FIGHT AGAINST FATE !

薄荷雨

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Ride or Die

20・講習会3

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 次は③契約フェロモンについて。
「番契約に大きな役割を果たすこのフェロモンは揮発性がほとんどなく、Ωのうなじにある器官からしか分泌されません。たいていのΩのかた首輪ネックガードで項を保護していますので、見たことのあるひとは少ないかもしれませんね」
 表の下に図が載っていますのでご覧ください、と榊は促す。先に説明した交感神経と副交感神経のはたらきをまとめた一覧の下には、Ωの項の図が二点載っている。
 首の後ろ側の中央、第三頸椎けいついと第四頸椎のあたりを中心に盛り上がった肉の丘に、二本から四本の深い亀裂が刻まれているという図が左に一点。亀裂が開き、小さな胞嚢にびっしりと覆われたヒダのようなものが露出している図が右に一点だ。いずれも資料を作った竹之内による手書きと思われるもので、なかなか上手い。
「Ωは発情期でなくてもαのカウパー腺液や精液、あとは唾液などの体液に含まれる物質を膣内や直腸内に受ければ、この器官から契約フェロモンが分泌されるのです」
 βの体液には当然ながらαフェロモンが含まれていないため、Ωはなんの影響も受けず契約フェロモンは出ないということになる。漫画などの創作物で、βがΩのうなじを噛んで番にするというような展開があったとしても、物語上の設定でしかないと榊は手短に忠告した。
「このフェロモンは①誘引フェロモンや②交接フェロモンのように、空気中に混じってαに到達するわけではありません」
 では一体どうやってαに届くのでしょうか?と榊は問いかけ自ら答える。
「性交によってαのフェロモンを受け取ったΩの項は充血し膨らんで、たっぷりと契約フェロモンを湛えた亀裂が開き、中に収まっていた粘膜に覆われたヒダが露出します。右側の図のようにです。そこにαが噛みつけば、口から契約フェロモンを送り込める。一ページ目で鋤鼻器じょびきってやりましたね、そこでαはこの不揮発性のフェロモンを受容するんです。口内に入った契約フェロモンは、上顎の骨の中を通る切歯管せっしかんという細い管を経由し鋤鼻器へ至ります」
 噛みつきによって相手のフェロモンを受容するのはαだけではなく、Ωもまた項からαのフェロモンを取り込むのだと説明は続く。
「Ωの項はフェロモンの分泌器官であると同時に、相手のフェロモンを受容する器官でもあります。ヒダの奥にはαの唾液に含まれるフェロモンを受容する細胞が存在し、その神経は脳に直接つながっている。番契約の際にαがΩの項を噛まなければならないのは、まさにそのためなんです。②の交接フェロモンに曝露されたαの副交感神経は粘度の少ない唾液を分泌させますから、噛み付いた項からフェロモンを届けやすくなる。番になるためのよくできた仕組みですね」
 なお、フィクションでは噛まれた痕は番の証として生涯消えることがないとされる設定があるが、生身のΩはよほど肉を噛みちぎられでもしない限り咬傷こうしょうが残ることはない。これもまた資料の考察のページに載っており、現段階で榊から紹介された。
「ごく稀に、αフェロモンを受容する細胞がうなじの表面にある人もいるようです。噛み付かれなくても口から垂れた唾液が触れただけで、Ωが済んでしまうこともある」
 この場合は一方的な番認定になるということか、と榊は誰に訊ねるでもなし独り言を言った。
 Ωが首輪をしていれば、αとΩ双方の番契約を百パーセント防げるというわけでもない。
 首輪といっても、項部分を広く保護する防水加工の施された頑丈なものから、ファッション性を重視した脆いものまでデザインは様々だ。一般的に番を持っているΩは首輪を付けないか、あるいはネックレスのような華奢なものをつけている。ただし中には、番が欲しくてわざと脆い首輪をしているΩもいることから、αが完全に番契約を回避することは難しい。
 また、全く項を保護していないΩも居る。新興宗教団体〔楽園エデンのきずな教会〕の信者は首輪を「蛇の輪」「理性の枷」と呼んで拒絶している。榊の弟である池占辰需も──彼は第二性の概念を持たないせいだが──項を剥き出しにしていた。もっとも池占の場合、かつて獄烙町青年団の副団長を務めた覇々木湖遥が護衛についているため、発情したところでαに襲われる心配はないのであろう。

「ではなぜαとΩは互いのフェロモンをやり取りしなければならないのでしょうか。次の④ばん、これと関係があるのです」
 榊は④忌避フェロモンと書かれたプレートの上にチョークで、ひらがなで「きひ」と読み仮名をふった。誰でも読めるとは思うが、資料に読み仮名はふられていないので一応だ。
「一体なにからなにが忌避、嫌って逃げてしまうのかといいますと、Ωからαが逃げてしまう。このフェロモンが放出されている限りαはΩに近付くことはできません。忌避フェロモンは①や②と同様に揮発性が高く、離れた場所にいるαにも、こちらに来るなとシグナルを送ることができます。物質の構成は①誘引フェロモンとよく似ており、脳の中にある恐怖や不安を司どる部位、扁桃体に強い刺激を与えると考えられています。番を得たΩからは常時分泌されるのですが……」
 ただし、と榊は強調し、
「その忌避フェロモンを分泌しているΩの番だけは、耐性を持っている」
 と耐性について話を進める。
「忌避フェロモンが最大の分泌量を記録する瞬間があります。αが③契約フェロモンを受け取ったとほぼ同時に、Ωが項で受け取ったαフェロモンの刺激情報が脳に伝わったときです。このときΩからは通常のおよそ十倍以上ともいわれる忌避フェロモンが放出されますので、Ωに密着した体勢のαには凄まじい衝撃が襲いかかることになる。この刺激がなければ耐性を獲得することができないのですが、契約フェロモンを受容していれば大丈夫。Ωはαに契約フェロモンを与え、忌避フェロモンから守るのです」
 手術のときの麻酔のようなものでしょうか、と榊は例えた。
 αは、契約フェロモンを受容し忌避フェロモンへの耐性を獲得したことによって成し遂げられる。
「もしも契約フェロモンを受け取ることができなかった場合、αは感情がコントロールできない状態になってしまいます。感情といっても、嬉しいとか楽しいといった好ましい感情ではありません。なにしろ忌避のフェロモンなわけですからね。目の前にいる無防備なΩに対して凄まじい嫌悪や、脅威を感じて敵認定してしまったαはどうするでしょうか。そう考えると、αに契約フェロモンを摂取させておけば、Ωは自分の身を守ることもできるわけです」
 契約フェロモンを分泌できない体質のΩが性交中にαから暴行を受けて重傷を負った、という事例があることを榊は紹介した。それは資料の八ページにある竹之内の考察の部分でも取り上げられており、海外のニュースを和訳した記事が記載されている。
「結果としてαがΩの項を噛むことが、双方にとって好都合となることは分かりましたね。でもどうして、αがΩとの性交で項への噛み付き行動を起こすのか、そこのところはいまだ解明されていません。Ωの知識の無いαでも、初めてΩと性交すれば必ず項を噛もうとするそうですから」
 そこから湧き出ずる粘液を口にすれば助かることを、αは本能的に知っているのだろう。Ωもまた、番となるべきαに契約フェロモンの保護を与え我が身の安全を保つためにどう動くのが適切なのか、その姿勢が本能に刻み込まれているとしかいいようがない。本能であればこそ、全てのΩが発情時の性交の体位として、赤く腫れ上がった項を噛ませるために必ず四つん這いになるのだ。
 βには割り込めない遺伝情報によって決定されているαとΩの関係、精密な歯車のように噛み合う凹凸、相補的な彼らの絆は確固として存在するのだと、資料を読み上げながら榊はつくづくそう思った。

「皆さんこういう話を聞いたことがありませんか、番持ちになったαには、もうフェロモンの誘惑が効かなくなる」
 と問い掛ければ「ある」と声を発する者、頷く者。
「確かに、一度でも番ったことのあるαは、発情期のΩの性フェロモンに曝露されても配偶行動を抑えることができるようになる人が多い」
 番持ちとなったαは自分のつがいの忌避フェロモンばかりでなく、なぜ他のΩの誘引や交接のフェロモンへの反応が鈍るのか?榊は説明を続ける。
「通説なのですが、番契約の際に大量の忌避フェロモンを浴びせられたαの脳は、契約フェロモンで衝撃を有耶無耶にされていても、無意識にΩそのものを嫌悪すべきものと認識してしまうらしいのですね。忌避フェロモン物質による刺激は脳の回路を大きく変化させるから正気を保てるようになるんだ、ともいわれています」
 きりのいいところで機会を窺っていたのは、花園高校四年の柿岡だ。自分の他に誰も質問をする者がいないか目を配ってから挙手する仕草は、年齢の割に世間慣れして見える。
「ちょっとお聞きしたいんスけど、αの中には番をたくさん作ってハーレム状態のやつもいるんっスよね」
 αが番を持つのに人数制限は無し──柿岡は先月の会合で榊が教えてくれたことを覚えている。
「でもΩが嫌なものだってインプットされた後に、何人も番をつくるってのは変じゃないっスか」
「私が以前聞いた話にこんなのがあります」
 榊は花園高校の定時制に入学する前、〔氷川グランネスト〕の喫茶店で働いていた。そこの店長、霜沢というαの男が語った経験談に次のようなものがある。

『俺たちαは発情期のΩを前にすると凶暴な気分になるんだ。そいつを蹂躙して屈服させてやる、そう思って近づいていくと、ある瞬間にフワッと目の前が真っ白に眩んで重力が無くなったような感覚になる』
 無重力の白い空間に浮かんだような、重い肉体から解放されたような感覚だそうだ。周りの音も聞こえなくなって触覚が麻痺したような感じもあり、立ち眩みに似てるかなと霜沢は例えた。
『それってのは誘引フェロモンから交接フェロモンのエリアに足を踏み入れたせいなんだが、この世の苦しみから救われたみたいな快感があるんだ』
 地獄から天国に引き上げられた心地になるのだという。
『そうなったらもうフェロモンの発生源を手放したくなくなる。これは俺だけの、俺だけを気持ち良くさせる最高の代物だって独占したくなる』
 最初の番契約を覚えてないやつは多いが俺は覚えてるんだ、と霜沢は自嘲気味に笑った。
『中にはあの偽りの救済と快楽に依存しちまうαもるわけよ。でも番になったΩは誘引フェロモンの量が減るからなあ、二回目以降は何やってもあんま気持ちよくなれないんだわ。落差がなくなるからだろうな。あんなに俺だけのモノにしたい欲望があったのに、いざ囲い者にして何回もやってりゃあフェロモンにも慣れちまう』
 飽きが出てきて次から次に新しい番を、というαも中にはいるのだ。
『あとはそう、Ωを番にして忌避フェロモンに耐性がつくってことは、そのΩの攻撃が効かなくなるってことだろう。するとどうだ、あんな厄介な生き物に勝ったような気分になる。優越感と支配欲が満たされるというかな。でもそれもΩの契約フェロモンのおかげであって、俺らαが自力で耐えられたわけじゃないんだけどな……その……守ってくれたはずのフェロモンって、本当は……』
 視線を落とし手元の虚空を覗き込むような表情で、霜沢はこう言った──
 ──獲物の痛覚を誤魔化して食うためのものなんじゃないか。

 以上のようなαの経験談を、榊はフェロモンへの依存の部分のみ簡略に述べた。
 柿岡は自分の広げている資料になにやら書き込みをし、
「フェロモンの快楽が癖になったり、自尊心のために何人も番が欲しくなるαもいるってことっスね」
 と要点をまとめた。
 その後も柿岡の質問に榊が答える形で、
「忌避フェロモンはΩ同士でも効果を発揮するため、一つの部屋に何人もの番を侍らせておくのは実質不可能」
 ということや、
「番以外のαを遠ざける忌避フェロモンが、昔は貞操フェロモンと呼ばれていた」
「腋臭の手術と同様にΩの性フェロモン分泌腺を切除する方法が試されてはいるが、分泌箇所は脇以外にもあり、しかもΩは肉体の修復力が非常に高いため効果が薄い」
「外分泌腺でのフェロモン物質の産生に関わる内臓の部位を除去したり、発情に関わる脳神経を薬物や電気刺激によってコントロールする研究もされてるようだが、実用化はされていない」
 ことなどの情報が共有された。

 発情期にΩの分泌するフェロモンとその効果が記されたこのページから、次の生殖器の説明に移る前に榊は、
「資料では①誘引フェロモンは交感神経を、②交接フェロモンは副交感神経を興奮させることが中心に取り上げられていますので、それに沿って話を進めました。しかしαがΩに引き寄せられるメカニズムの全てが、二つの自立神経の反応だけで説明できるわけではありません。③契約フェロモンや④忌避フェロモンがαの脳のどこにどう作用するのかも……」
 解明されていないのです、と締め括った。


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