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9章 お母さん
+++++さよなら、お母さん
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赤いのれんがかかったラーメン屋の引き戸をガラッと開ける。
三沢軒は大介の両親が切盛りする店だ。まだ四時前なのでお客さんは、いない。
「大介くんいる?」と聞くと、「大介なら、今日は親戚の家にいってるよ」とおじさんが調理場から叫んだ。
がっかりして店を出る。
「鶴見っちと話したい……」
鶴見の家は父親がやばいから来ないほうがいいと言われていた。
スマホがあれば鶴見にすぐ連絡できるのに。学校外でいて欲しい時に鶴見とはいつも会えない。女子の家に行くのもなんか情けない。
仕方がないので駅前のコンビニに入る。
オレンジジュースを買い、イート・インで暇をつぶしているとピンポーンピンポーン、お客さんが入ってきた電子音がした。
ちらっと自動ドアの方に目を向ける。
さっきの女の人だった。淡い花柄のワンピースを品よく着こなし、髪はきれいにセットして、化粧は控えめで、ショートカット。
(あ、栄のお母さん。)
栄のお母さんはうつむいて悲しそうな顔をしてる。レジの横の保温器のドアを開けて缶コーヒーを買っている。
朝日は気になって目が離せない。
栄のお母さんはまっすぐイート・インに来て隣に座った。
お母さんは朝日を見る。
「あら、さっきの子」
「はい」
「近所の子?」って聞かれた。
朝日はとりあえず頷く。
「桐野栄之助の母です。いつもうちの息子がお世話になってます」丁寧に挨拶された。
軽く会釈する。べつにお世話なんてしてないけど。
「ボクの名前は?」
「はざまあさひ」
「私は桐野美佐江。よろしくね」
栄のお母さんを無視して、ごくごくジュースを飲む。
(さっさとジュース飲んで、家に帰ろうっと。)
飲み終わったので席を立つ。
ちらりと横を見ると、栄のお母さんがハンカチで涙を拭いていた。
「大丈夫ですか?」朝日は面食らって聞いた。
「さっさと帰って欲しいって息子に言われた。家にも入れてくれないの」
追い返すなんて、それってちょっとひどくね?お母さんが可哀そうになる。
「朝日君、よかったら、おばさんにちょっとつきあってもらえる? せっかく来たのに、このまま家に戻るのは悲しいから」
「別にいいですけど」
駅前でタクシーに乗った。どこに行くんだろう。
栄のお母さんは「遊園地までお願いします」と運転手に頼んだ。
***
連れていかれたところは、遊園地だった。
機械音の陽気な音楽がピロリロリーンと聞こえてくる。ジェットコースターの前には長蛇の列。
家族連れもいれば、友達同士で来ている人たちもいる。みんな楽しそうだ。
お母さんはすっかり元気になって、大きな明るい声で言った。
「遊園地、ひさびさ。よく子供たちと遊びに来たわ」
うふって微笑む。もう五〇歳超えているのに若々しくて目頭のしわも優しそう。
「朝日君、乗りたいものがあったら、言ってね」
「観覧車」ぼそっと言う朝日。
顔を上げないから、中途半端に伸びた前髪が顔にかかって暗い子に見える。
きっと栄のお母さんも自分のことを暗い子だと思っているに違いないと勝手に決めつける。
「せっかくだから三周しちゃおうね。すごく眺めいいから」栄のお母さんは券を買う。
列に並んで自分たちの番がきたので、ひょいっと観覧車に乗る。
晴れの日なら東京の方まで景色が広がるのに曇り空でかすんで見えた。
「栄くんね、そっけない。もう半年以上も会ってなかったから、もしかして体調崩したり悩み事があるのかなって、心配でせっかく訪ねてきたのに家の中にも入れてくれなくてね」お母さんがつぶやいた。
「そうだったの」
「栄くん、変わったな」
あの人、最近、変わったと思う。感情の起伏が激しくなったというか、中学生みたいな時がある。どーでもいいことではしゃいだり。お昼のお子様ランチの件も意味不明。
「ますます、よそよそしくなった。何か隠し事でもあるのかも」向かいに座っているお母さんは残念そうに言う。
「たぶん機嫌が悪かっただけだと思う。あの人、たまにそういうときがあるし」
「そうかもね。朝日君は中学生?」
「中二」
がったんがったん少し揺れる観覧車の外を眺める。
あまり会話も弾まない。なんでこの人と一緒に観覧車なんて乗ってるんだろう。できすぎなようなセッティング。
心配して訪ねにきたって言っていたし、栄が呼び出したわけじゃないだろう。知らない中学生と住んでるなんて自分の家族に知ってもらいたくないだろうし。
かなり居心地が悪い。前髪が目に入って、ちくっとした。目をこする。
「ごめんね。おばさんの我がままに付き合わせちゃって」
「別に暇だし」
すごく優しそうなお母さんだとか、色々考えてしまう。
観覧車から降りると、ぽつりぽつりと細かい雨が降ってきた。
「うーん、小雨降ってるしどうしよう」お母さんは手提げ鞄からピンクの折り畳みの傘を取り出す。
「お化け屋敷とか嫌ですよね?」
朝日もお化け屋敷やミラーハウスには入りたくないと伝える。
お母さんは名案を思いついた!!と目を輝かせて言った。
「植物園に行こうか?」
園内に植物園がある。温室にいれば雨に濡れない。
二人は一緒に傘に入って温室に向かう。肌の色が傘の色に映えてピンクに見える。
なんで、栄のお母さんと自分は、遊園地にいるんだろうとまた考えた。
***
お母さんが温室内を探索している間、植物園の温室のベンチに座って朝日は、ぼーっとしていた。
(不公平だよ。栄には、優しくてきちんとしたお母さんがいるのに。僕には最低な母親しかいなかった。無視されたり、馬鹿な子ってはたかれたり、蹴られたりした思い出しかないよ)
めんどくさくなって目を閉じる。なんか、今日は疲れちゃったな。
隣に誰かが座る気配がして、目を開けた。
「あら、起こしちゃったね。ごめんね」
「別に」
「どうしたの?疲れてるのかな?」
「別に」
何を話していいのか分からない。
「ここね。昔、子供たちと来たことがあるの。懐かしいなあ」
「花とか植物が好きなの?」
「大好き」
笑った顔が栄にそっくり。端正な顔立ちで、とろけてしまうような笑顔の栄とすごく似てる。
大好きって言うときの口調もそっくり。
お母さんは、話を続けた。
「栄くん、すごく忙しいから連絡してくれないのかな」
朝日は黙って話を聞いていた。
お母さんはカバーの付いた手帳をバッグからだして、パラパラめくって、間に挟んである写真を見せる。
小学校の入学式の写真だった。ピンクのワンピースを着た若いお母さんと私立の小学校の制服を着てまじめな顔をしているいかにもお坊ちゃまの栄。
(僕よりチビじゃん)
「ついさっきまで小学生だったのに、もう大人になっちゃって。本当、年月がたつのって速いよね」
朝日は、その写真を見て悲しくなる。
(僕、お母さんと一緒の写真なんて一枚もない)
「おばさんの息子って中学のときはどんなだったの?」
「勉強ができて、やさしくて、明るくて」
「学年でトップの優等生だったの?」
「一番になることはなかったけど、将来は、国立大に行くって頑張ってた。結局、無理だったけど」
「でも医大行ったんだよね?」
「国立の法学部と私立の医学部どっちが入るのが大変だと思う?法学部のほうがずっと難しい」
「そうなんだ」
「お医者さんになって頑張って毎日働いて、偉い、偉い」お母さんは、とても幸せそうに言った。
自分と大違い。成績も普通だし、一学期、クラスの男子と喧嘩して謹慎処分、悪い子。
栄は母親の自慢の息子。
自分は母親にとって何だったんだろう。
もうあんたって子は!って頭殴られたり、おなかを蹴られたり、ネグレクトされたり、ご飯も作ってもらえなかった。
自分は、いらない子、価値のない子。
「マジー」「うけるぅ」「きゃははは」
騒がしい女子高生二人組が通りすぎた。
お母さんがその子たちを呼び止める。
「すみませーん。写真とってくれませんかー」
「いいですよ」ノリのいい女子高生は嫌な顔ひとつせず、お母さんからスマホを受け取る。
「はーい。撮りますよ」
お母さんが言う。
「記念に一緒に撮ろう」
「親子でツーショット、いいですね」髪の短い活発そうな女の子がシャッターを切る。パシャ、パシャ。
「じゃあ、次はお花をバックで撮ってみましょうか」
写真を十二枚ほど撮ってくれた。
「どうもありがとう」お母さんはとても嬉しそうだ。
朝日はもう帰るからと伝える。
「朝日君、今日は本当にありがとう」
「こちらこそ」
「また会えるといいね」
息子の代用品ってこと?
別に会う理由もないし、会ったとこで栄の代わりに遊園地だの連れまわされるだけ。
ずうずうしいけど頼んでみたいことがあった。
「あの、おばさんに頼みがあるんだけど」
「なに?」
「お母さんって呼んでみてもいい?」
「いいよ」お母さんの温かい眼差し。
「お母さん」
「なあに?」子供を慈しむ母親の表情で首を傾げてそう言った。
これが母親ってものなのか。
朝日はお母さんの目をまっすぐ見る。
そんなもの自分には、はじめっから与えられる資格なんてなかったんだ。
悲しみと安心がまるで青とピンクの絵の具が水の中で螺旋を描いて混ざるようだった。
「さよなら」朝日は微笑んで言う。そして背中を向けて歩き出す。
お母さんを置いて温室を出た。
外は夕立だった。
濡れても構わない。生温い雨に降られながら、走って家まで戻った。
さよなら、おかあさん。
***
家に戻ると、栄がびしょ濡れの朝日を見て「どうしたの? 風邪ひくよ」とタオルで髪を拭いてくれた。
「もう栄のこと、おかあさんとかオカンとか呼ばないよ。今までごめんね」
「どうしたのいったい?」
玄関に座り込んで、スニーカーの靴紐を解く。濡れていてなかなか解けない。
「どうして僕にはお父さんもお母さんもいないの?」スニーカーを脱いで、濡れた靴下を引っ張る。
「僕が言うのは人生経験浅すぎるけど、人生どうしようのないこと、望んでも手に入らないことがあるんだよ」
イライラして気持ちがささくれる。
なに、この大人の事情的な答え。そんな答え欲しくないよ。
「なぜ僕はお母さんに愛されなかったんだろう」
「もう悲しいこと言わないでお願い。朝日の心が痛くなるだけだよ」
栄はタオルを朝日に渡す。
「もう悲しくも痛くもないよ。もともと僕には親なんていなかったんだから」
栄は朝日の隣に座って、腕を慰めるようさする。
「そうやって自分の心が痛くなること、もう言うのやめようよ。言うたびに朝日の心が傷つくんだよ」
「どうせ僕は、いらない子だから」
「なぜ自分のことそんなふうに思うの?」
落ち着いた声で聞かれた。
うざいな。どうせ自分は見捨てられた子なんだよと自暴自棄な気分になる。
「だったらどうして、栄が僕の面倒をみているんだよ!?」
「朝日は僕にとって、いらない子じゃないから」
本当は悲しみでいっぱいの心が栄の一言で、揺らいであふれ出してしまった。
目が涙でいっぱいになる。もうこぼれてしまいそう。
「本当のお母さんから、朝日は、もう愛情はもらえないかもしれないけど……」
朝日は、うっと息をのむ。
「僕は朝日を愛してるよ。誰よりも」
堰を切ったように涙がこぼれる。
「寂しかったね。辛かったね。朝日が、お母さんに愛されなくて本当に辛かったって、もっと早くに気が付いてあげられたら」
ほとんどの人が無条件でもらえる母親の愛情。そんなもの、栄に求めていた自分。なんか、おかしいね。
「今まで、甘えられなかった分、たくさんたくさん僕に甘えていいんだよ」
「情けないね。もう中学生なのに」
「君の悲しみも欲しいものも全て、僕が受け止めてあげる」
「ごめんね」
「いいよ、だって君は僕の恋人だから」
朝日の濡れた頬に栄の両手が添えられた瞬間、メールの受信音がチャリンとした。
キスするのをやめて、「誰だろう?」と栄が少し眉間にしわを寄せてスマホを取り出す。
メールを読んでいる栄の顔が驚愕に変わる。
「誰から?」朝日は気になって聞く。
「母から」
「どうしたの?」
「朝日君によろしくって、なに? 一緒に撮った画像もメールについてる」
タジタジになってる栄は母親に隠しごとがばれて挙動不審になってる子供みたいだった。
「どうして君が母と?」
「駅前のコンビニでばったり出会って、それから遊園地にさっき行ってきた」
「母にばれた……」
(ばれたって、そんなに僕のことお母さんに知られたくないの?
それもそうだよね。男が好きなんて知られたくないよね。
栄の恋人が僕なんて。そんなことお母さんにばれたらどうなるんだろう。)
慌ててる栄の姿を見て、朝日はくすっと笑いがこみあげてきた。
「大丈夫だよ。栄のお母さんは僕のこと近所の子だと思ってるから」
「それならいいんだけど。もう母には会わないでね」
「さよならしたから、もう会わないよ。僕のお母さんじゃないし。僕、お母さんなんて、いらないよ」
── とうかだって、高橋だって、鶴見っちだって、お母さんがいないけど、全然気にしていないし。お母さんがいないのは、僕だけじゃないよ。
お母さんなんかいなくても、僕のことを好きになってくれる人がいれば、それでいいと思うことにしたんだ。
やっと気持ちが自由になった。吹っ切れたと言ってもいいかも。
目に少し残っていた涙を手で拭って、言った。
「栄のこと、お母さんよりも大好きだよ」
三沢軒は大介の両親が切盛りする店だ。まだ四時前なのでお客さんは、いない。
「大介くんいる?」と聞くと、「大介なら、今日は親戚の家にいってるよ」とおじさんが調理場から叫んだ。
がっかりして店を出る。
「鶴見っちと話したい……」
鶴見の家は父親がやばいから来ないほうがいいと言われていた。
スマホがあれば鶴見にすぐ連絡できるのに。学校外でいて欲しい時に鶴見とはいつも会えない。女子の家に行くのもなんか情けない。
仕方がないので駅前のコンビニに入る。
オレンジジュースを買い、イート・インで暇をつぶしているとピンポーンピンポーン、お客さんが入ってきた電子音がした。
ちらっと自動ドアの方に目を向ける。
さっきの女の人だった。淡い花柄のワンピースを品よく着こなし、髪はきれいにセットして、化粧は控えめで、ショートカット。
(あ、栄のお母さん。)
栄のお母さんはうつむいて悲しそうな顔をしてる。レジの横の保温器のドアを開けて缶コーヒーを買っている。
朝日は気になって目が離せない。
栄のお母さんはまっすぐイート・インに来て隣に座った。
お母さんは朝日を見る。
「あら、さっきの子」
「はい」
「近所の子?」って聞かれた。
朝日はとりあえず頷く。
「桐野栄之助の母です。いつもうちの息子がお世話になってます」丁寧に挨拶された。
軽く会釈する。べつにお世話なんてしてないけど。
「ボクの名前は?」
「はざまあさひ」
「私は桐野美佐江。よろしくね」
栄のお母さんを無視して、ごくごくジュースを飲む。
(さっさとジュース飲んで、家に帰ろうっと。)
飲み終わったので席を立つ。
ちらりと横を見ると、栄のお母さんがハンカチで涙を拭いていた。
「大丈夫ですか?」朝日は面食らって聞いた。
「さっさと帰って欲しいって息子に言われた。家にも入れてくれないの」
追い返すなんて、それってちょっとひどくね?お母さんが可哀そうになる。
「朝日君、よかったら、おばさんにちょっとつきあってもらえる? せっかく来たのに、このまま家に戻るのは悲しいから」
「別にいいですけど」
駅前でタクシーに乗った。どこに行くんだろう。
栄のお母さんは「遊園地までお願いします」と運転手に頼んだ。
***
連れていかれたところは、遊園地だった。
機械音の陽気な音楽がピロリロリーンと聞こえてくる。ジェットコースターの前には長蛇の列。
家族連れもいれば、友達同士で来ている人たちもいる。みんな楽しそうだ。
お母さんはすっかり元気になって、大きな明るい声で言った。
「遊園地、ひさびさ。よく子供たちと遊びに来たわ」
うふって微笑む。もう五〇歳超えているのに若々しくて目頭のしわも優しそう。
「朝日君、乗りたいものがあったら、言ってね」
「観覧車」ぼそっと言う朝日。
顔を上げないから、中途半端に伸びた前髪が顔にかかって暗い子に見える。
きっと栄のお母さんも自分のことを暗い子だと思っているに違いないと勝手に決めつける。
「せっかくだから三周しちゃおうね。すごく眺めいいから」栄のお母さんは券を買う。
列に並んで自分たちの番がきたので、ひょいっと観覧車に乗る。
晴れの日なら東京の方まで景色が広がるのに曇り空でかすんで見えた。
「栄くんね、そっけない。もう半年以上も会ってなかったから、もしかして体調崩したり悩み事があるのかなって、心配でせっかく訪ねてきたのに家の中にも入れてくれなくてね」お母さんがつぶやいた。
「そうだったの」
「栄くん、変わったな」
あの人、最近、変わったと思う。感情の起伏が激しくなったというか、中学生みたいな時がある。どーでもいいことではしゃいだり。お昼のお子様ランチの件も意味不明。
「ますます、よそよそしくなった。何か隠し事でもあるのかも」向かいに座っているお母さんは残念そうに言う。
「たぶん機嫌が悪かっただけだと思う。あの人、たまにそういうときがあるし」
「そうかもね。朝日君は中学生?」
「中二」
がったんがったん少し揺れる観覧車の外を眺める。
あまり会話も弾まない。なんでこの人と一緒に観覧車なんて乗ってるんだろう。できすぎなようなセッティング。
心配して訪ねにきたって言っていたし、栄が呼び出したわけじゃないだろう。知らない中学生と住んでるなんて自分の家族に知ってもらいたくないだろうし。
かなり居心地が悪い。前髪が目に入って、ちくっとした。目をこする。
「ごめんね。おばさんの我がままに付き合わせちゃって」
「別に暇だし」
すごく優しそうなお母さんだとか、色々考えてしまう。
観覧車から降りると、ぽつりぽつりと細かい雨が降ってきた。
「うーん、小雨降ってるしどうしよう」お母さんは手提げ鞄からピンクの折り畳みの傘を取り出す。
「お化け屋敷とか嫌ですよね?」
朝日もお化け屋敷やミラーハウスには入りたくないと伝える。
お母さんは名案を思いついた!!と目を輝かせて言った。
「植物園に行こうか?」
園内に植物園がある。温室にいれば雨に濡れない。
二人は一緒に傘に入って温室に向かう。肌の色が傘の色に映えてピンクに見える。
なんで、栄のお母さんと自分は、遊園地にいるんだろうとまた考えた。
***
お母さんが温室内を探索している間、植物園の温室のベンチに座って朝日は、ぼーっとしていた。
(不公平だよ。栄には、優しくてきちんとしたお母さんがいるのに。僕には最低な母親しかいなかった。無視されたり、馬鹿な子ってはたかれたり、蹴られたりした思い出しかないよ)
めんどくさくなって目を閉じる。なんか、今日は疲れちゃったな。
隣に誰かが座る気配がして、目を開けた。
「あら、起こしちゃったね。ごめんね」
「別に」
「どうしたの?疲れてるのかな?」
「別に」
何を話していいのか分からない。
「ここね。昔、子供たちと来たことがあるの。懐かしいなあ」
「花とか植物が好きなの?」
「大好き」
笑った顔が栄にそっくり。端正な顔立ちで、とろけてしまうような笑顔の栄とすごく似てる。
大好きって言うときの口調もそっくり。
お母さんは、話を続けた。
「栄くん、すごく忙しいから連絡してくれないのかな」
朝日は黙って話を聞いていた。
お母さんはカバーの付いた手帳をバッグからだして、パラパラめくって、間に挟んである写真を見せる。
小学校の入学式の写真だった。ピンクのワンピースを着た若いお母さんと私立の小学校の制服を着てまじめな顔をしているいかにもお坊ちゃまの栄。
(僕よりチビじゃん)
「ついさっきまで小学生だったのに、もう大人になっちゃって。本当、年月がたつのって速いよね」
朝日は、その写真を見て悲しくなる。
(僕、お母さんと一緒の写真なんて一枚もない)
「おばさんの息子って中学のときはどんなだったの?」
「勉強ができて、やさしくて、明るくて」
「学年でトップの優等生だったの?」
「一番になることはなかったけど、将来は、国立大に行くって頑張ってた。結局、無理だったけど」
「でも医大行ったんだよね?」
「国立の法学部と私立の医学部どっちが入るのが大変だと思う?法学部のほうがずっと難しい」
「そうなんだ」
「お医者さんになって頑張って毎日働いて、偉い、偉い」お母さんは、とても幸せそうに言った。
自分と大違い。成績も普通だし、一学期、クラスの男子と喧嘩して謹慎処分、悪い子。
栄は母親の自慢の息子。
自分は母親にとって何だったんだろう。
もうあんたって子は!って頭殴られたり、おなかを蹴られたり、ネグレクトされたり、ご飯も作ってもらえなかった。
自分は、いらない子、価値のない子。
「マジー」「うけるぅ」「きゃははは」
騒がしい女子高生二人組が通りすぎた。
お母さんがその子たちを呼び止める。
「すみませーん。写真とってくれませんかー」
「いいですよ」ノリのいい女子高生は嫌な顔ひとつせず、お母さんからスマホを受け取る。
「はーい。撮りますよ」
お母さんが言う。
「記念に一緒に撮ろう」
「親子でツーショット、いいですね」髪の短い活発そうな女の子がシャッターを切る。パシャ、パシャ。
「じゃあ、次はお花をバックで撮ってみましょうか」
写真を十二枚ほど撮ってくれた。
「どうもありがとう」お母さんはとても嬉しそうだ。
朝日はもう帰るからと伝える。
「朝日君、今日は本当にありがとう」
「こちらこそ」
「また会えるといいね」
息子の代用品ってこと?
別に会う理由もないし、会ったとこで栄の代わりに遊園地だの連れまわされるだけ。
ずうずうしいけど頼んでみたいことがあった。
「あの、おばさんに頼みがあるんだけど」
「なに?」
「お母さんって呼んでみてもいい?」
「いいよ」お母さんの温かい眼差し。
「お母さん」
「なあに?」子供を慈しむ母親の表情で首を傾げてそう言った。
これが母親ってものなのか。
朝日はお母さんの目をまっすぐ見る。
そんなもの自分には、はじめっから与えられる資格なんてなかったんだ。
悲しみと安心がまるで青とピンクの絵の具が水の中で螺旋を描いて混ざるようだった。
「さよなら」朝日は微笑んで言う。そして背中を向けて歩き出す。
お母さんを置いて温室を出た。
外は夕立だった。
濡れても構わない。生温い雨に降られながら、走って家まで戻った。
さよなら、おかあさん。
***
家に戻ると、栄がびしょ濡れの朝日を見て「どうしたの? 風邪ひくよ」とタオルで髪を拭いてくれた。
「もう栄のこと、おかあさんとかオカンとか呼ばないよ。今までごめんね」
「どうしたのいったい?」
玄関に座り込んで、スニーカーの靴紐を解く。濡れていてなかなか解けない。
「どうして僕にはお父さんもお母さんもいないの?」スニーカーを脱いで、濡れた靴下を引っ張る。
「僕が言うのは人生経験浅すぎるけど、人生どうしようのないこと、望んでも手に入らないことがあるんだよ」
イライラして気持ちがささくれる。
なに、この大人の事情的な答え。そんな答え欲しくないよ。
「なぜ僕はお母さんに愛されなかったんだろう」
「もう悲しいこと言わないでお願い。朝日の心が痛くなるだけだよ」
栄はタオルを朝日に渡す。
「もう悲しくも痛くもないよ。もともと僕には親なんていなかったんだから」
栄は朝日の隣に座って、腕を慰めるようさする。
「そうやって自分の心が痛くなること、もう言うのやめようよ。言うたびに朝日の心が傷つくんだよ」
「どうせ僕は、いらない子だから」
「なぜ自分のことそんなふうに思うの?」
落ち着いた声で聞かれた。
うざいな。どうせ自分は見捨てられた子なんだよと自暴自棄な気分になる。
「だったらどうして、栄が僕の面倒をみているんだよ!?」
「朝日は僕にとって、いらない子じゃないから」
本当は悲しみでいっぱいの心が栄の一言で、揺らいであふれ出してしまった。
目が涙でいっぱいになる。もうこぼれてしまいそう。
「本当のお母さんから、朝日は、もう愛情はもらえないかもしれないけど……」
朝日は、うっと息をのむ。
「僕は朝日を愛してるよ。誰よりも」
堰を切ったように涙がこぼれる。
「寂しかったね。辛かったね。朝日が、お母さんに愛されなくて本当に辛かったって、もっと早くに気が付いてあげられたら」
ほとんどの人が無条件でもらえる母親の愛情。そんなもの、栄に求めていた自分。なんか、おかしいね。
「今まで、甘えられなかった分、たくさんたくさん僕に甘えていいんだよ」
「情けないね。もう中学生なのに」
「君の悲しみも欲しいものも全て、僕が受け止めてあげる」
「ごめんね」
「いいよ、だって君は僕の恋人だから」
朝日の濡れた頬に栄の両手が添えられた瞬間、メールの受信音がチャリンとした。
キスするのをやめて、「誰だろう?」と栄が少し眉間にしわを寄せてスマホを取り出す。
メールを読んでいる栄の顔が驚愕に変わる。
「誰から?」朝日は気になって聞く。
「母から」
「どうしたの?」
「朝日君によろしくって、なに? 一緒に撮った画像もメールについてる」
タジタジになってる栄は母親に隠しごとがばれて挙動不審になってる子供みたいだった。
「どうして君が母と?」
「駅前のコンビニでばったり出会って、それから遊園地にさっき行ってきた」
「母にばれた……」
(ばれたって、そんなに僕のことお母さんに知られたくないの?
それもそうだよね。男が好きなんて知られたくないよね。
栄の恋人が僕なんて。そんなことお母さんにばれたらどうなるんだろう。)
慌ててる栄の姿を見て、朝日はくすっと笑いがこみあげてきた。
「大丈夫だよ。栄のお母さんは僕のこと近所の子だと思ってるから」
「それならいいんだけど。もう母には会わないでね」
「さよならしたから、もう会わないよ。僕のお母さんじゃないし。僕、お母さんなんて、いらないよ」
── とうかだって、高橋だって、鶴見っちだって、お母さんがいないけど、全然気にしていないし。お母さんがいないのは、僕だけじゃないよ。
お母さんなんかいなくても、僕のことを好きになってくれる人がいれば、それでいいと思うことにしたんだ。
やっと気持ちが自由になった。吹っ切れたと言ってもいいかも。
目に少し残っていた涙を手で拭って、言った。
「栄のこと、お母さんよりも大好きだよ」
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軽いノリのお話しを目指しています。
※BLに分類していますが軽めです。
※他サイトへも掲載しています。
宵にまぎれて兎は回る
宇土為名
BL
高校3年の春、同級生の名取に告白した冬だったが名取にはあっさりと冗談だったことにされてしまう。それを否定することもなく卒業し手以来、冬は親友だった名取とは距離を置こうと一度も連絡を取らなかった。そして8年後、勤めている会社の取引先で転勤してきた名取と8年ぶりに再会を果たす。再会してすぐ名取は自身の結婚式に出席してくれと冬に頼んできた。はじめは断るつもりだった冬だが、名取の願いには弱く結局引き受けてしまう。そして式当日、幸せに溢れた雰囲気に疲れてしまった冬は式場の中庭で避難するように休憩した。いまだに思いを断ち切れていない自分の情けなさを反省していると、そこで別の式に出席している男と出会い…
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