運命に至る

麻田夏与/Kayo Asada

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 別荘にはすぐに大工の手を入れた。
 玄関から一番近い部屋を潰して土間にし、工房に改造するように至は指示を出す。父の金も権力も好きに使っていいのだから、最短で工期を終えるように頼んだ。眞下師匠から融通してもらう、材料となる竹の置き場も庭に整え、機材も調達してくれるよう知人に電話して、至は一息吐いた。もう日暮れだ。三月の終わり、庭では枝垂れ桜が咲いているがまだ肌寒く、長くひとが使っていなかった別荘は、暖房を入れても冷やっとしている気がする。
 茶でも飲もうと至が台所へ行くと、紬が夕食の準備をしていた。ちらりと振り返った彼は、和服をたすき掛けにした上に割烹着を着ていた。昭和にでもタイムスリップしたような感覚のあった至だ。

「和食がお好みと聞いています。苦手な食材はありますか」
「食べられないものはありません。お気遣いありがとうございます」
「いえ。私が甲殻類アレルギーなので、海老や蟹はお出しできませんが、構いませんか」

 海老のしんじょが至は大好きだ。だから、少し残念そうにしたのを、紬はすぐに気が付いたようだ。僅かに表情を揺らした紬は、決意した顔をして。

「手袋をして作ります」
「いえ、そこまでしないでください。あなたに無理させたなんて知ったら、俺が父に叱られそうだ」

 この男を追い出さないことが、至へのこの好待遇の条件だ。逆を言えば、紬の機嫌を損ねて出て行かれる訳にもいかないということ。気をつけなければならない。

(それにしても)

 使用人としての職務を全うしたいだけかもしれないが、随分ときめ細やかなひとだと至は思う。

(ああそうか、オメガ、なんだもんな)

 これまで至の周囲はアルファかベータばかりだったから、珍しい気持ちになる。
そもそも、オメガはアルファよりも希少種だ。人口比で、小数点の下に幾つもゼロの付く上位アルファほどではないが、それでもかなり少ない。
 茶葉と急須を至が探していると、紬が全て出してくれて、湯も沸かして淹れる所まですべてやってくれた。ここ二年、茶を淹れるのは弟子たる至の役目だったから、むず痒いような気持ちになる。

(ああ、丁度良い渋さだ)

 至は、実家に居る頃は甘みの強い八女茶が好きだったのだが、師匠の家ですっかり静岡茶の渋みに慣れている。紬の淹れてくれた茶も静岡茶で、完璧な味わいだった。師匠の奥方でさえ、こんな美味しい茶ではない。

「紬さんは、これまで他の家でお勤めだったんですか。随分と手慣れているようですが」
「いえ、ほんの少しですが企業勤めでした。茶は、兄が好きだったので」
「企業勤め? それは苦労されたでしょう」

 オメガなのに、とは言わなかったが、紬は察したようだ。「まあ色々ありまして」と濁された。

(謎の多いひとだ)

 だがそれ以上問える雰囲気ではないし、たった一人の同居人とはいえ使用人にそれほど興味がある訳ではない。気に留めずにおいた。
 一人での食事に至は慣れていないので、紬と居間で摂ることにする。
 彼の作った夕飯は、とても美味しかった。料理人さながらの味で、これにも驚いた至である。だし巻き卵や味噌汁が美味いのは、とてもいいことだ。
 紬は必要なこと以外喋らないが、至が「美味しい」と言うとちょっとだけ笑ってくれる。オメガ特有の美しさのためか、たったそれだけで胸が高鳴るから困る。





 この別荘は、宮大工が手を掛ける必要のある物件だったようだ。金や権力を惜しまず使っても、宮大工を何人も動員することは難しく、工房が出来上がったのは五月の初めだった。それまでの間、至は眞下師匠に頭を下げて、静岡で下働きをさせてもらっていた。紬には別荘の留守を頼んで。

 そうして戻った、鎌倉。

 そこにあったのは、真新しい工房に、真新しい機器。自分だけの城に、至の心は否応なく高揚した。だが、新しい器具や環境に慣れるところから始めなければ。作品を手掛けるより前に、一通り、工程を復習さらいたかった。
 眞下師匠の知り合いである、静岡の山師に運んでもらった、油抜きをされた象牙色の苦(竹(だけ。竹細工士の作業は、これを割り、竹ひごを作るところから始まる。眞下師匠にもらった作業に使う鉈や小刀を、至はこの日のためにずっと研いでいた。
 鉈を入れ、竹の割れる感触が気持ちいい。まだそれほど上手い訳ではないから、鉈の柄で竹を持つ左手を叩いてしまい、かなり痛いこともあるが、それですら懐かしく、楽しかった。
 それに、気がどんどん急く。時間の空いた分、どの作業も腕が落ちているから、取り戻すために至はがむしゃらだ。
 至は昼も食べずに工房に籠もりきりなので、紬が工房の外に梅と鮭のおむすびを置いておいてくれる。空腹を感じたときに食べても、ふわっと美味しく食べられるので至のお気に入りになった。

「今日はいい竹ひごが作れました」

 夕飯のとき、嬉しくてつい至はそんな報告をしてしまう。至の仕事が上手くいくもいかないも、紬には関係ないと思うのに、彼は黙って聞いてくれる。

「それは良いことですね」
「いつか紬さんにも、竹細工をつくって差し上げますよ」
「それなら、行燈あんどんを頂戴したいです。読書灯がないので」

 至は頷いて、きっと竹細工を見たことのないだろう紬を驚かせてやろうと、密かに心に決めた。
 満足の行くまで竹ひご作りをやり直し、組み立ての作業に移る。ここからは力仕事と、より繊細な作業の両方なので、何度も練習し直したい至である。もう、作務衣は夏用に衣替えの頃だ。
 一先ず、紬と約束をした行燈を作ることに至は決めた。細いひごを、竹で作った輪に挿すのだが、まず輪を作るのが大変な作業だ。どうらんという、ガスコンロで熱した熱い管に竹を巻き付けて、輪を作る。竹を冷まして『継ぎ手』というつなぎ目を分からなくする削り作業をするのだが、至はこの流れが苦手なのだ。何度も練習している間に、本格的な夏が来た。胴乱は非常に熱いので、額に汗をし、頭をぐらつかせながら作業している至である。
 紬の足音が、微かに聞こえた。午前中のこの時間は外で洗濯をしていることが多い。至の作務衣も紬の着ている薄物の和服も、紬は手洗いをしているようで、頭が下がる。

(洗濯か。涼しそうだ。水、飲みたいかも)

 ぼうっとそう思ったところで、至の背後の襖が開いた。

「僭越ながら」
「……どうしました、紬さん」
「この季節に、そんな高温の道具の修行ばかりなされていたら、熱中症になりますよ」

 いつもは涼しげな顔をしている紬が、珍しく嫌そうな顔をした。部屋の外から冷気が押し寄せたので、紬にとっては熱風に煽られている状態なのだろう。

「……あ、そうか。通りで頭がぐらぐらすると」
「もうなりかけているではありませんか。一先ず工房を出ましょう。氷で冷やしますから」

 ふらつく至の手を引いて、台所の近い彼の部屋に導いた紬は、甲斐甲斐しく看病してくれた。いつの間に揃えていたのかも分からない、経口補給液を至に飲ませ、氷枕を置いた布団に寝かせ、冷たい手ぬぐいで頭を冷やしてくれる。心地好かったし、恐らく至一人で暮らしていたなら、工房で倒れるまで作業をしていただろうと想像して、血の気が引いた。紬が居てくれて良かったと思う。

「今後も気をつけてください。芸術家たるもの作業に没頭したくなるのは分かりますが、命を危険にしては元も子もありませんから」

 その物言いが、至は少し気になった。彼がオメガだということもあって。横になったまま、手桶で手ぬぐいを冷やし直す紬を見上げる。

「ええ。あの──紬さんも何か芸術をされていたんですか」
「……昔の話です。一時は美大を志したのですが、金銭面の都合で言い出せなくて」

 至は、僅かに痛ましいような、同情に近い気持ちになる。オメガとして生まれ、芸術の才能があったとしても、親が性別や通常より困難な芸術の道に理解を示すとは限らない。至の父が、至を理解しなかったように。
 だから、勝手な共感が向いたのかも知れない。もう一度このひとに、芸術をと。

「あの、紬さんさえ良ければ、俺の作品を見てくれませんか。率直な意見が聞きたいんです」
「何をおっしゃいます。私はただの素人ですよ」
「作品を購入するのは皆素人ですから。師匠には素晴らしいアドバイスをいただけるけど、買い手の目にどう見えるかも知りたい。その目で見て、何がいけないのか聞いてみたい」

 オメガの感性でどこかしら見劣るなら、至も納得も行くし、きっと至自身の見解より正しい。だから、と告げると。
 紬の目線がしばらく惑い、それからほんのり眉を寄せて苦笑した。

「分かりました。でも、真に受けないでくださいね」

 頭の熱とふらつきが引いた後、紬を工房に招き、至の修業時代の作品を幾つか見てもらった。師匠には「まだまだ」と言われたが、至なりには良くやったと思えるものを。
 紬はもの珍しそうにして、そっと手にしたりひっくり返したりしていたが、やがて一息吐いて。

「どれも美しいです。でも」
「はい」
「これは、ところどころ竹ひごの流れが揃っていないような気がします。こちらは、継ぎ目がかすかに見えますし。勿体ないです」

 至は激しく驚いた。紬が、師匠が指摘していたことを見事に言い当てたからだ。
 素人だなんて、舐めてはいけない。オメガの目が、これほど確かなものだなんて。

(これが、才能の差か)

 眞下師匠の圧倒的な実力は、才能もあるが年月のためだと至は自分に言い聞かせていた。だが、この紬というひとは。昔芸術に携わったというだけで、師匠と同じ感性を獲得している。
 密やかに、小さく、至は挫折を味わった。
 だが、逆を言えば。
 このひとに正してもらえば、眞下師匠が側につきっきりでいるのと同じことなのではないか。

(何て、心強い)

 だから、劣等感を覚えるのでなく、尊敬の対象にするのだ。この長谷合紬というひとを。
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