【完結】ブルームーンを君に(改稿版)

水樹風

文字の大きさ
1 / 29

Episode 1

しおりを挟む
 
 木曜日の夜──。
 半地下のジャズバー【Sheets of Sounds】。
 常連客がSOSと呼ぶバーのフロアの中央で、アップライトピアノがスポットを浴びる。腕まくりしたダークグレーのワイシャツに濃紺の中折れ帽姿の青年は鍵盤に指を置くと、軽やかにその上を跳ねさせた。
 お決まりのスタンダード。
 オープニングナンバーを弾き終えると、スポットは消えBGMを奏で始める。

(今夜は、楽しみ方を知ってる客が多いな)

 フロアに流れる心地よい空気──誰もが好みのグラスを傾けて自分の時間だけを楽しみ、ピアノに重なるのはささやかな会話たち。
 はるかは客の傾向を見ながら、頭の中でセットリストを組み立てた。

(いい夜だ……)

 酒を楽しむ客たちと彼──それぞれが互いの時間を邪魔することなく寄り添い、同じ時間を味わう夜。
 悠は気持ち良く一時間ほどの演奏を終えると、さり気なく中折れ帽を持ち上げて視線を下げ、足取りも軽くバックヤードへと戻って行った。


 
 ◇◇◇



「お疲れ様でした、悠様」
「徳永? なんでいるの?」

 楽屋のドアを開けた途端、当たり前にミネラルウォーターのボトルを差し出し、ごく自然に帽子を受け取った男に、悠は呆れ気味に声をかけた。
 悠がほんの少し汗に濡れた艶のある黒髪を気怠げにかき上げれば、彼は僅かに目を細めてみせる。
 ワイシャツに中折れ帽のその姿は間違いなく男性のそれであるのに、帽子を取ると途端に悠は中性的な印象になった。それは透き通るほどに白い肌のせいなのか、一つ一つが柔らかく丸みを帯びた顔のパーツのせいなのか……。
 彼は自分のそんな容姿を隠すように、演奏の時はいつも中折れ帽を深くかぶり影を纏っていた。

 そして今、悠が何のためらいもなく素顔を晒している目の前の男は、徳永拓篤──悠より十歳上の専属執事だ。
 生まれつきだという焦げ茶色の髪を品よく整え、細めの眉からスッと通った鼻梁。髪と同じ焦げ茶色の瞳のくっきりとした二重の目は冴えて涼やかだ。百八十センチ近い長身で、百六十センチ後半で華奢な悠の前に立つと、三つ揃えのスーツを隙なく着こなした姿は細身ながらも随分逞しく見える。
 そんな徳永は、悠が一口だけ口をつけたボトルをさりげなく受け取りながら、やや硬い声色で告げた。

「先ほどアラームの通知が届きましたので、念のためお迎えにあがりました」

 そう言われ、はたと気づいた様子で軽く「ああ」と呟くと、悠はポケットから楕円形の防犯ブザーに似た小さなキーホルダーを取り出す。
 白い本体の先端で赤いランプを点滅させているそれは、『オメガアラーム』──十年ほど前に開発された、オメガのフェロモンを感知して発情ヒートの危険度を知らせるものだ。

 この世界には男女という第一の性のほかに、『アルファ』『ベータ』『オメガ』という三つの第二の性『バース』が存在する。
 最も数が多いのはベータで、古来よりの男女という第一の性をそのまま引き継ぐ者たちだ。
 そして人口の一割ほどを占めるアルファは、あらゆる能力において優れ、更には容姿や体格にも恵まれた者が多く、その才能を活かし様々な分野でトップの活躍をみせている。いわゆる生まれながらのエリートたちだ。
 そのアルファよりもさらに数が少なく希少な存在なのがオメガ。
 彼らの特徴は、何といってもその生殖能力だろう。
 オメガは男性でも子宮を持ち、子供を産むことができるのだ。そして、二カ月から三カ月に一度、彼らにはヒートと呼ばれる発情期が訪れる。
 オメガはヒートになると本能的に優秀なアルファの子種を求めてフェロモンを放ち、そのフェロモンを感じたアルファもまた、ラットと呼ばれる発情状態となって本能のままにオメガを求めるのだ。

 今ではオメガ、アルファそれぞれに発情抑制剤が開発されたが、それ以前は優秀なアルファを誑かし狂わせる浅ましい存在として、オメガは長く差別を受けてきたのだった。
 抑制剤が広く社会に浸透したことで、表面上バース差別はなくなった。だがオメガの発情期自体がなくなるわけではなく、バースにはまだまだ繊細な問題がつきまとう。
 予定外の発情でアルファとのトラブルが起きないように、今ではこのオメガアラームを抑制剤と共に持ち歩くオメガが殆んどだった。


 悠は取り出したアラームをどこか他人事のように見つめ、それでいて心底面倒くさそうに口を開いた。

「……ホントだ。予定では来週のはずだったのに……」
「悠様が乗ってこられた車は回収致しましたので」
「そう。徳永の運転で帰るんだね。わかったよ……」

 悠は軽く肩をすくめると、控え室を出て店のバーカウンターにこっそりと顔を出した。
 カウンター内で小気味のいい音を奏でながらシェイカーを振り、注文のカクテルをグラスに注いでいるのはSOSのマスターである瀬谷野だ。四十代後半の彼は、人好きのする実に穏やかな人で、ある意味悠の恩人でもあった。

「マスター、仕事中にごめん。僕、これヤバそうだから、もう上がるね」

 そう声をかけ、悠は瀬谷野にだけ見えるようにちらりと点滅するアラームを揺らす。

「わかった。いいよ。一人で大丈夫?」
「大丈夫。徳永が来たから」
「そうか。なら平気だね。気を付けて……無理しちゃダメだよ?」
「うん。ありがと、マスター」

 木曜日、二十二時──。
 この界隈では、まだまだ夜はこれからだった。







しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

番解除した僕等の末路【完結済・短編】

藍生らぱん
BL
都市伝説だと思っていた「運命の番」に出逢った。 番になって数日後、「番解除」された事を悟った。 「番解除」されたΩは、二度と他のαと番になることができない。 けれど余命宣告を受けていた僕にとっては都合が良かった。

借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる

水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。 「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」 過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。 ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。 孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。

甘々彼氏

すずかけあおい
BL
15歳の年の差のせいか、敦朗さんは俺をやたら甘やかす。 攻めに甘やかされる受けの話です。 〔攻め〕敦朗(あつろう)34歳・社会人 〔受け〕多希(たき)19歳・大学一年

起きたらオメガバースの世界になっていました

さくら優
BL
眞野新はテレビのニュースを見て驚愕する。当たり前のように報道される同性同士の芸能人の結婚。飛び交うα、Ωといった言葉。どうして、なんで急にオメガバースの世界になってしまったのか。 しかもその夜、誘われていた合コンに行くと、そこにいたのは女の子ではなくイケメンαのグループで――。

【完結】end roll.〜あなたの最期に、俺はいましたか〜

みやの
BL
ーー……俺は、本能に殺されたかった。 自分で選び、番になった恋人を事故で亡くしたオメガ・要。 残されたのは、抜け殻みたいな体と、二度と戻らない日々への悔いだけだった。 この世界には、生涯に一度だけ「本当の番」がいる―― そう信じられていても、要はもう「運命」なんて言葉を信じることができない。 亡くした番の記憶と、本能が求める現在のあいだで引き裂かれながら、 それでも生きてしまうΩの物語。 痛くて、残酷なラブストーリー。

fall~獣のような男がぼくに歓びを教える

乃木のき
BL
お前は俺だけのものだ__結婚し穏やかな家庭を気づいてきた瑞生だが、元恋人の禄朗と再会してしまう。ダメなのに逢いたい。逢ってしまえばあなたに狂ってしまうだけなのに。 強く結ばれていたはずなのに小さなほころびが2人を引き離し、抗うように惹きつけ合う。 濃厚な情愛の行く先は地獄なのか天国なのか。 ※エブリスタで連載していた作品です

処理中です...