黒獅子の愛でる花

なこ

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第一章

1

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待ち合わせの時間をとうに過ぎても、待ち人は現れない。

久しぶりに街に出掛けて美味いものでも食べようと言い出したのは、姿を現さない待ち人の方だ。

待ち合わせ場所の古びた本屋の奥には、喫茶用の数席が設けられているが、サフィア以外には誰もいない。

目立つことを避けるサフィアのために、待ち人であるリヒトが見つけてくれた穴場だ。

とうに温くなってしまった最後の一口を飲み干すと、サフィアは店を後にした。

リヒトとは物心ついた頃からの付き合いだが、こんなことは初めてのことだ。

家に戻れば、リヒトから何か連絡が来ているかもしれない。

すれ違う人々が立ち止まってサフィアを振り返る。

白く滑らかな肌に、銀糸の髪、すらりと伸びた手足で颯爽と歩く姿は、まるで神話に出てくる神々のようだ。

真っ直ぐ前だけを見据える碧眼は深く憂いを帯びており、一度でも目が合ってしまえば、心を奪われてしまうに違いない。

「…あれが、レノアール伯爵家の、」

耳に入る囁き声を無視し、嫌な予感を感じながら、サフィアは家路を急いだ。




出迎えた執事は、何か報せが届いていないかと問うより前に、家人の元へとサフィアを促した。

両親も兄も、今日は家にいるはずだ。

家族団欒の場にサフィアが呼ばれることはないはずなのに、やはり何かあったのだろうか。

家人とは、父なのか兄なのか。

先日、父から兄に爵位は譲られたばかりだ。

「サフィア様がお戻りになられました。」

ゆったりとした広間では、サフィア以外の三人が既に揃って寛いでいる。

「ああ、やっと戻ったか。」

そう言って立ち上がったのは、兄のジェラルドだ。

四人揃うのは食事の時間だけで、その時でさえサフィアは一言も発することはない。サフィアはただの空気で、談笑を交わし合うのは、両親と兄の三人だけだ。

この部屋に入るのも、いったい何年ぶりだろう。

「…お呼びとお聞きしましたが、何か…」

父は手元の書類に目を落としたまま、母は優雅に紅茶を口にしたまま、サフィアへと視線を向けることはない。

「お前宛に届いた封書だ。どういうことだ?」

封は既に切られている。

ジェラルドの口調は穏やかだが、鋭い視線がサフィアを見据えている。

そこには、文官採用への及第を報せる内容が祝いの言葉と共に綴られていた。


『文官への採用が決定しました。おめでとう御座います。サフィア様の登城を、職員一同心よりお待ちしております。』


「…これは…」

学園を通して、サフィアは密かに採用試験を受けていた。

リヒトは武官の道を。

きっとリヒトも及第しているだろう。

リヒトが一緒だったなら、臆することなく説明してくれたはずだ。

「卒業後はわたしの補佐をするよう申し付けていたはずだ。まさかそれを不満に思っていたとはな。」

「いえ、兄上、不満など…」

「では、これは一体どういうことだ?」

「それは…」

書類に目を落としていた父の視線がゆっくりとサフィアを捉えると、サフィアの身体は条件反射でびくりと震え上がった。

「何かの間違いだろう。学園に知り合いがいる。その者を通して王宮へは断りの旨を通知させよう。」

抑揚のないしゃがれた声に、サフィアは反論することができない。

「…はあ、父上はサフィアに甘いのです。ですが、今回だけは父上の仰る通りにいたしましょう。」

大袈裟に両手を広げて、ジェラルドはため息を吐いた。

「全く、顔だけで無能なお前が王宮勤めなど務まる訳がないだろう?まさか試験官をその顔で惑わせたのではあるまいな?」

「そのような事は、しておりません…」

「ほう…。相変わらずお前宛には、後妻や養子にと男どもからの釣書が絶えない。どこで惑わせてくるんだ?男のお前が男ばかり惑わせるなんて、笑い物だな。」

昔からジェラルドはサフィアに辛辣だ。

そして、両親がそれを咎めることは決してない。

「後妻や養子になれば、きっと彼等はお前の事をくれるだろうな。だがお前はそれを嫌がっていただろう?だからわたしが補佐としてこの家にこのまま置いてやろうというのに。」

と言うジェラルドの意味深な言い方に、サフィアはぞくりとする。

と言うことが、一体何を指し示すのか、サフィアは理解している。

「…リ、ヒトと、」

今日に限って、なぜリヒトは来なかったのだろう。

「ああ、侯爵家の三男だったか。お前が懇意にしているという。お前に惑わされていないか心配していたが、どうやら杞憂だったようだ。」

ニヤリとジェラルドは笑う。

ジェラルドはリヒトとサフィアのことを知っていたのかもしれない。

「グレファム公爵が、やっといい婿を迎え入れられると触れ回っているらしい。」

「………。」

「ああ、知らなかったのか?あんなに懇意にしていたのに?所詮お前との関係もその程度のものだったのかもしれんな。卒業後、リヒト殿はすぐに公爵家へ婿入りするそうだ。」

待ち合わせ場所に、なぜ待ち人が来なかったのか、サフィアは漸く理解した。















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