暁の果てに火は落ちず ― 大東亜戦記・異聞

藤原遊

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第8章 揺れる灯火(桐原志乃)

空襲警報が、日常になった。

午前八時、教室の窓を叩くように鳴り出したサイレンに、先生は顔色一つ変えずに「防空壕へ」とだけ言った。
わたしたちは鞄を持ち、整列し、声を上げることもなく歩いた。

驚きもしない。悲鳴も出ない。
ただ、少しずつ“慣れて”いく。
それが恐ろしいのだと、帰り道になってから思った。



その日、綾乃の机が空いていた。

疎開先の山形へ向かったと、朝の連絡があったらしい。
わたしは、ノートの間に栞のように挟まった彼女の字を思い出していた。

「志乃、あなたは東京から動かないの?」
そう尋ねられたとき、答えに困った。

父は、どこにいるのかわからない。
母は、ずっと“ここ”に根を張っている。
そしてわたしは――どこにでも行けるようで、どこにも行けない。



帰り道、焼けた建物の前で立ち止まった。
かつては雑貨屋だった場所。今は灰色の影だけが残る。

その向こうに、鉄条網で囲われた敷地がある。
高くはない柵の奥で、何かを運ぶ人の姿が見えた。

布をまとった痩せた体。茶色の髪。
一瞬、目が合ったように思った。
でも、彼はこちらを見ていたのではなく、空を見ていたのかもしれない。

――捕虜。アメリカ兵。

なぜだろう。
その背中に、「自由」の反対側を見た気がした。



家に戻ると、母が玄関の照明をつけていた。
夕方でも、灯りが必要なほど家の中が暗くなっている。

電力が制限されているからか、気づかないうちに遮光板がずれていたのか。
いずれにせよ、「明るさ」というものが、日に日に小さくなっている。

夕飯は、乾パンと干し大根。
味に不満はない。そもそも、味という感覚が薄れていた。

母が言った。
「志乃、あなた……進路、決めた?」

「決めてない」とだけ答えた。

何かを選ぶということは、何かを諦めるということ。
そして今は、諦めるために選ぶには、世界が揺れすぎている。



夜、灯火管制のなかで布団に潜る。
風の音がして、わずかに家が軋む。
そのたびに、「揺れているのは空か、自分か」とわからなくなる。

わたしは、左の袂にそっと手を入れる。

あの歯車。
まだ、ある。
冷たいけれど、たしかに、そこにある。

見つかったら徴収される。
「金属類回収令」。そういう名の法律がある。
銅も、真鍮も、鉛も――すべて、戦争のために。
つまり、これは“銃弾”になるはずの物質だ。

でも、わたしにとっては――
この歯車は、止まったままの“時計”であり、
返ってこない言葉であり、
まだ燃え尽きていない記憶そのものだった。

だから、手放せない。
誰にも見せられない。
でも、ずっと持っていたい。

わたしは目を閉じる。
灯りは揺れていた。でも、まだ、消えてはいない。

――わたしも、たぶん、そうだ。
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