【完結】ブルームーンを君に(改稿版)

水樹風

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Episode 18

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「失礼致します」

 翌日、木曜日十三時──。
 簡単なランチのあと本社でしばしの休息を取っていた恭一の元へ、相川がやって来た。

「どうした? 何か予定を忘れていたか?」
「いえ……。これから少し、プライベートとしてお話しても?」
「ん? ああ、もちろん構わないが……」

 昨夜眠れなかったのだろう。恭一がここまでひどい隈を作っているのを彼女は見たことがない。
 今は彼の秘書を務めている一つ年上の相川紗奈との付き合いも、そろそろ十年──。
 彼女は仕事を離れた時の柔らかな眼差しで恭一を見つめながら、手にしていたUSBをデスクに置いた。

「出過ぎた真似だとは思ったけど、昨日あれから御崎悠さんについて調べてみたの」
「なっ……紗奈、それは!」
「ごめんなさい、いくらでも怒ってくれていい。ただね、悠さんの執事──徳永拓篤のことで気になる事実がわかって……。恭一くんも、知っていたほうがいいだろうと思ったの」
「…………」

 徳永琢磨──執事以上の確かな熱を秘めたあの男の双眸を思い出し、恭一はじっと小さなUSBを見つめる。

「あとの判断はお任せします」

 また秘書の顔に戻り軽く頭を下げる彼女の姿に、恭一が迷いを捨て目の前のそれを手に取った。

「……次の予定までは?」
「一時間ほどございます」
「わかった」
「では」

 相川が静かに踵を返す。
 その背中に「ありがとう」と小さく投げかけた恭一を振り返ることなく、彼女はそのまま部屋を出て行ったのだった。

 開いたパソコン画面に映し出されたハルカの過去。彼の経験した別れの数々。
 そして──。

(知らなかったとはいえ、俺は一人になった悠の側から逃げ続けてたんだ……。あの男のあの目は正しいな……)

 デスクに肘をつき頭を抱え込んだ恭一。しかし後悔に苛まれながらも、彼の心は自然と前を向き始めていた。
 自分の弱さも卑怯さもすべて認める。それでも、ハルカを恋い慕うことだけは止めることができないのだ。

「今、やるべきことを……」

 木曜日──今夜SOSへ行くべきか、恭一はずっと迷いあぐねていた。
 父のお飾りの伴侶にされていた彼。もしハルカと会えたとして、自分は彼になんと声をかければいいのか……昨日の今日で答えは出ていない。

(正解はわからない。何も言えないかもしれない。それでも……)

 恭一はおもむろに立ち上がると、秘書室への扉を開けた。

「相川」
「はい」
「夕方までに仕事を終わらせたい」
「承知しました。本日中にお願いしたいのは……」

 相川から示されたタスクを恭一は頭の中で瞬時に整理し、デスクで処理し始める。

(ハルカ……。なぜだろう? 今夜は、会える気がするんだ)


 ◇◇◇


 木曜日十七時──。

「悠様、本当にお一人で行かれるのですか?」

 愛車に乗り込もうとする悠に、徳永はもう何度目かという同じ質問を繰り返す。

「もう、いくつだと思ってるんだよ、徳永は。本当に過保護だな。SOSへなんて毎回一人で行ってるじゃないか」
「しかし……」
「徳永は宮澄から呼び出されたんだろ? ちゃんと仕事してきてよ」
「……かしこまりました。くれぐれもお気を付けて」
「うん、わかってる」

 悠は表情を曇らせたままの徳永に軽く手を挙げ、マンションの地下駐車場を出た。

 自身のさがに絶望したあの出来事から数日──。
 悠は瀬谷野に連絡を取り、許可をもらって今夜からまたSOSで演奏することにした。
 恭一との約束を心の支えにしながらも、信じきれずにいた自分。そんな自分を許せない一方で、目まぐるしく環境が変わっていく自身の人生についていくのが精一杯だったのだと……仕方なかったのだとも思う。
 二十代半ばを過ぎて振り返れば、高校時代の自分などまだまだ子供だったのだから……。
 そして大人になった今、言い訳は自分のうちにとどめ、悠は目の前の現実を受け入れて生きようと決めた。

(『約束』を待つピアノじゃなくて……これからは自分のピアノを弾こう。そうすれば、きっと……)

 きっと時間はかかるだろう。けれど弾き続けていれば、いつか恭一への想いそのものを過去にできる気がしていた。

 いつもは開店後しばらくしてから店に入るのだが、久しぶりだったこともあり店のピアノでリハーサルをしようと早い時間に訪れた悠。
 SOSからすぐの通いなれたコインパーキングに車を停めると、彼は瀬谷野から渡されている合鍵を使い、裏口から店の中へと入った。

「あれ? マスター?」

 フロアのほうから、開店前には珍しくピアノの音が聴こえてくる。
 悠は吸い寄せられるようにして、その音のほうへと歩きだした。

「珍しいね、マスターが弾いてる……なん……」

 羽織ってきた薄手のコートを脱ぎながらそこに入った悠の目の前に、懐かしい光景が広がり、時が──止まる。
 中折れ帽を目深被ったその人は、ジャケットの袖をまくり鍵盤の上で華麗に指を踊らせていたのだ。
 響き渡っているのは、悠が彼と一緒に初めて弾いたあのスタンダード。そしてピアノの上には、二杯のブルームーン。

「恭一さん……」

 悠はその瞬間、自分がまだ純粋でいられたあの頃に戻れたような気がした。

(あの時に戻りたい……戻りたいよ……)

 どんなに『物わかりのいい自分』で武装してみたところで、悠はずっと寂しかった。もう一人になりたくなくて、怖くて、心はずっと泣き続けている。
 悠が本当に泣きそうになったその時、恭一は柔らかく指を止め顔を上げた。そしてあの日のように、優しいバリトンで問いかける。

「ちょっと弾いてみるか?」
「……っ……」

 悠は微笑んで頷くと、想い出をなぞるように彼の隣に座った。
 そうして初めて弾いたメロディーに、二人のアレンジが重なっていく。
 余計なものは何もなくなっていた。ただこうしてピアノを弾いているだけで──お互いが『ただの自分』でいるだけで──こんなにも満たされていくのだ。
 余韻を楽しむように弾き終わると、恭一は被っていた帽子を悠の頭にのせ、ポンポンとそこを叩いた。

「今日は俺の真似、してこなかったのか?」
「ロッカーに入ってますよ」
「そうか」

 そう優しく笑った彼。しかしその濡羽色の双眸は、真摯に悠を見つめていた。

「……ハルカ。俺はお前の過去も……今の名前も知ってしまった」
「……え……?」
「すまない、勝手な真似をして。でも、十年前みたいに、ただ逃げて諦めたくなかったんだ。俺の『運命』から……」
「それって……」
「ハルカは感じてないか? 俺達が……」
「運命の……番……?」

 恭一は穏やかに……ただ穏やかに、悠の左手を大きな両手ですっぽりと包み込む。

「ハルカが『藤堂悠』になっていると知って、頭がグチャグチャになった。正直、今日ここに来た時も、自分が何を望んでお前に会いたいと思っているのかさえ、よく分かっていなかった」
「恭一さん……」
「ただ気づいたんだ。ハルカに運命を感じていても、俺達はお互いのことを何も知らない」
「それはっ!」

 嫌だ──悠はとっさにそう思った。恭一に今の卑しい自分を知られたくないと、顔をそむける。

「ハルカ、俺はお前から何かを聞き出すつもりなんてない。ただ……ただ聞いてほしいんだ。俺が何を思って、何を感じて生きてきたのか」
「…………」
「ハルカ?」

 恭一の手が悠の頬に添えられた。
 その温もりに恐る恐る顔を戻した悠へ、恭一は自分の過去──心に負った傷の痛みを一つ一つありのままを語っていく。
 恭一が自分のバースを呪い生きてきたこと。貴文への嫌悪と、未来への願い。そしてそれを形にするため作り上げたオメガアラームのこと。
 恭一たち開発者の想いを知り、悠はポケットの中のオメガアラームをぎゅっと握りしめていた。

「ここからの話は、あまり気分のいい話じゃないんだ……ただ、俺にとっては一番の……」
「恭一さん?」
「もしこれ以上聞きたくないと、そう思ったらすぐ言ってくれ……俺は……」

 悠の手に重ねられたままの彼の手が、小さく、しかしはっきりと震えていた。
 それでも語ろうとする真っ直ぐな彼に、悠の心は大きく揺さぶられる。

「無理をしないで、恭一さん。僕だって別に、あなたの傷を暴きたいわけじゃない」
「ハルカ……」
「それでも、あなたが吐き出すべき過去だというのなら、僕は最後までちゃんと聞きます」
「……ありがとう。その言葉に、甘えてもいいか?」
「はい」

 恭一は目を閉じて大きく深呼吸すると、言葉を選びながら話し出した。
 彼にとって親友の耀介がどれだけの存在だったのか。自分たちの希望を託した記念日に、貴文が起こしたおぞましい事件。そしてその結末を知り、悠は言葉を失う。

「ハルカがあいつの後妻になっていたと知って、怒りが爆発しそうになったよ。あいつに対しても、自分にもだ。そのあと、あいつが愛人にしか興味を持っていないと知って、心底ホッした」
「……恭一さん、僕……」
「さっき、自分が何を望んでるのかさえ分からなかったって言っただろう? だけど、一緒にまたピアノを弾いてるうちに、ただ……ただ伝えたいんだって、そうわかった」
「…………」

 恭一は真っ直ぐに悠を見つめた。
 彼の視線に捕らえられ、悠の心臓は痛いくらいに早鐘を打つ。

「ハルカ、お前に堪らなく惚れてる。お前を独占したい。ずっと隣にいたい」

 悠の華奢な身体を抱き寄せる逞しい腕──彼を満たしていく愛しい温もりに悠は抗うことなどできなかった。

「好きだよ、ハルカ。どうしようもなく……好きだ」

(あぁ、なんて幸せなんだろう? 大好きな人に、好きだと言ってもらえるなんて……。でも、僕は……)

「……僕は流されるまま、御崎のためにあなたの父親と政略結婚するような人間で……」
「……ハルカ?」

 恭一は腕を緩めると、震える声で話し出した悠の帽子を持ち上げ、そっと顔をのぞき込む。
 悠はそんな彼に向って、精一杯の笑みを浮かべた。

(もう十分だから。いっぱいもらったから……。ちゃんと笑って……)


「あなたは今、僕の息子なんですよ?」
「ハルカ、それは……」
「恭一さんは、僕の初恋の人でした。また再会できたら、一緒にピアノを弾いてブルームーンを飲みたいなって……だから、ずっと……待って……。でも、もう叶ったから……」
「ハルカ」

 恭一が名前を呼ぶ。全てを見透かしているように……全てを包み込むように、甘く柔らかな声だった。

「叶ったから? もう十分だって?」

 懸命笑って頷く悠の頬に、恭一は軽く握った指の背を滑らせる。

「じゃあ何で、お前は泣いてるんだ?」
「え?」

 ちゃんと笑えていると思っていた悠は、そう言われて初めて、自分の頬を伝う熱さに気づいた。

「ハルカ。御崎のことも、親父のことも、今の俺ならなんとでもできる」

(ダメだ……。違うんだ。僕はあなたを想いながら、徳永に欲情してしまうような……そんな汚い人間だから……)

 涙を自覚した悠にはもうそれを止めることができず、彼はただ首を横に振り続ける。
 そんな子猫のように怯える彼を、恭一の腕が再び包み込んだ。

「答えを出すのは今じゃなくていい。一度考えてみてくれないか? ただのハルカとして、お前が望むことを……」
「……ただのハルカが、望む、こと……?」
「ああ、そうだ」

(僕は、何かを……望んでいい……の?)

 力強いその腕の温もりは、それを本当に許してくれる気がして、悠は縋るようにして彼の背に腕を回していたのだった。







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