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《第2章》 ワルツの成果
セレナ 1
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バイオリンの甘い音色が、テンポの速い異国のメロディーを奏でている。
軽快さと哀愁が背中あわせにひるがえっていく独特の音階。北風と冬の鳥が踊っているような情景を想起させる。
旋律にかさなるのは、手拍子だ。パン、パン、パン、パンという切れのいい拍子にあわせて「一、二、三、一、二、三。そこでターン!」と張りのある涼やかな声が飛ぶ。
「もっと! あと拳一つ分は左足伸びる。最後の三小節、背中のカーブ意識して。綺麗に見せて!」
曲はゆるやかに終幕となり、長く余韻をひいた。
「はい。今日はここで終わり」
楽師が肩から楽器をおろすと、手拍子を刻んでいた女性はピリオドを打つように歯切れよく言った。
すると、広間の中央で腕を高くかかげて締めのポーズをとっていたエリーは、全身の力を抜き、大理石の床にへたり込んだ。顔が上気している。
「疲れました。もう暑いし、汗が……セレナ様、踊っているときどうして汗ひとつかかないの」
「練習量と慣れ、かしら。物心ついたときには既に踊ってたから、踊ってるときの状態に合わせるよう、体が自然と調整しているのかもしれないわ」
思案しながら、セレナはゆっくりと答える。ガラスの小卓に置かれていたレモネードのグラスを二つとると、彼女は一つをエリーに、一つを楽師に手渡した。小卓の上には、焼き菓子も用意されていた。
「ありがとうございます」エリーは手巾で汗をぬぐいながら受けとると、レモネードを一気に喉に流しこんだ。「美味しい。わたし、練習よりも終わったあとのこの時間が好きだから続けてられるのかも」
「私もそうよ」
ふふっと、淡い翡翠色の瞳でセレナは笑いかけた。
この人に微笑みかけられると、嬉しくて、同時に胸がしめつけられるような切ない気分になる、とエリーはいつも思う。
セレナから北方舞踊のレッスンを受けるようになって、もうすぐ五年が経とうとしていた。エリーは一七歳になっていた。
五年前のあの冬の朝が、一つの転機だった。
氷点下の湖に落ちたとき、エリーはなかなか呼吸を取りもどさずに危険な状態にいたった。当時、エリーよりも小柄だったジェイだけで、毛皮を着たまま転落したエリーを引き上げるのに、時間がかかったからだ。
城の大人たちが湖に駆けつけたのは、ジェイが陸地にエリーをやっとのことで引っぱりあげ、人工呼吸も済ませたタイミングだった。エリーは息を吹きかえしたが、凍りついた湖面が割れたときの氷塊で左足のふくらはぎに大きな裂傷をおっていた。
ただちに城内にエリーは運びこまれたが、ひどい肺炎にかかり三か月をベッドで過ごすことになった。
ひと冬を自室から出られないまま暮らし、春になって雪解け水がガラティアの大地を潤すころ、ようやく窓をあけはなって外の空気をぞんぶんに吸いこむことが許されるようになった。
セレナがエリーの見舞いに訪れたのは、ちょうどその時分だった。彼女は腕に、その年最初のクロッカスの花束が入ったバスケットをさげていた。
彼女のノックの音が聞こえたとき、エリーは動揺のあまり自分が扉をひらこうとスリッパに足を伸ばしかけた。
「お嬢様は堂々とベッドに寝そべっていてください」
百年も生きているような貫禄で、ジャンヌはエリーを押しとどめ来客を出迎えた。しかし、歓迎していないと言外ににじませて椅子を勧めることさえしない。
「ジャンヌ。セレナ様に失礼よ。わざわざ来てくださったのに」
「でもお嬢様、どんな意図か分からないじゃないですか。お嬢様が弱っているところに、何か思いもよらないことを言いだすのかもしれません」
「だから、単にお見舞いでしょう」
エリーは、こめかみを押さえた。ジャンヌとは、相変わらず噛みあっていない。
「ご機嫌うるわしゅう、エリー様」
二人のやりとりを興味深げに眺めていたセレナは、見とれるような優雅さで挨拶した。
「本来ならば公爵家のお嬢様であるあなた様とこのようにお話できる身分ではないのは承知しておりますが、同じ城内に暮らしておりますゆえ、遅ればせながらお見舞いをかねてご挨拶に参りました」
流れるような口上も、堂のいった挙措も、一点の曇りもない。元々の姿の良さや踊りで洗練された振る舞いだけではなく、彼女が意識して宮廷作法を学んだことをエリーは感じとった。この女性は、努力と自分の立ち位置を知っている人だ。
「できれば……」
と彼女が横目でちらりとジャンヌに視線をやったとき、エリーは即座に侍女たちに外すよう命じた。もちろんジャンヌもだ。
軽快さと哀愁が背中あわせにひるがえっていく独特の音階。北風と冬の鳥が踊っているような情景を想起させる。
旋律にかさなるのは、手拍子だ。パン、パン、パン、パンという切れのいい拍子にあわせて「一、二、三、一、二、三。そこでターン!」と張りのある涼やかな声が飛ぶ。
「もっと! あと拳一つ分は左足伸びる。最後の三小節、背中のカーブ意識して。綺麗に見せて!」
曲はゆるやかに終幕となり、長く余韻をひいた。
「はい。今日はここで終わり」
楽師が肩から楽器をおろすと、手拍子を刻んでいた女性はピリオドを打つように歯切れよく言った。
すると、広間の中央で腕を高くかかげて締めのポーズをとっていたエリーは、全身の力を抜き、大理石の床にへたり込んだ。顔が上気している。
「疲れました。もう暑いし、汗が……セレナ様、踊っているときどうして汗ひとつかかないの」
「練習量と慣れ、かしら。物心ついたときには既に踊ってたから、踊ってるときの状態に合わせるよう、体が自然と調整しているのかもしれないわ」
思案しながら、セレナはゆっくりと答える。ガラスの小卓に置かれていたレモネードのグラスを二つとると、彼女は一つをエリーに、一つを楽師に手渡した。小卓の上には、焼き菓子も用意されていた。
「ありがとうございます」エリーは手巾で汗をぬぐいながら受けとると、レモネードを一気に喉に流しこんだ。「美味しい。わたし、練習よりも終わったあとのこの時間が好きだから続けてられるのかも」
「私もそうよ」
ふふっと、淡い翡翠色の瞳でセレナは笑いかけた。
この人に微笑みかけられると、嬉しくて、同時に胸がしめつけられるような切ない気分になる、とエリーはいつも思う。
セレナから北方舞踊のレッスンを受けるようになって、もうすぐ五年が経とうとしていた。エリーは一七歳になっていた。
五年前のあの冬の朝が、一つの転機だった。
氷点下の湖に落ちたとき、エリーはなかなか呼吸を取りもどさずに危険な状態にいたった。当時、エリーよりも小柄だったジェイだけで、毛皮を着たまま転落したエリーを引き上げるのに、時間がかかったからだ。
城の大人たちが湖に駆けつけたのは、ジェイが陸地にエリーをやっとのことで引っぱりあげ、人工呼吸も済ませたタイミングだった。エリーは息を吹きかえしたが、凍りついた湖面が割れたときの氷塊で左足のふくらはぎに大きな裂傷をおっていた。
ただちに城内にエリーは運びこまれたが、ひどい肺炎にかかり三か月をベッドで過ごすことになった。
ひと冬を自室から出られないまま暮らし、春になって雪解け水がガラティアの大地を潤すころ、ようやく窓をあけはなって外の空気をぞんぶんに吸いこむことが許されるようになった。
セレナがエリーの見舞いに訪れたのは、ちょうどその時分だった。彼女は腕に、その年最初のクロッカスの花束が入ったバスケットをさげていた。
彼女のノックの音が聞こえたとき、エリーは動揺のあまり自分が扉をひらこうとスリッパに足を伸ばしかけた。
「お嬢様は堂々とベッドに寝そべっていてください」
百年も生きているような貫禄で、ジャンヌはエリーを押しとどめ来客を出迎えた。しかし、歓迎していないと言外ににじませて椅子を勧めることさえしない。
「ジャンヌ。セレナ様に失礼よ。わざわざ来てくださったのに」
「でもお嬢様、どんな意図か分からないじゃないですか。お嬢様が弱っているところに、何か思いもよらないことを言いだすのかもしれません」
「だから、単にお見舞いでしょう」
エリーは、こめかみを押さえた。ジャンヌとは、相変わらず噛みあっていない。
「ご機嫌うるわしゅう、エリー様」
二人のやりとりを興味深げに眺めていたセレナは、見とれるような優雅さで挨拶した。
「本来ならば公爵家のお嬢様であるあなた様とこのようにお話できる身分ではないのは承知しておりますが、同じ城内に暮らしておりますゆえ、遅ればせながらお見舞いをかねてご挨拶に参りました」
流れるような口上も、堂のいった挙措も、一点の曇りもない。元々の姿の良さや踊りで洗練された振る舞いだけではなく、彼女が意識して宮廷作法を学んだことをエリーは感じとった。この女性は、努力と自分の立ち位置を知っている人だ。
「できれば……」
と彼女が横目でちらりとジャンヌに視線をやったとき、エリーは即座に侍女たちに外すよう命じた。もちろんジャンヌもだ。
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