消えゆく日々に、君と選んだひとつの未来

葉方萌生

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第六章 気づかないふりをしていた

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「昔さ……小学生の時、ハーフなのを友達にからかわれたことがあったんだよな。それがなんか嫌で。確か授業参観のときに、俺の母さんを見て『海藤の母ちゃん、ガイコクジンじゃん』って言われたことが結構ショックだったんだよ。そいつは外国人って見たまんまのことを言っただけなのかもしれなけど、言葉の端っこに、“外国人だから悪い”みたいな悪意が潜んでるように感じてしまって。俺の考えすぎかもしんないけど……。だからそれ以来、自分がハーフであることが、自分のアイデンティティとは感じなくなったな」

 堰を切ったように小学生の頃の記憶を語る彼の瞳は、不安と緊張で揺れていた。目尻には水滴が溜まっているように見えてぎゅっと心臓を掴まれたような心地がする。けれどそれは涙ではなく、さきほど吹いた風によって張り付いた雨なのだと気づいて少しだけ心臓の音がおさまった。

「そっか……そんなことが。なんか、勝手に決めつけるようなこと言ってごめんね」

 瑠伊を傷つけてしまったと思った。ステレオタイプな私の何気ないひとことが、瑠伊の心を抉ってしまったんじゃないかと思うと怖かった。
 けれと彼はすぐににっこりと微笑んで、私を安心させるようにして言った。

「いや、大丈夫だよ。そんなふうに謝ってくれるのは夕映だけだ」

 夕映だけ・・
 その言葉の裏に潜む真意は、瑠伊や瑠伊のお母さんのことをからかったのが先ほどのクラスメイト一人ではなく、他にも大勢いたということだ。

「瑠伊が教室に行けないのはもしかしてそのこともある? みんなにからかわれるんじゃないかって恐れる気持ち」

「……まあ、確かにそれもあるかもな。記憶喪失なのがいちばんの原因だけど、心のどこかでは同級生のことが、怖いのかもしれない。正直さ、いっそのこと小学生の頃の記憶も全部消えてたらよかったのにって、不謹慎なことまで考えちまって」

「はは、ダサいよなー」と自嘲気味に笑う彼の肩を思わず抱きしめる。
 彼が動かしていた手を止めた。呆気に取られた様子で「ゆ、夕映……?」と途切れがちに私の名前を呼ぶ。

「つらかったね」

 私には、当時の彼の気持ちを推し量ることしかできない。彼の胸の痛みは、私には到底知り得ないものだから。だから想像するしかない。でも、少し想像するだけでチクリと針で刺されたように胸は痛くて苦しくなる。だからきっと、彼が受けた痛みは想像以上に大きいはずだ。

「……あぁ」

 素直に頷く彼を、私はより一層強く抱きしめた。
 恋人でもなんでもない私がこんなことをしていいのかという考えが一瞬頭をよぎったけれど、今はこうしていたかった。瑠伊をひとりにしたくなかったんだ。
 ひとしきり彼の気持ちに寄り添ったあと、瑠伊が「ありがとう。もう大丈夫」と安心したように笑った。

「夕映につらかったねって言ってもらってなんかすっきりした。気づかないうちに、ずっともやもやしちまってたみたいだ」

「そっか。じゃあ、今日私が瑠伊と一緒にここに来たのにも、ちょっとは意味があったってことかな?」

「意味ありまくりだから。俺が夕映を誘ったこと忘れんなよ」

 唇を尖らせる彼がおかしい。クククッと笑うと、彼もほっとしたように「本当にありがとうな」と優しい声を響かせた。

「夕映も、なんかあったら言えよ。この間優奈ちゃんの家に行った時にも思ったんだけどさ。悩みは溜め込むな。すぐに吐き出せ。今までは友達がいなくてできなかったかもしれねえけど、今は俺がいるから」

 瑠伊が発する一つ一つの言葉がベールのように身体全体を包み込む。……そのはずなのに、今の彼の発言に、私はざらりと濡れた手で胸を撫でられたかのような感覚を覚えた。

「優奈の家に行った……?」

 ぽろりとこぼれ落ちた疑問に、瑠伊の身体が固まるのを見た。キャンバスの上で動かし始めていた手が再び止まる。ポツポツと降る雨が地面に落下する音がいやに大きく耳に響く。
 ない。
 ない、ない、ない。
 記憶のどこを探しても、優奈の家に訪れた記憶がない。
 彼の言葉から察するに、瑠伊と一緒に行ったというようだけど……。

「もしかして……忘れちまった?」

 絶望を孕む硬い声が、無機質な鉄の塊みたいに地面に落下する。
 震える身体を、なんとかぎゅっとかき抱く。寒いわけでもないのに鳥肌が立って気持ちが悪い。

 バチバチバチッ、と静電気が連続して発生した時のような音が遠くから聞こえて、視界が白く飛んだ。

『コンテスト……ダメだったな』

『……本当だ。頑張ったのにね』

 放課後の保健室で、自分と瑠伊がスマホの画面を見つめて落胆する映像がざざっと流れ込んでくる。
 コンテスト……もしかして、短歌絵画コンクールに落選した時の夢……?
 コンテストだから、そりゃ落選することのほうが多いに決まっている。落選したって参加することに意味があるのだし、そこまで絶望することない——そう思うのに、未来の記憶の中の私たちは、気力を失ったかのように肩を落として泣きそうになっていた。
 苦い気持ちがじわじわと広がっていって、そこで映像が途切れた。
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