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第十章 まっすぐに進んで
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このまま、いつか瑠伊が私のことを思い出してくれるんじゃないかってちょっと期待していた。でも、現実はそんなに甘くはなかった。
七月下旬。いよいよ本格的に蝉が生命を輝かせ、連日のように猛暑に苛まれていた。
瑠伊とまた短歌をつくりはじめてから五日後の朝、土曜日に蝉の大合唱で目を覚ました私は、ふと違和感を覚える。
なんだろう……この感じ。
心の中にあるべき感情がない、とでも言うべきか。
何かが足りない。それがいつかの記憶であることには間違いないのだが、何の記憶がなくなったのかさっぱり見当もつかない。ただ、自分にとってとても大切な思い出が胸の中から消え去っていることだけは理解した。
まるで心にぽっかりと穴が空いたような嫌な感じ。
考えれば考えるほど、苦しさが増していく。
無理やり思考に蓋をして、今日やるべきことを思い浮かべる。
今日も午後から瑠伊のところに行く予定だ。
瑠伊は明日が退院日らしく、病院に行くのは今日で最後になる。
ぼんやりとした気分のまま朝食、それから昼食を食べ終えて、いつも持っていくノートを手に取ったところで、はたと動きを止めた。
私、何をしに瑠伊のところへ行くんだっけ……?
決まっている。瑠伊のお見舞いだ。入院生活で退屈をしている彼と話をしにいくのだ。いや、それだけだった? 違うでしょ。そうだ、短歌だ。短歌を考えるために行くのだ。瑠伊は絵を描いて、私が短歌をつくる。
瑠伊は、何の絵を描くの?
ズキン、ズキン、とこめかみの疼痛が鬱陶しいくらいに広がっていく。
焦るな、考えるな。そう思うのに、ぐるぐると頭を必死に動かしてしまう。瑠伊が描いていたのは……そうだ、白ユリと海の絵だった。だけど、とここで思考がぴたりと止まる。
あの絵の風景を、私は覚えていない。
「うそだ……」
思い出そうとすると一層激しい痛みが脳を駆け抜ける。
これだけでもう、十分すぎるぐらいに分かってしまった。
私は、瑠伊と短歌絵画コンクールに応募する作品を描くために二人で行った場所のことを、きっと楽しかったであろうその時間のことを、忘れてしまったのだと。
慌てて日々書きつけていた日記をめくる。
「六月二十九日日曜日。雨の中、瑠伊と一緒に潮風園芸公園に行った……」
日記に綴られた、彼とのデートの甘い一日の出来事を読んで、鋭利なナイフで心臓を刺されたかのような衝撃が全身を貫いた。そこに書かれていたのは、雨の中でも二人で並んで歩いたことに対する喜びや、彼を愛しいと思う気持ちだった。それから、デートの最後には二人で優奈の家を訪れた記憶が消えていることを知って愕然としたという気持ちが綴られている。コンクールに落選する未来の夢まで見てしまい、気持ちが折れかけたことも。
やっぱり覚えてない……。
楽しかった記憶も、悲しかった気持ちも、すべて私の心から消え去っていた。
瑠伊の中から私の記憶が消えても、私が覚えていれば思い出はなくなったことにはならないはずだったのに。
私の中からも、二人の大切な記憶が消えてしまった。
これでもう、最初からなかったことになってしまったのだ。
手に持っていたノートをその場で滑り落とす。カサリという乾いた音が、静寂の中に小さく響く。部屋の中の空気は真夏であるにもかかわらず、温度を失ったかのように冷たい。
その刹那、弾け飛んだ視界の中で見たのは、瑠伊の病室で彼が苦痛に顔を歪めている姿だ。
『夕映のこと、せっかく思い出したのに……。あの日のこと、夕映が忘れちまったなんて』
悔しそうに、苦しそうに呻く彼の姿を見ていらなくて、未来の私はぎゅっと両目を瞑る。
ごめんなさい、瑠伊。
あなたとの大切な記憶を失ってしまって。
本当にごめん。
何度謝ったって許されることじゃない。私は忘れてしまった。大切な人とのいちばん大切な思い出を。
こんな気持ちで短歌をつくることなんてできない。
第一、短歌をつくるために目にした景色だって思い出せないのだ。スマホには写真が残っているはずだから写真を見ればどんな景色だったのかは分かる。でも違うのだ。その時その場所で感じていたことを歌にして詠みたかった。大好きな人の隣で見た風景は特別なものだったに違いない。無機質な四角い機器の中で見る写真では、自分の理想とする歌なんか、きっと詠めっこない。
床に落ちたノートを拾い上げることもできずに部屋の中で立ち尽くす。いつもお見舞いに行っていた時間をとうに過ぎてしまった。
「ごめんね、瑠伊」
今日は彼に会えそうにない。
本当は明日の退院日だって花を持っていきたかったけれど明日も行けそうにない。
二人の大切な思い出を失うのが怖い。
失ったまま彼に会うのが怖い。
ああ、そうか。
瑠伊もこんな気持ちだったんだ。
私のことを忘れて、こんなに苦しかったんだ。
でも瑠伊は強くて優しくて、忘れてしまった私を歓迎してくれた。向井さんから私の話を聞いたのか、私と接する彼はほとんど以前と変わらなかった。そこにどれほどの悲しみと努力が隠されていたかなんて、想像もつかない。
私は弱いから。
瑠伊とは違うから。
結局その日も翌日も瑠伊の元を訪ねることができずに、ノートにも新しい五音と七音を書きつけることもできなかった。
七月下旬。いよいよ本格的に蝉が生命を輝かせ、連日のように猛暑に苛まれていた。
瑠伊とまた短歌をつくりはじめてから五日後の朝、土曜日に蝉の大合唱で目を覚ました私は、ふと違和感を覚える。
なんだろう……この感じ。
心の中にあるべき感情がない、とでも言うべきか。
何かが足りない。それがいつかの記憶であることには間違いないのだが、何の記憶がなくなったのかさっぱり見当もつかない。ただ、自分にとってとても大切な思い出が胸の中から消え去っていることだけは理解した。
まるで心にぽっかりと穴が空いたような嫌な感じ。
考えれば考えるほど、苦しさが増していく。
無理やり思考に蓋をして、今日やるべきことを思い浮かべる。
今日も午後から瑠伊のところに行く予定だ。
瑠伊は明日が退院日らしく、病院に行くのは今日で最後になる。
ぼんやりとした気分のまま朝食、それから昼食を食べ終えて、いつも持っていくノートを手に取ったところで、はたと動きを止めた。
私、何をしに瑠伊のところへ行くんだっけ……?
決まっている。瑠伊のお見舞いだ。入院生活で退屈をしている彼と話をしにいくのだ。いや、それだけだった? 違うでしょ。そうだ、短歌だ。短歌を考えるために行くのだ。瑠伊は絵を描いて、私が短歌をつくる。
瑠伊は、何の絵を描くの?
ズキン、ズキン、とこめかみの疼痛が鬱陶しいくらいに広がっていく。
焦るな、考えるな。そう思うのに、ぐるぐると頭を必死に動かしてしまう。瑠伊が描いていたのは……そうだ、白ユリと海の絵だった。だけど、とここで思考がぴたりと止まる。
あの絵の風景を、私は覚えていない。
「うそだ……」
思い出そうとすると一層激しい痛みが脳を駆け抜ける。
これだけでもう、十分すぎるぐらいに分かってしまった。
私は、瑠伊と短歌絵画コンクールに応募する作品を描くために二人で行った場所のことを、きっと楽しかったであろうその時間のことを、忘れてしまったのだと。
慌てて日々書きつけていた日記をめくる。
「六月二十九日日曜日。雨の中、瑠伊と一緒に潮風園芸公園に行った……」
日記に綴られた、彼とのデートの甘い一日の出来事を読んで、鋭利なナイフで心臓を刺されたかのような衝撃が全身を貫いた。そこに書かれていたのは、雨の中でも二人で並んで歩いたことに対する喜びや、彼を愛しいと思う気持ちだった。それから、デートの最後には二人で優奈の家を訪れた記憶が消えていることを知って愕然としたという気持ちが綴られている。コンクールに落選する未来の夢まで見てしまい、気持ちが折れかけたことも。
やっぱり覚えてない……。
楽しかった記憶も、悲しかった気持ちも、すべて私の心から消え去っていた。
瑠伊の中から私の記憶が消えても、私が覚えていれば思い出はなくなったことにはならないはずだったのに。
私の中からも、二人の大切な記憶が消えてしまった。
これでもう、最初からなかったことになってしまったのだ。
手に持っていたノートをその場で滑り落とす。カサリという乾いた音が、静寂の中に小さく響く。部屋の中の空気は真夏であるにもかかわらず、温度を失ったかのように冷たい。
その刹那、弾け飛んだ視界の中で見たのは、瑠伊の病室で彼が苦痛に顔を歪めている姿だ。
『夕映のこと、せっかく思い出したのに……。あの日のこと、夕映が忘れちまったなんて』
悔しそうに、苦しそうに呻く彼の姿を見ていらなくて、未来の私はぎゅっと両目を瞑る。
ごめんなさい、瑠伊。
あなたとの大切な記憶を失ってしまって。
本当にごめん。
何度謝ったって許されることじゃない。私は忘れてしまった。大切な人とのいちばん大切な思い出を。
こんな気持ちで短歌をつくることなんてできない。
第一、短歌をつくるために目にした景色だって思い出せないのだ。スマホには写真が残っているはずだから写真を見ればどんな景色だったのかは分かる。でも違うのだ。その時その場所で感じていたことを歌にして詠みたかった。大好きな人の隣で見た風景は特別なものだったに違いない。無機質な四角い機器の中で見る写真では、自分の理想とする歌なんか、きっと詠めっこない。
床に落ちたノートを拾い上げることもできずに部屋の中で立ち尽くす。いつもお見舞いに行っていた時間をとうに過ぎてしまった。
「ごめんね、瑠伊」
今日は彼に会えそうにない。
本当は明日の退院日だって花を持っていきたかったけれど明日も行けそうにない。
二人の大切な思い出を失うのが怖い。
失ったまま彼に会うのが怖い。
ああ、そうか。
瑠伊もこんな気持ちだったんだ。
私のことを忘れて、こんなに苦しかったんだ。
でも瑠伊は強くて優しくて、忘れてしまった私を歓迎してくれた。向井さんから私の話を聞いたのか、私と接する彼はほとんど以前と変わらなかった。そこにどれほどの悲しみと努力が隠されていたかなんて、想像もつかない。
私は弱いから。
瑠伊とは違うから。
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