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第一章
第一章ep.2 由《よし》と妙《たえ》
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【由と妙‐よしとたえ】
「うまく出来たわね」
「すごく上手ね」
二人に褒められて、妙がうれしそうに含羞んでいる。
「私が受けとってもいいかな?」
「うん」
妙の小さな手に手を合わせて、弦は箒を受け取った。
「弦さん達は、これからどこへ行くつもりなの?」
「諏訪大社に寄って、お参りしてから江戸まで行こうかと」
「お諏訪さまかぁ。いいわね」
弦は、受け取った箒を別の形に変えていく。妙は、弦の指先で変化する綾取りを、不思議そうに見ていた。
「わたしにも、できるかな? 子供・・・」
自分の手の中の綾取りをじっとのぞき込んでいる妙を見て、弦がつぶやいた。
「どこか具合でも悪いの?」
「・・・」
弦は、黙ったまま哀しそうに微笑んでいる。
妙は、由が望んで妊娠した子供ではない。今はかけがえのない宝物だと思えるが、そう思えるまでは人に言えない苦労もあった。
「何があったのか知らないけど、きっと大丈夫。まだ若いんだし、あんまり深く考えこんじゃダメ」
弦は、由を見上げた。
「わたし二十四(才)ですよ、世間では、もう年増(娘盛りを過ぎた)だって言われてる年齢です」
「何言ってんの? あたしは三十二(才)よ。あなたがそうなら、あたしは大年増になっちゃうわ。でも、誰にもそんなこと言わせないわよ」
と由は胸を張った。 弦は、・・・くすくすと笑い出した。
「そうですね。私も年増って思うのはやめることにします」
「当たり前でしょ」
笑い合う二人を、妙が見ている。
石は、元気になった弦に背を向けて遠ざかった。
店の陰に入ると、帯に差していた煙草入れから、煙管と火種を取り出して、音が鳴らないよう火打石を擦った。
カチッカチッ ・・・なかなか火が点かないので、焦る。カチッ・ポゥ。ようやく火が点いて、火皿に詰めた刻みたばこが赤く燃えた。
石は一服して、ホっとした。店の陰から風に乗って、街道へと煙が流れていく。
弦は、黙って石が隠れるのを見ていた。すると、水茶屋の陰から煙が漂って来る。
頭の片隅で、シナプスが切れた。
「そんな所に隠れてないで、堂々と吸ったらどうですか?」
怒りを抑えて言ったのだが、思ったより声が大きくて妙が驚いて目を丸くしている。
「ごめんね」
と言って、弦は妙の体を抱き寄せた。
店の陰では、バタバタと音がしている。
静まると、石がなに食わぬ顔で陰から出て来た。すっとぼけた様子に、由は笑いを隠せないでいる。
石は、煙管を後ろ手に隠そうとしているが、背中から煙が立ち上っている事には気付いていない。石の背中から上がる煙草の煙は、天高くのぼる。
石は、腰掛けに近づくと体を丸めて、みんなに背を向けて座った。
... まったく、良い大人が
弦は、呆れて言葉が出なかった。
【破落戸‐ごろつき】
青空を隠すような、ひつじ雲が広がるなかで遠くからゴロゴロと音が聞こえている。
雷かと思えば、どうやら台車のようなものを引いているようだ。
石は煙草をくゆらせながら、十数人の足音と風にのって途切れ々々に聞こえる男達の会話に耳を澄ませた。
会話から普通の町人ではないなと分かった。町の破落戸か、地元の八九三だろう・・・。厄介事はいつもあちらからやって来る。こんな開けた街道筋で、真昼間に面倒な事はしたくない。
...素通りしてくれ、 と願った。
ゴトン、ゴトン! と、車輪が荒れた道で跳ねている。男達の会話が聞こえてくるようになり、由や弦も、近づく十数人の集団に気付いた。
由の表情は、その集団を見て強張り、弦は誰だろうか? と不思議そうに集団を見つめている。
藁で覆った大八車を、取り囲む十数人の男達。
「水茶屋の前で、止めてくれ」
甲高い男の声がした。 その声に従うように、大八車は水茶屋の前で止まった。
大八車を囲むのは、腹にさらしを巻き、麻の着物をたくし上げた尻からげ(着物の裾を捲り帯に挟んだ格好)の男達。 目つきはみな一様に鋭く、何人かは脇差し(通常より短い日本刀)を帯に差している。
一瞥しただけで、八九三者と分かる。
そのなかに一人だけ、長羽織姿の立派な身なりの男がいた。甲高い声で、大八車を止めた男だ。
歳は五十路くらい、白髪交じりの銀杏髷に、甲高い声には合わない、大柄で恰幅の良い体をしている。
「しばらくぶりだ。由、元気だったかい?」
男は懐かしそうに、由に話しかけた。
「旦那さま、・・・お久しぶりです」
由が頭を下げた。
「女の子が生まれたんだってな。ずっと会えずにいたが、わしはお前達のことを心配してたんだ。・・・そのことを知ってたかい?」
「旦那様が、御気遣い頂いてたというだけで、わたし達は十分でございます。 親子共々健やかに過ごしておりますので、御心配なさらないで下さい」
多の屋の主人。助五郎は、笑みを浮かべて由を見つめた。視線を落とすと、妙に目を向けた。そして、懐中をまさぐり、妙を手招きする。
「妙か? わしと会うのは初めてだな、良いものやるからおいで」
妙は躊躇いながらも、おずおずと助五郎に近づいた。弦が振り返ると、由の顔から血の気が失せていた。
助五郎は、妙が近くに来ると強引に引き寄せて、懐中から取り出した貝独楽を、子供の小さな手に強く握らせた。
大の男が、子供の手の上に重ねたゴツい手が、貝独楽の入った小さな手を潰すように締め、妙は、いまにも泣き出しそうな顔をしている。
由を振り返ったが、自分よりもっと辛そうな顔をしていた由を見て、妙はグッと涙を堪えた。
「気に入らなかったのか? ・・・まったく子供はこれだから厄介だな」
助五郎が、ボソッと言った。
愛憎が入り混じった複雑な表情に、ふたつの死んだ魚のような目がついた、得体の知れない生き物。見つめられる妙の印象は恐怖しかない。
由が早足で近づいて、妙を自分の背後に押しやった。そして何度も頭を下げてお礼を言う。助五郎は首を傾げ、由の背後で母を見つめている妙を、死んだ魚の目で見ていた。
妙は、目に涙を一杯に溜めて、由の顔を見上げている。 自分がどんな悪い事をしたのか分からないが、『ごめんなさい』という気持ちでいっぱいだった。
「もういい。・・・このままだと、わしが悪者みたいだ」
「次は、もっと高いものをやるからな」
にやりと笑いながら、由の背後の妙に話しかけた。
助五郎は、水茶屋の腰掛けに座る若い女を見た。
「娘さん、何方から来たんだい?」
弦は、普段通り朗らかに答える。
「京から、参りました」
「へぇ、京から来たのかい。そりゃ長旅だ、いったい何処へ行くつもりで
?」
助五郎は、鼻は伸び、下卑た嗤いを口元に浮かべている。
...小娘かと思っていたが、なかなかいい身体をしてるじゃないか
助五郎は、弦の全身を舐めるようにじっとり見た。
女を値踏みする、助五郎の目にすぐ気付いたが、弦はそんな事で感情を露わにするような子供でもない。
自分の心情は噯にも出さず答える。
「江戸へ下るだけの当てのない旅です。湯治でもしようかと、下諏訪に行こうと話しております」
「そりゃ無茶だ。女の足じゃ、今日や明日で辿り着くの無理だろうよ。とりあえず今日は、この先にある子毛の町で、ゆっくりして行けばいい。わしは、そこの町代だ。全部、面倒みてあげるから心配などしなくて大丈夫だ」
...何処の宿にするか? できれば声が届かない場所がいい。あの離れの家なら、この娘が助けを呼ぼうが好きにヤレる。
今にも、舌なめずりしそうな満面の笑みの助五郎に、弦も、感情の無い笑みを浮かべて答えた。
「あちらで、煙草を吸ってるのが夫で。あの男にも計画はありますから、御心配には及びません」
弦は、助五郎の誘いをきっぱり断り、我関せずと背を向けている石を睨みつける。
...・・・え、あしは何かした?
助五郎の視線は、自然に、煙草を美味そうに吸っている中年男に移った。石は、みなの視線が集まるのを背中で感じた。
...あしは、知らねえ内に面倒なことに巻き込まれてるんじゃねえのか?
禿げかけた頭をポリポリと、呑気に煙草を吹かしていたが、周囲が不穏な空気に包まれようとしているのは分かった。
...主人? このバカ者が?
近づいてよく見ると、小娘は、小娘ではなく大人の色気もあるイイ女だった。助五郎は、当然のように女を自分の女にしようと考えている。
横を見ると、しょぼくれた中年男が居る。何者か分からないが、まあ、どうでもいい・・・はずが、太々しい態度で、目の前で煙草を吹かす姿が苛つく。
...おそらく、この娘の下男だろうな。だが、なんだこいつは? 使用人の分際で、主人の前で煙草を一服とは、モノを知らないバカ者が・・・
いずれ女をモノにすれば、この使用人に理解させようと考えていたが、それを、この娘は夫と呼んている。
晴天の霹靂に言葉が出て来ず。ただ、石の背中を睨みつける多の屋の助五郎。
表の顔は、町問屋の主人で、子毛の町代を務めるこの町の有力者。
裏の顔は八九三を束ねる親分で、子毛の闇社会の支配者。闇に潜むならず者たちを、暴力でねじ伏せる。
その子毛の闇社会のトップを前にして、知ってか知らずか、まだ美味そうに煙草をくゆらせる呑気な男。
助五郎は、女・酒・博打と全てやるが、煙草だけは吸わなかった。人に聞かれれば「体に良くねえからだ」と答える。
多の屋の奉公人や、子分達にも、吸うなと厳命してある。
助五郎は、自分に背を向けて煙草を吸う石に向かって、一歩踏み出した。その一歩で、石はスっと体を回して助五郎と向き合った。
助五郎の背に、ゾワッと鳥肌が立った。
そこらに居るただの中年に見えていた男に、助五郎が気圧されていた。
ただ者ではないかもしれん。・・・助五郎も裏街道を生きて来た者、その勘が二歩目の足を止める。
二人とも黙ったままで、しばらく動かない。
そのとき、石の耳に、ヒィーヒィーと無機物の荒い息遣いのような音が聞こえてきた。
「由さん、沸いてるよ」
石が言った。
...???
みんな、なんの話か理解出来ずに戸惑っていた。
数十秒後、水茶屋の奥からピィ―ーっという大きな金切り音が響いた。 お茶を沸かしていた薬缶が悲鳴を上げ、蓋はカタカタ踊り、中から茶が溢れ出している。
由は、慌てて店の中に戻った。
「何者だ?」
訝しげに、助五郎が言った。
石は、答える代わりに黙って煙草をくゆらせた。
...お前こそ何者だよ
吐き出すと輪になった煙が、助五郎の方へと向かって行った。
「うまく出来たわね」
「すごく上手ね」
二人に褒められて、妙がうれしそうに含羞んでいる。
「私が受けとってもいいかな?」
「うん」
妙の小さな手に手を合わせて、弦は箒を受け取った。
「弦さん達は、これからどこへ行くつもりなの?」
「諏訪大社に寄って、お参りしてから江戸まで行こうかと」
「お諏訪さまかぁ。いいわね」
弦は、受け取った箒を別の形に変えていく。妙は、弦の指先で変化する綾取りを、不思議そうに見ていた。
「わたしにも、できるかな? 子供・・・」
自分の手の中の綾取りをじっとのぞき込んでいる妙を見て、弦がつぶやいた。
「どこか具合でも悪いの?」
「・・・」
弦は、黙ったまま哀しそうに微笑んでいる。
妙は、由が望んで妊娠した子供ではない。今はかけがえのない宝物だと思えるが、そう思えるまでは人に言えない苦労もあった。
「何があったのか知らないけど、きっと大丈夫。まだ若いんだし、あんまり深く考えこんじゃダメ」
弦は、由を見上げた。
「わたし二十四(才)ですよ、世間では、もう年増(娘盛りを過ぎた)だって言われてる年齢です」
「何言ってんの? あたしは三十二(才)よ。あなたがそうなら、あたしは大年増になっちゃうわ。でも、誰にもそんなこと言わせないわよ」
と由は胸を張った。 弦は、・・・くすくすと笑い出した。
「そうですね。私も年増って思うのはやめることにします」
「当たり前でしょ」
笑い合う二人を、妙が見ている。
石は、元気になった弦に背を向けて遠ざかった。
店の陰に入ると、帯に差していた煙草入れから、煙管と火種を取り出して、音が鳴らないよう火打石を擦った。
カチッカチッ ・・・なかなか火が点かないので、焦る。カチッ・ポゥ。ようやく火が点いて、火皿に詰めた刻みたばこが赤く燃えた。
石は一服して、ホっとした。店の陰から風に乗って、街道へと煙が流れていく。
弦は、黙って石が隠れるのを見ていた。すると、水茶屋の陰から煙が漂って来る。
頭の片隅で、シナプスが切れた。
「そんな所に隠れてないで、堂々と吸ったらどうですか?」
怒りを抑えて言ったのだが、思ったより声が大きくて妙が驚いて目を丸くしている。
「ごめんね」
と言って、弦は妙の体を抱き寄せた。
店の陰では、バタバタと音がしている。
静まると、石がなに食わぬ顔で陰から出て来た。すっとぼけた様子に、由は笑いを隠せないでいる。
石は、煙管を後ろ手に隠そうとしているが、背中から煙が立ち上っている事には気付いていない。石の背中から上がる煙草の煙は、天高くのぼる。
石は、腰掛けに近づくと体を丸めて、みんなに背を向けて座った。
... まったく、良い大人が
弦は、呆れて言葉が出なかった。
【破落戸‐ごろつき】
青空を隠すような、ひつじ雲が広がるなかで遠くからゴロゴロと音が聞こえている。
雷かと思えば、どうやら台車のようなものを引いているようだ。
石は煙草をくゆらせながら、十数人の足音と風にのって途切れ々々に聞こえる男達の会話に耳を澄ませた。
会話から普通の町人ではないなと分かった。町の破落戸か、地元の八九三だろう・・・。厄介事はいつもあちらからやって来る。こんな開けた街道筋で、真昼間に面倒な事はしたくない。
...素通りしてくれ、 と願った。
ゴトン、ゴトン! と、車輪が荒れた道で跳ねている。男達の会話が聞こえてくるようになり、由や弦も、近づく十数人の集団に気付いた。
由の表情は、その集団を見て強張り、弦は誰だろうか? と不思議そうに集団を見つめている。
藁で覆った大八車を、取り囲む十数人の男達。
「水茶屋の前で、止めてくれ」
甲高い男の声がした。 その声に従うように、大八車は水茶屋の前で止まった。
大八車を囲むのは、腹にさらしを巻き、麻の着物をたくし上げた尻からげ(着物の裾を捲り帯に挟んだ格好)の男達。 目つきはみな一様に鋭く、何人かは脇差し(通常より短い日本刀)を帯に差している。
一瞥しただけで、八九三者と分かる。
そのなかに一人だけ、長羽織姿の立派な身なりの男がいた。甲高い声で、大八車を止めた男だ。
歳は五十路くらい、白髪交じりの銀杏髷に、甲高い声には合わない、大柄で恰幅の良い体をしている。
「しばらくぶりだ。由、元気だったかい?」
男は懐かしそうに、由に話しかけた。
「旦那さま、・・・お久しぶりです」
由が頭を下げた。
「女の子が生まれたんだってな。ずっと会えずにいたが、わしはお前達のことを心配してたんだ。・・・そのことを知ってたかい?」
「旦那様が、御気遣い頂いてたというだけで、わたし達は十分でございます。 親子共々健やかに過ごしておりますので、御心配なさらないで下さい」
多の屋の主人。助五郎は、笑みを浮かべて由を見つめた。視線を落とすと、妙に目を向けた。そして、懐中をまさぐり、妙を手招きする。
「妙か? わしと会うのは初めてだな、良いものやるからおいで」
妙は躊躇いながらも、おずおずと助五郎に近づいた。弦が振り返ると、由の顔から血の気が失せていた。
助五郎は、妙が近くに来ると強引に引き寄せて、懐中から取り出した貝独楽を、子供の小さな手に強く握らせた。
大の男が、子供の手の上に重ねたゴツい手が、貝独楽の入った小さな手を潰すように締め、妙は、いまにも泣き出しそうな顔をしている。
由を振り返ったが、自分よりもっと辛そうな顔をしていた由を見て、妙はグッと涙を堪えた。
「気に入らなかったのか? ・・・まったく子供はこれだから厄介だな」
助五郎が、ボソッと言った。
愛憎が入り混じった複雑な表情に、ふたつの死んだ魚のような目がついた、得体の知れない生き物。見つめられる妙の印象は恐怖しかない。
由が早足で近づいて、妙を自分の背後に押しやった。そして何度も頭を下げてお礼を言う。助五郎は首を傾げ、由の背後で母を見つめている妙を、死んだ魚の目で見ていた。
妙は、目に涙を一杯に溜めて、由の顔を見上げている。 自分がどんな悪い事をしたのか分からないが、『ごめんなさい』という気持ちでいっぱいだった。
「もういい。・・・このままだと、わしが悪者みたいだ」
「次は、もっと高いものをやるからな」
にやりと笑いながら、由の背後の妙に話しかけた。
助五郎は、水茶屋の腰掛けに座る若い女を見た。
「娘さん、何方から来たんだい?」
弦は、普段通り朗らかに答える。
「京から、参りました」
「へぇ、京から来たのかい。そりゃ長旅だ、いったい何処へ行くつもりで
?」
助五郎は、鼻は伸び、下卑た嗤いを口元に浮かべている。
...小娘かと思っていたが、なかなかいい身体をしてるじゃないか
助五郎は、弦の全身を舐めるようにじっとり見た。
女を値踏みする、助五郎の目にすぐ気付いたが、弦はそんな事で感情を露わにするような子供でもない。
自分の心情は噯にも出さず答える。
「江戸へ下るだけの当てのない旅です。湯治でもしようかと、下諏訪に行こうと話しております」
「そりゃ無茶だ。女の足じゃ、今日や明日で辿り着くの無理だろうよ。とりあえず今日は、この先にある子毛の町で、ゆっくりして行けばいい。わしは、そこの町代だ。全部、面倒みてあげるから心配などしなくて大丈夫だ」
...何処の宿にするか? できれば声が届かない場所がいい。あの離れの家なら、この娘が助けを呼ぼうが好きにヤレる。
今にも、舌なめずりしそうな満面の笑みの助五郎に、弦も、感情の無い笑みを浮かべて答えた。
「あちらで、煙草を吸ってるのが夫で。あの男にも計画はありますから、御心配には及びません」
弦は、助五郎の誘いをきっぱり断り、我関せずと背を向けている石を睨みつける。
...・・・え、あしは何かした?
助五郎の視線は、自然に、煙草を美味そうに吸っている中年男に移った。石は、みなの視線が集まるのを背中で感じた。
...あしは、知らねえ内に面倒なことに巻き込まれてるんじゃねえのか?
禿げかけた頭をポリポリと、呑気に煙草を吹かしていたが、周囲が不穏な空気に包まれようとしているのは分かった。
...主人? このバカ者が?
近づいてよく見ると、小娘は、小娘ではなく大人の色気もあるイイ女だった。助五郎は、当然のように女を自分の女にしようと考えている。
横を見ると、しょぼくれた中年男が居る。何者か分からないが、まあ、どうでもいい・・・はずが、太々しい態度で、目の前で煙草を吹かす姿が苛つく。
...おそらく、この娘の下男だろうな。だが、なんだこいつは? 使用人の分際で、主人の前で煙草を一服とは、モノを知らないバカ者が・・・
いずれ女をモノにすれば、この使用人に理解させようと考えていたが、それを、この娘は夫と呼んている。
晴天の霹靂に言葉が出て来ず。ただ、石の背中を睨みつける多の屋の助五郎。
表の顔は、町問屋の主人で、子毛の町代を務めるこの町の有力者。
裏の顔は八九三を束ねる親分で、子毛の闇社会の支配者。闇に潜むならず者たちを、暴力でねじ伏せる。
その子毛の闇社会のトップを前にして、知ってか知らずか、まだ美味そうに煙草をくゆらせる呑気な男。
助五郎は、女・酒・博打と全てやるが、煙草だけは吸わなかった。人に聞かれれば「体に良くねえからだ」と答える。
多の屋の奉公人や、子分達にも、吸うなと厳命してある。
助五郎は、自分に背を向けて煙草を吸う石に向かって、一歩踏み出した。その一歩で、石はスっと体を回して助五郎と向き合った。
助五郎の背に、ゾワッと鳥肌が立った。
そこらに居るただの中年に見えていた男に、助五郎が気圧されていた。
ただ者ではないかもしれん。・・・助五郎も裏街道を生きて来た者、その勘が二歩目の足を止める。
二人とも黙ったままで、しばらく動かない。
そのとき、石の耳に、ヒィーヒィーと無機物の荒い息遣いのような音が聞こえてきた。
「由さん、沸いてるよ」
石が言った。
...???
みんな、なんの話か理解出来ずに戸惑っていた。
数十秒後、水茶屋の奥からピィ―ーっという大きな金切り音が響いた。 お茶を沸かしていた薬缶が悲鳴を上げ、蓋はカタカタ踊り、中から茶が溢れ出している。
由は、慌てて店の中に戻った。
「何者だ?」
訝しげに、助五郎が言った。
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