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20. 猛き子よ、虹光は見ゆるや
しおりを挟む森の中は夜でもないのに、深い闇に支配されていた。
ジゼルとラルー、ユフィリスの3人は、体力の続く限り、必死に森を駆けた。
少女達の手から溢れ出た光の子が、彼女達を先導し暗闇を照らし出す。
「はぁッ…………は、せいじょ、さま!あと、あと、どれくらい、ですか?」
「…………まだ、もうすこし。…………少しでも、遠くへ…………ッはぁ、あそこの…………崖の上にしましょう」
ふらつくラルーを抱え、荷物を背負い直し、ジゼルと手を繋いで走る、走る。
小さな光の精霊がまとわりつくように彼女達を巡れば、回復術を唱えたラルーがふぅと息をつき、また走る。
あれだけいたはずの魔獣は、北に行けば行くほど減っていた。
全ての獣が逃げ出したかのように森は静まり返り、虫の音ひとつしない。
やがて、崖の上に辿り着いた。
眼下には北の山岳から流れ出た湧き水が、大きな川となって轟々と音を立てている。
遥か後方には鉄壁の要塞。
必死に走ったつもりだが、それでもまだ、足りないような気がした。
「…………いいや、時間がない。あいつが近づく前に…………始めなければ」
ガクガクと足が震える。
普段使わない筋肉を総動員して走ったのだ。恐怖に支配された心臓が、それよりも早い震えを伴ってドクドクと脈打っていた。
「ジゼル、ラルー。準備は良いですか」
光の子が舞う。
自分よりもよほど小さな背中が、大きく上下して溢れ出る涙を拭った。
「ぐすッ………………はい、せいじょさま!」
持ち出した染料を土の上に手分けして塗り広げていく。
石床よりも吸収速度の速い土の上では、大した大きさの魔法陣は作れない。
糸と杭を使ってとった正円に、何度も練習し描き慣れた文様をひたすらに刻んでいく。
刻みながらも口ずさむのは、魔を退ける最も強き祝詞。片手で水晶の入った袋を漁り、聖女の力を描きかけの魔法陣へと次々に充填していく。
「ジゼル、ラルー。入って」
2人を中心へと促し、ユフィリスは小さな円に乗り出すようにして少女達の頭を撫でた。
「せいじょさま…………あの、ほんとうに」
ラルーが怯えたようにユフィリスを見上げる。
最後まで言わせず、ユフィリスはにっこりと微笑んだ。
「もちろんです。さっき話したことは、覚えていますね?ラルー、ジゼル」
強く噛み締めた唇に、決意の血の玉が滲んでいる。
ジゼルがラルーの手を取れば、ラルーはごくりと唾を飲み込み、震える声で応えた。
「…………はい、せいじょさま。げんしょののりとを、さいごまで。となえきるまで、けっしてめをあけません」
「だいじょうぶです、せいじょさま。わたし、かんぺきにおぼえました。ラルーがとちっても、おしえてあげられるわ」
「ふふっ……そうだね、ジゼル。…………怖くなったら、ラルーを抱きしめてあげなさい。お互いの呼吸を感じたら、きっと耐えられる。…………頼んだよ」
聖女はそう言うと、魔法陣を背に跪いた。
少女達も跪き、手を組んだ気配を後ろに感じる。
懐から出したカーファイの実をひと思いに口内へと放り込み、ユフィリスは祝詞を唱え始めた。
やがて溢れ出す光の粒子に、ほんのりと周囲が明るくなっていく。
「天よ、いみじき力宿りて猛り狂ひし子、見ゆるや。あが子の悲しき涙は、見ゆるや。われ守る者なり、魔退けし力給はれ、仇なす心退けし力給はれ」
「…………われは天統ぶる祖の使ひなり。光満ちて、慈悲のしずく降り来たり。われは安寧ねがひし祖の心なり……闇深きにやすらけし光とどけむ。」
2つの祝詞が重なり合う。
水晶を握る手が熱く燃え、清涼なる神聖力をみるみる奪っていく。
「天の御心のままに、禍を祓わん」
「然らば祖の心、かしこかしこみて承らむ。天の御心、ここにまします」
魔法陣がぼんやりと七色に輝き、2人の少女を覆っていく。その中心から絡み合う2つの光が、1筋の線となって真っ直ぐに空中へと立ち上っていった。
――――雷龍、ライデンストリア
古より存在せしその大いなる存在は、昔、人と共にあった。
空に輝く稲妻とおなじ、白金の鱗を持つ美しき龍。
誰もが跪き慈悲を乞うた。強き力は畏れとともに、人々を守る盾として、瘴気迫りくる地を長い間守ってきた。
――――かつてのノースフォートを滅ぼす、その時まで。
黒き巨体が羽ばたく。
龍は抑えきれない怒りに、猛り狂っていた。
昔、滅ぼしたはずの砦に、焔が灯っている。
泳ぎ慣れた空の上、暗雲立ち込める稲妻の中を、龍は泳ぐ、泳ぐ。
一刻も早くその灯りを消し去りたい。
そうでなければ堪らなかった。腹の底から湧き上がる何かに、深く支配され、自身を見失ってしまいそうだったからだ。
しかしもうすぐ砦というところで、龍は、暗闇の中に一筋の光を見つけた。
人の匂い。
しかもそれは、恐怖と勇気、何の理由もない大きな自信に支配された、龍の最も嫌いな人間の匂いであった。
人間への憎しみ、恨み、嫌悪、赫怒…………狂おしいほどの感情に襲われる。
己を苛立たせる人間どもは、一匹のこらず抹殺しなければならない。龍は焔灯る懐かしき砦へと向かおうとしていた巨体を翻し、七色の光が差す場所へと方向を定めた。
…………かつて、人と共にあった龍は、しかし人と対峙し、その砦を自らの手で滅ぼした。
悔しい。悔しい。悔しい。
大切であったはずの小さき命が、聖なる稲妻に焼け焦げていく。
この悔しみを、誰が理解できよう。
刃を手に群がる人間達。我の血肉に群がる人間達。
かつての記憶が蘇り、喉の奥底からふつふつと、言い知れぬ怒りが沸き起こる。
……行き行けば、虹のたもとには、小さき光があった。
その光は黒き龍が現れたのにも気づかず、鳥のさえずるような声で何かをひたすらに、語りかけている。
『わが入らむとする道は、いと暗うやと思ふ。せめて見れば、ただ一筋のみ明けし。行き行けば、虹の下に至りぬ』
…………これは、なんぞ。
どこかで聞いたことのある、言葉だ。それは祈りのようでもありながら、何かの物語のようでもあった。
龍は一瞬、憤怒も忘れて、その言葉の意味を咀嚼した。
よくよく目を凝らせば、小さな光の中には小さな3匹の人影が見える。
焼け焦げもせず、武装もしていない。その跪く姿は、かつて自分を信奉していた心安き民の姿と意図せずして重なった。
『出づる水のいと清らなれば、すくいのみて思い及ぶ』
どこに清らな水があろうか。龍は己を振り返った。
…………かつて、龍は清き水を呼ぶ天の呼び笛であったのに。人に汚されしこの身は、もう瘴気を祓う力すらない。
我にあるのは恨みと憎しみ。白金色の鱗には、もう血の跡が残るだけである。
光の中よく見れば、人間のうちの2匹は人間の中に現れるという、魔を祓う聖女であった。
大きな虹を背負い、七色の翼にも見える光の粒子を1つの絆のように絡め合い、天高くにまで広げている。
もう1匹はしかし、聖女ではなかった。
小さく、今にも消えそうなぼんやりとした光の中……ただひたすらに、震え祈っている。
……人心の、げに弱しや。
龍は何の感慨もなく、己の尾を振り回した。
轟音と共に、崖が弾け飛ぶ。
大きくえぐり取られた壁面に、龍は脆き人間達の死を確信した。
――――バヂリッ
……しかしその小さき命達は、なぜか変わる事なく、そこにただ跪いていた。
『さあれど、我もまた然り。人の世の理を知らざれば、知りはじめてにうち驚きて、ひとり惑へどもかひなし』
…………なぜ、壊れない。
龍は不思議に思った。
小さき聖女達は、目を瞑っていた。恐れなどないように。信じるものにただ、突き進むように。
龍はもう一度、尾を揮った。
――――バヂリ
何かに弾かれるような感触。そこでようやく龍は、聖女達が周囲に漂うぼんやりとした光によって護られていることを知った。
『いとけなき命の、げに尊きや。知らでいかで背く』
……いとけなき命は、尊きや?
知らで背いたのではない。……知って、背いたのだ。
龍は人の醜さを知った。人の心の弱さを知り、己の愚かさを知った。
『わが身をなす光より、慈悲のしずくもたらしき』
どうして人は、愚かなのだろう。我の慈悲は、無意味だったのか。
龍の心に再び、悲しみが去来する。
――――バヂリ
振るった爪が光に妨げられる。
龍は、心のままに慟哭した。
それは暗い暗い憎しみに勝る、強い強い悲涙であった。
「…………天よ。いみじき力宿りて、猛り狂ひし子、見ゆるや。あが子の悲しき涙は、見ゆるや」
―――その時。小さくちっぽけな人間の、震える小さな祈りが聞こえた。
…………天よ。いみじき力宿りて、猛り狂ひし子、見ゆるや。あが子の悲しき涙は、見ゆるや。
龍は衝撃を受けた。いみじき力とは、自分のことだろうか。猛り狂ひし子とは、自分のことだろうか。あが子の悲しき涙…………しかし、龍は泣いてなどいなかった。悲しくて悲しくて、しかし涙など流れなかった。
……悲しみが憎しみに。憎しみが怒りに。
怒りは憤怒となり、龍の全身を支配していたのだ。
――――我の悲しみは、見ゆるや。
龍は確かに悲しんでいた。
悲しくて悲しくて、いつしかそれが憎しみに、恨みに、怒りに変わってしまったけれど。
――――我の悲しみは、誰にぞ見ゆる。
…………その呟きが聞こえた訳でもないだろう。
しかしふと、小さきちっぽけな人間が、汗に塗れた顔を上げた。
七色に光る砂粒のような瞳。あふれ出る涙に宿る、小さな小さな……薄ぼんやりとした、光の粒子。
「われ、守る者なり。魔退けし力、給はれ。仇なす心、退けし力、給はれ」
白金色の髪が揺れる。虹色の光が、溢れ出す。
……それは神の色。かつて、雷龍がその身に宿せし鱗と同じ、光の色であった。
『光享くる、乙女は、見ゆるや』
――――ああ、見える。
『わが猛き子よ』
――――いいや、違う。
わたしはもう、あなたの猛き子ではない。
――――猛り狂ひし子。
……龍はかつて、神の使いであった。
白金の鱗は神の慈悲に等しく、天貫く稲妻は、神の恵みをもたらす大地への呼び笛であった。
――――だが、殺してしまった。滅ぼしてしまった。
人間は弱きものと……弱き心こそ、神の魅る愛であると……知っていたはずなのに。
『そは、汝が憂ひ払はむ。弱き心にこそ清き願い宿り』
――――ああ、神様。
悔しい。悔しい。
――――そは、我が思ふ、心に等し。
龍は深い慟哭の声を上げた。
大地は揺れ、轟音と共に雷鳴が轟く。
激しい感情に浚われた魂が、深い深い懺悔に沈んだ。
『然らば、闇深き地にも、安寧の光とどけしむ』
ああ、神様。
禍々しき黒き龍となったわたしを、どうか消し去ってください。
闇に沈みしは悲しみに暮れ、光宿りしは喜びに震え。―――それが、創造神たる光の御心であったのに。
ただ弱き人の営む、全てのものが、神の願いであったのに。
「天の御心のままに、禍を祓わん」
瘴気に侵されしこの地を、どうか安寧に導いてください。
わたしの願いは、あなたの願いと同じだったのだから。
『猛き子よ、虹光は見ゆるや』
――――ああ、見える。
――――然らば、共に行きて見よう。
われ願いて、世にかてあらなむ。
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