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難しい植物
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それからひと月ほど経ち、エリックの腕を固定していた棒が外された。
あのカペラ失踪の翌朝、カペラがひどい頭痛で自分の寝台で目を覚ました後も、二人の――三人の関係が変わることはなかった。カペラは火酒のせいであの夜のことを全く覚えていなかったし、エリックもあえてそれを話題にすることがなかったからだ。
その頃には、カペラの酒は、夜だけでは足りなくて、昼間も必要となっていた。アルコールが脳を包み込んでくれるときだけは、エリックも伯爵婦人も侯爵も、彼女にとっては薄いヴェールの向こう側の出来事になる。
その日は過ごしやすい陽気の穏やかな一日だった。
彼女の飲みすぎを心配した執事が庭に出て散歩でもどうかと提案したから、仕方なくカペラは庭へ出る。
そういえば、ここへ来て数ヶ月になろうかというのに、程なくして襲来した伯爵夫人に振り回されてろくに庭を歩いたこともなかったなとカペラは気が付いた。
いつもは城の中から見るだけの、ツゲできれいに整えられた花壇の間を歩く。ピンクや紫の小花が、ミックスして植えられていて、時折風に乗ってふわりと草の香りが鼻腔をついた。
花壇の間を抜けると、背の高さ以上もある生垣で作られた迷路がある。それほど大きな規模ではないので、適当に進んでもそれほど時間はかからない。ところどころに休憩用のベンチが置かれているところを見ると、本当の目的は別にあるのかもしれない。
迷路の一番奥に設えられた噴水の横のベンチで水が流れ落ちる様に心を和ませたら、ふと、あの菜薬草園に行ってみたくなった。
初めて、エリックに熱い体を触れられ、その舌と指でそれまで知らなかった快楽の世界を垣間見たあの場所――それは、今やカペラにとっては甘くて苦い思い出として心に刻まれている。
そこに行けばあの夜に戻れそうな気がして、彼女はそこへ向かった。
菜薬草園の隅で見慣れた背中を見かけたのは、本当に偶然だった。あるいは、飲んだくれる彼女を見かねた執事の粋な計らいか。
周りには誰も――伯爵夫人がいないことを確かめて、カペラは恐る恐る「エリック?」とその背中に声をかけた。
「カペラ様――」
突然声をかけられて驚きはしたものの、すぐに穏やかな笑みを湛えたエリックに、カペラは僅かに安心する。
少なくとも、避けられてはいないようだ。
「腕、治ってよかったわね」
「おかげさまで。思ったより早く治ってよかったです。ご心配をおかけいたしました」
恥ずかしそうに微笑んだ彼に、彼女は素直に彼に歩み寄る。
「カペラ様――?」
そのまま彼の胸に頬を摺り寄せたい。そうしたら、彼は何も言わずに受け入れてくれるだろうか。
そうは思ったものの、あと数歩というところ――手を伸ばせば、彼に触れることのできる距離で彼女の足は止まった。
声をかけ近づいたはいいものの、ここしばらく言葉を交わすことのなかった相手に、それ以上何を話しかけていいのか分からず、カペラはエリックの視線をまっすぐ受け止めることは出来ない。
予想もしていなかった邂逅に――多少はっきりしたものの、まだ抜けきっていないアルコールのせいで判断力の鈍った頭では――いつものように気を回す余裕もなくて。
そうして何気なく横から覗き込んだ先には、彼の前の四角く区切られたスペースがあった。まだ十数センチメートルと小さいけれど、宙に空に向かってまっすぐと細い葉っぱがいくつも空に向かって伸びている。
「これ、薬草?」
「……どうでしょう」
「分からないのに、育ててるの?」
「ええ、まあ。侯爵からいただいた異国の植物で、分からないことだらけです。それでも、これからどうなるかわからないものを大きくする楽しみがございます」
カペラは先日侯爵にダムの話をしたときに見せられたずんぐりした麦のようなものを思い出した。
「――あの丸い粒がこれ?」
「ええ、侯爵の指示で。――形は少し麦と似ていましたから、やはり芽もよく似ています。ただ、ここまでは何とか育つのですが、その後がどうしても枯れてしまうのです――」
エリックは悲しそうに言った。
「エリック様――」その時、小姓の一人が慌てて菜園に姿を現した。「カペラ様もご一緒とは……、失礼いたしました」
ただでさえ急ぎの用があるところ、思いがけずカペラの存在があって小姓はさらに取り乱す。
「どうかしましたか?」
エリックはいつも以上に穏やかに小姓に答えた。
「はい。先ほど早馬がまいりまして、本日、侯爵様がお戻りになると連絡が――」
「侯爵が? ――それはいけません。早急に出迎えの準備を」
手早く指示を出すと、エリックはカペラに向かって失礼しますと頭を下げ、急ぎ城の中へと戻って行った。
残されたカペラは、ため息とともに視線を下げる。
どうしたかったのか、自分でもわからない。これから、どうしたいのかも。
カペラの目に、エリックの育てた小さな芽が止まった。
途中までは育つのに、大きくなるまえにダメになってしまう難しい植物――まるで自分の心のようだ、と彼女はその姿を自分に重ねる。
実る前に潰えてしまうエリックへの気持ち。それも、何度も何度も――
しかし、この草だってちゃんと大きくなれば花を咲かせるだろうし、あのずんぐりした実をつけるはず。
カペラにも、やらなくてはならないことがある。少なくともそれは、今エリックとの関係を実らせることではなく――
カペラは、菜薬草園から小道を抜けてすぐのところにある厩舎へと急いだ。
「今すぐに、乗って出られる馬、でございますか?」
突然現れた女主人に――しかも乗馬服ではなくドレス姿の彼女の指示に驚きながら、厩舎係は恐る恐る確認をする。
「着替える時間も惜しいので」
「かしこまりました。サイドサドルにてすぐにご用意いたしますので、正面玄関にてお待ちいただけますか?」
「いえ、ここで待ちます。すぐに準備を」
カペラは、厩舎係がサドルを取り付けるのを隣で黙って待った。
あのカペラ失踪の翌朝、カペラがひどい頭痛で自分の寝台で目を覚ました後も、二人の――三人の関係が変わることはなかった。カペラは火酒のせいであの夜のことを全く覚えていなかったし、エリックもあえてそれを話題にすることがなかったからだ。
その頃には、カペラの酒は、夜だけでは足りなくて、昼間も必要となっていた。アルコールが脳を包み込んでくれるときだけは、エリックも伯爵婦人も侯爵も、彼女にとっては薄いヴェールの向こう側の出来事になる。
その日は過ごしやすい陽気の穏やかな一日だった。
彼女の飲みすぎを心配した執事が庭に出て散歩でもどうかと提案したから、仕方なくカペラは庭へ出る。
そういえば、ここへ来て数ヶ月になろうかというのに、程なくして襲来した伯爵夫人に振り回されてろくに庭を歩いたこともなかったなとカペラは気が付いた。
いつもは城の中から見るだけの、ツゲできれいに整えられた花壇の間を歩く。ピンクや紫の小花が、ミックスして植えられていて、時折風に乗ってふわりと草の香りが鼻腔をついた。
花壇の間を抜けると、背の高さ以上もある生垣で作られた迷路がある。それほど大きな規模ではないので、適当に進んでもそれほど時間はかからない。ところどころに休憩用のベンチが置かれているところを見ると、本当の目的は別にあるのかもしれない。
迷路の一番奥に設えられた噴水の横のベンチで水が流れ落ちる様に心を和ませたら、ふと、あの菜薬草園に行ってみたくなった。
初めて、エリックに熱い体を触れられ、その舌と指でそれまで知らなかった快楽の世界を垣間見たあの場所――それは、今やカペラにとっては甘くて苦い思い出として心に刻まれている。
そこに行けばあの夜に戻れそうな気がして、彼女はそこへ向かった。
菜薬草園の隅で見慣れた背中を見かけたのは、本当に偶然だった。あるいは、飲んだくれる彼女を見かねた執事の粋な計らいか。
周りには誰も――伯爵夫人がいないことを確かめて、カペラは恐る恐る「エリック?」とその背中に声をかけた。
「カペラ様――」
突然声をかけられて驚きはしたものの、すぐに穏やかな笑みを湛えたエリックに、カペラは僅かに安心する。
少なくとも、避けられてはいないようだ。
「腕、治ってよかったわね」
「おかげさまで。思ったより早く治ってよかったです。ご心配をおかけいたしました」
恥ずかしそうに微笑んだ彼に、彼女は素直に彼に歩み寄る。
「カペラ様――?」
そのまま彼の胸に頬を摺り寄せたい。そうしたら、彼は何も言わずに受け入れてくれるだろうか。
そうは思ったものの、あと数歩というところ――手を伸ばせば、彼に触れることのできる距離で彼女の足は止まった。
声をかけ近づいたはいいものの、ここしばらく言葉を交わすことのなかった相手に、それ以上何を話しかけていいのか分からず、カペラはエリックの視線をまっすぐ受け止めることは出来ない。
予想もしていなかった邂逅に――多少はっきりしたものの、まだ抜けきっていないアルコールのせいで判断力の鈍った頭では――いつものように気を回す余裕もなくて。
そうして何気なく横から覗き込んだ先には、彼の前の四角く区切られたスペースがあった。まだ十数センチメートルと小さいけれど、宙に空に向かってまっすぐと細い葉っぱがいくつも空に向かって伸びている。
「これ、薬草?」
「……どうでしょう」
「分からないのに、育ててるの?」
「ええ、まあ。侯爵からいただいた異国の植物で、分からないことだらけです。それでも、これからどうなるかわからないものを大きくする楽しみがございます」
カペラは先日侯爵にダムの話をしたときに見せられたずんぐりした麦のようなものを思い出した。
「――あの丸い粒がこれ?」
「ええ、侯爵の指示で。――形は少し麦と似ていましたから、やはり芽もよく似ています。ただ、ここまでは何とか育つのですが、その後がどうしても枯れてしまうのです――」
エリックは悲しそうに言った。
「エリック様――」その時、小姓の一人が慌てて菜園に姿を現した。「カペラ様もご一緒とは……、失礼いたしました」
ただでさえ急ぎの用があるところ、思いがけずカペラの存在があって小姓はさらに取り乱す。
「どうかしましたか?」
エリックはいつも以上に穏やかに小姓に答えた。
「はい。先ほど早馬がまいりまして、本日、侯爵様がお戻りになると連絡が――」
「侯爵が? ――それはいけません。早急に出迎えの準備を」
手早く指示を出すと、エリックはカペラに向かって失礼しますと頭を下げ、急ぎ城の中へと戻って行った。
残されたカペラは、ため息とともに視線を下げる。
どうしたかったのか、自分でもわからない。これから、どうしたいのかも。
カペラの目に、エリックの育てた小さな芽が止まった。
途中までは育つのに、大きくなるまえにダメになってしまう難しい植物――まるで自分の心のようだ、と彼女はその姿を自分に重ねる。
実る前に潰えてしまうエリックへの気持ち。それも、何度も何度も――
しかし、この草だってちゃんと大きくなれば花を咲かせるだろうし、あのずんぐりした実をつけるはず。
カペラにも、やらなくてはならないことがある。少なくともそれは、今エリックとの関係を実らせることではなく――
カペラは、菜薬草園から小道を抜けてすぐのところにある厩舎へと急いだ。
「今すぐに、乗って出られる馬、でございますか?」
突然現れた女主人に――しかも乗馬服ではなくドレス姿の彼女の指示に驚きながら、厩舎係は恐る恐る確認をする。
「着替える時間も惜しいので」
「かしこまりました。サイドサドルにてすぐにご用意いたしますので、正面玄関にてお待ちいただけますか?」
「いえ、ここで待ちます。すぐに準備を」
カペラは、厩舎係がサドルを取り付けるのを隣で黙って待った。
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