運命に至る

麻田夏与/Kayo Asada

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8-5.

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 綾人のヒート期間が終わるのを待って、至は、鎌倉の別荘を出ることにした。
 丁度、眞下師匠がやっと至の腕をほんの少し認めてくれて『自分の工房の品として扱う』と言ってくれたのだ。これも全て、紬があのとき至に指摘してくれたおかげだ。
 父には「これまでの借金は今後返済していく」と告げ、絶縁状を叩きつけた。自分の人生も、自分と紬の間に生まれる子供も、父の言いなりなんてごめんだ。
 父は怒るだろうと思ったのに、もう呆れ返ったらしい彼は、電話先で至に吐き捨てた。

「お前のような跳ねっ返りの無能には、もう期待しない」

 運命の番を何度宛がっても子作りをしないどころか、至が綾人を選ばなかったことを譲が報告したのが、父は余程腹に据えかねていたらしい。

「今度の『無能』は、至さんのことですよ」

 紬がくすくすと笑うので、憮然とした顔をした至だ。
 父は、末の弟の翔を跡取りとする方針に転換したようだ。翔は、運命の番が見つかっているアルファだ。翔自体より、その子供に期待しているのだろう。
 だが、父は知らないかもしれないが、翔はかなりやんちゃな自由人だ。それはそれは苦労するだろうと、至は冷笑するような気持ちになった。

「譲、もう出てきていいのか」

 綾人の部屋からおむすびを置いていた皿を持って出てきた譲に、声を掛けた。丁度台所で湯を沸かしているところだったのだ。

「うん。綾人さんのヒート終わったの、兄さんが一番分かるでしょ」
「……そうだけど、お前の口から聞きたかったんだ」

 あのとき至は、綾人を譲に託した。番として選んでやれなかった綾人だが、しあわせになって欲しいのは、本当だったからだ。

「綾人さんは俺が守るよ」

 じゃぶじゃぶと、皿と炊飯に使っている土鍋を洗いながら、譲は微笑んだ。そして、今まで至に見せたことのない、挑戦的な目をこちらに向ける。

「もう兄さんに任せて、綾人さんをしあわせにしてもらおうなんて、思わない。僕があのひとを世界一しあわせにする」
「……ああ。そうしてやってくれ」

 きっと譲なら、綾人を癒やしてあの屈託のない笑顔を守っていけるだろう。

「ゆずるー、湯飲み忘れていったよ」

 ひょっこりと、綾人が扉を開けて顔を出した。その面からは、疲れが見え隠れするが、表情は明るいので至は安堵した。

「あ、すいません。うっかりしてました」
「しょうがないなあ、譲は」

 そうして去っていこうとする綾人が、だが足を止めて、振り向いた。

「至。おれもう、大丈夫だから。つむつむとしあわせになってね」
「……ああ。君も絶対、しあわせになってくれ」

 そうして笑みを向け合うと、譲が「あの」と声を上げた。弟に嫉妬されているのは微妙な気持ちだ。

「どうしたの、譲」

 譲を見上げた綾人の手を、弟はしっかり握りしめた。

「僕と、ここで一緒に暮らしませんか」

 大きい目をまん丸くする綾人。譲が眼鏡を外して、ずいっと綾人に顔を近づけた。

「僕、顔だけなら兄さんそっくりでしょう。これからはコンタクトにするので、まずは顔だけでも好きになってください」

 綾人が心底楽しそうに、腹を抱えて笑う。至も、口を押さえて笑ってしまった。譲だけが、ぽかんといている。
 だが、ひいひいと笑い、流している綾人の涙は、可笑しさからではないような。至にはそんな気がしてならなかった。

「そんなのいいよ。譲は眼鏡のままの方が好き」

 そうして、荷を全て箱に詰めて、鎌倉から去る日。
ひしと抱き合って、まるで兄弟の今生の別れのような雰囲気をかもし出している紬と綾人に、香坂兄弟は掛ける言葉を失った。

「また会えるから、そんな空気にしないでくれ」
「そうかな。至、出不精だから、つむつむもくっついてずっと家に居そう」

 返す言葉もまた、失ってしまう。綾人は鋭すぎる。

「大丈夫です、また遊びに来ますから」
「約束だよ。おれたちも、静岡行くし。ちゃんと構ってね、仕事ばっかりじゃなく」

 ちくちくと刺してくる綾人に、至は「もう勘弁してくれ!」と悲鳴を上げたのだった。
 眞下師匠の工房の近くに、小さな家を借りた。紬と二人で住む家だ。古い家だし、ヤモリが出る。だから、紬には苦労させるのではと思ったが、紬は気にも留めないどころか、紬の苦手な虫を食べてくれるヤモリを歓迎していた。
 これから至は、眞下師匠の工房で働かせてもらうが、紬の審美眼まで、師匠は買ってくれた。

「どうせなら紬さんも、接客担当として工房に関わってみたらどうだね」

 紬は驚いたが、二つ返事で了承していた。
 そんな事情で、きっとこれからも紬に頼ってしまうだろうが、紬はそれを誇らしいと思っているらしかった。

「至さんと手を取り合って、私はここまでこられましたから」

 そんなの至の台詞なのに、紬が美しく笑みを浮かべて言うから、お互い様だったのだと知る。
 いつか、眞下師匠を超えると、かつてここで至は誓った。遠い道だが、もう夢は叶うと信じられる。紬と二人で歩くなら、きっと。
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