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第1章 裏切りの婚約破棄
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侯爵家の舞踏会は、まさに夜空に輝く満月のような、眩い光に満ちていました。
きらびやかなシャンデリアの下、軽やかなワルツのリズムに合わせて、艶やかなドレスをまとった貴婦人たちや、きっちりと着飾った紳士たちが微笑みを交わしています。
わたし、エリシア・ローヴェル子爵家の令嬢にとって、今夜は格別な夜になるはずでした。
子爵家とはいえ名門の娘であるわたしは、この国の未来を担う侯爵家の嫡男、アルバート・グレンフォード様と婚約を結んでいました。その発表を兼ねた華やかな夜会。彼の隣で、わたしは未来への希望に胸を膨らませていたのです。
アルバート様は銀の髪に薄い青の瞳を持った、絵画から抜け出たように美しい方でした。社交界でもその聡明さと優雅さで常に注目の的。わたしの自慢の婚約者でした。そして、わたしもまた、才気と誇りを持つ令嬢として、彼の隣にふさわしいと自負していたのです。
「エリシア、君は今夜もひときわ美しい。まるで、夜空に咲いた一輪の薔薇のようだ」
アルバート様の甘く囁くような声に、わたしの頬は自然と熱を持ちます。
ああ、この時間が永遠に続けばいいのに。これから彼と共に歩む道は、きっと素晴らしいものになるでしょう。公爵夫人として、わたしは彼の事業や、貴族としての責務を全力で支えるつもりでした。特に、わたしが密かに夢中になっている鉄道の技術についても、理解を示してくださっている。そう信じていたのです。
ところが、その夢は、まさに粉々に打ち砕かれました。
夜会が最も盛り上がりを見せる時、アルバート様は突然、壇上の中央へ進み出ました。静粛を求める彼の姿に、全員が息を飲みます。
「皆さま、本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます」
いつものように優雅な、けれどどこか冷ややかな響きを持つ彼の声が、大広間に響き渡ります。
「この場で、わたくし、アルバート・グレンフォードから、お伝えしたいことがあります」
全員の視線が集中する中、彼はすっと、わたしの方へと視線を向けました。わたしは壇上の端に、緊張と期待で立ち尽くしています。
「わたくしとエリシア・ローヴェル嬢との婚約を、破棄させていただきます」
……は?
一瞬、時間の流れが止まったように感じました。ざわついていた大広間が一瞬で静まり返り、次に、ひそやかな囁き声が波紋のように広がっていきます。
――聞き間違い、ですよね? だって、今日はその婚約を披露するはずの夜会だったはずですから。
「アルバート様……何を、冗談を?」
思わず口から出た言葉は、震えていました。
「冗談などでは断じてない」
彼の瞳は、薄い青の氷のようでした。そこには、かつてわたしに向けてくれていた愛情のかけらさえも見つけることができません。
「君は、子爵家の娘として確かに優秀だ。しかし、わたくしが本当に求めるのは、君のような形式的な美しさではない」
「形式的」? わたしの努力も、才能も、すべてが「形式的」だと?
「わたくしが愛しているのは、この方だ」
アルバート様は、そう言って、彼の隣に立っていた一人の女性の手を取りました。
その女性は、地味な藤色のドレスをまとい、少し伏し目がちに立っていましたが、その表情はどこか勝ち誇ったような、熱を帯びたものでした。
「彼女は、伯爵家の末の娘、セリア・ウッドワード嬢だ。彼女の瞳には、打算や貴族の格式ではなく、純粋なわたくしへの愛が溢れている」
大広間が、一気にざわつきの渦に飲み込まれます。
「伯爵家の末娘」
「駆け落ち」
「家格が合わない」
といった言葉が、まるで毒のようにわたしに降りかかります。
わたしの家の名誉、誇り、そしてわたしの未来。すべてが、この一瞬で踏みにじられました。
「ごきげんよう、エリシア様」
セリア嬢は、はっきりと、挑戦的な笑みをわたしに向けました。
「わたくしは、アルバート様と共に行くわ。彼が本当に愛する人として、ね」
そして、アルバート様は、セリア嬢の髪を撫で、優しく囁きました。
「行こう、セリア。もう、君を隠す必要はない」
二人は、集まった人々を無視して、大広間の出口へと向かい、そのまま姿を消してしまったのです。
残されたのは、凍りついた空気と、騒然とした人々の視線、そして、目の前が暗闇に沈んだわたしだけでした。
「エリシア様……!」
背後から、わたしの専属侍女であるクラウディアが、慌てたように駆け寄ってきました。
「大丈夫ですか!? あの、ひどい……!」
わたしは、彼女に大丈夫だと答えることもできず、ただ、震える手を取り、その場から逃げ出しました。
どこへ向かうというあてもなく、ただひたすらに、あの残酷な視線から、噂の毒から逃れたかったのです。
たどり着いたのは、夜会の喧騒が嘘のように静まり返った侯爵家の裏庭でした。しっとりとした夜露に濡れた草木と、静かに光る月明かりだけが、わたしを慰めてくれます。
婚約破棄。侯爵家嫡男との婚約破棄。しかも、別の女性との駆け落ちによるもの。
このスキャンダルは、社交界の笑い者となるでしょう。わたしの家の名誉は地に落ち、わたし自身も「裏切られた哀れな令嬢」として、もうまともな縁談など望めないかもしれません。
溢れそうになる涙を必死でこらえ、わたしは庭園の奥、人目につかない木の影に身を隠しました。
(どうして……どうしてこんなことに。わたしは、精一杯、彼の隣にふさわしくあろうと努力してきたのに……!)
悔しさ、悲しさ、そして、何よりも踏みにじられた誇りが、わたしの心を締め付けます。
――その時でした。
どこからか、「よいしょ」という、男の人の低い声が聞こえてきたのです。
こんな夜更けに、侯爵家の庭園の奥で。
わたしは驚いて顔を上げました。まさか、誰かが見ているのではないか、と。
視線を向けた先にいたのは、制服姿の青年でした。
貴族の夜会では見かけない、煤(すす)にまみれた、作業服のような紺色の制服。手には分厚い手袋をしていて、顔にもわずかに煤が付着しているようでした。
彼は、庭園の隅にある、古びた物置小屋の横で、何かを押していました。
それは、庭師が使う道具か何かかと思いきや、よく見ると、小さなトロッコでした。木製の台車に、鉄の車輪。庭の砂利を敷き詰めた、ごく短い線路の上を、そのトロッコがギィギィと音を立てて進んでいます。
「ふむ、やはりこのレールは少し歪んでいるな。夜明けまでに調整しておきたいんだが」
青年は、手に持った工具のようなもので、レールを叩いています。彼は全くわたしに気が付いていない様子で、ただひたすらに、その作業に夢中になっているようでした。
(一体、誰? 侯爵家の使用人にしては、身なりが……少し、立派すぎるような気もするけれど)
わたしが戸惑っていると、トロッコを押していた彼が、ふと立ち止まり、夜空を見上げました。
「さて、今日は少し遅くなってしまった。明日の朝一番の点検までには、終えておきたいんだが」
そして彼は、近くの木の根元に座り込み、水筒を取り出して喉を潤し始めました。
わたしは、この状況があまりにも異様で、そしてどこか、わたしの絶望的な状況とはかけ離れた「日常」の光景のように見えて、つい声をかけてしまいました。
「あの……」
声を発した瞬間、彼はビクリと肩を震わせ、こちらを振り返りました。
暗がりの中でも、彼の瞳が、夜の光を反射して、少しだけ驚きに見開かれているのが分かりました。
「な、なんだ君は!? こんなところで、一体……」
彼は慌てて立ち上がり、制服についた煤を払い落とそうとします。その仕草は、どこか不器用で、妙に人間味がありました。
「わ、わたしは、夜会に参加していた……エリシアと申します」
わたしは、自分の名前を口にしながら、自分の身なりを改めて見ました。
夜会のための華やかなドレスと、婚約破棄の悲劇で涙をこらえた、心に傷を負った顔。
そんなわたしを見て、彼は少し考えるように首を傾げました。そして、
「ああ、そうか。君が、その……今、兄上から婚約を破棄されたという……使用人から聞いた」
彼は、遠慮のない、ストレートな言葉を口にしました。
それは、社交界の陰口とは違い、妙に率直で、わたしの胸を突き刺しました。
「……はい」
わたしは、力なく答えました。
「それは、大変だったな」
彼は、そう言って、わたしに近づいてきました。
「大変」? そんな一言で片付けられるようなものではありません。わたしの人生が、今、奈落の底に落ちたというのに。
しかし、わたしを真っ直ぐに見つめる彼の瞳は、憐れみや好奇心ではなく、ただ純粋な「労い」の感情を映していました。
彼は、少しだけ屈むと、わたしの頬に触れ、涙を拭ってくれました。
「泣かないでくれ。君のような美しい人が、あんな奴のために、そんな顔をするのは惜しい」
その言葉は、アルバート様のような甘美な囁きではありませんでした。
煤の匂いと、少し油の匂いの混じった、素朴な優しさでした。頬に触れる指先はざらりとしていましたが、その温もりが、冷え切ったわたしの心をそっと包み込むようでした。
「ところで、君はこんな時間に、庭園で何をしているんだ? もしかして、あのトロッコに興味があるのか?」
――トロッコ、ですか。
先ほどまでの絶望が、彼の素朴な問いかけによって、少しだけ遠のいたように感じました。
「あの……それは、一体……」
「これか? これは、僕が持ち込んだ、手作りのトロッコだ」
彼は、誇らしげにトロッコを指差しました。
「庭の奥にある資材置き場への運搬に使うんだ。ただ、それだけじゃない。このトロッコに乗って、僕は時々、考えるんだ。人を運ぶ鉄路の未来について、ね」
「人を運ぶ鉄路」―――。
その言葉に、わたしの心は、一瞬で惹きつけられました。
「あなた……もしかして、鉄道に詳しい方なのですか?」
わたしは、彼の無邪気な情熱に、ほんの少しだけ心を和ませながら、尋ねました。
彼の顔が、パッと明るくなりました。その無邪気な笑顔は、先ほどのアルバート様の冷たい美しさとは全く違う、温かい輝きを放っていました。
「ああ、もちろんだ! 僕の人生は、鉄道なしには語れない。君も興味があるのか? 嬉しいな。貴族の令嬢で、鉄道に興味を持つ人は、なかなかいないからね」
彼は、そう言って、今度はわたしの手を取り、トロッコの横へと案内しました。
煤で汚れた手でしたが、その力強さが、わたしを新しい世界へと引っ張っていくように感じました。
「自己紹介が遅れた。僕は、この侯爵家の三男だ。ライナルト・グレンフォードという。よろしく、エリシア嬢」
彼は、煤まみれの制服のまま、侯爵家の息子だと名乗りました。
そして、わたしに鉄道の話を、嬉しそうに語り始めたのです。
その時、わたしは思いました。
この、煤と油の匂いのする、不器用で、けれど真っ直ぐな青年の存在が、わたしの傷ついた心に、まるで夜明けの光のように差し込んできたのだと。
侯爵家の三男坊、ライナルト。そして、鉄道。
わたしの新しい物語は、この夜、トロッコの線路の上で、静かに走り出し始めたのでした。
きらびやかなシャンデリアの下、軽やかなワルツのリズムに合わせて、艶やかなドレスをまとった貴婦人たちや、きっちりと着飾った紳士たちが微笑みを交わしています。
わたし、エリシア・ローヴェル子爵家の令嬢にとって、今夜は格別な夜になるはずでした。
子爵家とはいえ名門の娘であるわたしは、この国の未来を担う侯爵家の嫡男、アルバート・グレンフォード様と婚約を結んでいました。その発表を兼ねた華やかな夜会。彼の隣で、わたしは未来への希望に胸を膨らませていたのです。
アルバート様は銀の髪に薄い青の瞳を持った、絵画から抜け出たように美しい方でした。社交界でもその聡明さと優雅さで常に注目の的。わたしの自慢の婚約者でした。そして、わたしもまた、才気と誇りを持つ令嬢として、彼の隣にふさわしいと自負していたのです。
「エリシア、君は今夜もひときわ美しい。まるで、夜空に咲いた一輪の薔薇のようだ」
アルバート様の甘く囁くような声に、わたしの頬は自然と熱を持ちます。
ああ、この時間が永遠に続けばいいのに。これから彼と共に歩む道は、きっと素晴らしいものになるでしょう。公爵夫人として、わたしは彼の事業や、貴族としての責務を全力で支えるつもりでした。特に、わたしが密かに夢中になっている鉄道の技術についても、理解を示してくださっている。そう信じていたのです。
ところが、その夢は、まさに粉々に打ち砕かれました。
夜会が最も盛り上がりを見せる時、アルバート様は突然、壇上の中央へ進み出ました。静粛を求める彼の姿に、全員が息を飲みます。
「皆さま、本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます」
いつものように優雅な、けれどどこか冷ややかな響きを持つ彼の声が、大広間に響き渡ります。
「この場で、わたくし、アルバート・グレンフォードから、お伝えしたいことがあります」
全員の視線が集中する中、彼はすっと、わたしの方へと視線を向けました。わたしは壇上の端に、緊張と期待で立ち尽くしています。
「わたくしとエリシア・ローヴェル嬢との婚約を、破棄させていただきます」
……は?
一瞬、時間の流れが止まったように感じました。ざわついていた大広間が一瞬で静まり返り、次に、ひそやかな囁き声が波紋のように広がっていきます。
――聞き間違い、ですよね? だって、今日はその婚約を披露するはずの夜会だったはずですから。
「アルバート様……何を、冗談を?」
思わず口から出た言葉は、震えていました。
「冗談などでは断じてない」
彼の瞳は、薄い青の氷のようでした。そこには、かつてわたしに向けてくれていた愛情のかけらさえも見つけることができません。
「君は、子爵家の娘として確かに優秀だ。しかし、わたくしが本当に求めるのは、君のような形式的な美しさではない」
「形式的」? わたしの努力も、才能も、すべてが「形式的」だと?
「わたくしが愛しているのは、この方だ」
アルバート様は、そう言って、彼の隣に立っていた一人の女性の手を取りました。
その女性は、地味な藤色のドレスをまとい、少し伏し目がちに立っていましたが、その表情はどこか勝ち誇ったような、熱を帯びたものでした。
「彼女は、伯爵家の末の娘、セリア・ウッドワード嬢だ。彼女の瞳には、打算や貴族の格式ではなく、純粋なわたくしへの愛が溢れている」
大広間が、一気にざわつきの渦に飲み込まれます。
「伯爵家の末娘」
「駆け落ち」
「家格が合わない」
といった言葉が、まるで毒のようにわたしに降りかかります。
わたしの家の名誉、誇り、そしてわたしの未来。すべてが、この一瞬で踏みにじられました。
「ごきげんよう、エリシア様」
セリア嬢は、はっきりと、挑戦的な笑みをわたしに向けました。
「わたくしは、アルバート様と共に行くわ。彼が本当に愛する人として、ね」
そして、アルバート様は、セリア嬢の髪を撫で、優しく囁きました。
「行こう、セリア。もう、君を隠す必要はない」
二人は、集まった人々を無視して、大広間の出口へと向かい、そのまま姿を消してしまったのです。
残されたのは、凍りついた空気と、騒然とした人々の視線、そして、目の前が暗闇に沈んだわたしだけでした。
「エリシア様……!」
背後から、わたしの専属侍女であるクラウディアが、慌てたように駆け寄ってきました。
「大丈夫ですか!? あの、ひどい……!」
わたしは、彼女に大丈夫だと答えることもできず、ただ、震える手を取り、その場から逃げ出しました。
どこへ向かうというあてもなく、ただひたすらに、あの残酷な視線から、噂の毒から逃れたかったのです。
たどり着いたのは、夜会の喧騒が嘘のように静まり返った侯爵家の裏庭でした。しっとりとした夜露に濡れた草木と、静かに光る月明かりだけが、わたしを慰めてくれます。
婚約破棄。侯爵家嫡男との婚約破棄。しかも、別の女性との駆け落ちによるもの。
このスキャンダルは、社交界の笑い者となるでしょう。わたしの家の名誉は地に落ち、わたし自身も「裏切られた哀れな令嬢」として、もうまともな縁談など望めないかもしれません。
溢れそうになる涙を必死でこらえ、わたしは庭園の奥、人目につかない木の影に身を隠しました。
(どうして……どうしてこんなことに。わたしは、精一杯、彼の隣にふさわしくあろうと努力してきたのに……!)
悔しさ、悲しさ、そして、何よりも踏みにじられた誇りが、わたしの心を締め付けます。
――その時でした。
どこからか、「よいしょ」という、男の人の低い声が聞こえてきたのです。
こんな夜更けに、侯爵家の庭園の奥で。
わたしは驚いて顔を上げました。まさか、誰かが見ているのではないか、と。
視線を向けた先にいたのは、制服姿の青年でした。
貴族の夜会では見かけない、煤(すす)にまみれた、作業服のような紺色の制服。手には分厚い手袋をしていて、顔にもわずかに煤が付着しているようでした。
彼は、庭園の隅にある、古びた物置小屋の横で、何かを押していました。
それは、庭師が使う道具か何かかと思いきや、よく見ると、小さなトロッコでした。木製の台車に、鉄の車輪。庭の砂利を敷き詰めた、ごく短い線路の上を、そのトロッコがギィギィと音を立てて進んでいます。
「ふむ、やはりこのレールは少し歪んでいるな。夜明けまでに調整しておきたいんだが」
青年は、手に持った工具のようなもので、レールを叩いています。彼は全くわたしに気が付いていない様子で、ただひたすらに、その作業に夢中になっているようでした。
(一体、誰? 侯爵家の使用人にしては、身なりが……少し、立派すぎるような気もするけれど)
わたしが戸惑っていると、トロッコを押していた彼が、ふと立ち止まり、夜空を見上げました。
「さて、今日は少し遅くなってしまった。明日の朝一番の点検までには、終えておきたいんだが」
そして彼は、近くの木の根元に座り込み、水筒を取り出して喉を潤し始めました。
わたしは、この状況があまりにも異様で、そしてどこか、わたしの絶望的な状況とはかけ離れた「日常」の光景のように見えて、つい声をかけてしまいました。
「あの……」
声を発した瞬間、彼はビクリと肩を震わせ、こちらを振り返りました。
暗がりの中でも、彼の瞳が、夜の光を反射して、少しだけ驚きに見開かれているのが分かりました。
「な、なんだ君は!? こんなところで、一体……」
彼は慌てて立ち上がり、制服についた煤を払い落とそうとします。その仕草は、どこか不器用で、妙に人間味がありました。
「わ、わたしは、夜会に参加していた……エリシアと申します」
わたしは、自分の名前を口にしながら、自分の身なりを改めて見ました。
夜会のための華やかなドレスと、婚約破棄の悲劇で涙をこらえた、心に傷を負った顔。
そんなわたしを見て、彼は少し考えるように首を傾げました。そして、
「ああ、そうか。君が、その……今、兄上から婚約を破棄されたという……使用人から聞いた」
彼は、遠慮のない、ストレートな言葉を口にしました。
それは、社交界の陰口とは違い、妙に率直で、わたしの胸を突き刺しました。
「……はい」
わたしは、力なく答えました。
「それは、大変だったな」
彼は、そう言って、わたしに近づいてきました。
「大変」? そんな一言で片付けられるようなものではありません。わたしの人生が、今、奈落の底に落ちたというのに。
しかし、わたしを真っ直ぐに見つめる彼の瞳は、憐れみや好奇心ではなく、ただ純粋な「労い」の感情を映していました。
彼は、少しだけ屈むと、わたしの頬に触れ、涙を拭ってくれました。
「泣かないでくれ。君のような美しい人が、あんな奴のために、そんな顔をするのは惜しい」
その言葉は、アルバート様のような甘美な囁きではありませんでした。
煤の匂いと、少し油の匂いの混じった、素朴な優しさでした。頬に触れる指先はざらりとしていましたが、その温もりが、冷え切ったわたしの心をそっと包み込むようでした。
「ところで、君はこんな時間に、庭園で何をしているんだ? もしかして、あのトロッコに興味があるのか?」
――トロッコ、ですか。
先ほどまでの絶望が、彼の素朴な問いかけによって、少しだけ遠のいたように感じました。
「あの……それは、一体……」
「これか? これは、僕が持ち込んだ、手作りのトロッコだ」
彼は、誇らしげにトロッコを指差しました。
「庭の奥にある資材置き場への運搬に使うんだ。ただ、それだけじゃない。このトロッコに乗って、僕は時々、考えるんだ。人を運ぶ鉄路の未来について、ね」
「人を運ぶ鉄路」―――。
その言葉に、わたしの心は、一瞬で惹きつけられました。
「あなた……もしかして、鉄道に詳しい方なのですか?」
わたしは、彼の無邪気な情熱に、ほんの少しだけ心を和ませながら、尋ねました。
彼の顔が、パッと明るくなりました。その無邪気な笑顔は、先ほどのアルバート様の冷たい美しさとは全く違う、温かい輝きを放っていました。
「ああ、もちろんだ! 僕の人生は、鉄道なしには語れない。君も興味があるのか? 嬉しいな。貴族の令嬢で、鉄道に興味を持つ人は、なかなかいないからね」
彼は、そう言って、今度はわたしの手を取り、トロッコの横へと案内しました。
煤で汚れた手でしたが、その力強さが、わたしを新しい世界へと引っ張っていくように感じました。
「自己紹介が遅れた。僕は、この侯爵家の三男だ。ライナルト・グレンフォードという。よろしく、エリシア嬢」
彼は、煤まみれの制服のまま、侯爵家の息子だと名乗りました。
そして、わたしに鉄道の話を、嬉しそうに語り始めたのです。
その時、わたしは思いました。
この、煤と油の匂いのする、不器用で、けれど真っ直ぐな青年の存在が、わたしの傷ついた心に、まるで夜明けの光のように差し込んできたのだと。
侯爵家の三男坊、ライナルト。そして、鉄道。
わたしの新しい物語は、この夜、トロッコの線路の上で、静かに走り出し始めたのでした。
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