8 / 29
Episode 8
しおりを挟む
「恭一様? どうかされましたか?」
相川にそう言われ、恭一は足元がふらついていたことに気づく。
「いや……少し酔ったかな?」
「恭一様が珍しいですね」
「あ、ああ……時差ボケが残ってるのにブルームーンなんて飲んだからだろ……きっと……」
店から出てすぐの駐車場で黒いセダンの後部座席に乗り込むと、恭一は焦りを悟られないようにとドリンクホルダーのボトルに手を伸ばした。
ポケットからさりげなくピルケースを取り出し、カプセルを水で流し込む。それはアルファ用の緊急抑制剤だった。
十年前にも予感はあった。
まだオメガとしての覚醒を迎えていなかったせいだろう。ほんの僅かにしか感じられなかった、ハルカの特別な香り。
けれどその僅かな香りは、恭一の身体の芯から細胞の一つ一つを作り変えてでもいくように、彼の中のアルファを殊更に目覚めさせていった。
そして今夜、たったあれだけの時間で、恭一は熟したベリーのような……それでいて爽やかに漂う花の香りにラットを起こしかけたのだ。
相川が来るのがもう少し遅れていたら、彼はきっとこの強い衝動に抗いきれなかっただろう。
「…………」
彼女の隣で冷や汗を誤魔化しながら流れていく夜の街を見つめ、恭一がきつく拳を握りしめる。
(間違いない。俺の、運命の番……。いいのか? このまま……自分を呪ったまま……)
「恭一様。本日はもう、お部屋にお戻りになりますか?」
どんなに誤魔化そうとしても、長い時間を共にしている秘書の彼女には、自身の異変を隠しきれなかった。
抑制剤の副作用なのか目の前がボヤけはじめていた恭一は、強がることを早々に諦め大きく嘆息して隣を見る。
「例のトラブルの件は?」
「私共でギリギリ対処可能かと。ビデオ会議は時間変更で調整をして、明朝ご報告致します」
「はぁ……それで任せる。自宅に送ってくれ」
「かしこまりました」
バックミラー越しに相川の目配せを確認した運転手が、本社の逆方向へとハンドルを切った。
(ハルカ……。もう、会いたくてたまらない……。これは、ただの本能なのか?)
結婚したというのに、指輪をはめている形跡すらなかった彼。
あんなにも牙をむいてくる付き人を連れているくらいだ。恐らくハルカはそれなりの家に嫁いだのだろう。
恭一はそんなことを考えては、またぼやけた視線を夜の街へと戻す。
(きっと何か事情があるはずだ。調べれば、すぐにわかるはず……)
そうしてもう一度、自分自身へとその覚悟を問い、答えを導いた彼がおもむろに口を開いた。
「相川、案件が重なっているところ悪いが、頼みたいことがある」
「はい。何でしょうか?」
「SOSのピアニストについて調べてくれ」
「先ほど、お話されていた方ですか?」
「ああ」
「……かしこまりました。すぐに人を手配致します」
彼女は理由を問うこともなく、淡々とタブレットを開く。
ふーっと息を吐き出し、シートに深く身を預けて目を閉じれば、恭一の耳の奥には彼の軽やかな音が響いていた。
(まさか、あれほどの腕になっているとはな……)
頭の中に流れてくる心地のいい音に合わせ自然と指を動かしていたことに気づいた恭一が、ほろ苦く笑う。
「こっちでも、俺は虜か……」
木曜日二十三時半──。
車はマンションの地下へと滑り込んでいった……。
相川にそう言われ、恭一は足元がふらついていたことに気づく。
「いや……少し酔ったかな?」
「恭一様が珍しいですね」
「あ、ああ……時差ボケが残ってるのにブルームーンなんて飲んだからだろ……きっと……」
店から出てすぐの駐車場で黒いセダンの後部座席に乗り込むと、恭一は焦りを悟られないようにとドリンクホルダーのボトルに手を伸ばした。
ポケットからさりげなくピルケースを取り出し、カプセルを水で流し込む。それはアルファ用の緊急抑制剤だった。
十年前にも予感はあった。
まだオメガとしての覚醒を迎えていなかったせいだろう。ほんの僅かにしか感じられなかった、ハルカの特別な香り。
けれどその僅かな香りは、恭一の身体の芯から細胞の一つ一つを作り変えてでもいくように、彼の中のアルファを殊更に目覚めさせていった。
そして今夜、たったあれだけの時間で、恭一は熟したベリーのような……それでいて爽やかに漂う花の香りにラットを起こしかけたのだ。
相川が来るのがもう少し遅れていたら、彼はきっとこの強い衝動に抗いきれなかっただろう。
「…………」
彼女の隣で冷や汗を誤魔化しながら流れていく夜の街を見つめ、恭一がきつく拳を握りしめる。
(間違いない。俺の、運命の番……。いいのか? このまま……自分を呪ったまま……)
「恭一様。本日はもう、お部屋にお戻りになりますか?」
どんなに誤魔化そうとしても、長い時間を共にしている秘書の彼女には、自身の異変を隠しきれなかった。
抑制剤の副作用なのか目の前がボヤけはじめていた恭一は、強がることを早々に諦め大きく嘆息して隣を見る。
「例のトラブルの件は?」
「私共でギリギリ対処可能かと。ビデオ会議は時間変更で調整をして、明朝ご報告致します」
「はぁ……それで任せる。自宅に送ってくれ」
「かしこまりました」
バックミラー越しに相川の目配せを確認した運転手が、本社の逆方向へとハンドルを切った。
(ハルカ……。もう、会いたくてたまらない……。これは、ただの本能なのか?)
結婚したというのに、指輪をはめている形跡すらなかった彼。
あんなにも牙をむいてくる付き人を連れているくらいだ。恐らくハルカはそれなりの家に嫁いだのだろう。
恭一はそんなことを考えては、またぼやけた視線を夜の街へと戻す。
(きっと何か事情があるはずだ。調べれば、すぐにわかるはず……)
そうしてもう一度、自分自身へとその覚悟を問い、答えを導いた彼がおもむろに口を開いた。
「相川、案件が重なっているところ悪いが、頼みたいことがある」
「はい。何でしょうか?」
「SOSのピアニストについて調べてくれ」
「先ほど、お話されていた方ですか?」
「ああ」
「……かしこまりました。すぐに人を手配致します」
彼女は理由を問うこともなく、淡々とタブレットを開く。
ふーっと息を吐き出し、シートに深く身を預けて目を閉じれば、恭一の耳の奥には彼の軽やかな音が響いていた。
(まさか、あれほどの腕になっているとはな……)
頭の中に流れてくる心地のいい音に合わせ自然と指を動かしていたことに気づいた恭一が、ほろ苦く笑う。
「こっちでも、俺は虜か……」
木曜日二十三時半──。
車はマンションの地下へと滑り込んでいった……。
28
あなたにおすすめの小説
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる
水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。
「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」
過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。
ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。
孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。
起きたらオメガバースの世界になっていました
さくら優
BL
眞野新はテレビのニュースを見て驚愕する。当たり前のように報道される同性同士の芸能人の結婚。飛び交うα、Ωといった言葉。どうして、なんで急にオメガバースの世界になってしまったのか。
しかもその夜、誘われていた合コンに行くと、そこにいたのは女の子ではなくイケメンαのグループで――。
fall~獣のような男がぼくに歓びを教える
乃木のき
BL
お前は俺だけのものだ__結婚し穏やかな家庭を気づいてきた瑞生だが、元恋人の禄朗と再会してしまう。ダメなのに逢いたい。逢ってしまえばあなたに狂ってしまうだけなのに。
強く結ばれていたはずなのに小さなほころびが2人を引き離し、抗うように惹きつけ合う。
濃厚な情愛の行く先は地獄なのか天国なのか。
※エブリスタで連載していた作品です
大嫌いな若君様は運命の番
花飛沫
BL
アオは学生時代、運命の番であるハレタケに声を掛けてこっぴどく振られてしまった。ハレタケはいわゆる例外というやつらしく、出会ってからもしばらくアオを運命の番だと認識できなかったのだ。
時は過ぎて、成人後。旅人となったアオを、あの日突き放した男だとは知らずに運命の番だとやっと認識したハレタケは、家の力を使ってアオに結婚を申し込んだ。将軍の子息であるハレタケに逆らえず結婚する事になってしまったが、アオはあの日以来ハレタケの事を心底嫌っており‥‥。
※受けが割と口が悪いです
※特殊設定として、物語の中の世界では名前の漢字を知られてしまうと呪術にかけられたりする恐れがある為、下の名前はカタカナで表記しています
溺愛アルファの完璧なる巣作り
夕凪
BL
【本編完結済】(番外編SSを追加中です)
ユリウスはその日、騎士団の任務のために赴いた異国の山中で、死にかけの子どもを拾った。
抱き上げて、すぐに気づいた。
これは僕のオメガだ、と。
ユリウスはその子どもを大事に大事に世話した。
やがてようやく死の淵から脱した子どもは、ユリウスの下で成長していくが、その子にはある特殊な事情があって……。
こんなに愛してるのにすれ違うことなんてある?というほどに溺愛するアルファと、愛されていることに気づかない薄幸オメガのお話。(になる予定)
※この作品は完全なるフィクションです。登場する人物名や国名、団体名、宗教等はすべて架空のものであり、実在のものと一切の関係はありません。
話の内容上、宗教的な描写も登場するかと思いますが、繰り返しますがフィクションです。特定の宗教に対して批判や肯定をしているわけではありません。
クラウス×エミールのスピンオフあります。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/504363362/542779091
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる