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「えっ……?」
扉をくぐる瞬間、太っちょの黒服がすれ違いざまに『青春ねェ?』と口にした……ような気がした。
女?
いや男だ。
低くて柔らかな声が女言葉を使っている。
「わ……!」
店内へ入ったシアンは目を白黒させて縮こまる。
ここはそういう店らしかった。
暗い店内でまばゆく光るシャンデリア。その虹色の影を受け止める濃紫の、雲を踏むような床。酒と煙草と香水のにおい。音楽。鼓膜が破れてしまいそうなほどの喧騒。
男と女と、それ以外。
「ちょっと! どいてちょうだい!」
「あっすっすみません!」
「ボーッと突っ立ってちゃ危ないわよオニーサン!」
丈の短いウェイトレスドレスをまとって酒を運ぶのは、首も、腕も、脚も太い……男だ。男が女の格好をして給仕している。向かって右側のステージにも同様の男たちがいた。
赤いフリルドレスとピンヒールで踊り、ダチョウの羽飾りを揺らし、男を誘う曲を歌う男たち。
——すごい、圧巻……!
そしてシアンは安心してもいた。確かにここでは自分の声など取るに足らない。
「奥の席だ、行けシアン!」
喧騒に負けない声がシアンの耳に届く。そうだ、奥だった。ライナスの声はまるで戦場での命令のようにシアンの足を進ませる。
——奥、奥、奥!
入って左側の客席を横切り、どんどん進む。
右側中央には舞台から伸びる花道と、その先に円形の小さな舞台があった。中央には鉄製のポールが一本立っている……あれはなんだろう。
——よそ見をしてる場合じゃない!
シアンの長い足はずんずんと奥へ突き進み、そして到達した。半円形の卓がふたつ。そこを囲むようにしてあるソファに、見知ったばかりの初老の男女数人が腰掛けている。
「あ、あの……」
彼らはシアンにとんと無関心だ。ステージの上の華やかな男たちに夢中になっている。シアンは胸元でぎゅっと手を握った。その拳で、胸を叩く。
どッ——声が出る。
「っ、あの!」
「おや、キミは。ゲルファンデ君のとこの」
シアンの勇気の一声は功を奏した。近くにいたてっぺんハゲの紳士と、その隣の二人の淑女が振り向いたのだ。一度に三人も! シアンは勢いのまま声を出し続ける。
「は、はい! はじめましてっ、画家の——」
シアン・ヴェールです。スケッチブックを見てください。それだけ、それだけだ、大丈夫、声が出たなら言えるはずだ。さっきも『オニーサン』と言われたし大丈夫、落ち着いて、おちついて——
「シアン・ヴェー……」
「ちょっとキミ、どいてくれんかね。何か始まるようだよ」
「あっ……す、す、す、すみません」
最悪だ。舞台が暗転した。さっきまでは見えていた老紳士の顔すらもう見えない。客席側の喧騒は消え、音楽も止まっている。半円形の卓とソファの後ろにはそれより簡素な円卓と椅子があってどこも満席だ。普通席、といったところだろう。
シアンは体を縮めてしゃがみこむ。この静かな空間で、パトロン候補の目の前で、邪魔だと怒られる事だけは避けたかった。
暗がりに光が灯った。月明かりのような青白いピンスポットライトが、花道の先の小さな円形舞台だけを照らす。
キィ——————…………
ヴィオラの音が、か細い悲鳴のように響く。
シアンは息を呑んだ。
誰かが音もなく現れた。スポットライトの中、けぶるように豊かな赤い長髪。さっきまでの派手さと一変した白い薄布一枚だけの衣装。そこから覗く、大きく、筋肉質で、しかし無駄のない体。
ぺたり、ぺたり。裸足の足音だけが響く。
その人はただポールの横に立ち、前を見据え。
——びっくりした。
目が合った……ような気がした。そんなはずはない。シアンは鼻から上を髪で覆っているし、会場は暗くて客のひとりひとりと目を合わせられるようにはなっていない。しかしその人はゆっくりと視線を動かし、会場を見渡す。
目が離せない。きっと会場にいる誰もがそうだ。
そう思わせるだけの静かな圧力が、その人自身から発せられている。
彼が、あるいは彼女が太い喉をのけぞらせて天を仰いだと同時に、ヴィオラがまた響いて店内を包む。さっきまで騒がしかった観衆が、今は水を打ったような静けさだ。その人は両腕をポールに絡め、そこだけ重力などないかのようにふわり、足が地面に平行に浮く。
つま先までぴんと弓なりに伸ばされた白い足は、小さな舞台よりも大きく円を描いて一周して降ろされた。でも床には決してつかない。かと思えばまたふわりと浮き上がり、今度は両足を交互に動かして水の中を優雅に歩いているようになる。
柔らかで優雅な動き。魚のよう。青白い月光に照らされて夜を泳ぐ赤と白の大きな魚。誰も彼もが張り詰めた空気の中で、その人だけはまるで意に介さず、見えない水中を楽しむかのごとく泳ぎ続ける。
回り、浮き、また回って。
「あ……」
視線が突然、また観客に向けられた。その瞳は観客を見ているようでどこがもっと遠くを懐かしげに見据えている気もする。赤い唇がやわらかな弧を描き、やがてゆるやかにまた動き始めた。
シアンは見惚れた。燃えるような赤髪がなびいている。よく見れば薄緑色のグラデーションがついた薄布はヒラヒラと心許なく揺れていて、まさに魚の尾びれのようだ。
そのうち彼は両足をポールに絡めて交差した。
その瞬間、両腕がポールから離れる。自由になった上半身が、急に重力に引っ張られて、逆さに、
——落ちる……!
「ひっ……!」
扉をくぐる瞬間、太っちょの黒服がすれ違いざまに『青春ねェ?』と口にした……ような気がした。
女?
いや男だ。
低くて柔らかな声が女言葉を使っている。
「わ……!」
店内へ入ったシアンは目を白黒させて縮こまる。
ここはそういう店らしかった。
暗い店内でまばゆく光るシャンデリア。その虹色の影を受け止める濃紫の、雲を踏むような床。酒と煙草と香水のにおい。音楽。鼓膜が破れてしまいそうなほどの喧騒。
男と女と、それ以外。
「ちょっと! どいてちょうだい!」
「あっすっすみません!」
「ボーッと突っ立ってちゃ危ないわよオニーサン!」
丈の短いウェイトレスドレスをまとって酒を運ぶのは、首も、腕も、脚も太い……男だ。男が女の格好をして給仕している。向かって右側のステージにも同様の男たちがいた。
赤いフリルドレスとピンヒールで踊り、ダチョウの羽飾りを揺らし、男を誘う曲を歌う男たち。
——すごい、圧巻……!
そしてシアンは安心してもいた。確かにここでは自分の声など取るに足らない。
「奥の席だ、行けシアン!」
喧騒に負けない声がシアンの耳に届く。そうだ、奥だった。ライナスの声はまるで戦場での命令のようにシアンの足を進ませる。
——奥、奥、奥!
入って左側の客席を横切り、どんどん進む。
右側中央には舞台から伸びる花道と、その先に円形の小さな舞台があった。中央には鉄製のポールが一本立っている……あれはなんだろう。
——よそ見をしてる場合じゃない!
シアンの長い足はずんずんと奥へ突き進み、そして到達した。半円形の卓がふたつ。そこを囲むようにしてあるソファに、見知ったばかりの初老の男女数人が腰掛けている。
「あ、あの……」
彼らはシアンにとんと無関心だ。ステージの上の華やかな男たちに夢中になっている。シアンは胸元でぎゅっと手を握った。その拳で、胸を叩く。
どッ——声が出る。
「っ、あの!」
「おや、キミは。ゲルファンデ君のとこの」
シアンの勇気の一声は功を奏した。近くにいたてっぺんハゲの紳士と、その隣の二人の淑女が振り向いたのだ。一度に三人も! シアンは勢いのまま声を出し続ける。
「は、はい! はじめましてっ、画家の——」
シアン・ヴェールです。スケッチブックを見てください。それだけ、それだけだ、大丈夫、声が出たなら言えるはずだ。さっきも『オニーサン』と言われたし大丈夫、落ち着いて、おちついて——
「シアン・ヴェー……」
「ちょっとキミ、どいてくれんかね。何か始まるようだよ」
「あっ……す、す、す、すみません」
最悪だ。舞台が暗転した。さっきまでは見えていた老紳士の顔すらもう見えない。客席側の喧騒は消え、音楽も止まっている。半円形の卓とソファの後ろにはそれより簡素な円卓と椅子があってどこも満席だ。普通席、といったところだろう。
シアンは体を縮めてしゃがみこむ。この静かな空間で、パトロン候補の目の前で、邪魔だと怒られる事だけは避けたかった。
暗がりに光が灯った。月明かりのような青白いピンスポットライトが、花道の先の小さな円形舞台だけを照らす。
キィ——————…………
ヴィオラの音が、か細い悲鳴のように響く。
シアンは息を呑んだ。
誰かが音もなく現れた。スポットライトの中、けぶるように豊かな赤い長髪。さっきまでの派手さと一変した白い薄布一枚だけの衣装。そこから覗く、大きく、筋肉質で、しかし無駄のない体。
ぺたり、ぺたり。裸足の足音だけが響く。
その人はただポールの横に立ち、前を見据え。
——びっくりした。
目が合った……ような気がした。そんなはずはない。シアンは鼻から上を髪で覆っているし、会場は暗くて客のひとりひとりと目を合わせられるようにはなっていない。しかしその人はゆっくりと視線を動かし、会場を見渡す。
目が離せない。きっと会場にいる誰もがそうだ。
そう思わせるだけの静かな圧力が、その人自身から発せられている。
彼が、あるいは彼女が太い喉をのけぞらせて天を仰いだと同時に、ヴィオラがまた響いて店内を包む。さっきまで騒がしかった観衆が、今は水を打ったような静けさだ。その人は両腕をポールに絡め、そこだけ重力などないかのようにふわり、足が地面に平行に浮く。
つま先までぴんと弓なりに伸ばされた白い足は、小さな舞台よりも大きく円を描いて一周して降ろされた。でも床には決してつかない。かと思えばまたふわりと浮き上がり、今度は両足を交互に動かして水の中を優雅に歩いているようになる。
柔らかで優雅な動き。魚のよう。青白い月光に照らされて夜を泳ぐ赤と白の大きな魚。誰も彼もが張り詰めた空気の中で、その人だけはまるで意に介さず、見えない水中を楽しむかのごとく泳ぎ続ける。
回り、浮き、また回って。
「あ……」
視線が突然、また観客に向けられた。その瞳は観客を見ているようでどこがもっと遠くを懐かしげに見据えている気もする。赤い唇がやわらかな弧を描き、やがてゆるやかにまた動き始めた。
シアンは見惚れた。燃えるような赤髪がなびいている。よく見れば薄緑色のグラデーションがついた薄布はヒラヒラと心許なく揺れていて、まさに魚の尾びれのようだ。
そのうち彼は両足をポールに絡めて交差した。
その瞬間、両腕がポールから離れる。自由になった上半身が、急に重力に引っ張られて、逆さに、
——落ちる……!
「ひっ……!」
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