いつか、手を繋げたら。

水鳥ざくろ

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隠す思い

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 パソコンの画面を見続けていたので、目が疲れた。
 鈴木葵は、仕事の時だけ使用する眼鏡を外して、こめかみをギュッと押した。
 腕時計を見るともうすぐ正午、休憩時間だ。今日もまたコンビニのパンとペットボトルの水か……と考えるだけでモチベーションが下がる。変わり映えの無い毎日。思わずため息をこぼすと、隣の席の岩崎が心配そうに葵に声を掛けた。
「鈴木、体調悪い?」
「あ、いや……平気、です」
 葵は慌てて笑顔を作ると、眼鏡をサッと着用した。
「最近、目が疲れやすくて……年でしょうかね」
「ふふ。まだまだずっと若いじゃない。まだ……いくつだっけ?」
「二十五歳です」
「うわぁ。ぴちぴちだ」
 僕なんてもう三十路だよー、と岩崎は笑う。
「……ま、体調がすぐれないわけじゃ無いのなら良かった。その……少しでも異変を感じたら早退するんだよ?」
 異変。
 その言葉に息を呑みながら、葵は小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
 運が良いのか、葵は勤務中に「異変」を起こしたことは無い。それは、本当に幸運なことだと思う。異変……ヒートは、だいたい予想は出来ても、完璧に把握出来るものでは無いのだから。
 
 男性、女性。
 それから、アルファ、ベータ、オメガ。
 この世界の性は多様だ。
 人間は、男女の性に加えてバース性を持つ。
 天才的なアルファ。
 一般的だと言われるベータ。
 過去には社会的地位の低かったオメガ。
 葵は、男性でオメガだ。定期的に発情期のヒートが訪れて、男性でありながら妊娠が可能な性質を持っている。
 ヒートは定期的に訪れ、その間は抑制剤を服用しないと普通の生活が送れなくなってしまう。
 葵の場合は、三ヶ月に一度ほどのペースでヒート状態になるが、抑制剤のおかげでなんとか理性を保っている。ヒートは一週間ほどで鎮まるが「身の安全」のために、葵の勤めるこの会社では、ヒート休暇を取ることが義務付けられている。
「困ったことがあったら、いつでも言ってね?」
 先輩である岩崎はベータだ。
 ああ、こういう人を好きになれたら良かったのに、と葵は少し俯きながら「ありがとうございます」と言葉を紡いだ。
 
 ***
 
「はぁ……」
 休憩スペースに誰も居ないことを確認してから、葵は盛大なため息を吐いた。
 昼休みは、大抵の社員は社員食堂を利用する。けれど、人混みが苦手な葵は、こうして静かな場所で食事を取るのが好きだ。
 窓際の席のテーブルの上に、コンビニで買ったコロッケパンとペットボトルの水を並べて「いただきます」と手を合わせる。あと半日、頑張らないと……そう思いながらコロッケパンを齧ろうとした時、背後から「鈴木」と声を掛けられた。葵の心臓が跳ねる。
「しゃ、社長!?」
 慌てる葵を面白そうに瞳に映しながら、社長と呼ばれた男——篠原はニッと口角を上げた。
「なんだ。またコンビニのパンか?」
「あ、はい……」
 篠原の圧倒的なオーラを感じながら、葵はこくりと頷いた。そんな葵に、篠原は「駄目だなぁ」と言いながら、ビシッと葵を指差す。
「もっとカロリーのあるものを食べなさい。そうだ、社食の新しいメニューにスタミナ丼ってのがあったぞ? なんでも一杯で千キロカロリー摂取出来るそうだ」
「そんな……お昼からそんなの食べたら、胃がやられちゃいますよ……」
「大丈夫だろ、若者なんだから」
 笑いながら言う篠原も十分に若く見える。確か、年は三十代だったはずだ。葵は苦笑して「機会があれば」と言葉を濁した。
 篠原は、質の良いスーツを見に纏い、ピカピカに光る革靴を鳴らしながら葵に近付く。
「この前の資料、分かりやすくて助かった」
「あ……ありがとうございます!」
 篠原からの褒め言葉が素直に嬉しかった葵は、ぺこりと頭を下げた。
 篠原は、上機嫌の様子で腕を組む。
「さすが、俺が見込んだ男だな。仕事が出来る。完璧だな」
「いえ、そんな……」
「スカウトして、正解だった」
 スカウト。
 その表現が正しいのかどうかは考えものだが、葵が篠原に拾われたのは事実だ。
 あからさまな差別は無くなったが、オメガだという理由が就職活動に支障をきたす事例は少なく無い。
 葵も、狙った会社の面接で「オメガの人は休むからなぁ……」と何度も苦い顔をされていた。
 もうすぐ春だという時期になっても、就職先は見つからなかった。もう自分は、社会に必要とされていないのではないかと人生を悲観していた時、出会ったのが篠原だった。
 偶然、カフェで相席になった篠原は、どこかくたびれたスーツ姿の葵のことをじっと見つめてから、カップのコーヒーをひとくち飲んでから口を開いた。
「就活ですか?」
「えっ?」
 急に知らない人間に話し掛けられて、葵は驚きながらも「はい……」と頷いた。
「けど、今のところ全戦全敗で……」
「そうですか。それは苦労されていますね」
「苦労……まぁ、そうですね」
 葵は息を吐く。
「僕は、その……」
 初対面の人間に、自分がオメガなんです、だなんて言いたくなかった。葵は別の言葉を探す。
「その、えっと……魔力があまり強くなくて……」
 葵は自分の手のひらをじっと見つめる。そして、小さな光を指先から出した。
 これが、葵の魔力だ。
 この世に生まれて、バース性よりも早く判明するのが魔力の強さだ。
 文明の発達と共に、魔力はあまり重視されることのない能力とされている。だが、魔力が強い人間は、今でも魔法使いとして、公的機関で働くことが出来る。業務内容は幅広いが、主となっているのは「国民を守る」ことだ。彼らは炎や水、時には風を操って災害や緊急事態から人間を守るという重要な役割を与えられている。
 大抵の人は「ほどほど」の魔力を持って生まれてくる。人口のほとんどがベータであるように。バース性と魔力の関係は、まだ解明されていないが、アルファの人間ほど魔力が強く、オメガの人間ほど魔力が弱いというのは多く見られる事例だった。
「綺麗な光だ」
 篠原は微笑む。
「ま、今は魔力が弱くても何でも出来る時代ですよ」
 真っ直ぐな励ましの言葉に、葵は小さく頷いた。だが、就職先が見つからない現実は重く肩にのしかかる。思わず「はぁ……」と息を吐くと、篠原はそんな葵を見かねたのか腕を組んだ。
「ちなみに、どんな職種を希望しているんですか?」
「職種……僕は、パソコンが得意なので、出来れば事務系ですね……」
「ほう。パソコンが得意ですか。国家資格は持っていますか?」
「一応……」
「履歴書を拝見しても?」
 本来なら、初対面の人間に個人情報を晒すなど考えられない。けれども、その時の葵はそこまで頭が回らなかった。
 なので、カバンから履歴書の入った白い封筒を取り出して、はい、と篠原に簡単に渡してしまった。
 篠原はそれを受け取ると、封筒の中から履歴書を取り出して広げ「鈴木さんというのですね」と、ゆっくりと文字を目でなぞっていた。
 ——あれ? なんでこんなことしてるんだろう……。
 ぼんやりと葵は篠原を眺めた。
 高そうなスーツを纏ったその人は、どこか深いオーラを放っている。きっと、アルファだ、と葵は思った。大学の教授に、似たようなオーラを放っていた人が居たことを思い出す。まだ若いのに教授の座に着いていて、エリート中のエリートだと、皆が騒いでいた。
 ——この人も、エリートなんだろうな。
 葵は目の前の「たぶん」アルファの人間の髪を見つめる。ワックスで整えられた黒髪は艶を持ち、そこから覗く瞳は切れ長なコーヒー色だ。履歴書を持つ手は大きく、骨ばっていて男らしい。指輪をしていないから独身なのかな、と勝手な想像をしていた葵は「もし……」と声を掛けられたことでハッとして、思わず姿勢を正した。
「もし、良かったらウチに来ませんか?」
「……は、はい?」
 ウチに来る?
 ウチとは、家のことだろうか……?
 混乱する葵に、信じられない言葉が向けられる。
「俺、いや、私は会社を経営している篠原と言います」
「は……? え……?」
 会社を、経営している?
 つまり、社長……?
 葵は震える声で篠原に訊いた。
「し、社長さんなんですか?」
「ああ。まぁ、一族がやってる事業を引き継いだだけだが……つまり、ボンボンとか言うやつです」
「いえ、そんなことは無いでしょう……」
 まさか、会社を任されているような人間だったとは。葵は緊張で乾いた唇で篠原に問う。
「あの、ウチに来るというのは、その……」
「ああ、言い方が悪くてすみません。鈴木さん、あなたはズバリ、ウチの会社に求めているような人材です」
「え……?」
「我が社は、魔力で人を評価していません。重要なのは、その人がいかに輝ける仕事が出来るかです」
「輝く……」
「鈴木さんは、パソコンのスキルがとても高いようですね。これは、今、私が欲しいと思っている人間です。ちょうど、一名、結婚して退職した者が居て……その枠を埋めるのに悩んでいたところなんですよ。ですから、鈴木さん」
 篠原は、大きな手をスッと葵に差し出した。
「あなたさえ良ければ、お持ちになっているスキルをウチで活かしてみませんか?」
「あ……」
 なんということだ!
 初めて、社会に必要だと思われている気がした葵は、勢い良く篠原の手を力強く握った。
「ぜひ! ぜひお願いします!」
 飛びつくような勢いの葵を見て、篠原はおかしそうに笑った。
「では、これからよろしく」
「ありがとうございます!」
 こんな展開で就職先が決まるなんて、夢にも思わなかった。
 まるで、運命のようだ。
 葵はどきどきしながら、目の前の篠原を見つめる。
 もしこの人が、自分の運命の人だったらどんなにロマンチックだろう。
 いつの間にか、葵の頭の中は、篠原への思いでいっぱいになっていた。
 
 ***
 
「で、この前の会議で……」
 休憩スペースのテーブルに肘をついて篠原が息を吐く。
「そんな魔法具は使い方が難しそうだからって却下された。酷い話だろ?」
「え、ええ……」
 社長室に戻らず、篠原は葵の隣で長い足を組み直す。
「年寄りは頭が硬いから困る」
「そんな、年寄りだなんて言ったら怒られますよ……」
「あんなのに怒られたって怖くない」
 篠原はふんと鼻を鳴らす。怒りの矛先は、年寄り——篠原の五つ上の兄だ。
 篠原の兄は、魔法具の製造の会社を経営している。
「ウチがあっての奴の会社なのにな」
「それは、まぁ……」
 葵が働く篠原の会社は、魔法使いの能力別に仕事を管理することを軸にしている。公的機関から依頼が来れば、その部署ごとに働いている魔法使いのデータを数値化し、効率の良い働き方を提案するというものだ。
 また、魔法使いの転職のサポートもしており、国内では名の知れた会社だ。社員に魔力の強いものはあまり居ないが、業務はパソコンを使ってのものなので支障は無い。魔法使いたちから、厚い信頼を得ている優良会社だ。
 篠原の兄——勝也は、魔法使いとの距離が近い篠原の会社を頼り、たまに魔法具のアドバイスを求めてくる。その度に、篠原兄弟は意見が合わずに揉めている。もはや恒例行事だ。
「そういえば……兄貴も鈴木の資料を褒めていたな。アイデアは悪いが、出来の良い資料だって。アイデアは悪いそうだがな」
「社長……」
 魔法具のアイデアを出したのは篠原だ。そのアイデアをもとに資料を葵が作った。アイデアはともかく、資料のことを褒められたのは嬉しく感じた。
「どうする? 奴からスカウトされたら」
「す、スカウト!?」
 葵は裏返った声で篠原に言う。
「無いです! そんなことは絶対無いですよっ!」
「いや、分からんぞ……有能な秘書が欲しいって言っていたから」
 葵は「秘書課」に所属している。
 秘書課には三人の人間が居て、葵が一番の新人だ。それから岩崎。もうひとつ上のベテラン先輩に大野という男性が働いている。
 仕事内容は、主に社長である篠原の補佐だ。それのほとんどは、ベテランの大野が担っているので、葵と岩崎は大抵現場からのデータを整理したり、資料のチェックをしたりと忙しい。
「……大野さんの方が、きっともっと良い資料を作りますよ」
 大野はもうすぐ五十歳。豊富な人生経験のぶん、良い仕事をするに違いないと思った。
「いや、どうかな」
 篠原は手を顎に乗せる。
「老眼が辛いと言っていたから、パソコンを酷使させるのも悪いしな。鈴木の方が適任なんだ」
「老眼……」
「それに比べて、鈴木は……いくつになったんだ?」
 岩崎とも似たような会話をしたな、と思いながら、葵は「二十五歳です」と答える。
 篠原は大袈裟に「若いなぁ!」と手を叩いた。
「というか、ウチに来て何年だ? え? もう二、三年経ってるのか! そりゃすごいな!」
「え、えっと、どうも……」
「月日が流れるのがものすごく早く感じる。俺ももう歳なのか……」
「まだお若いじゃないですか」
「あと数年で三十代を卒業するんだぞ……」
 はぁ、と篠原は息を吐きながら立ち上がる。
「今度、スタミナ丼を食べに行かないか?」
「え? 社食の?」
 葵の言葉に、篠原は頷く。
「自分の胃袋を証明したい」
 篠原の言葉に、葵はぷっと吹き出した。
「ふふ、証明、ですか」
「ああ、俺はきっと完食出来る」
「そう、ですね」
 自分でもキツそうなカロリーの塊に、篠原は勝つことが出来るのだろうか。笑っては失礼だ、と自分に言い聞かせて葵は咳払いをひとつして心を落ち着かせた。
 そんな葵の肩を肘で軽くつついてから、篠原は社長室の方に足を向けた。
「邪魔したな。それじゃ、また」
「あ、お疲れ様です!」
 葵は篠原に頭を下げてから、その背中が見えなくなるまで見送った。
「……篠原、さん」
 こっそりとその名を口にする。
 途端に、今まで平静を装っていた心臓がばくばくと鳴り出した。
 初めて会った時から、入社してからも、ずっと……葵は篠原に心を寄せ続けている。
 篠原の態度はいつだって変わらないので、脈は無いことは分かりきっているが……この気持ちは止められない。
 片思いするだけなら、誰にも迷惑をかけるわけでも無いので良いだろうと、葵は昼間は大きくなる恋心を押しつぶすように仕事に打ち込む。おかげで、篠原からの信頼を得ることは出来た。
 ——信頼も嬉しいけど、欲しいのは……。
 葵は、そっと指先から弱い光を出した。あの日、綺麗だと篠原が言ってくれたそれをぼんやりと眺める。
 ——両思いになれたら、幸せだな。
 そんなことは、叶いっこないのに、と自嘲しながら、葵はペットボトルの水を飲む。味はしないはずなのに、どこかそれは苦く感じた。
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