私はビブリオテカ ―― 終わりなき博物誌編纂の過程で生きて嘆いて食べて笑って藻掻く姿に幸あれ ――

屑歯九十九

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第零章 ―― 哀縁奇淵 ――

第005話 ―― 逃げても亡くならない

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【前回のあらすじ――。ヘイミルの孫娘メリアが虫を捕食しようとするのを止めさせるために、ラーフは思わず御馳走することを提案した。直後、歩き出した一行に熊のような印象を持つノックの父が駆け寄り、ノックの頭を斧の柄で殴りつけ、仕事を手伝わなかったことを𠮟責。殴り合いそうになったのをラーフが割って入る】










 見かねた部外者ヘイミルが、老婆心で一歩踏み出した。

「ラーフ殿。この御仁ごじんはノック殿の御父上おちちうえであらせられるのですかな?」

 ノックの父親は、自分と背が同じくらいで年上であろう男が気さくに見知った少年にたずねるので、息子へ向けていた注意をかざるをない。
 しまいには、この人は誰だ? とラーフに問いただす。

「この人はヘイミルさんで、お孫さんであるメリアさんと旅をしている途中でこの里に立ち寄ったんだ」

 そうか……、とノックの父親は不興顔ふきょうがおだ。我が子への怒りとは別に見ず知らずの部外者と対面するのが得意ではないことがうかがえる。
 そのことを少しの機微きび面持おももちから、察したヘイミルは、胸に手をえてお辞儀し、改めて名乗る。
 メリアもそれにならう。
 初対面の相手に今まで受けたこともないうやうやしい態度を示されて、ノックの父親は目を白黒させると、頭をいた。

「そうか……。ええっと。俺はダロンって言うもんだ。ノックの父親で。バカ息子が失礼した」

「バカで失礼なのはお前のほうだ」

 息子の辛辣しんらつな反論にダロンは、なにッ、と声を荒げて斧を持ち上げる。
 ラーフとヘイミルは、親子の間に割って入りなだめた。

「まあまあ落ち着いてくだされ、不躾ぶしつけかばってもらったのは、こちらのほうなのですダロン殿。ご子息しそくには勝手知らずなところを助けていただき、大変感謝しています。これもすべて御両親ごりょうしんの教育の賜物たまものでしょう」

「え、いや、それほどでも……」

 出会いから今までのダロンは、人を殺していそうな人相にんそうだったが、老紳士のめ言葉で、途端にほほゆるめ、気をゆるしたような笑みを浮かべ、照れ隠しに自身の頭を押さえる。
 見ているほうが恥ずかしくなりそうな態度に、真っ先に鼻を鳴らすノック。

「簡単にほだされやがって。犬かっての」

 息子のののしりを聞き逃さなかったダロンはひたいに血管を浮かべて真っ黒なひげの中で歯を強調し、何を……ッ、と声を荒げた。
 怒りに燃える父親の踏み出す一歩をヘイミルが抑えようとしたところで声が上がった。

「ノック! なんでそんな言い方するの?!」

 ラーフはその細い見た目から想像もつかない強い声で訴えた。
 出会って間もない部外者2人は勿論もちろん、ダロンすら目を丸くして掲げた斧も自然と下がる。
 ノックも友人の強い感情を物語る眼差しと耳の奥に残る声によって、体がしびれて、何か言い返そうとしても言葉が出ない。
 ラーフの話は終わらない。

「腹が立ったのかもしれないけど、人をおとしめるような言い方はダメだよ。もし反論があるんなら。ちゃんとすじが通る言葉を選ぶべきだよ」

 ひとみを震わせるノックは、彼自身、様々な眼差まなざしを浴びる。
 少女の真っすぐな眼差し。
 老人のさとすような眼差し。
 父親のざまあみろ、という悪感情を隠さない眼差し。
 そして、友の悲しげな眼差し。
 いったい何が原因か、誰の視線がそうさせたのか。心臓がじれて苦しんでいる。
 思考が舌とともに硬直してしまう。冷たい汗が着実に体の熱を奪う。

「ノック……」

 ラーフのけは、少年がとどめていた感情を決壊させる。

「うるさいな……ッ」

「……でも間違ってるのは」

「うるさいんだよ! お前には関係ないだろ」

「ノック殿……」

 老人の思慮は無駄に終わる。

「人のことバカにしやがって……ッ。いつも上から目線で人を振り回して。自分だって、親の仕事をほっぽり出してるくせに。偉そうなこと言うなよ!」

「ノック!」

 ダロンの発した声は、いさめる感情をふくんでいた。表情から怒りの印象はうすれ、代わりに別種の切迫感せっぱくかんをにじませる。
 ノックも口を閉ざす。そして、友人の辛そうな顔かららし、それどころか背中を向けて早足におかを登っていく。
 ダロンは我が子に手を伸ばし引きめる行動に出るが、それは結果に結びつかず。
 少し斜面を上がって肩を落とし、上がった息を整える。
 父親の口から出るのは無力感からか。ため息と、ッたく……、という短い不満だった。

 ごめんなさい……、と告げる少年のか細い声は、その音量にしては酷く明瞭めいりょうだった。
 きっと、言葉より思いのほうが聞くものの心に届いたからだろう。
 ダロンはかみを掻くと、我が子が去った方をにらんで言った。

「ラーフのせいじゃねぇ。むしろ、お前さんは正しいことを言った。あいつがカギすぎるだけだ」

「でも、ノックの言う通りだ……。僕だって、人のこと言えないよ。それに、ノックが仕事を頼まれるようになってたことを忘れてた……。会ったときに、仕事の手伝いがあるか、聞けばよかった……」

「いや、でも……でもよぉ……」

 ラーフの顔はますます闇に沈む。
 ダロンという男は感情が豊かで基本的に思いやりが優先する。しかし、口が達者じゃない。
 会ったばかりのヘイミルはそれを覚り、代わりに語った。

「ラーフ殿は、ノック殿の言葉の何を嫌ったのですか?」

「……え」

 それは思いもよらぬ質問で、ラーフは言葉に迷う。
 老人は言葉を重ねる。

「それとも、ノック殿をお嫌いになったのですか?」

「違います!」

 間髪かんぱつ入れず即答したラーフは思わず頬が赤くなる。年頃になって突発的に心情を明かすことが気恥きはずかしく、吐いた言葉は呑み込めず目を下げるしかない。
 だがそれこそが、嘘偽うそいつわらざる思いだった。

 友人の言葉を嫌ったのだ。
 思いやりにあふれ、人に寄りうことができる少年の本当の優しい姿が、誰にでもあるようなほんの少しのみにくい一面で隠されてしまうことが、たまらなく嫌だった。
 彼を馬鹿にする他者の言葉以上に。彼自身が自分を損なうのが苦痛だった。

 ラーフは結局、ノックが自分自身の見えない部分を傷つけているように見えたのが、耐え難かったのだ。

 瞑目めいもくするヘイミルは、まぶたの裏で何かを吟味ぎんみするような、わずかな時間をて、口を開く。

「私もあなたの言葉に間違いはないと信じております。あなたが指摘したのは、不必要な侮辱ぶじょくだったのですから。そして、それが分かったからこそ、ノック殿も居心地を悪くなさった」

 自業自得だ……、とダロンがすかさず追従ついじゅうした。

「でも、言葉より先に手を挙げた人間にも非があるのでは?」

 我ながら上手うま援護えんごのつもりだったダロンは、意表いひょうを突かれ、しかもその相手が見るからに育ちのよさそうな少女であること、そして、彼女のしたたかな眼差しに言葉を失う。
 ヘイミルは微苦笑になる。

「そうかもしれない。確かに、暴力は言葉の代わりにはならない。そして時に、反論できない指摘であっても、暴力以上に言葉は人を傷つける」

 情けない顔になるダロンは、何か反論が舌先に転がり出ないかと口を開けたが、結局、短いうめきしか出せず、閉口する。
 ヘイミルは言う。

「どんなに心がけていようとも、人は迷って間違いを犯す。それは私とて同じだ……。若いなら、なおさら。自分を正す心構えも未熟だし、間違いを正す手順をまだ知らないのも無理はない。他人からの非難を受け止めるには自分を客観視きゃっかんしするしかないが、人は誰しも視野を狭めてしまう。だからこそ、相手の間違いを見つけた時、それを改めるべきと思うなら。自他をかんがみ、そして、分かり合うまで双方が根気強く付き合うしかない」

 老人が相貌そうぼうに宿すあらゆる感情が漂う瞳は、少年と父親、そして孫娘に向けられ、最後はどこかへ行ってしまった少年を思い、遠くに向けられた。






 トウヒをはじめとする針葉樹の森は、人が何世代にもわたって手を加えた林と原生林が混在する。
 地元に詳しくなければ、その境界など分からないだろうし、等しく点在する人の痕跡が、より違いを見え難くする。
 しかし、人が手出しできない地形は、なだらかな平地と思わせつつ、いきなり深い傾斜があったり、小さな崖に沢が流れていたり、変化に富んでいる。
 深い森は奥に行くほど、行く手は開けても、30歩ほど先の視界さえ見せず、針葉樹と広葉樹の壁を眺める羽目になる。
 こうなると嗅覚と聴覚が助けとなる。
 猪は気配を感じていつもの道から外れ。鹿は気になった新芽を無視して顔を上げ、耳を揺らす。
 木のこずえなど高い位置に陣取る鳥たちは、視覚も活用し、何かを察知して飛び上がった。

 大地を揺さぶる音が森の深い場所から聞こえてくる。それは巨人のために作った太鼓をゆっくりと優しく殴打したような、酷く穏やかな一定の拍子を打つ。
 低く低く、地面を這う音が長らく続き、森全体がその旋律に耳を澄ませて静まり返る。

 木の根元から顔を上げた老人は、手中のきのこの傘にも似たつばの広い古びた帽子を手の甲で支え、呼吸をしずめた。
 足元を隠すローブのすそには木の葉のくず、枝の欠片、小さなとげがまるで刺繍ししゅうしたように絡みつき、肩に下げていた革のかばんは乾燥した野草と自然に乾燥したヒラタケと陶器の瓶でいっぱいだ。

 老人はヘイミルとは違い、年相応のくたびれた印象と縮んだ体を持ち合わせていた。
 背中は少し曲がり、節くれだった手で、鞄からはみ出す干し草を摘み、近づいてきた驢馬ろばに差し出す。
 しかし、ロバは老人が差し出す餌ではなく、ローブの広いすそに噛みついて引き下がる。
 老人は踏みとどまり、驢馬の手綱を手繰り寄せ、長いうなじに並ぶたてがみを撫でて、獣の心を落ち着かせた。

じいさんが食い物を無視するとは……。厄介やっかいやつが来たようじゃのう……」

 驢馬を年寄り扱いする老人は、持ってた茸と干し草を鞄に突っ込み、掛紐かけひもをロバの首に引っ掛けた。そして、少し驢馬から離れていぼのある鷲鼻わしばなを上下させ、森林の芳香に隠れた異臭を探る。
 目を大きくすると蛇に睨まれた蛙のように体を強張らせた。それは老人の本能がさせる仕草で、長年の経験にはないが、しかし知性が読み取った恐れに、体は自然と寒気を引き起こす。

「本当に、何がやってきたんじゃ……?」

 老人は驢馬の手綱を引いてその場を後にした。

 




 ノックがたずねたのは、他の木より少し離れて寄り添い合う3本の杉の木。
 そのうち1本には、樹皮を剥いだトウヒの丸太が添えられている。丸太には互い違いに長い杭が打ち込まれて簡素だが頑丈な梯子はしごとなっていた。
ノックは使い込まれて肌触りが良くなった梯子を上り、左右に枝分かれした太いみきの間にはりを渡して足掛かりにした狩り小屋に入る。
 小屋は潰れた三角柱の構造で、二面の鎧戸よろいどを上げると程よく冷たい風がゆっくりと室内の空気を洗う。
 杉材を惜しげもなく使った小屋は3人の成人男性が寝転べるほどの空間で。幹が支える梁に板を並べた床、壁は板張り、屋根は板瓦というには不揃いな板材を張り合わせたもの。言ってしまえば風雨をしのぐ程度のものだ。

 ノックは、わらの上に丸められていた毛皮を広げ、その上に横になる。
 見上げることになった天井には、黒炭で描いた稚拙な星座が広がっていた。
 位置も季節も関係ない。その時々で目に付いた星の並びをラーフが書き残したのだ。
 すみのほうには、その時使った折り畳み式の椅子がある。それはかつて父ダロンが作った品で、子供が乗るには十分頑丈だった。
 しかし、いつからか、手を伸ばせば天井に届くようになって、久しく使っていない。
 立ち上がれば、あの黒い星々に触れられる。
 何かに集中している友人の横顔は、思い出すだけで穏やかな気持ちが胸に広がった。
 けど、今は思い出すと痛みを覚える。
 黒い星に手を伸ばせば友人の面影に触れそうで、なにもへだてるものがなかった時分じぶんの彼に近づける気がする。
 しかし、そんなまばゆい思い出は、遠い幻想にしか思えない。
 俯瞰ふかんして自分の今の感情を思い返すと、何もわずらうものがなかった幼い時にあこがれを覚えた。
 無垢むくな衝動が少年に星へ手を伸ばすことを誘った。









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