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水曜日
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しおりを挟む葛城からのとんでもない予告を受けて迎えた水曜日。晴香は朝から気が気ではなかった。昨日のあれは本気なのだろうかと疑うまでもない。本気も本気だ。ともすれば顔に熱が集まりそうになる。だめだ今はもう考えないようにしなければと、デスクに着いたと同時に無理矢理意識を切り替えた。幸いな事に今日も朝から葛城は外回りで社内にはいない。時折連絡のメールや電話が届くが、当然仕事の中身なので晴香も動揺する事なく対応できた。
昼過ぎに一度葛城は戻って来たが、課長と少し話をした後すぐにまた出て行った。その際に晴香も急ぎで資料の作成を頼まれたので、昼からそれにかかりきりになり、気付けば定時までもう少しという時間だ。葛城から帰社の連絡はまだ無い。
これはもしかしてもしかするとあの話は流れるのではなかろうか、とそんな甘い考えが晴香の脳裏を掠めた。
今日はずっと先輩忙しかったし、まだ帰って来る感じでもないし、帰って来たにしてもその後色々事後処理とかあるかもだし、わたし定時上がりで帰ってもいいやつなのでは?
敵前逃亡、と言う四文字が頭に浮かぶがそれを軽く手で払って晴香は自分の仕事を振り返る。急遽頼まれた書類の作成は終わっており印刷もして葛城の机の上に置いている。通常の仕事も今日の分は終わらせているので、定時で上がった所で何一つ問題はない。特に仕事があるわけでもないのに残業する方が問題だ。そうそうこれは仕事が終わってしまったから仕方なくね、まかり間違っても先輩から逃げるためとかではないからね! そう自分で自分を納得させ晴香は定時と共にパソコンの電源を落とす。
「お、つかれさまでした!!」
「あれ? 日吉さんもう帰るの?」
「はい! 今日の分は終わったので無駄な残業はせずに帰ります!」
「お疲れさまー」
近くの先輩社員とそう挨拶を交わして廊下へ飛び出しかけるが、寸前で腕を掴まれる。
「おうお疲れ。もう帰れるのか?」
ひっ、と思わず声が漏れる。それくらい目の前の葛城の笑顔が恐ろしい。
「お……つかれ、さまです?」
一日中外回りで疲れているのは事実のはずだ。ひとまず労いの言葉を、と晴香も笑顔を浮かべる。頬がひくついてしまうのは致し方ない。
「本当に疲れた」
葛城はネクタイを緩めながらそうぼやく。これは珍しいと晴香は軽く目を見開いた。あまりこう言う事を口にする人ではないからして、本当に疲れているようだ。
「先輩コーヒーかなにか淹れてきましょうか?」
「あー……いや、いい。それよりお前ちょっと飯に付き合え。昼飯食い損ねて腹減ってんだよ」
「それはいいですけど、お店行くまで大丈夫ですか? あ、わたしおやつ持ってますよ」
晴香が鞄の中から一口サイズのバームクーヘンを取り出すと、葛城は少しばかり苦笑しつつもそれを受け取った。
「ちょい荷物だけ置いてくるから待ってろ」
口に放り込みながら葛城が自分のデスクへと向かう。晴香は一旦廊下へ出ると壁に背を預け言われた通りに待つ。すると廊下の向こうから名を呼ばれた。
「日吉さんもう上がり?」
「えー、と、うん、そう」
近付いてくるのは同期の男性社員だ。それは分かる。そこまではさすがに覚えているが、名前は一体なんであったか。チラリと名札で確認しようとするが生憎外しているので分からない。
「あのさ、今から俺ら同期で飲みに行こうかって話になってるんだけど日吉さんもどう?」
「あー、ごめん、用事があるから」
「用事って? それが終わってからでも来れない?」
なぜにそこまで食い下がるのか。誰だっけこの人ほんとに、となんとか名前を思い出そうとするために今ひとつ答えに時間がかかる。その隙を突いて、ではないのだろうが、相手は「たまにはいいじゃん」と引く気を見せない。
「ええと、これから先輩とご飯に行く約束をしてるので」
「先輩って葛城さん?」
そう、と頷くと何故か苦笑を浮かべられた。
「あのさ、俺がこんなこと言うのもどうかと思うんだけど」
なら言わなくても良いのでは? と男の態度にほんの少し腹が立ちついそんな言葉が飛びでそうになったが、晴香も一応大人なので飲み込んで続きを待つ。
「日吉さん全然俺らと交流無いじゃん? 葛城さんとかとばっかでさ。もう少し同期とも交流しようぜ」
「別に誰とも交流してないわけじゃないけど?」
「いやあ、飲み会とか誘っても来たことないだろ?」
「飲み会って好きじゃないからさー。煙草くさくなるし」
「俺ら煙草吸わないよ?」
「でもほら、他のお客さんが吸うし」
「今日は飲み会って言っても飯食うのがメインだから。いいじゃん来なよ、ちゃんと同期とも交流した方がいいって」
「交流したい同期とはちゃんと交流してるから大丈夫だよ」
ゲホ、と咽せる声に晴香は振り返る。と、そこにいたのは葛城で、そして微かに肩を震わせている。口元を手で隠してはいるものの、その様子からして笑いを堪えているのは確実で、晴香は何故に葛城がそれ程笑っているのかが分からない。
なんだろうね、と同期の男を見ればこちらはあからさまに不機嫌な顔をしている。これまた理由が分からない。
「……先輩が不躾に笑うから?」
「お前のせいだよ」
チ、と舌打ちまでして去って行く男の背を見やり晴香が一つの理由を挙げるが即座に否定される。
「わけがわかりませんが?」
「交流したいヤツとは交流してるってことは、そうしてきてないあの男とは交流したいわけじゃなかったってことだろ?」
「あー……ですねえ」
なんだそれか、とあっさり納得する晴香に葛城は「お前の人付き合い方が辛辣すぎる」とポツリと呟いた。
どこの店に行くかといくつか候補は出た物の、結局いつもの居酒屋に流れ込んでしまった。今日は飲むより食べるのがメインです、と晴香はアルコールに手を出さない。葛城も同じくご飯物しか頼まないので「先輩は飲んでもいいのでは?」と晴香は鰤の照り焼きを白ご飯と一緒に食べつつそう勧めてみた。しかし葛城は「いらねえ」とウーロン茶をおかわりする。
「今日は酒はいい」
「まだ週中だからですか?」
「お前に教育的指導しないとだからな」
口の中の物を飲み込んだ直後で良かった。そうでなければ晴香は行儀悪く全てを吹き出していた所だ。それでも呼気が気管に入り込んで盛大に噎せ返る。
「そっ……それ、は」
「昨日ちゃんと俺は言った」
「……そうですけど!」
油断していた。今日一日の葛城の忙しさといい、ここに来るまで一切そんな雰囲気もなかったし、なにより葛城の荷物がいつもと同じ量だ。着替えとかないじゃん! と晴香は涙目になりながら葛城を見る。
「別に着替えとかいるもんじゃねえだろ。替えのシャツはロッカーにあるし、なんなら買って帰ればいいし」
「本気だ……先輩が本気だあああああ」
「当たり前だ。お前だって分かってただろ?」
逃げようとしてたもんなあ、と片肘をテーブルに付けて笑う葛城が怖い。笑顔が怖いとはこれいかに、と晴香は口から魂が漏れ出そうになるのを温かいお茶でどうにか体内に流し込んだ。
そこから先はもう料理の味など覚えていない。鼓動がずっと速いままで目眩を起こしそうだ。食事を済ませ、会計を終えて店の外に出ればもう陽はとっくに暮れている。寒さも感じる中、葛城が一歩先を歩いている。日曜に送ってもらった事ですでに晴香の家を覚えているらしい。どうしてそんなに物覚えがいいんですか、とつい恨み言を口にすれば、好きな相手の家だからなと即答された。それ以降は晴香はもう何も言えない。迂闊な事を言えばとんでもない逆襲を受けてしまう。
ついそんな事を考えていたせいか、不意に止まった葛城の背中に晴香はぶつかった。鼻先が痛い。
「ちょっとコンビニ寄ってくから」
「あ、はい……」
シャツでも買うのだろうか。ああでもさすがにコンビニにシャツは置いてないから下着? 口に出して訊くのもどうかと思い無言ではいるが、それでも目が物を言いすぎたようだ。葛城は晴香を見下ろしながら事も無げにその疑問に答える。
「お前の家ゴムないだろ?」
「え、ありますよ」
それに晴香も軽く返すが、葛城は一瞬ギョッとした様に目を大きく開いた。
「別にそんなに驚かなくても……普通のでいいんですよね?」
「普通のって」
「普通の……ゴムでしょう?」
「……買ってくる」
葛城の顔が虚無だ。ここで待ってろ、とだけ言い残しコンビニの中に入る。その姿を眺めつつ晴香は一人首を傾げるが、葛城が入ってすぐの棚から商品を手にしたのを目にした途端全てを理解した。
どうしてこんな物がコンビニに入ってすぐの、一番目立つ棚に置いてあるんだろうと常々思っていた商品。葛城が手にしたのはそれだ。薄さと装着時の心地良さを箱に大きく書いてある避妊具。
ゴムって……ゴムってーっっ!!
そっちかー! と晴香は羞恥でその場にしゃがみ込みたい。コンビニの前なのでそれはどうにか耐えるが、自動ドアの向こうで会計中の葛城と目が合い、その口が「あほ」と動いたのを確認すれば、顔を両手で覆い地の底からの呻き声を上げるのは堪えきれなかった。
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