自殺に失敗したら

ばぽいん

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1、自殺

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1、自殺



 痛い

 痛い

 痛い、痛い、痛い、痛い・・・・!!

 痛いという言葉しか知らないのかと思うほど、痛いという言葉しか出てこない。
 それでも、痛みに意識を打ち切られる間際、もうこれで終わるのだと思うと、ほっと安堵が胸に広がった。
 今味わっている痛みも普通じゃないが、今まで堪えてきた痛みに比べたら・・。
 これで解放されるなら・・。
 よかった・・。

 痛い・・。

















(う・・ん・・、い、いたい・・)
 目を開けようとしているのに、瞼が鉛で出来ているかのように重い。いや、もしかしたら、接着剤でくっついているのかもしれない。そんなわけないのに、そう思うくらい目が開かなかった。
(痛い・・)
 体は重くてしんどいし、指先すら動かせない。もう目を開けることを諦めようかと思うけれど、耳元で誰かが名前を呼んでいる。
「ハヤト!」
(誰だよ? うるさいなぁ・・)
 全身全霊をかけて、持てる全ての体力を使って、無理やり瞼を押し上げた。
 見えたのは、知らない天井。
(白い・・)
 知らない天井だとはわかっても、自分の状況を確認しようと思う余裕もなく、目を開けているのさえしんどくて、また瞼を閉じようとする。
「ハヤト!」
 ものすごくしんどかったが、仕方なく、右の耳元で名前を呼ぶ誰かを見た。
 そこには、見覚えのある懐かしい顔。ショートカットにした白髪に、しわの多い目元、いくつかのシミ。でも、それらは、年相応だったし、目が大きく整った顔立ちは、全体的にかわいらしい雰囲気を醸し出している。そんな小柄なおばあさんが立っていた。
(・・あ、えっと・・誰だっけ?)
 脳みそが錆びついているようで、思考が途切れ途切れになる。
「ハヤト! こら! しっかりせんね!」
(・・あぁ、そうだ。ばあちゃんだ)
 懐かしい言い方に、微かに口元だけで笑ったが、体のしんどさに耐え切れず意識を手放した。
  
 まどろむ中、何度も、祖母の思い出を夢で見た。
 優しいけれど、厳しくて、自分の意見をシャキシャキ話すばあちゃん。
 気風のよさからか、皆から頼りにされていたっけ。
 死ぬまであの調子で、ボケたりしなかったもんな・・。
 ん? ちょっと待て。
 ばあちゃん、去年? いや、一昨年? 死んだよな?
 あれ?
 どこまでが夢で、どこからが夢だ・・?

 

 光りを感じて、自然と目が開いた。
「・・ん」
 見えるのは、白い天井。
「ハヤト! 気づいたのね!」
 今度は、祖母ではなく、母親が視界に入ってきた。
「あぁ! よかった! よかった!」
 必死に叫んで、俺の左手を強く握っている。
「今、先生呼ぶからね!」
 母親は、慌てふためいた様子で、無駄な動きをいくつもしながら俺の枕元に近づき、『どうしましたか?』と、ガサガサとスピーカーから聞こえてくる声に向かって要領を得ずに、でも、懸命に、「ハヤトが、目を、息子が・・」と訴えている。
 俺は、まだ意識が水の底に沈んでいるようで、母親の様子も話し声も、どこか遠くに感じていた。視界は天井だけを映している。その中にまた母親が映った。
 安心させようとしているのか、手を握ったまま何度も声をかけてくる。
「直ぐに、先生が来るからね。大丈夫よ、大丈夫」
 母親の先生という言葉で、最初に思い浮かんだのは、中学校の担任の先生だった。次の瞬間、ゾッと寒気が全身を襲った。
 ぐるぐると頭の中に映像が流れる。
 抜けるような青い空。夏の熱風を切って落ちていく感覚。
「あはは! ダッサい、キモ!」と、あざけって笑うクラスメイトの顔。
「邪魔なんだよ」と、蹴られて殴られて痛む体。
「あいつ、死ねばいいのに」と、聞こえよがしに言われる悪口の数々。
 痛めつけられた心。深い嫌悪感。
(・・あぁ!)
 無力感に目を閉じた。
(失敗したんだ・・!)
 自分の置かれている場所が病院だと認識して、自殺に失敗したという事実を理解した。
「大丈夫ね? どっか痛むね?」
 今度は右側で声がした。はっきりと、肉声で。
 頭を動かすこともできず、目だけでそっちを見ると、窓から差し込む昼の明るい光を背に、祖母がそこに立っていた。
「ぁ・・」
(あ。なんで、ばあちゃんが?)
 頭ではそう言ったのに、口が動かない。
 母親が、握っていた左手を一層強く握りしめた。
「何? どうしたの? どこか痛いの?」
 そういえば、全身痛い気がする。いや、気がするどころじゃない。意識がはっきりしていくうちに、感覚もはっきりと輪郭を表してきた。
(痛い・・! なんだ、これ・・)
 我慢できない痛みではないが、体の右側、特に肩が痛い。それに、頭痛がひどくて、頭を普通には動かせない。
 それがわかったのか、祖母は、上を向いたままでも視界に入るほど近づいてきた。死んだはずの祖母が、周りの景色と溶け合うことなく、手を伸ばせば触れられそうなほど、はっきりとここに存在していることに、目を見開いて驚いた。それが、今、自分にできる最大限の驚きの表現だった。
「う・・」と、声を漏らすと、祖母は口に人差し指を当てて、しぃーと喋らないように促す。
「なんで、ばあちゃんがここに? とか言ったら、また脳の検査されるで、言わんほうがええよ。どうせ、あんたにしか見えとらんし、紛れもなく幽霊やしね」
(幽霊・・?)
「幽霊とか、何言ってんだ? 信じられないって顔してるで。でも、ばあちゃん、去年死んだけん、幽霊じゃなかったら、お化けやな」
(・・いや、幽霊とお化けは、同義語じゃないのか・・?)
 祖母は、俺のほとんど動かせていない表情からでも、俺の気持ちを読み取っているようで、喋っていないのに会話が成り立つ。
「まぁ、とにかく、ばあちゃんは幽霊で、ハヤトにしか見えてないけん、人には言わんほうがええで」
 確かに、その通りだ。祖母がこんなに近くにいるのに、母親は俺のことしか見えていないようだし、ただ単に、俺の頭がおかしくなっただけかもしれない。
 そういえば、体も痛いが、頭痛もひどい。頭を強く打って気が触れたのかもしれない。それなら、祖母は、俺の頭が作り出した幻覚だから、喋りかけたりしない方が無難だ。体の痛みのおかげで、異常な事態にも関わらず驚くほど冷静だった。
(まぁ、そのうち消えるだろう・・)
  そう思った時、足音が近づき、シャーっと勢いよくカーテンが開いた。駆けつけた男の先生、〝医者の〟先生は、俺と目が合うと眼鏡の奥の目で信じられないと雄弁に語っていたが、一瞬で落ち着きを取り戻し、「気分はどうかな?」と、丁寧な口調で話しかけてきた。
「気分はどう? 喋れそうかい?」
「は・・ぃ・・」
「名前は?」
「ふ、じ・・は、やと」
「うん。少し、触るね。痛みはあるかな?」
「すこし・・」
 男性医師は喋りながら、壊れ物を触るかのように、一緒に来た看護士と簡単に全身の状況を調べる。
「吐き気は? 手は動かせるかな?」
 吐き気はなかったが、言われて指先を動かそうとするが右手に違和感があった。頭では動かしているつもりなのに、動いている実感がわかない。
「・・?」
 様子に気づいた先生が、軽く首を振った。
「あぁ、ごめん。右は折れているからね。左はどう?」
 左手だけに力を入れるが、ただ手を軽く握ろうとしたのに、スムーズには動いてくれない。動かしている自分が苛立つ速度でゆっくりと何とか動かせた。痺れはなかった。
 大丈夫そうだと思った先生が、左足を触って促す。
「足は動くかな?」
 膝を曲げようとしたのに重くて動かず、全身の力を振り絞ろうとすると、先生が止めた。
「足の指先は動くかな?」
 そう言われて、足の指だけでぐーぱーをした。
「うん、動くね。痺れはない?」
「・・はい」
「そうか、よかった」
 メガネをかけた物静かな雰囲気の先生は、ずっと優しい口調で話しかけてくれるし、警戒心などなかったけれど、
「ここが病院なのはわかるかな?」
と、質問をされて視線を逸らした。
「・・。はい・・」
 先生は、黙って頷くとそれ以上の質問はせず、今、俺がどういう状態なのか、母親と俺に説明してくれた。
 なんと、俺は、飛び降りてから、一ヶ月以上も意識がなかったというのだ。しかも、このまま植物状態になるかと思われた矢先だったと言われ、そんなに眠っていたのかと不思議な感じがした。ただ、さっき医師と目があった時、信じられないという顔をされた理由がよくわかった。
 飛び降りた際、右側が下になったらしく、右頬の骨と肋骨も折れ、軽い脳挫傷もあったが、何より右肩から手首までの骨折が酷いらしい。しかし、もう既に、骨折の処置は終わっていて、顔面に関しては痛みも感じられず、顔や脳の腫れも引き、経過は良好だという。
 母親は聞いていた話なのだろう、頷いてはいたが、驚きなどはなかった。
 俺自身も、飛び降りたのだからそうだろうと冷静に聞いていた。それに、幸か不幸か、一ヵ月以上も意識がなかったおかげで、しっかりと体は安静な姿勢を保っていたから、傷の治りはいいらしい。
 頭痛を訴えると、点滴に少し痛み止めを足してくれた。そして、脳の検査は明日にでもまた行い、問題がなければ、慎重にではあるが、今後はリハビリに向けて治療を行っていきましょうということになった。

 一通りの説明の後、先生が出ていくと、カーテンの外の音は遠いものとなり、仕切られた中は、ここしか世界がないかのようにとても静かになった。
 母親は、俺が目を覚ました興奮が安心に変わったようで、やっと椅子に座った。
 キャスターのついたパイプの丸椅子に座る母親の姿は、なぜか、とてもしっくりしているような気がした。いつも、ずっと、ここに座っていたかのようなデジャヴが一瞬、瞼の裏をかすめた。
 母親は、もう一度俺の左手をとると、何度も、「よかった、よかった」と繰り返し、堪えきれずに静かに涙を流し始めた。俺の手を額に当てて、声もなく肩を震わせるから、胸が潰れるくらい痛んだ。
 こんな時、どんな反応をすればいいのか、どんな反応が正解なのか、今まで、多くの時間、道徳の授業を受けてきたけれど、何の役にも立たない。そもそも、少しでも役に立っているのなら、いじめなど起きないし、自殺など試みない。答えの決まっている道徳なんて、本当に何の意味もない。いじめている奴に限って、先生の求める模範解答をするし、いじめを見過ごす奴らは教科書が正しいと口をそろえるのだから。
 いじめられて自殺に失敗したら、どうすればいい?
 こんなに胸が痛いのに、どうすればいいのかわからない。
 でも、母親のやつれた顔から、どれだけ心配してくれていたのかがわかるし、流し続ける涙から、ずっと回復を願っていてくれたことがわかる。不意に、申し訳ないことをしたという熱い塊のような思いが、胸の底からせりあがってきて、喉を押し上げ、熱くて声を詰まらせる。
「ご、めん・・」
 言葉を漏らした途端、涙が、重力に従い真っ直ぐに自分の耳に流れた。
 悲しませたことに、心配をかけたことに、心から申し訳ないと思った。
 しかし、母親は、俺の言葉に首を振って、「気づいてあげられなくて、ごめんね」、「苦しかったね、頑張ったね。もう大丈夫」、「死ななくてよかった・・」と、何度も繰り返して涙を流す。
(あぁ・・)
 生きているというただそれだけで、母親がこんなにも喜んでくれるのだということを、もちろん今までもそうだったのだろうけれど、生まれて初めて、痛感した。心の底から、温かい充実感が湧き上がってきて、全身を満たす。
(あぁ・・!)
 生きているだけでいい。
 たったそれだけでいい。
 本当にそう思ってくれていることが伝わってきて、涙がとまらない。
 成長するにつれ、母親の存在はうとましく、あまり会話をしなくなって久しかったのに、涙がそんな時間を全て洗い流してしまう。
(十三年間も一緒にいたのに、どうしてこんなことがわからなかったのだろう?)
 いや、見えなくなっていたのだ。当たり前のこと過ぎて。きっと、お互いに。
(いいんだ・・。生きて・・)
 いらない命だと思った。自分の存在など必要ないと。自分の手で消してしまえるほどに。
 人格も存在も、全てを否定され続け、痛めつけられて、すり減った精神が、ほんの少し温められて緩んでいく。
 母親の手を、今出せる精一杯の力で握り返す。ただ自分であるだけでいいと、必要とされていることが、たまらなく胸を熱く締めつける。
 涙が、止まらない。
 生きることを許されたと思った。そんなの、誰の許可もいらないのに。

 駆け付けた父親も、こちらの顔を見るなり涙をこぼし、膝をつくと俺の左手を握りしめて、声もなくしばらく泣いていた。
 その震える肩に父親の愛情を感じたし、丸めた背中に自分が守られていたのだということがわかって胸を打った。俺も、枕が冷たくなるほど涙を流した。
「とう、さん・・」
 ごめんねと続くはずの言葉は、父親によって遮られた。
「いい。もういいんだ。生きていてるんだから」
 両親の深い愛情に、感動というより心の底が安堵した。深く息を吐くと、父親と目があった。
「戻ってきてくれて、ありがとう」
 そんな言葉は予想していなくて、もう乾きかけた涙がさらに出てくる。
(あぁ・・。あぁ・・!)
 泣く以外なかった。どんな言葉も出てこなかった。後悔なのか、喜びなのか、名付けられない熱い感情の塊を溶かしきるまでひたすら泣いた。

 夜になり、母親は心配そうな眼差しを残しつつ、安堵からくる疲労を色濃くにじませて、父親と一緒に帰っていった。でも、カーテンを閉める二人の顔には笑顔が見えていた。



 消灯時間になると、温度が数度下がったかのようにひんやりと静まり返った。ここが大部屋なのはカーテンで仕切られていることからわかるけれど、他に人がいるのかどうかもわからないほどだ。
 後にこの部屋は六人部屋だと知るが、基本的に全員カーテンを閉めているし、自分自身もカーテンを開けることはほとんどなかったので、どういう誰がいるのかすら、全く分からないままだった。
 カーテンの内側のプライベート空間で、ぼんやり窓の外を眺める。一人でゆっくり考える時間が訪れたような気がしたが、そうではなかった。
「具合は、どうね?」
 祖母が遠慮なくベッドの脇に座って覗き込んできた。確かに祖母がそこに存在していると思うのに、布団がぎゅっと引っ張られる感じもなく、ベッドは微かな軋み音も出さない。
「・・消えないんだ」
「なんね、消えてほしいんね?」
 そう言われると、たとえ幽霊であっても失礼な気がして、困ってしまった。
「いや、そういうわけじゃないけど、幻覚なら、しばらくしたら消えるのかなって・・」
「残念やけど、幻覚やないで」
「・・そうなんだ?」
「で? もう首を動かしても平気になったね?」
 自分が幽霊で、なぜここにいるのかなど、そういう疑問を持たないのか、祖母は当然のように体の心配をしてくれる。
「うん。昼間は、あちこち痛くて、頭痛もひどかったけど、もう平気かな。痛み止めも追加してもらったから」
 答えながら、近くに座った祖母をまじまじと見る。
 今まで、小さい頃を除いて、幽霊やお化けの話を怖いと思ったことはなかったし、相手は祖母だし、見た目は普通だから、恐怖心は全くないが、誰にも見えない祖母と話をするなんて、やっぱり頭の打ちどころが悪かったのかもしれない。
「そうね、よかったねぇ。少しずつでも、後は回復あるのみやね」
 祖母の言葉に、視線が下がる。
「・・そうだね・・」
 回復するということは、日常に戻るということだ。
 束の間忘れていたのに、逃げることのできない現実が、さらに重みを増して、また手元に戻ってきた。暗雲が垂れ込むように気持ちが黒く塗りつぶされていく。祖母が幻覚なのか幽霊なのか、そんなことはどうでもよくなってしまった。
 祖母の言う通り、目を覚ましたからには、後は回復するだけ。とても単純明快なこと。
 でも、それを、望んでいるわけではない。
 声のトーンが落ちたことに、祖母は首を傾げる。
「治りたくないんね?」
「・・わかんない」
 もちろん、このまま寝たきりで過ごしたいわけじゃない。ただ、元気になって、またあの日常に戻るのかと思うと、一生治らなくてもいいのにと思ってしまう。
「治った後のことは、治ってから考えればいいで。とにかく、元気にならんことには、どうしようもない」
「それは、そうだけど・・。・・ばあちゃんはさ、その、俺がどうして死のうとしたか、知ってるんだよね?」
 小さい声をさらに小さくして聞いた。
「知っとるよ。いじめに耐えられんくなって自殺したんやろ? あんな高いビルから、よう飛び降りたねぇ。いやぁ、ハヤトは勇気がある!」
 内容とは裏腹に、祖母は感心したように頷いている。まるで、あんなに高いところから飛び降りたことがすごいことのように。
「や、勇気とかじゃないし・・」
「いやぁ、ばあちゃんなら足が竦んで飛べんよ。すごいで」
 一人で感心して頷く祖母に、なんと返していいかわからなかった。
 いじめに屈して、弱くて情けなくて、知られたくない自分を知られていることが、さらに惨めな気分にさせるし、母親も誰も、いじめや自殺に関しては、口にしてはいけないことのようによそよそしいのが、余計に心を細くしていた。なのに、祖母は、いじめで自殺したことをはっきりと口にしたのに、飛び降りた高さに、勇気があるとか、すごいとか、見当はずれな褒め方をしてくる。
「褒めるとこじゃないよ・・」
「何言うてんの。あんな高さから飛び降りるなんて、ものすっごい勇気やで。それに、飛び降りたのに、ちゃんと生き返ったやないの。ホント、ハヤトはすごいわぁ」
 もしかしたら、祖母は、どうにか俺に自信をつけてもらいたいのかもしれない。もう自殺などしないように引き止めたくて、こんな褒め方をしているのかもしれない。
 そう思うと、疲れた心では、対応することも面倒だった。
「・・俺としては、失敗なんだよ。あの高さから飛んだのに、死ねなかった」
 冷たく言い放ったから、狙い通り祖母は黙った。と、思ったけれど、違った。
 祖母は、ニヤニヤしながら質問してきた。その表情には、媚びへつらう感じは全くなく、どうやら、さっきの褒めは、本当に感心していただけのようだ。
「そうやで。あの高さから飛んで、なんで死なんかったと思う?」
 覗き込んでくる祖母の目は、確かに光を反射させているのに、生きているものとは何かが違った。
(あぁ・・。温度がないんだ)
 そう思った時、はっきりと祖母が幽霊であると直感した。
「風がね、強かったんよ」
 俺の答えを待たずに、祖母は喋りだす。
「あそこは、ビル風が普段から凄くて、あの日は風が強かったから、下からの突風で落ちる速度が軽減されたんか、角度が変わったんか、あの高さから落ちたとは思えないくらい軽症ですんだんやって」
 祖母は、クイズの答えを披露するかの如く、得意げだった。こんなに軽く話されると、他人事のように感じる。
(・・なるほど。風のことまでは考えていなかった)
「そっか・・。じゃあ、次は、風のない日に飛び降りるよ」
「なんね、あんた、自殺に失敗したことを後悔しとるんね?」
 視線をずらすと、祖母は、やれやれというように、一つ大きく息を吐いた。
「母親とも父親とも泣いとるから、生きるつもりでおるんやと思ったとに」
 確かに、生きることを許されたと思ったし、両親を悲しませたことは本当に申し訳ないと思う。
 でも、それとは別に、死ぬことを諦めきれない自分がいる。あの日常に戻るくらいなら、命を手放してでも解放されたいと切実に望む自分がいる。それに、自覚はなかったけれど、自殺に失敗したせいで、死というものの誘惑が、より一層自分の中で魅力を増していた。
 黙って外を見つめると、祖母も窓の外を見つめた。
「まぁ、自殺したいなら、好きにすりゃあええ」
「え?」
 驚いて、思わず聞き返す。
「引き止めないんだ?」
「なんね、引き止めてほしいんね?」
 逆に驚かれて、こっちが恥ずかしくなる。「そういうわけじゃないけど・・」と、小さく返して目が泳ぐ。そんな俺の様子に、もう一度、やれやれというような祖母の軽いため息が聞こえた。
「あんたの命は、あんたの物や。それは、間違いない。やけん、自分で決めたんなら好きにすればええ」
 白黒はっきりしている祖母らしいといえば祖母らしいが、突き放されたような感じもした。しかし、一旦区切って、「でもな」と、祖母が続ける。
「それは、ハヤトの命の声を聞けるのがハヤトしかいないっていうことであって、命は命の力で生きとることを忘れたらいかんで」
「・・?」
 祖母の言葉の意味はわからなかったけれど、これが年の功なのか、まっとうに命を終えた者の言葉だからか、そこにいないはずの祖母の姿を見ていると、『命は命の力で生きている』という言葉が、なぜか心にすっと馴染んで、「うん」と頷いてしまった。
 会話が途切れ、また自然と窓の外に目をやった。
 この位置から見ると、この病院は、九十度下向きに動かしたコの字型になっているから、窓の外は中庭で、その先にも建物が見える。コの字の縦線部分の一階が外来の総合受付で、中庭に面した部分はカフェになっていて、中庭にも席があり、二階からは、緑の合間に白いテーブルが見えている。その上は各科の診察室になっていて、こちら側が入院病棟のはずだから、向かいの建物が何のためにあるのかはわからない。もしかしたら、あちら側にも自分の知らない科の診察室や入院設備があるのかもしれない。こっちも向こうも部屋を南向きにとってあるため、向こうは中庭側が廊下となっている。廊下は消灯時間を過ぎているので電気が消されているから、その奥の部屋の何ヶ所からか、明かりが漏れているのがよく見えた。まだ誰かが働いているようだ。
 しばらく、その明かりを二人で見つめていたが、ふいに祖母が口を開いた。
「やっぱり、窓際にしてもろうてよかったねぇ。母親が、どうしても窓際がいい言うて、先生に無理やりお願いしたみたいやで。普通、大部屋やし、希望できんと思うのに。でも、意識がないからこそ、朝には朝の光を、夕方には夕方の光を少しでも感じられるようにしてあげたい言うてな・・。まぁ、たまたま空いとったからよかったで」
 祖母は、独り言の様に呟き、別に俺の反応を期待しているようではなかったけれど、懇願する母親の姿を思うと、胸がぐぅっと押さえつけられたように切なくて苦しくなり、鼻の奥がツンとなったかと思うと、また涙が出てきた。
 こっそり鼻をすすったが、祖母に聞こえてしまった。こちらを向いた祖母は、泣いていることには何も言わずに、優しく笑った。『おばあちゃん、おばあちゃん』と、懐いていた小さい頃に見た懐かしい顔だ。厳しいけれど優しく、好きだった祖母の笑顔。それがますます胸を締め付けた。
 喉から漏れる声を我慢する俺に、祖母はできるだけ優しく声をかけてくれた。
「もう寝んさい。疲れたやろ。明日から、リハビリに向けてのリハビリやで。頑張らんとな」
「うん・・」
 目を閉じると、全く動いていないのに、思いのほか体力を使って疲れていたらしく、あっという間に寝てしまった。



 夜の巡回で閉められたらしい備え付けの薄いカーテンでは光を遮り切れなくて、外が明るくなってきたなと、瞼の向こうを感じる。でも、もう少しと、再び眠りに潜ろうとした意識が大きな声で起こされた。
「ハヤト! すごいで! ばあちゃん、すごいこと発見した!」
 薄目を開けると、昨日と同じように、そこには死んだはずの祖母の姿があった。
 ただ、洋服が、昨日と違っている気がした。かといって、昨日、どんな服を着ていたのかと聞かれると答えられないのだが。でも、白い長袖と黒いズボンなんてシンプルな組み合わせではなかった気がする。もっと、全体的に茶色だったようなと思いながら、あくびを一つした。
「なに? どうしたの?」
 目をこすって祖母を見たら、「見てみぃ!」と、朝の光に溶けるようにその姿が薄くなっていく。
(あぁ、とうとう成仏するんだな・・)
 朝の光を浴びたから、幽霊は消えていなくなるのだと思い、「ばあちゃん・・」と、名残惜しく声をかけた。
 しかし、どういうことか、ほとんど消えかかっていた祖母の姿がもう一度現れ始めた。しかも、なぜか、元の姿ではなく、祖母の面影を残した女子高生の制服姿で。
「ばあちゃん・・?」
「おぉ、成功したで!」
 見た目は、目が大きくて可愛らしい女子高生なのに、喋り方は完全に祖母だった。
「いやな、昨日、ハヤトが寝た後、ばあちゃん暇やったけん、色々試しとったら、洋服だけやなく、姿かたちも変えられるってわかってな。いやぁ、幽霊って便利やねぇ!」
 こちらの驚きなどお構いなく、祖母は女子高生の姿で嬉しそうにはしゃいでいる。
 あまりの出来事に、まだ痛みのある頭がさらに痛んだ気がした。
(い、いやいや、ばあちゃんが女子高生になるとか、どういう展開だよ?)
 自分の状況に、ため息をつきながらツッコんでしまった。



 それから、やっと一人で車椅子に乗って移動することができるようになったのは、目が覚めてから三日後だった。
 それが早いのか遅いのか、比べようもないのだけれど、なによりもトイレに誰の手伝いもなく行けるようになって、心底よかったと思う。というより、それが、嫌で、嫌で、歯をくいしばって一人で起き上がれるようになったのだ。
 目が覚めた次の日の夕方から、トイレに行く許可だけはおりたが、まさか、一人で車いすにも乗れないほど弱っているとは思わなかった。
 一ヵ月も意識がなかったことで、失った筋力の多さに苦しめられた。利き手である右手は、まだしっかりと固定されたままで全く使い物にならないから、左手だけで全てを支えるのだが、自分の体がこんなに重いのだと初めて知った。それでも、一人で行けるようになったのだから、本当に良かった。
 トイレのたびに、対応してくれる看護士が、同性だったり、母親と同じ年かそれ以上なら、まだ申し訳なさが勝つが、若くて可愛い看護士が来たりすると、本当に耐えられないほどの羞恥心と屈辱感で、きっと顔が赤くなっていたと思う。
 いや、赤くなっていたのだ。そういうのを目ざとく祖母が見つけて報告してくれるから、本当にたまらない。いちいちそういうこと言ってこなくていいからって怒ったら、笑い飛ばされてしまった。
「あっははは! えぇやないの。健全な十三歳ってことやで。ってか、こんな可愛い女子高生が近くにおるんやから、看護師くらい慣れるんやないんね?」
 もちろん、「そんなわけない」、「中身がばあちゃんだから、微塵も可愛くない」と、食い気味で返してきたが、若い姿に満足している祖母の心には全く届かないようだ。
 祖母の反応にため息しかないが、トイレに行くたびに、祖母の言う通り、自分は、普通の、どこにでもいるただの中学一年生だと痛感していた。
 どんなに死を考えて、世を憂いたり儚んでみたりしたところで、生理現象を抑えられるわけもなく、その度に、人の手を借りてトイレに行くのだ。慣れることなく毎回、申し訳なさと恥ずかしさでいっぱいになって、自分がただの人間で、ただの中学生なんだと、それ以上でも以下でもないと心の底から思う。
 そして、そう思えば思うほど、逆に、なぜ自分がいじめの標的になったのか、なぜ自分だけがこんな目に合わなければいけないのか、理不尽さに怒りがこみ上げてくる。

 トイレから戻ってきて、またベッドに横になる。まだしばらく安静にするしかないようで、ベッドの上だけが生活の全てだった。だから、窓際という位置に心底感謝した。外が見えるというだけで、心の沈みが和らぐ。
 窓の外は、いつの間にか夏の強い日差しではなく、秋らしい傾斜のある光になっていて、窓の近くの高い木にあたり、まだ濃さの残る緑の葉に反射していて眩しい。
(そうか・・。もう、夏じゃないんだ)
 自分だけ時間が止まった感じがして、理由などなく、胸が震える。
(あの時は、まだ夏だった・・)
 あそこから飛んだのは、夏休みがあと少しで終わる、体が溶けそうに暑い昼下がり。
 雲のない真っ青な空と、全ての音を消し去る蝉の声。
 あまりの暑さに殆どすれ違う人はいなかったし、ずっと下を向いたまま汗だくで歩いた。
 死ぬために、歩いた。死ぬために、屋上まで階段でのぼった。
 あの暑さと蝉の騒音の中、俺は、最後に何を思って飛んだのだろう?
 実は、そこは覚えていない。
 覚えているのは、むっと吹き付ける強い南風の暑さと、空の青、蝉の声。
(あれで、全てが終わるはずだったのに・・)
 外の景色を眺めることで僅かに抑えられた怒りは、消えたわけではないから、葉が反射させる光に目を細めるというより睨みつける。
「まぁた難しい顔して。どうしたんね?」
 ふつふつと再燃する怒りに、祖母の相手をする気にはなれない。放っておいてほしくて、答えずにただ外を見つめる。すると、祖母はふらりと音もなく出ていった。
 放っておいてもらえたことにほっとしつつ、芽生えた怒りは、段々と炭の内側を赤々と燃やす熱のように、表面ではなく、自分の内側に充満していく。音もなく燃え続ける。
 けれど、どれだけ激しく熱を帯びても、決して発散できない。行き場のない怒りを抱え続けることは、苦しい。いっそ、本当に何もかも焦げつくしてしまえばいいのに。あいつらも全部焼き尽くして、そうやって、俺もいなくなってしまえれば・・。
 深くため息をついて、動く左手で顔を覆った。窓の外ばかり見ていたから、閉じた瞼の裏に緑色の光が残っている。二階から見る手入れの行き届いた中庭は、緑が近い。
(どうして、なぜ、生き延びてしまったんだろう・・?)
 今度は、飛び降りたビルの、むき出しになったコンクリートの色が頭に浮かぶ。
 自殺の場所は、事前に調べておいた。
 取り壊しの決まった廃ビル。
 跡地は道路になるのだと知り、それならば、あまり人に迷惑をかけないだろうと思った。
 最初は、自宅マンションから飛び降りようとも考えたが、前に、そういうマンションは資産価値が下がると聞いたことがあった。確かに、人が死んだマンションに住みたいやつはいないだろう。でも、もし、そうなったとしても自分には関係ないと思ったが、残された家族にとってはそうじゃないと踏みとどまった。万が一、価値を下げた責任を取れなどと家族が訴えられたりしたら、死んでも死にきれない。それに、そこに住んでいる限り、ずっと俺の自殺を思い出すのだと思うと、自分のことなんかで煩わせることが申し訳ないと思った。
(だから、あのビルにしたのに・・)
 失敗するなんて思ってもみなかった。確かに、あの日は風が強かった。でも、自分を持ち上げるほどの風だなんて予想できるわけがない。 
 窓の近く、背の高い木の枝が揺れるたび、風さえ吹かなければと悔やんでしまう。
 内側に怒りを燃やしつつ、自殺に失敗した後悔を抱えているのに、動かせる左手を強く握るしか術がなくて、涙がにじむほど苦しかった。苦しくて、苦しくて、耳の奥から頭がじぃんと痺れるほど苦しくなって、ようやく、自分がまともに息すらしていなかったのだと気づいた。
 左の手の平をほどき、細く長く体中の空気を吐き出すと、少し冷静になった。
 ふいに、学校は、今頃どうなっているだろうかと思ったが、一ヶ月も経っているなら、こんな話題すら出ることもなく、最初から俺がいなかったかのように、普通の日常を送っている様子が容易く想像できた。
 多くの生徒にとっては、どうでもいい話だし、何の関係もないのだから。
 そして、あいつらにとっても、担任にとっても、俺の存在などどうでもよくて、もう忘れて、何事もなかったように過ごしているのだろう。
 一人、一人、醜い顔が思い浮かぶ。頭の中で、あいつらの笑い声が反響する。
 吐き気に、思わず口を押さえた。
 自分以外は、一ヵ月という時間が経っているけれど、自分にはまだ昨日のことのようで、今の心では立ち向かえなかった。
 自分の心の弱さも、彼らのことも、その全てが許せないと怒りが熱を増すが、もう一方で、諦めと、もう関わりたくないという思いもある。
 治まらない吐き気に、目を閉じて、ゆっくり時間をかけて息を整える。
 大きく肺を膨らませる呼吸は、まだ体のあちこちを軋ませる。
(そういえば、肋骨も折れていたんだっけ)
 普段は忘れるくらい痛みもないから、こういう時にだけ思い出す。でも、そこまで傷が治っているのも、一ヵ月寝ていたからだ。
 結局、何もできない自分の無力さを痛感するだけなので、落ち着いてきた呼吸に、体の痛みという現実だけに集中するように努めて、それ以上考えることをやめてベッドに転がった。
 左手で右の頬にある傷を触る。
 トイレに行くことで鏡を見ることができ、発見がいくつかあった。それは、自分の見た目だ。まず、髪が伸びて頬がこけていて、一瞬、これが本当に自分かと思ったくらいだ。祖母や父親に似て、はっきりとした顔立ちをしているが、それが余計にやつれた感じを引き立てている。
 こけた頬にある傷は、6㎝ほどで、それなりに大きいけれど、母親がわざわざ市販薬の、傷を目立たなくさせるものを買ってきて塗ってくれていたせいか、そこまで目立たない。
 今度は、ぼさぼさに伸びた髪をくしゃりと掴んで、目を閉じた。出るのはため息ばかりだが、今はただそうすることにした。

 気持ちがすっかり落ち着いてきた時、そのタイミングを見計らっていたかのように、祖母が戻ってきた。
 祖母は、俺が黙ったり、本を読んだりしていると、ふらっといなくなる。
最初は、(気づかないうちに成仏しちゃったのかな?)と、少し焦ることもあったが、いつも、いなくなった時と同じように、ふらっと戻ってくる。
 今も、いつも通り、ふらっと戻って来た祖母は、相変わらず女子高生の格好のままで、思わず、その姿に呆れたようなため息が出たが、祖母には聞こえていないようだった。
 それにしても、今日は、随分機嫌がよさそうだ。意識せずに笑みがこぼれ、足取りが軽く、片手でお腹の辺りを押さえている。
「・・いっつも、どこ行ってんの?」
 興味ないという体で、今まで何も聞かなかったからか、祖母はとても驚いていた。
「なんね? やっと、ばあちゃんに興味が出てきたんね?」
「・・いや、そもそも、幽霊に興味がないわけがないよ。でも、いきなり女子高生の姿に変わったから、なんとなく聞く気が削がれたんだよ」
 あからさまにげんなりすると、祖母は心底意外そうにまばたきをした。
「そうやったとね。ばあちゃんの姿より、少し年上のお姉さんの方が親しみやすいかと思ったとに。残念。じゃあ、元に戻るかねぇ」
 そんな気遣いがあったとは、一ミリも想像していなかった。申し訳なかったなと、そのままでもいいよと言おうとしたが、祖母が、片手で頬を触り、もう片方の手をかざして、シワもシミもないピンと張った肌を眺めて、
「こんなに綺麗やし、ええのになぁ・・」
と、うっとりと言うから、瞼が一直線になった。
「ばあちゃん、自分が気に入ってるだけじゃねーの?」
「え? いや、そんなことないで。最初は、純粋に歳が近い方がいいかと思ったんよ」
「最初は・・、ね。今は?」
 祖母は一瞬、面食らったような顔をしたが、ニヤリと口の端をあげて笑った。
「ええやん。若い姿の方が」
「俺は、ばあちゃんの姿の方が見慣れてていいんだけど」
「大丈夫、この姿もすーぐ見慣れるけん」
 戻る気ないやん! と、心の中でツッコむ。
「いや、見慣れるんやのうて、惚れてしまうかもしれんけど」
「ない。可能性ゼロ」
 祖母の語尾にかぶせる勢いで、即否定した。
「冗談の通じん孫やねぇ」
 そう言って笑う女子高生の祖母は、一般的に言っても可愛いのだと思う。でも、自分には祖母にしか見えない。それに、それ以上に、口元に当てている手の爪先の鮮やかなピンク色が、とても幽霊とは思えなくて印象的だった。その色は、若さの象徴であるかのように感じた。

「で? どこ行ってたの?」
 祖母には、さっき戻って来た時の満足そうな雰囲気がまだ残っていて、結局、気になってもう一度聞いた。
「やっぱり、女子高生の動向が気になるね?」
「違う。何度も言うけど、どれだけ見た目が女子高生でも、俺には、ばあちゃんにしか見えん」
「つまらん男やねぇ」
 堂々巡りの会話がしたいわけじゃないので、短いため息で話を終わらせようとしたが、祖母は嬉々として喋りだした。
「ハヤト、この病院の近くに、美味しいケーキ屋さんがあるの知っとるね? いやぁ、何回行っても美味しいんよ」
「え? ばあちゃん、ケーキとか食べられんの?」
 今まで、祖母は俺の前で何も食べなかったし、幽霊はお腹がすいたりしないと思っていたから、当然驚いた。
「んー、『食べる』とは違うな。『味わう』かな。えーとな、想像するだけで、その味を味わえるんよ。満腹感もあるんやで。すごいやろ」
「想像で、味わう・・?」
「そうや。口の中で、ちゃんと食べてる味がするんやで」
「へぇ・・。すごいね。便利そう」
「そうやで。ものすっごい便利なん。キーポイントは、想像力や」
「想像力・・。あ、でも、それだと、食べたことのないものは想像できないから味わえないってこと?」
「うーん、確かに、それはある。でも、食べてる人にシンクロして味わうこともできるで。ただし、それも、その人にシンクロしている自分をどれだけ想像できるかによる」
「なるほど・・」
 素直に頷く俺に、気をよくしたのか、祖母はにこにこしている。
「太らない、虫歯にならない、どんなものでも味わえる。ええやろ~。それに、幽霊は実体がないから、移動もないんやで。ここに行きたいって想像すれば一瞬よ。だから、想像力を持たずに幽霊になったりあの世に行ったりしたら、大変やで」
(想像力・・)
 今の自分には、あまり持ち合わせていない自覚があるから、無意識でため息が出た。
「そんな顔せんでも、子供の方が順応早いけん、心配せんでもええよ。ばあちゃん、容姿まで想像で変えられるっていうのは、この前まで知らんかったし。あの世にいる若い子たちは、皆、若くして死んだんやと思って、ずっと可愛そうにって思っとったけど、そういう思い込みを超えるのが、想像力やね」
「ふぅん‥。ってか、やっぱり、あの世ってあんの?」
「あるで。この世界と同じ場所なのに、違う空間にあるんやで。不思議なもんやねぇ。やけ、たまに、こっちとあっちが交差して、鏡とか写真とかで繋がるんやと思うで」
「へー‥。じゃあ、ばあちゃんは、なんか、繋がっちゃって、こっちに来ちゃったってこと? それとも‥」
 口ごもってしまった。俺が考えていた可能性は二つ。いわゆる『ひょんなこと』からこっちの世界にきたのか、それとも、俺が自殺したから助けにきてくれたのか・・。でも、俺を助けに来てくれたの? と、面と向かっては聞きにくい。
  しかし、祖母は、大きな目をさらに開いて、寝耳に水とばかりに驚いていた。
「いやいや、ハヤトが呼んだんやないの?」
「呼ぶ? 俺が?」
 飛び降りた時の確かな記憶はないけれど、祖母を思い浮かべた記憶はない。絶対に。
「なんや、ハヤトが呼ぶから、振り向いたら、こっちにきとったんよ。幽霊として」
  全然そんな事実はないけれど、呼んでないと言うのも失礼というか、可哀想かなと、チラッと祖母を見る。祖母は、そんな俺の表情を読みとって、片眉をあげるとニヤリと笑った。
「呼んだ覚えがなさそうやね。まぁ、それでもええ。今となってはあんまり関係ない。もう、ばあちゃん、ここにおるんやし」
「まぁ、そうだけど。でも、それって、俺が何かしないと、ばあちゃんは、成仏できないってこと?」
「うーん、どうやろうねぇ・・。多分な、それも想像力やと思う。よく、成仏するときに、もう思い残すことはないって言うやろ? 結局、それは、その人の気持ち次第やし、こうなったら成仏できるって想像しとるからやと思う。やけ、ばあちゃん、まだ成仏の想像が足りんだけやないかね。そのうち、これで成仏やって思うことができたら、またあっちに行けるで、心配せんでええよ」
「・・いや、だからさ、それが、例えば、俺が、元気にまた学校に通う姿を見られたらとかだったら、めっちゃ俺にかかってんじゃないの?」
  祖母が見えるようになってからのこの三日間、ずっと、そういう可能性を考えていたし、そういう期待をしていた。俺が普通の学校生活が送れるように、幽霊なのだから、何か神がかったような奇跡でも起こしてくれるのではないかと。あいつらを罰してくれるのではないかと。
  しかし、現実はそれほど安易でも優しくもなかった。
「いやぁ、ハヤトには申し訳ないんやけど、どっちでもええんよ」
「え?」
「最初の日にも言うたけど、ハヤトが、死にたいって自殺するなら、それでもええと思っとる。逃げて死んでも、逃げずに生き抜いても、どっちでもええんやで」
 あの時は、白黒ハッキリした性格の祖母らしく、引き止めてはくれないんだと思ったが、本当に自殺をしても構わないと思っていることに、胸に冷たさが広がり、腹の底まで押し広げられて、体の真ん中が冷え冷えとしてくる。自分から死ぬことを選び、誰かに引き止められたいと思っていたわけじゃないのに、改めて突き放されると、心のどこかで期待していた自分が浮き彫りになった。
 焦点が虚ろになり、自然と下を向いた。
「そうなんだ・・。そっか・・」
 何一つ我慢しなくていいのだと、自殺を選ぶことまで受け入れられて全身から力が抜けた。
 指先が冷たい。
「そっか・・」
 もう一度、自分に言い聞かせるように「そっか・・」と言った瞬間、死ぬことまで、なんの後ろめたさもなく自由に選択できる事実に、心がすくんだ。ひんやりと静まり返った体の中で、心臓の鼓動だけが、いつもより早く正確に打っているのを感じる。
(生きるのも、死ぬのも、俺、しだい、なんだ・・)
 わかっていたことだし、一度は死ぬことを選んだのに、それ以上は何も言えずにいると、祖母は微笑みながら、戸惑うような口調になった。
「いやなぁ、あの世、めっちゃ楽しいんよ・・」
  ん? と思って顔を上げる。
「あの世がこんなに楽しいなら、みんな来たらいいのにって思う。それくらい楽しいで。でも、みんな死んだことないから、怖いんやな」
「・・へ、へー。楽しいんだ?」
 驚いたというより斜め上過ぎる答えに俺のほうが困惑していたら、祖母が嬉しそうににんまりと笑った。
「楽しいで~。だから、そんなことでこんなに我慢しとるくらいなら、こっちに来ればええのにって思うんよ」
 一瞬、死後の世界を明るい色で想像しそうになったが、ハッと思い止まる。
「・・や、でも、それは、ばあちゃんが、普通に死んだからで、自殺した人は、そんなことないんじゃないの?」
「あ。あー、そうかもなぁ。自殺した人はずっと自分を責めとるからねぇ。自由になんでも想像して幸せになれるのに、そんな幸せな想像をできんかったり、自分を戒めるような想像をする人もおるみたいやもんなぁ。たまーに、悲しんでる人を見かけるねぇ」
 祖母は、あの世の光景を思い出すように、片手を顎に添えて大きな目を天井に向け、一点を見つめている。
 想像通りの答えだったはずなのに、俺は湧き上がる怒りを握りしめていた。
「なんで? なんでだよ?」
 俺の気迫に、祖母が驚いているのが見なくてもわかる。
「俺だって自殺したくてしたわけじゃない。あいつらのせいで‥。あいつらさえいなければ、自殺なんかしなかったのに・・!」
 浅く息を吸った。
「なのに、なんで、死んでからも後悔しないといけないんだよ・・」
 悔しくて目頭が熱くなる。
「あいつらは何の罪の意識も、後悔もなく、のうのうと生きて、俺が死んだ後も幸せに暮らすのに、そんなのおかしいよ・・!」
 どうすることもできない怒りに左手を握りしめる。
「・・そうやね。ばあちゃんも、その通りやと思うで。でも、犯罪をした人が死んだらどうなるのか、ばあちゃんは知らんで、何とも言えん。ただ、憎しみや恨みは、想像力が全てといってもいいあの世では相当強いけん、罪を犯した人は、被害者からの怨念によって、普通にあの世に行けるとは思えん。もしかしたら、どこか違うところに行くんかもしれん」
 祖母は、言いながら思いついたようで、「あぁ、だからか」と一人納得している。
「それが、いわゆる地獄っていうやつなんかもしれんねぇ」
 罪を犯した人は、被害者の怨念の分だけ地獄を味わう。
 その想像は、少し怒りを解消してくれた。そうであってほしい。いや、そうでなければおかしい。
 生きているうちに改心しなかったり、生きている間に罪を償いきれなかったりするのなら、地獄へいくべきだ。苦しみと痛みと絶望しかない世界を、精神がすり消えるまで這いずり回ればいい。
 死ねなかったから、死後の世界がどうなっているのかわからないけれど、今は、祖母の言葉を信じて、自分の考えがどうか正しくありますようにと祈るしかない。
「俺は、絶対、死んだら楽しんでやる・・! 死後の世界でまで苦しむなんて、まっぴらごめんだね」
「まぁ、自殺にはいろんな理由があるし、一概に全員が苦しむわけじゃないんやろうけど、でも・・」
 祖母が言葉を切り、じっとこちらを見返す。その目の光は、女子高生の持つそれではなく、長く人生を生き抜いた者にしか出せない、優しいけれどとても深い光だった。
「でも・・?」
 沈黙に耐えられなくて、俺は聞き返した。
「・・でも、自殺した人には後悔があるんやないね・・?」
「後悔?」
 聞き返すと、祖母は少し考えてから、困ったように眉を下げながら口元だけ笑った。
「ばあちゃん、あの世があんまり楽しいけん、そういうの、すっかり忘れとったわ。・・でも、まぁ、今、全部聞いてしまうとつまらんくなるで。それに、そのうちわかるけん」
 答えを濁されて眉をひそめて見せたけれど、やはりそれ以上は祖母には話す気がないようで、最後はにっこりと笑って誤魔化されてしまった。
 でも、俺は、自殺したことに後悔なんて絶対しないと思っていたし、後悔しない自信があった。両親を悲しませることは、今回目が覚めたことで身をもってわかっている。それは申し訳なく思うけれど、それとこれとは別だ。だから、後悔などしない。そう思っていた。
 けれど、祖母の言った通り、後悔が何かは直ぐに思い知らされた。



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