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好きな人がいる朝って素晴らしい
しおりを挟む「れーせんせー!」
「お邪魔します」
「ようこそ!いらっしゃい」
仮にも引っ越しだと言うのに、2人の荷物は驚くほど少なかった。
両手で持てるだけの荷物。千冬くんも小さなリュックと、手に黒い猫のぬいぐるみを抱えている。
小さな部屋だから荷物は少ない方が助かるけど。
「千冬くん、どーぞ!睦月さんも、えっと、どうぞ!」
2人のために新しく買ったスリッパを並べる。
「ありがとう!」
「悪ぃな…」
ニコニコと笑う千冬と、ずっと申し訳なさそうに苦々しい顔をしてる睦月さん。
睦月さんの次の仕事が見つかるまで、うちの家事手伝いをしてくれるという約束のもと、2人は俺の家に居候することになった。
睦月さんは、日中はバイトと就活。俺は、シフトを夜勤だけは無しにしてもらって、千冬くんと一緒に保育園に行き、千冬くんと帰る。
睦月さんには、バイトはしなくていいから就活に専念してと言ったんだけど、ここだけはどうしても譲ってくれなかった。貯金とバイト代から生活費を出すと言って譲らなかったんだ。
確かに俺の給料にそんなに余裕があるわけじゃないけど…睦月さんがまた働きすぎて倒れないように、しっかり見張ってなきゃ。
そもそも、病室で提案した時、睦月さんは、それはそれは乗り気ではなかった。
千冬くんのキラキラ光線でもイエスと言わなかったほどだ。
最終的に、俺が病院の床で土下座して頼み込もうとしたところで、やっと折れてくれたんだ。
やっぱ嫌だよね…急にキスする男の世話になるなんて。
「ここ、ちぃといおのおへや?」
「そうだよ。好きに使ってね」
「わー!おもちゃもある!」
「…悪いな、世話かけて」
「いいえ!これで罪滅ぼしになるなら。」
「罪滅ぼし?」
「あ」
バツの悪そうな顔をしてる睦月さんに、なんとか少しでも気を軽くしてもらいたいと思っていたせいか、胸に引っかかっていたことをつい漏らしてしまった。
「えっと…、前に、ご飯ご馳走になった時の…キス」
睦月さんは、少し考えてから、みるみる顔を赤く染める。
怒ってる?
「あれ…夢じゃなかったんだな」
「え!…違います…。本当に、本当にごめんなさい、つい、あの、深い意味はなくて!なんか体が勝手に…とにかくっ!ごめんなさい!」
「……ガキじゃねぇんだし、キス…くらい、その、気にするな。」
キスくらい!?
睦月さん、なんて漢気あふれる人なんだ。
勝手にキスされてそんな風に許せるなんて。
「えっと…、はい…、すみません。」
「いや…。」
もしかして睦月さんは、経験豊富過ぎてキスなんてなんとも思ってないのかな。
……それはちょっと、ヤダけど…。
睦月さんは口を手で覆ったまま、さらにそっぽを向いてしまったから、表情は分からない。
でも、耳まで赤い。
やっぱり本当は怒ってる?
「…深い意味は、ないんだろ?」
「………ハイ」
「なら、お互い忘れようぜ」
静かにそれだけ言って、睦月さんを呼ぶ千冬くんの元へ行ってしまう。
俺は、睦月さんの背中をただ見つめて、ため息。
忘れる、って。
嫌われてもイヤだけど、無かったことにされるのは…
「もっと、寂しい…かも」
翌朝、目が覚めると食欲をそそる香りと、エプロン姿の睦月さんがいた。
「れー先生、今日は早番だろ?朝飯作ったけど食えるか?チビも起きろ、飯だ」
「いおーだっこー」
体を起こしてリビングのローテーブルを見ると、テーブルの上には、ほかほかのご飯と味噌汁、茹で野菜と卵焼き。
朝はだいたい惣菜パンで済ませていた昨日までとは、比べ物にならない程豪華な朝ごはんが並んでいる。
それに、睦月さん…!
俺の部屋に、睦月さんがいる。ちょっと猫背の、怠そうな後ろ姿。
好き…!
もう寝起きから、胸の奥のきゅんきゅんが止まらない。
「…しあわせ…」
ボフンと枕に顔を埋める。
渋る睦月さんにめげずに、家に来るよう頼み込んで良かった。
好きな人がいる朝って素晴らしい。
横を向くと、隣の部屋で、千冬くんを抱き起こす睦月さんの姿。俺はその光景をうっとり見つめちゃう。
…睦月さんの再就職先、ずっと見つからなければいいのに。
なんて思っちゃったり。
「「いただきます!」」
「どうぞ」
朝食を囲みながらたわいもない会話。
やはり千冬くんは睦月さんの膝の上に座っていて、そんな2人は可愛いけど、欲深い俺はちょっと嫉妬しちゃう。
子供用の椅子、早く買わなきゃ。
「おいチビ、焦って食うな。またこぼしてるぞ。れー先生、ティッシュ取ってください」
「はい。…睦月さん、敬語、あと先生っていうのもやめてください。しばらく一緒に暮らすのに、他人行儀な感じが寂しいです。」
「…じゃぁ、れーって呼べばいいのか?」
きゅん。
小首を傾げながられーって呼ぶ睦月さんにときめく。ちょっと舌っ足らずな感じでかわいいんだよね。
でも…、もしかして睦月さん、俺の名前知らない?
「念の為伝えておくと、俺の名前は蓮です。早川蓮。でも『れー』のままで全然いいです。子どもたちはみんなそう呼んでくれてる──」
「れ、蓮!蓮って呼ぶからな。とにかく早く食え、遅刻するぞ」
あーあ、余計なこと言った。
ムッと唇を尖らせていると、睦月さんが「あ、」と声を出す。
「俺のことも、伊織って呼べよ。蓮?」
優しく細められた目。
朝の優しい光に照らされた笑顔に見惚れる。
俺は、口の中のごはんをよく噛まないまま飲み込んだ。
「じゃ、行こっか千冬くん」
「いお!いってきます!」
「あ、おい待て」
パタパタと玄関に駆け付けてくれた睦月さん…改め、伊織さんの手には、お弁当。
「持ってけ」
「うそ…」
「いらなかったか?」
「い、いる!すごくいる!!」
伊織さんがお弁当を引っ込めようとしたから、思わず腕ごと掴み、ぐっと引き寄せてしまった。
勢いよく引かれ、よろけて俺に倒れ込む伊織さんをそのまま抱きとめる。
体、小さい。
「えっと…すみません」
「……」
「れーせんせー、はやくー!」
「ごめん千冬くん!すぐ行く!」
「伊織さん、ありがとうございます。大切に食べます。いってきます!」
「……おう」
視線を逸らされた事なんて気にならない。俺の顔はゆるゆるに緩みまくっている。
こうして、俺の幸せすぎる日々が始まった。
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