座頭の石 ‐ざとうのいし

プロローグ

石《いし》と弦《つる》

天下分け目の関ケ原せきがはらの合戦かっせんに勝利し、天下統一を成なし遂とげた徳川家康とくがわいえやすは、江戸えどを中心とする幕府を開いて、それから徳川家の支配は二百六十年間続いた。その始まりの頃、家康は強固きょうこな国造りを目指し、江戸を中心とする五いつつの街道かいどうを整備した。

五街道ごかいどうのひとつ江戸と京都を結ぶ道は中仙道なかせんどうと呼ばれた。

この時の季節は、春から夏へ向かう頃。

その中仙道なかせんどうから外はずれた名も無い脇街道わきかいどうを、男女が歩いていた。

中年の男は、茶色の着物と股引《ももひき》姿、脚あしに脚絆きゃはんを着け、雨避あめよけ代わりの道中合羽どうちゅうかっぱを、着物の上から羽織はおっていた。

首から頭陀袋ずたぶくろを下さげ、帯に腰差こしざしの煙草たばこ。背負う網袋あみぶくろに女性物の小さめの菅笠すげがさを引っかけて、杖じょうを左右に振りながら歩いている。

男の名は石いしといった。

その後ろを歩く女性は、一見すると十五かそこらの娘に見えるが、この時代ではもう行き遅れと言われる年齢だ。

藍色あいいろの小袖こそでの上に上張うわばりを羽織はおり、手甲てこう、膝ひざ下には脚絆きゃはんを着け、下さげ髪がみを束たばねて団子だんごにして巻き上げている。手に巾着袋きんちゃくぶくろを引っ掛けた杖つえを持ち、ときおり爪先つまさきを引きずっているように見える。

女の名は弦つるといった。


石いしと弦つるは、理由わけあって江戸へと旅をしている。人目を気にする旅のため、関所せきしょの取り調べが厳きびしい五街道ごかいどうを敢あえて避さけ、脇街道わきかいどうを進んでいる。

幕府の手で整備されていない脇街道は、悪路あくろや難所なんしょも多く、木々が鬱蒼うっそうとして道は薄暗く、勾配こうばいはきつく滑りやすい。

二人が歩く道は、竹林が空を覆おおい尽くしている。今にも獣けものが飛び出してきそうな不気味な雰囲気が漂ただよっている。

「いっさん、昨日きのうの雨が嘘みたいですよ。今日は、よく晴れてますね」

隙間すきまから覗のぞく空を見て、弦つるが話した。

「そうかい、ちょいと寒い気がするが、今日はお陽ひさんは出てるかい？」

「ええ、お陽さまも一緒に、空一面が、いっさんの好きな青空あおぞらですよ」

弦つるは勘違かんちがいしているようだ。よく青空かどうかを聞くので、石いしを青空が好きな男だと思っているようだが、見えるわけではない石いしにとって空の色など、どうでも良い。

曇くもりだといつ雨が降るか分からない。雨は、濡れるし地面は泥濘ぬかるみ足を取られて歩くのも大変だ、普段より気が疲れる。

それに耳が頼りの石いしにとっては、激しい雨音あまおとでまわりの音がかき消されると、周囲の状況が感じられずに困ってしまう。だから雨が降りそうもない、よく晴れた空かどうかを気にしてるだけなのだが、石いしにはそこまで説明する気もなかった。

「ああ...　晴れてんならいいやな」

「...なんですか？　すごく投げやりな気がしますけど」

弦つるはせっかく教えてあげたのにと、不満そうだ。

....そんなことねえけどなぁ...　

「青空で良かったなぁー」

「わざとらしい」

怒った顔で、弦つるが石いしを見ている。

...なんて言やぁ良いんだ？　と思いながら顔を空そらに向けた。

かすかに木々の隙間すきまから零こぼれる温かい日差しを肌で感じ、嬉しそうな顔の石いし。それを見た弦つるも同じように嬉しくなり、自然と機嫌も直っていった。

弦つるは石いしの名を呼ぶときに 『いし・』を言わない。何度か注意したのだが、言っても聞かないので、今はもうあきらめていた。

「綿雲わたぐもが、空を西から東にゆっくり流れてますよ。大きいのと小さいのが二つ並んで、まるで私といっさんみたい」

うれしそうに弦つるが空の様子を話す。見えない石いしの代わりになって、見える景色を伝えようとしている。

弦つるにはもう、《石いしが見えない》事へ配慮するような、他人行儀たにんぎょうぎなことは無い。

石いしもまたそれが当然と受け止めて、弦つるの話を聞きながら頭に思い描いている。

石いしは、全盲ぜんもうではなく、わずかに光と色を認識できるが、目を開けても靄もやがかった残像ざんぞうのようなものしか見えず、またじっと見ていると強い光が差し込んだ時のようにチカチカして頭痛ずつうがする。

そのため、普段から目を閉じているのが癖くせになってしまった。

進んでいくと坂道の勾配こうばいはきつくなり、二人は前後に並んで、石いしが前を歩き弦つるが後ろになった。坂道の傾斜けいしゃが急になると何を言わずとも、そうするようになっていた。

石いしは持っていた杖じょうを後ろへと伸ばし、弦つるがつかんだ。杖じょうの端はしと端はしを互いに握り、石いしは弦つるを引っ張って歩く。

弦つるは生まれつき右足の力が弱く、普段からよく転ぶことがある。以前いぜんに住んでいた下家しもやの急な階段を立って歩けず、両手をつき犬のように這はって昇っていたこともあった。

石いしは地面を踏みしめて、弦つるを引っ張り坂道をゆく。

しばらくすると麓ふもとを流れる木曽川きそがわの風が、足元から感じられるようになった。

...やっと終わったか...　石いしは後ろを歩く弦つるを振り返った。

「弦つる、疲れただろう、ここで一度、休憩やすみにしようや」

玉たまのような汗をかいている弦つるが、黙って頷うなづいた。

荒い息づかいで、道端みちばだに建てられた一里塚いちりづかと掘られた岩の、台座の上に座り込んだ弦つる。　石いしはその傍《かたわ》らに立った。

「いっさん ...　ここ座れます」

石いしの座る場所を空あけようとした弦つるが、台座だいざから落ちそうになる。　石いしは手を伸ばし素早くその体を捕とらえた。

「何やってんだ馬鹿。　じっとしてろ」

「馬鹿ってなんですか？　せっかく座らせてあげようと思ったのに」

弦つるが頬ほおを膨ふくらませて、ブツブツと文句を言う。

「おまえだけ座ってろ。　あしは立ってるほうが楽なんだ、これで良いんだ」

華奢きゃしゃな体を持ち上げ、台座に座り直させた。

風が緩ゆるやかに吹き、涼すずしい風が汗をかいた後の体に丁度良い。弦つるは懐ふところから取り出した手拭てぬぐいを、途中の小川で汲くんでおいた竹筒たけづつ《たけづつ》の中の冷たい水で濡ぬらして、石いしの手に握にぎらせた。

石いしが「要いらねぇや」と返そうとしたが、弦つるは強引に押し付けた。　結局、受け取って顔と首回りの汗を拭ぬぐったが、ひんやりした手拭てぬぐいは、…気持ち良かった。

「ほら、気持ちいいでしょ」

気分良きもちよさげな石いしの顔を見上げ、弦つるが言う。

「・・・」

空そらを仰ぐと、記憶の残像ざんぞうの空を思い浮かべた。


石いしは、まだ物心ものごころつく前に、盲目の縁えんもゆかりもない夫妻の家に預あずけられた。その経緯けいいは知らない。子がなかった夫婦は、一晩の宿を借りに来た女からまだ赤子あかごの石いしを預かったそうだが、それ以上のことを、養父母は話そうとはしなかった。

幼い頃は見えていた記憶があるが、麻疹はしかにかかったせいで、目が不自由になった。適切てきせつな治療と栄養があれば、盲目もうもくを免のがれたかもしれないが、養父母の家は日々の生活くらしが精一杯せいいっぱいで、治療費を工面くめんできず、医者に見せる事すら出来なかった。

盲目もうもくとなった石いしを不憫ふびんに思った養父は、自分の按摩の仕事しごとを、子供の石いしに手取り足取り教えた。

養父は、盲人の互助ごじょ組織である当道座とうどうざに属ぞくしていて、勾当こうとうの階級にあり、盲人もうじんとして生きる石いしにも、自分と同じく当道座とうどうざに入れるよう手配てはいして、養父のおかげで石いしは座頭ざとうという階級を受けられた。

十四の歳に養父母が亡くなり、石いしはその地を離れた。当道座とうどうざを当てにして畿内きないへと出てみたものの、それは上手うまくいかずに、石いしは世間せけんから冷酷れいこくな仕打しうちを受けた。

社会の底辺ていへんで泥どろを啜すすって生き抜く日々。

本当の親も知らず、自分の本当の名も知らない。　『石いし』は、養父がつけた呼び名だった。名というより、呼びやすくする為だろう。

背は人並み、手足が太く体が強靱きょうじんで簡単にへこたれない。少し中年腹ちゅうねんばらで、弦つるに「お酒の飲み過ぎです」と始終しじゅう小言こごとを言われている。

その弦つるは二十四になったはずだが、童顔どうがん、小柄こがらで、たまに十四、五の娘に見られることもある。が、体つきは年相応なので、そのアンバランスのせいで変に色気があるようだ。

この間は旅の宿で「まだ子供なのにしっかりしてるわ」と褒ほめられて、勘違かんちがいしている老夫婦の奥さんにお菓子をもらい、可愛らしく(演技して)、弦つるは受け取った。

「おまえ、あの奥さんは完全に勘違かんちがいしてたぞ。　ほんとうの歳としの事を聞かれたらどうするつもりだったんだ？」

隣そばで会話を聞きながらヒヤヒヤしていた石いしが、後から聞いたら、

「いっさん、顔は強面こわもてのくせに、気が小さいんじゃないですか？　くれるというならもらっておけばいいんですよ」

と弦つるが答えた。

「・・・」　

休んでいると、かいた体の汗が引いてきたようだ。　じっとしていたら風邪になるかもしれない。旅の病気は厄介やっかいだ。

「弦つる、そろそろ行こう」　

「はい」

石いしの差し出す手を支えに、弦つるは立ち上がる。　坂の下から吹いてくる風を感じ、石いしは風の吹く方向へ顔を向けた。

「関所せきしょ...　」

石いしに釣つられて同じ方向を見た弦つるの目には、関所せきしょが見えていた。

「あれ...　往来手形おうらいてがたは、どこにあったかな？」

関所せきしょを通るために必要な、常駐役人じょうちゅうやくにんに見せるための大事な許可証きょかしょう。　弦つるは、肩にかけていた行李こうり(小さな荷物入れ)を地面に下ろし、中を探っている。

...大事だいじなもんは仕舞しまう場所を決めとけ...　と石いしは言いそうになったが、口にすると揉もめる元なので、黙っていた。

「あった！」　

行李こうりではなく、着物の袂たもとに仕舞っていたことを思い出し、取り出して間違いないか、確認するため開いてみる。

その手形てがたには、　この二人、夫婦と書かれていた。