えに行こう」

「一人で良いだろう。俺はグランパのアパルトマンで……」

「だめ!! 今日は二人で行くの!」

 アベルの気迫に押し負けて、ヴィンセントは不承不承ふしょうぶしょうリセの正門前に立った。

「アベル! ヴィンセント!」

「おかえり、リリィ」

「今日は三人なの? じゃあ、アレに挑戦できるね」

「……おい、アレってなんだ……」

「ふっふふー、『サン・ミッシェル』に到着してからのお楽しみだよー」

 嫌な予感……、と思いつつも、ヴィンセントはリリィを真ん中にして、三人で手を繋いで『サン・ミッシェル』に向かった。

 扉のカウベルが軽快な音を奏でる。それに呼応するかのようにアベルも陽気に入って行った。

「ボン・ジュール」

「おや、今日は三人かね? 珍しい」

「うん!! アレに挑戦しようと思って、戦力に弟も連れてきたの。だから、よろしく!」

「ほほ、解ったよ。では、儂も腕によりをかけるとするかね。適当に座って待っておいで。飲み物だけ訊いておこうかの」

 リリィはオレンジジュース、アベルはアールグレイのミルク、ヴィンセントはアッサムのストレートを注文して、「アレ」とやらを待った。どうせ碌でもないと考えて、諦めているヴィンセントに対して「リリィ将軍、準備は万端ですか?」「ウイ、アベル大佐」などと二人はくだらない寸劇で遊んでいる。
 ほどなくして、アラン翁と孫のベルナールが二人がかりで持ってきた巨大なプレートに盛られた小山のような物体を見て、ヴィンセントは息をのんだ。

「……なんだ、コレ……」

「『サン・ミッシェル』スペシャルメニュー、特盛プディング・ア・ラ・モードとクレーム・ド・アンジュおよびグラス(アイス)の盛り合わせ」

「いつか挑戦しようね、ってアベルと約束してたの。やっと念願が叶って嬉しい!」

「これを食べている間は、飲み物は飲み放題なんだよ。――さ、いざ参らん!」

「いっ……ま、待て!」

 先刻のアベルとリリィのくだらない寸劇の意味がようやく解った。しかし、この四人掛けテーブルの三分の一を占拠するバケモノデザートには、さすがのヴィンセントもひるんだ。だが、二人は真剣な表情で食べ進めていく。いつもなら、ダラダラとお茶をしながら、おやつを摘まむ程度なのに、今日は本気だ。二人とも一言も話さず、長いスプーンを動かし、黙々と食べていく。

「ヴィンセント、早く! グラスが溶けちゃう!」

 バケモノデザートに圧倒されているヴィンセントをアベルが急かす。ままよ、と決意したヴィンセントは二人と同じく長いスプーンで皿に挑んだ。
 最初はハイペースに食べ進めていた三人だが、十五分、二十分と経過する内に徐々にペースが落ちていく。皿の上の量に比例して、三人がスプーンで掬う量も減って行った。
そうしてちまちまと食べ進めた結果、三十分かけて完食し、三人してテーブルに突っ伏した。

「おお、食べきったのかい。ほい、奨励賞じゃよ」

 屍のようになっている三人に、アラン翁から青いラインで縁取りされた箱が贈られた。

「や……やったあ。これの為に挑戦した甲斐があるってもんだよね……」

 アベルがよろよろと箱を受け取る。三人の姿を見て、アラン翁とベルナールが、からからと笑っていた。

「うぷ……奨励賞って、なんだ?」

「帰って開けたら解るよ……グランパ達へのお土産にしよー……」

 しばらくの休憩の後、三人は『サン・ミッシェル』を後にした。あれだけ食べれば、夕飯は要らないかと思いきや、塩気の物に飢えていたのか、三人とも夕飯はしっかりと食べていた。胃もたれしない辺り、さすがアラン翁のスイーツである。
 夕食後のコーヒーを飲んで一服していると、思い出したかのようにヴィンセントが切り出した。

「で、あの箱の中身はなんなんだ?」

「あ、そっか。開けなきゃ!!」

 リリィが自分の顔よりも大きな箱を、リビングのテーブルの上に置いて開封すると、中からはワンホール分のきつね色のアップルパイとエクレア、そしてミニクロワッサンが六つ入っていた。

「きゃあ! 美味しそう!」

「おお、相変わらず見事な仕事ぶりじゃな」

 箱の中身を見て、グランパとジャンヌは破顔する。ジャンヌに至っては、いそいそとアップルパイを切り分けに入った。その様子を見て、アベルとリリィは笑顔を見合わせる。

「なんだ? あんた達二人もアラン爺さんのファンか?」

「ヴィンセントは知らんのか。アラン・オーリックと言えば、かつてスイーツ界の賞を総ナメにした天才パティシエじゃよ。パティシエールの世界では、アップルパイ、エクレア、クロワッサンの三つでその店の程度が知れるというほどでな。実際アラン・オーリックに弟子入り志願する者は、今でも海外からであろうが、ひっきりなしに来るそうじゃ」

「……あの爺さん、スイーツ界の重鎮だったのか……!」

 道理で、あの店は競合が激しいカルチェ・ラタンにあっても客が途絶えることは無く、繁盛しているはずだと、ヴィンセントはジャンヌから差し出された熱いブラックコーヒーを飲みながら思考を巡らせる。

「だから、あの三点セットは朝一で並んでも買えないんだ。それなら、いつかあのスペシャルメニューを食べきったら、ワンセット頂戴って、リリィと一緒にアランさんに頼んでたんだよ、ね」

「うん、やっと念願叶ったね。ヴィンセントも協力してくれてありがとう!」

 アベルの膝に乗りながら満面の笑みをリリィから向けられては、甘い物がそれほど得意でないヴィンセントだが、食べきった甲斐があるというものだ。
 ジャンヌはさっきからアップルパイを一口食べるごとに頬を押さえて叫びそうなのを抑えているし、グランパもミニクロワッサンを嬉しそうに頬張っている。その様子を見ていたら、今日のことも良しとできる気がした。なにより、アベルとリリィが満足そうだ。死神がなにを甘いことを、と神界の連中に聞かれたら後ろ指を指されそうだが、所詮彼らの耳には届くまい。
 ヴィンセントはまた一口、やや冷めたコーヒーを飲んだ。砂糖の入っていないブラックコーヒーなのに、なぜか僅かに甘さを感じたのは気のせいだろうか。



 昔話に花が咲くのは、夜の帳が下りる頃。リリィの知らないアベルとの日々を語るヴィンセントの低い声は夜陰に溶けてしまいそうだ。一向に眠気が来ないので、話し始めたらいつの間にか、口が重かったヴィンセントはアベルとの思い出まで語り聞かせてくれた。
まだ記憶に新しい『サン・ミッシェル』での一件に、ベッドで並んで寝転がっていたリリィは、思わずくすくすと笑った。

「そう言えばあったね。『サン・ミッシェルの挑戦』ってアベルと名付けてたんだよ」

「……俺は、なにも解らないまま拉致された気分だった」

 『サン・ミッシェル』は残念ながら日本に移ってしまったので、もうあの挑戦はできないが、今でも色鮮やかな思い出の一つである。後にも先にも、三人で『サン・ミッシェル』に行ったのは、あの一度きりだけだからかもしれない。
 リリィはベッドチェストに置いてあるオルゴールを開いた。夜のしずやかな空気を緩慢に震わせる音楽がゆっくりと流れだした。

「グリーンスリーヴス幻想曲か」

「うん。リセへの入学祝いにアベルとグランパがお祝いにくれたオルゴール。私もこの曲の意味なんて知らなかった。あの頃の私は、アベルが世界のすべてだったから……彼が好きだったこの曲を選んだ。アベルが好きな物が好きだった。自分の意思っていう大切な物が無かったんだろうね。でも、今でもこの曲は好きだよ」

 リリィは天板に刻まれたアベルとグランパのメッセージをそっとなぞる。

『――愛しい百合の幸福を切に願わん』

 羽根のようなタッチで天板をなぞるリリィに、ヴィンセントがそっと口を開いた。

「お前とアベルはある意味で似てる。頭が良くても心が付いてきてないところが。あいつは大人になっても変わらなかったが、お前はもう自分の脚で立てる大人になった。幼い子供の世界が親でいっぱいだなんて普通のことだろう。なにも卑下することじゃない」

 オルゴールのような儚い声が耳に心地よい。リリィはもそもそと布団の中を移動して、ヴィンセントに抱き付いた。彼もゆるりと、リリィの細い身体を引き寄せる。

「どうした?」

「ううん、アベルは結婚した私達をどう思っているのかな、って」

「……娘を盗られたとか泣いてそうだが」

「あはは! うーん、なんでだろう? いつの間に好きになってたのかな。もう解んないや。でも、みんなが私を小さなリリィと言って愛情をくれたけど、ヴィンセントだけは出逢った時から変わらずに対等にいてくれた。だから惹かれたのかもしれない」

「なあ、リリィ、今のお前は幸せか? あいつが願うのは、きっとそれだけだ」

「えっとね、なんて言ったら良いのかな?」

 ――パパ。私ね、言葉にできないくらい……幸せなの。

end...
しおりを挟む