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11. ひとり惑へどもかひなし
しおりを挟む――――小都市ヘレフォードに入って、5日目の朝。
ユフィリスが神聖王国からグラヴィオン帝国へと渡ってから、じきに2週間が経とうとしていた。
諸事情あって初日以降の3日間をまるまる寝込んでしまった聖女様は、次の日から後れを取り戻すかのように猛全と働き始めた。
質の良い食事と質の良い睡眠。宿泊地である伯爵家の提供してくれる気遣いと健康管理によって、体調は万全である。
旅の最終目的地は北の砦だ。必死に戦っている兵を思えばすぐにでも駆けつけたいところが、やるべきことはまだある。
皇都をともに出発した主力部隊の騎兵や歩兵団の輸送車は別動隊をのぞいてすでに北へと旅立った。武力の要である皇帝もまた、聖女が寝込んだ次の日には先陣を切って駆けて行った。ベッドに伏せる聖女にはさすがにお得意の笑顔満面もなりを潜めた皇帝は、ユフィリスが動けないのを良いことに勝手に唇を奪ってへろへろのグーパンチも貰って去って行った。
聖女を始めとする一部の後方支援部隊は、この小都市ヘレフォードにて難民の治療や仮設施設の最終チェックを行い、輜重車や人員の整理をした後に遅れて旅立つ予定である。
「聖女様!」
「せいじょさまー!」
「おはようございます!お務めご苦労さまでーす!!」
街を歩けば迎えてくれる、人々の明るい声。支援部隊が到着して以降、ヘレフォードはまた少しだけ、以前の活気を取り戻したようだ。
声をかけてくれる人の中に見知った子ども達の姿を見つけ、聖女の頬が緩んだ。
「せいじょ様、おはようございます!」
「はい、おはようございます。みなさんよく眠れましたか?」
「もちろん!聖女様のおかげでみんな元気ですよ。今日はジゼルが聖女様に見せたいものがあるって張り切ってました」
「わたしもです!わたしのも見てください、聖女様!」
賑やかな声に引っ張られ、ここ数日で通いなれた大通りを進んでいく。
臨時に建てられた教会設置の孤児院。
魔獣被害により親や家族の手を離れてしまった子ども達が暮らすその場所には、生後間もない赤ん坊から18歳までの男女が詰め込まれ、慎ましやかな生活を送っていた。
仮設とはいえ広い食堂や講堂、宿舎とを備えた木造のそこは、避難民が礼拝をおこなうための臨時礼拝堂としても機能している。
講堂内の整然と並べられた長椅子に特に目を引く赤毛の少女を見つけ、ユフィリスはニコリと笑いかけた。
「せいじょさま!おはようございます!」
てててと駆けてくる少女の、肩の上に跳ねる2本のおさげ髪。
小柄なユフィリスでもすっぽりと覆ってしまえるほど小さな少女は、駆けてきた足でくるりと一回転すると、ユフィリスの腰へぎゅうとしがみついた。
「おはようございます、ジゼル。朝のお祈りは終わりましたか?」
「さっきおわって、いまはせいなるどくしょをしていました!」
「そうですか……お邪魔をしてしまいましたね」
「いいえ?いま、おわったところですから!」
ジゼルが座っていた場所を見れば、読みかけの聖書が置きっぱなしである。聖女は苦笑して、しかし咎めることはせずジゼルの頭をゆっくりと撫でた。
ジゼルは魔物の襲撃を受けた村の出身で、親とは避難中に離れ離れになってしまったそうだ。もともと食が細く10歳という年齢よりはだいぶ幼い言葉遣いをしているが、笑うと両頬にえくぼが顔を出す、瞳の大きな可愛らしい少女だった。
「せいじょさま!わたし、きのうのうちに、せいく2しょう12せつまでおぼえました」
そう言ってニッコリと笑ったジゼルはおもむろに目を瞑ると、ユフィリスの返事を聞く間もなく聖句を口ずさみ始めた。
――――思い立ったら即行動。無鉄砲で周りを見るのには不向きだが、代わりに他の追随を許さない集中力と誰にも臆さない人懐こさがある。
記憶力は年相応だがとにかく一極集中が得意な彼女は、ユフィリスと出会ってからこちら、聖句と祝詞を覚えるのにハマり、1日のほとんどを読書と暗唱に費やしていた。
「われあめすべるそのつかいなりひかりみちじひのしずくおりくる、われこいねがうそのこころなりやみふかきあんねいのとばりおりくる、そやがてかみになりてあつきめぐみをあたえきしかればわれそのこころにてもろびとたすけしちからとならん……」
意味など、考えてはいないのだろう…………大きく息を吸って吐き出せる限界まで容赦なく叩きつけるように紡がれるそれは、聖句というよりも呪文のようだ。
それでも、彼女の子どもらしく拙い声に反応した神聖力が、ふわりと光を灯しだす。
ジゼルの体内から溢れるように、ジゼルらしく踊るように。ほのかな光はくるくると舞い、風もないのに小さなおさげ髪を揺らした。
――――それは……昔小さな頃に見た、修道院の聖女様たちの修練と同じ…………とっても、懐かしくて、美しい光景。
得意げに紡がれる言葉の1つ1つ、鮮やかな赤髪の1本1本に、彼女の素直な性格があふれ出ているようだ。
小さな少女の内包する可能性に、ユフィリスは羨ましいような眩しいような、何とも言えない心地を覚えたのだった。
「――――はい、とてもよくできましたね。ジゼル」
覚えた箇所を最初から最後まできっちりと暗唱したジゼルは、はぁはぁと肩で息をしながら屈託なく笑った。
「すごいでしょ、せいじょさま!」
「ええ、すごいです。すごいどころか物凄いです。でも次は、ちゃんと息継ぎをしながら目を開けて、両手を握って、ゆっくり暗唱してみてください。あなたの内側から溢れ出た聖なる力が、あなたに気づいて欲しそうにくるくる踊っていましたよ」
「あははっ!せいじょさまにはあのこたちがはっきりみえてるのね!」
キラキラ目を輝かせながら歌うように話すジゼルは、とても可愛らしくて見ているだけで癒された。必要なことと不必要なこと、彼女を誘導するための言葉を選んで使っている自分が、とてつもなく悪い人間のように感じてくる。
「わたしよりもあなたのほうが、光の子ともっと仲良くなれますよ」
――――なにせ、君は本物の聖女様なのだから。
内心の声はそっとしまいこみ、ユフィリスはにこりと微笑みを返す。
講堂に集まった子ども達の中で、聖女となり得る素質を持っていたのはジゼルだけだった。
貧民街にもう1人、ラルーという獣人の女の子がいて、その子にも聖句を教えている。
他の子ども達には聖書訳を。文字の読めない子には筆記の練習を。
治療の合間を縫って教会や貧民街を訪ねては、子ども達の中に神聖力を宿せる器を探していく作業。
…………偽の聖女、ただ1人だけでは、さすがに大規模な魔獣災害には対抗しきれない。
だからユフィリスは、この都市にいる間できるかぎりの時間を新たな聖女の育成に費やしていた。聖女の器たる子どもを探し出し、自分の手で育て上げ、戦場に連れて行く。帝国の被害を、最小限に抑えるため…………そして何より、自分が死なないために。
…………普通の聖女は戦場へは赴かない。
王都に滞在して魔除けの術を巡らせたり、兵達の治療に当たる事で、魔獣被害を抑えることができるからだ。
聖女の安全は国の守護力を大幅に左右するし、遠方からの守護が可能でさえあればわざわざ彼女達を危険に晒すのは愚策である。力さえあればユフィリスにも遠方支援が可能なはずだったが、彼が持っているのは仮初の術であって、水晶に込められた神聖力だけでは王都から僻地まで守護を伸ばすことなどできない。逆に付け焼き刃であろうとジゼル達のように聖女たる神聖力さえあれば、広大な範囲を守る聖術式を行使できる可能性もあった。
正規の手順さえ踏めば、本来は危険など無く守られるべき聖女の卵達を……それも、自分のように偽りでもない聖女を、戦地へ送り入れるのは本来なら許されることではない。後方とはいえ戦場では、危険がゼロなどあり得ないのだ。
「せいじょさま?このあとは、きょうもちりょうへいくのですか?」
「……ええ。新しい患者さんもいるようですからね」
「わたしっ、わたしもいきたいです!せいじょさまのちりょう、みて、はやくできるようにべんきょうしたいです!」
そう言って聖女を見つめるジゼルの琥珀色の瞳は、純粋な好意と意欲の炎に燃え、キラキラと光って見えた。
聖女の瞳は夢見る瞳。
七色の虹彩などなくてもよっぽどそれは眩しくて、見惚れるほどに美しい。
――――けれどだからこそ、彼女達は守られなければならない。
夢見る瞳が絶望に翳ってしまわないように。純粋な優しさが、苦しみに侵食されないように。彼女達の心が……自分のように、醜く歪んでしまわないように。
「…………いいえ、ジゼル。怪我に苦しむ人々の安静のために、治療室へは治療者と怪我人の家族のみが立ち入るべきだと思います。…………でも、あなたの優しさと頑張りは……聖句を覚え終わり、祝詞を唱えられるようになれば、かならず報われますよ」
「……はいっせいじょさま!」
神聖王国ハルティナにしか聖女が現れないという既成概念は、聖地に宿る清らな聖気やその聖地に育った清らな女性の魂によるものではない。
利己的な地に宿る、閉鎖性と独占欲のたまものだ。
自分も所詮は神聖王国の家系、目的は違えど血は争えないのだと…………ユフィリスは小さな聖女に向ける微笑みの下で、小さな毒虫が心を食い破ろうとするのを感じた。
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