14 / 16
番外編:最高のダチ(仮)を連れて
しおりを挟む
有給初日の朝、京平はいつも通りの時間に目覚ましより先に起きて、俺より先にシャワーを浴び、俺のカップにコーヒーを淹れてくれた。
タオルで濡れた髪を整えながら、「緊張しているのか」と一言。俺は「してねえよ!」と返したけれど、手のひらは汗ばんでいた。
行き先は、俺の実家。
駅から快速で一時間半、バスに揺られて二十分。緑が増えて、空が広がって、風の匂いが変わる。
「最高のダチ」を紹介する、と母に宣言してしまった以上、もう後戻りはできなかった。
「手土産はこれでいいのか」
紙袋から顔を覗かせるのは、老舗の羊羹と評判の高い焼き菓子の詰め合わせ。京平が選んだ。
のし紙の字面も、店の格も、箱の重さまでも計算され尽くしている感じがして、思わず笑う。
「うち、そこまで格式高い家じゃないけどな」
「最初の印象は後で変えづらい。最適化して臨むに越したことはない」
相変わらずだ。
新規提案の準備みたいに、親への挨拶も完璧に組み立ててくる。スーツは堅すぎるから、と落ち着いたジャケットに白シャツ、トーンを抑えたタイ。眼鏡はいつものシルバーフレーム。
黒い瞳が、今日はいつもより柔らかい。
「春人、ネクタイ」
「え、また?」
「少しだけ歪んでいる」
気づけば、京平の指先が俺の喉元に触れていた。電車の窓に空が流れていく。結び目は、彼が整える時の形が好きだ。見栄えだけじゃない。胸の奥が落ち着く。
最寄り駅に着くと、空気が軽い。バスの車窓から見える田んぼの緑。道端の自販機、壁の色褪せた看板。子どもの頃の夏休みの匂いがした。
実家は、二階建ての木造。白い外壁に、ところどころ新しい塗り直しの跡。
玄関前の鉢植えの朝顔は、母が世話しているにしては元気がいい。チャイムを押す前に、扉が開いた。
「春人!」
エプロン姿の母が、ぱっと笑顔をこぼした。その笑顔が、ほんの一瞬だけ固まる。京平を見て、目がわずかに丸くなる。俺より先に軽く会釈したのは京平だった。
「初めまして。橘京平と申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
完璧な角度の会釈。母の口角が、ふわりとほどけた。
「まあまあ、遠いところを。春人の母です。どうぞ上がってちょうだい。あら、その紙袋は?」
「ささやかなものですが、お口に合えば」
靴を揃えて上がると、廊下の匂いが懐かしい。
壁に飾られた俺の小学校の時の賞状。中学の部活写真。高校の文化祭で作った歪んだ木工品。全部が過去の自分で、間違いなく自分じゃないみたいで、変に胸が落ち着かなかった。
居間に通されると、ガラスのテーブルの上には、湯気を立てる急須と、切り分けられた羊羹(早い)。
母が手際よくお茶を注ぐ間、京平は背筋を伸ばして座り、視線を下げすぎず、上げすぎずに部屋を見渡す。仕事の癖だ。相手の家でまで無意識に環境情報を取る。ふと目が合った。俺は、苦笑いで返した。
「春人の、最高のダチさん、なのよね?」
母は、お茶を配りながら、少しイタズラっぽくそう言った。言葉に、ほんの少しだけ色が混じる。探るような、でも面白がっているような。
「はい。春人とは同期で……」
京平は、用意してきたであろう説明を、整理された言葉で置いていく。同期の中でもライバル視されていたこと。大きなプロジェクトを共にして、互いの強さと弱さを知ったこと。今では仕事でも人生でも、誰よりも信頼できる存在であること。
俺は黙って頷いた。母は、ふむふむと頷きながら、話の合間に「春人は小さい頃から負けず嫌いでね」とか「この子、すぐに熱くなるから」とか、俺の過去の恥を投げてくる。京平はそれを逃さない。
「ええ。そこが、彼の一番の魅力です。熱に、責任が伴う。だからこそ周りが動く」
母の視線が、京平にやわらぐのがわかった。自分の息子を、ちゃんと見てくれている人間を、親は好きになる。
「お父さん、呼んでくるわね」
母が立ち上がって廊下に消え、残った空気が少しだけ緊張する。俺は深呼吸した。
「どうだ、第一審査は?」
「通過だ。追加審査は主に父親だろう」
少しの沈黙。
京平が、俺の膝の上の手に、視線を落とす。指がほんの一瞬、動いた。触れそうで、触れない距離。俺は、テーブルの縁をつまんで、心拍を誤魔化した。
「ただいま」
父は、くたびれた作業着のままで現れた。畑から戻ったばかりらしい。額に少し汗が光る。俺の顔を見て、ふん、と息を吐いて、視線が京平に移る。にらみつけるでもなく、観察するでもなく、ただ、正面から見る目だ。俺は昔、この目で叱られてきた。
「相田春人の父です」
「橘京平と申します。お忙しいところ、お時間をいただき、ありがとうございます」
父はうなずき、お茶をひと口飲んだ。それから、静かに言った。
「春人の『最高のダチ』ってのは、どのあたりが最高なんだ」
ずばりと来た。母が「ちょっとあなた」と肘でつつく。京平は、わずかに笑ったように見えた。
「『最高』は、相対評価でもあり、絶対評価でもあります。相田春人という人間の『今』と『これから』にとって、私ができること、すべきこと、そのすべてに責任を持つ覚悟がある、という意味で、最高だと自負しています」
父は黙って京平を見た。
その目は、昔から嘘を見抜く。俺が宿題をやったふりをした時も、熱があるふりをした時も、全部見抜いた。静かな時間が流れる。壁時計の秒針が、少し大きく鳴る。
「仕事は、うまくいってるのか」
父の問いに、京平は簡潔に答えた。今の職責、チームのこと、近い将来のプラン。具体的に、でも自慢にはならないように、言葉を選ぶ。
「春人のこと、ぶん殴りたくなる時はあるか」
いきなりの直球に、俺がむせた。
母が「ちょっと!」と更に強く肘打ちする。京平は、今度ははっきり笑った。
「何度もあります」
「そうか」
「でも、殴る前に、だいたい向こうが泣きながら殴ってきます」
「はは」
父の口元が、わずかに緩んだ。俺は抗議したい気持ちを飲み込みつつ、目を逸らすと京平が続けた。
「喧嘩は尽きないと思います。ただ、春人が間違えた時は、俺が責任を持って正します。俺が間違えた時は、春人が容赦なく正してくれます。そうやって、二人でまっすぐ進みます」
父はしばらく黙り、お茶を飲み干した。そのあと、短く言った。
「腹は、減ってるか」
母がほっとしたように立ち上がる。「今すぐ用意するわ」と台所へ。父は立ち上がりかけて、俺にだけわかるくらい小さな声で言った。
「お前が選んだ相手なら、文句はない」
喉の奥がきゅうっと熱くなった。「ありがとう」を前歯の裏で溶かすように飲み込む。父は照れ隠しのように咳払いをして、縁側へ出て行った。庭の畑に光が差していた。
昼は、母の手料理でテーブルが埋まった。煮物、唐揚げ、ポテトサラダ、味噌汁、炊きたての白米。京平はひとつひとつ丁寧に「美味しいです」と言いながら食べた。母は上機嫌になり、昔話が止まらない。
俺が小三で逆上がりが出来なくて泣いた話。中学で初めて彼女にフラれて三日寝込んだ話。京平の目が意地悪く笑うたびに、テーブルの下で彼の脛を蹴った。
食後、母が「ちょっと手伝って」と台所に俺を呼んだ。
流しの前で二人になると、母は流しに背を預けて、小声で言った。
「いい人じゃない」
「……うん」
「春人をちゃんと見てる。春人のいいところも、悪いところも、知ってる目をしてる」
「……そうだな」
言葉を選ぶ俺に、母はふっと目を細めた。
「『最高のダチ』って、便利な言葉ね」
「……ごめん」
「謝るくらいなら、もっと早く連れてきなさい。手土産、美味しかったわ。次は泊まりで来なさい。布団、二つ敷いてあげるから」
「……二つ?」
「……親をなめないで」
顔から火が出る音がした。母は笑って、味噌汁の鍋を火にかけた。台所の時計が、正午を少し過ぎていた。
午後は、庭の草取りを手伝った。京平はスーツの上着を脱いで、シャツの袖を捲り、器用に草を抜く。
「都会のエリートなのに土いじりが似合うじゃん」と言うと、「スキルは転用可能だ」と返された。手のひらに土の匂いが移った。
夕方、父が畑の隅で採ったばかりの胡瓜を井戸水で冷やしてくれた。丸かじりすると、ぱきんと音がして、青い香りが口いっぱいに広がる。「うまい」と京平が短く言った。父は、うむ、とだけ頷く。男三人で、並んで胡瓜を齧る。会話はない。でも、風が通って、十分だった。
帰り際、母は玄関で言った。
「また来なさいね、橘さん」
「ぜひ。今度は、春人の好きな料理、レシピを教えてください」
「あら、作ってくれるの?」
「はい。彼が仕事で遅くなる日は、特に」
「……ああ、もう」
母は半分呆れ、半分嬉しそうに笑った。父は「気をつけてな」とだけ言って、背を向けた。玄関の引き戸が滑って閉まる音。外の空気は、昼より少し湿って、夜の匂いを含んでいた。
駅までのバスの中、俺たちは並んで座った。窓の外に、田んぼに映る空が流れていく。沈黙は、心地よかった。バスがカーブで揺れた拍子に、京平の肩に俺の肩が軽く触れた。そっと離れて、また触れた。そんな距離感。
「春人」
「ん」
「二つ、報告」
「なに」
京平は、視線を窓に向けたまま言った。
「一つ。君の実家の床、わずかに軋む箇所が三箇所。二階の廊下、左端」
「報告すんな。なんの役に立つんだよ」
「二つ。今日、俺ははじめて、『家族になる』という言葉の重さを、体で理解した」
胸の奥に、さっきとは違う熱が灯った。バスの揺れが、心臓の鼓動に合う。
「俺も」
「……ああ」
駅に着き、電車に乗る。都会へ戻る人の波に混じりながらも、俺たちは、互いの肩の温度を意識していた。窓に映る俺たちは、ただの同期に見えるだろう。ライバルに見えるだろう。いや、きっと、どれでもいい。
「なあ、京平」
「なんだ」
「次は、お前の実家にも行くから」
「……覚悟はできているか?」
「してる。どんな質問にも答える。『殴りたくなる時があるか』って聞かれたら、『いつもある』って言ってやる」
「それは本当だな」
「はは」
二人で笑いあう電車の窓の外に、ビルの灯りが増えていく。俺たちの「最高の日常」は、こうやって少しずつ、少しずつ広がっていく。会社と家。過去と未来。ライバルと恋人。そして、いつか「家族」。
ホームに降りると夜風が少しだけ涼しかった。
俺は、その風の中で、隣を歩く男の指先と指先を、ほんの一瞬だけ絡めた。
誰にも見えないところで。誰にもわからない形で。 そして、それで十分だと思えた。
タオルで濡れた髪を整えながら、「緊張しているのか」と一言。俺は「してねえよ!」と返したけれど、手のひらは汗ばんでいた。
行き先は、俺の実家。
駅から快速で一時間半、バスに揺られて二十分。緑が増えて、空が広がって、風の匂いが変わる。
「最高のダチ」を紹介する、と母に宣言してしまった以上、もう後戻りはできなかった。
「手土産はこれでいいのか」
紙袋から顔を覗かせるのは、老舗の羊羹と評判の高い焼き菓子の詰め合わせ。京平が選んだ。
のし紙の字面も、店の格も、箱の重さまでも計算され尽くしている感じがして、思わず笑う。
「うち、そこまで格式高い家じゃないけどな」
「最初の印象は後で変えづらい。最適化して臨むに越したことはない」
相変わらずだ。
新規提案の準備みたいに、親への挨拶も完璧に組み立ててくる。スーツは堅すぎるから、と落ち着いたジャケットに白シャツ、トーンを抑えたタイ。眼鏡はいつものシルバーフレーム。
黒い瞳が、今日はいつもより柔らかい。
「春人、ネクタイ」
「え、また?」
「少しだけ歪んでいる」
気づけば、京平の指先が俺の喉元に触れていた。電車の窓に空が流れていく。結び目は、彼が整える時の形が好きだ。見栄えだけじゃない。胸の奥が落ち着く。
最寄り駅に着くと、空気が軽い。バスの車窓から見える田んぼの緑。道端の自販機、壁の色褪せた看板。子どもの頃の夏休みの匂いがした。
実家は、二階建ての木造。白い外壁に、ところどころ新しい塗り直しの跡。
玄関前の鉢植えの朝顔は、母が世話しているにしては元気がいい。チャイムを押す前に、扉が開いた。
「春人!」
エプロン姿の母が、ぱっと笑顔をこぼした。その笑顔が、ほんの一瞬だけ固まる。京平を見て、目がわずかに丸くなる。俺より先に軽く会釈したのは京平だった。
「初めまして。橘京平と申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
完璧な角度の会釈。母の口角が、ふわりとほどけた。
「まあまあ、遠いところを。春人の母です。どうぞ上がってちょうだい。あら、その紙袋は?」
「ささやかなものですが、お口に合えば」
靴を揃えて上がると、廊下の匂いが懐かしい。
壁に飾られた俺の小学校の時の賞状。中学の部活写真。高校の文化祭で作った歪んだ木工品。全部が過去の自分で、間違いなく自分じゃないみたいで、変に胸が落ち着かなかった。
居間に通されると、ガラスのテーブルの上には、湯気を立てる急須と、切り分けられた羊羹(早い)。
母が手際よくお茶を注ぐ間、京平は背筋を伸ばして座り、視線を下げすぎず、上げすぎずに部屋を見渡す。仕事の癖だ。相手の家でまで無意識に環境情報を取る。ふと目が合った。俺は、苦笑いで返した。
「春人の、最高のダチさん、なのよね?」
母は、お茶を配りながら、少しイタズラっぽくそう言った。言葉に、ほんの少しだけ色が混じる。探るような、でも面白がっているような。
「はい。春人とは同期で……」
京平は、用意してきたであろう説明を、整理された言葉で置いていく。同期の中でもライバル視されていたこと。大きなプロジェクトを共にして、互いの強さと弱さを知ったこと。今では仕事でも人生でも、誰よりも信頼できる存在であること。
俺は黙って頷いた。母は、ふむふむと頷きながら、話の合間に「春人は小さい頃から負けず嫌いでね」とか「この子、すぐに熱くなるから」とか、俺の過去の恥を投げてくる。京平はそれを逃さない。
「ええ。そこが、彼の一番の魅力です。熱に、責任が伴う。だからこそ周りが動く」
母の視線が、京平にやわらぐのがわかった。自分の息子を、ちゃんと見てくれている人間を、親は好きになる。
「お父さん、呼んでくるわね」
母が立ち上がって廊下に消え、残った空気が少しだけ緊張する。俺は深呼吸した。
「どうだ、第一審査は?」
「通過だ。追加審査は主に父親だろう」
少しの沈黙。
京平が、俺の膝の上の手に、視線を落とす。指がほんの一瞬、動いた。触れそうで、触れない距離。俺は、テーブルの縁をつまんで、心拍を誤魔化した。
「ただいま」
父は、くたびれた作業着のままで現れた。畑から戻ったばかりらしい。額に少し汗が光る。俺の顔を見て、ふん、と息を吐いて、視線が京平に移る。にらみつけるでもなく、観察するでもなく、ただ、正面から見る目だ。俺は昔、この目で叱られてきた。
「相田春人の父です」
「橘京平と申します。お忙しいところ、お時間をいただき、ありがとうございます」
父はうなずき、お茶をひと口飲んだ。それから、静かに言った。
「春人の『最高のダチ』ってのは、どのあたりが最高なんだ」
ずばりと来た。母が「ちょっとあなた」と肘でつつく。京平は、わずかに笑ったように見えた。
「『最高』は、相対評価でもあり、絶対評価でもあります。相田春人という人間の『今』と『これから』にとって、私ができること、すべきこと、そのすべてに責任を持つ覚悟がある、という意味で、最高だと自負しています」
父は黙って京平を見た。
その目は、昔から嘘を見抜く。俺が宿題をやったふりをした時も、熱があるふりをした時も、全部見抜いた。静かな時間が流れる。壁時計の秒針が、少し大きく鳴る。
「仕事は、うまくいってるのか」
父の問いに、京平は簡潔に答えた。今の職責、チームのこと、近い将来のプラン。具体的に、でも自慢にはならないように、言葉を選ぶ。
「春人のこと、ぶん殴りたくなる時はあるか」
いきなりの直球に、俺がむせた。
母が「ちょっと!」と更に強く肘打ちする。京平は、今度ははっきり笑った。
「何度もあります」
「そうか」
「でも、殴る前に、だいたい向こうが泣きながら殴ってきます」
「はは」
父の口元が、わずかに緩んだ。俺は抗議したい気持ちを飲み込みつつ、目を逸らすと京平が続けた。
「喧嘩は尽きないと思います。ただ、春人が間違えた時は、俺が責任を持って正します。俺が間違えた時は、春人が容赦なく正してくれます。そうやって、二人でまっすぐ進みます」
父はしばらく黙り、お茶を飲み干した。そのあと、短く言った。
「腹は、減ってるか」
母がほっとしたように立ち上がる。「今すぐ用意するわ」と台所へ。父は立ち上がりかけて、俺にだけわかるくらい小さな声で言った。
「お前が選んだ相手なら、文句はない」
喉の奥がきゅうっと熱くなった。「ありがとう」を前歯の裏で溶かすように飲み込む。父は照れ隠しのように咳払いをして、縁側へ出て行った。庭の畑に光が差していた。
昼は、母の手料理でテーブルが埋まった。煮物、唐揚げ、ポテトサラダ、味噌汁、炊きたての白米。京平はひとつひとつ丁寧に「美味しいです」と言いながら食べた。母は上機嫌になり、昔話が止まらない。
俺が小三で逆上がりが出来なくて泣いた話。中学で初めて彼女にフラれて三日寝込んだ話。京平の目が意地悪く笑うたびに、テーブルの下で彼の脛を蹴った。
食後、母が「ちょっと手伝って」と台所に俺を呼んだ。
流しの前で二人になると、母は流しに背を預けて、小声で言った。
「いい人じゃない」
「……うん」
「春人をちゃんと見てる。春人のいいところも、悪いところも、知ってる目をしてる」
「……そうだな」
言葉を選ぶ俺に、母はふっと目を細めた。
「『最高のダチ』って、便利な言葉ね」
「……ごめん」
「謝るくらいなら、もっと早く連れてきなさい。手土産、美味しかったわ。次は泊まりで来なさい。布団、二つ敷いてあげるから」
「……二つ?」
「……親をなめないで」
顔から火が出る音がした。母は笑って、味噌汁の鍋を火にかけた。台所の時計が、正午を少し過ぎていた。
午後は、庭の草取りを手伝った。京平はスーツの上着を脱いで、シャツの袖を捲り、器用に草を抜く。
「都会のエリートなのに土いじりが似合うじゃん」と言うと、「スキルは転用可能だ」と返された。手のひらに土の匂いが移った。
夕方、父が畑の隅で採ったばかりの胡瓜を井戸水で冷やしてくれた。丸かじりすると、ぱきんと音がして、青い香りが口いっぱいに広がる。「うまい」と京平が短く言った。父は、うむ、とだけ頷く。男三人で、並んで胡瓜を齧る。会話はない。でも、風が通って、十分だった。
帰り際、母は玄関で言った。
「また来なさいね、橘さん」
「ぜひ。今度は、春人の好きな料理、レシピを教えてください」
「あら、作ってくれるの?」
「はい。彼が仕事で遅くなる日は、特に」
「……ああ、もう」
母は半分呆れ、半分嬉しそうに笑った。父は「気をつけてな」とだけ言って、背を向けた。玄関の引き戸が滑って閉まる音。外の空気は、昼より少し湿って、夜の匂いを含んでいた。
駅までのバスの中、俺たちは並んで座った。窓の外に、田んぼに映る空が流れていく。沈黙は、心地よかった。バスがカーブで揺れた拍子に、京平の肩に俺の肩が軽く触れた。そっと離れて、また触れた。そんな距離感。
「春人」
「ん」
「二つ、報告」
「なに」
京平は、視線を窓に向けたまま言った。
「一つ。君の実家の床、わずかに軋む箇所が三箇所。二階の廊下、左端」
「報告すんな。なんの役に立つんだよ」
「二つ。今日、俺ははじめて、『家族になる』という言葉の重さを、体で理解した」
胸の奥に、さっきとは違う熱が灯った。バスの揺れが、心臓の鼓動に合う。
「俺も」
「……ああ」
駅に着き、電車に乗る。都会へ戻る人の波に混じりながらも、俺たちは、互いの肩の温度を意識していた。窓に映る俺たちは、ただの同期に見えるだろう。ライバルに見えるだろう。いや、きっと、どれでもいい。
「なあ、京平」
「なんだ」
「次は、お前の実家にも行くから」
「……覚悟はできているか?」
「してる。どんな質問にも答える。『殴りたくなる時があるか』って聞かれたら、『いつもある』って言ってやる」
「それは本当だな」
「はは」
二人で笑いあう電車の窓の外に、ビルの灯りが増えていく。俺たちの「最高の日常」は、こうやって少しずつ、少しずつ広がっていく。会社と家。過去と未来。ライバルと恋人。そして、いつか「家族」。
ホームに降りると夜風が少しだけ涼しかった。
俺は、その風の中で、隣を歩く男の指先と指先を、ほんの一瞬だけ絡めた。
誰にも見えないところで。誰にもわからない形で。 そして、それで十分だと思えた。
69
あなたにおすすめの小説
アプリで都合のいい男になろうとした結果、彼氏がバグりました
あと
BL
「目指せ!都合のいい男!」
穏やか完璧モテ男(理性で執着を押さえつけてる)×親しみやすい人たらし可愛い系イケメン
攻めの両親からの別れろと圧力をかけられた受け。関係は秘密なので、友達に相談もできない。悩んでいる中、どうしても別れたくないため、愛人として、「都合のいい男」になることを決意。人生相談アプリを手に入れ、努力することにする。しかし、攻めに約束を破ったと言われ……?
攻め:深海霧矢
受け:清水奏
前にアンケート取ったら、すれ違い・勘違いものが1位だったのでそれ系です。
ハピエンです。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
自己判断で消しますので、悪しからず。
猫カフェの溺愛契約〜獣人の甘い約束〜
なの
BL
人見知りの悠月――ゆづきにとって、叔父が営む保護猫カフェ「ニャンコの隠れ家」だけが心の居場所だった。
そんな悠月には昔から猫の言葉がわかる――という特殊な能力があった。
しかし経営難で閉店の危機に……
愛する猫たちとの別れが迫る中、運命を変える男が現れた。
猫のような美しい瞳を持つ謎の客・玲音――れお。
彼が差し出したのは「店を救う代わりに、お前と契約したい」という甘い誘惑。
契約のはずが、いつしか年の差を超えた溺愛に包まれて――
甘々すぎる生活に、だんだんと心が溶けていく悠月。
だけど玲音には秘密があった。
満月の夜に現れる獣の姿。猫たちだけが知る彼の正体、そして命をかけた契約の真実
「君を守るためなら、俺は何でもする」
これは愛なのか契約だけなのか……
すべてを賭けた禁断の恋の行方は?
猫たちが見守る小さなカフェで紡がれる、奇跡のハッピーエンド。
恋は、美味しい湯気の先。
林崎さこ
BL
”……不思議だな。初めて食べたはずなのに、どうしてこんなに懐かしいのだろう”
外資系ホテルチェーンの日本支社長×飲食店店主。BL。
過去の傷を心に秘め、さびれた町の片隅で小さな飲食店を切り盛りしている悠人。ある冬の夜、完璧な容姿と昏い瞳を併せ持つ男が店に現れるが……。
孤独な2人が出会い、やがて恋に落ちてゆく物語。毎日更新予定。
※視点・人称変更があります。ご注意ください。
受(一人称)、攻(三人称)と交互に進みます。
※小説投稿サイト『エブリスタ』様に投稿していたもの(現在は非公開)を一部加筆修正して再投稿しています。
【完結】まずは結婚からで。〜出会って0日、夫夫はじめました〜
小門内田
BL
ドケチで貧乏な大学生の瀧本 純也は、冷徹御曹司の諏訪 冬悟に交際0日、いや、初対面で結婚を迫られる!?
契約から始まった奇妙な結婚生活は、次第に互いの心を少しずつ変えていく。
“契約から本物へ―”
愛を知らない御曹司×愛されたがりの大学生の、立場も性格も正反対な二人が、不器用に心を通わせていく、ドタバタあり、じんわり甘い、ゆるやかな日常BL。
※最初は少し殺伐としていますが、ゆっくりと変化していく物語です。
※男同士の結婚が、一般的な世界線となります。
※関係性をわかりやすくするため、「嫁」や「妻」といった表現を使用しております。
※同タイトルのpixiv版とは、加筆・修正しておりますので、若干内容が変わっております。
予めご了承ください。
※更新日時等はXにてお知らせいたします
ビジネス婚は甘い、甘い、甘い!
ユーリ
BL
幼馴染のモデル兼俳優にビジネス婚を申し込まれた湊は承諾するけれど、結婚生活は思ったより甘くて…しかもなぜか同僚にも迫られて!?
「お前はいい加減俺に興味を持て」イケメン芸能人×ただの一般人「だって興味ないもん」ーー自分の旦那に全く興味のない湊に嫁としての自覚は芽生えるか??
地味メガネだと思ってた同僚が、眼鏡を外したら国宝級でした~無愛想な美人と、チャラ営業のすれ違い恋愛
中岡 始
BL
誰にも気づかれたくない。
誰の心にも触れたくない。
無表情と無関心を盾に、オフィスの隅で静かに生きる天王寺悠(てんのうじ・ゆう)。
その存在に、誰も興味を持たなかった――彼を除いて。
明るく人懐こい営業マン・梅田隼人(うめだ・はやと)は、
偶然見た「眼鏡を外した天王寺」の姿に、衝撃を受ける。
無機質な顔の奥に隠れていたのは、
誰よりも美しく、誰よりも脆い、ひとりの青年だった。
気づいてしまったから、もう目を逸らせない。
知りたくなったから、もう引き返せない。
すれ違いと無関心、
優しさと孤独、
微かな笑顔と、隠された心。
これは、
触れれば壊れそうな彼に、
それでも手を伸ばしてしまった、
不器用な男たちの恋のはなし。
あなたのいちばんすきなひと
名衛 澄
BL
亜食有誠(あじきゆうせい)は幼なじみの与木実晴(よぎみはる)に好意を寄せている。
ある日、有誠が冗談のつもりで実晴に付き合おうかと提案したところ、まさかのOKをもらってしまった。
有誠が混乱している間にお付き合いが始まってしまうが、実晴の態度はいつもと変わらない。
俺のことを好きでもないくせに、なぜ付き合う気になったんだ。
実晴の考えていることがわからず、不安に苛まれる有誠。
そんなとき、実晴の元カノから実晴との復縁に協力してほしいと相談を受ける。
また友人に、幼なじみに戻ったとしても、実晴のとなりにいたい。
自分の気持ちを隠して実晴との"恋人ごっこ"の関係を続ける有誠は――
隠れ執着攻め×不器用一生懸命受けの、学園青春ストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる