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最終章 心の海
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瑠伊とお別れをしてから、二ヶ月と少しが過ぎた。
十月、吹き始めた秋の風が私の頬を滑るようにして飛んでいく。夏の暑さがすっかり消え去って、金木犀の香りがあたりを包み込む。真白湖の周りの木々たちはいつのまにかほんのり紅く色づいている。本格的な紅葉はまだまだ先だが、名前の知らない葉はすでに紅く染まっていた。
「お母さん、行ってきます」
「行ってらっしゃい。あ、帰りは明日の夕方ごろよね?」
「うん。ちょっとゆっくりしてくる予定」
「分かった。気をつけて行ってきんしゃい」
小さめのキャリーケースを引いて、真白湖の真横を通り過ぎるバスに乗り込んだ。新幹線の最寄駅まで、そのまま三十分ほど揺られる。土曜日の今日は久しぶりの一人旅。高校一年生の私に、一泊の許可を与えてくれたのは、それだけ母が私のことを信頼してくれている証拠だ。
無事に新幹線に乗り込むと、窓際の指定席に座る。
移り変わる景色を眺めていると、いつか瑠伊と優奈の家に弔問に行った時も、同じ景色を眺めたのかなと感慨深い気分にさせられた。
私はいま、再び福岡の地に向かっている。
いわずもなが、もう一度優奈に会いにいくためだ。
前回同窓会に参加した時には気が動転して優奈に会いにいくことができなかった。
あれから時が経ち、少しずつ私の記憶障害は治ってきている。
医者が言うには、記憶障害の発端となっていたストレスが少しずつ和らいでいるのがその理由らしい。瑠伊と出会い、確かに私の中で未来を前向きに生きられるようになった。まだ記憶がなくなってびっくりしてしまうこともあるけれど、瑠伊に言われた通り日記をつけることで、なんとか気持ちが上下するのを抑えられている。
それに、過去の記憶が消えて未来の記憶を見るとき、瑠伊の顔を思い浮かべると不思議と不安な気持ちが安らぐのだ。
瑠伊が私の中でお守りみたいな存在になっている。
遠く離れていても、私のことを守ってくれている。
だからいつか、この記憶障害も治ると信じられた。
気がつけば新幹線の中でうたた寝をしていた。
「次は、博多」という社内アナウンスの音で目を覚ます。周りをキョロキョロと見回すと、みんな荷物を取ったり上着を羽織ったりして降車する準備を始めていた。私もいそいそと降りる準備をする。
それから少しして新幹線が博多駅に到着した。
約三ヶ月ぶりの故郷だ。前回は博多駅近くのお店で友達と会ってすぐに帰ってしまったので、ちゃんと滞在するのは本当に久しぶりだ。瑠伊と来た時の記憶がないので、引っ越し前以来かもしれない。
今は隣にいない瑠伊の笑った顔を思い浮かべながら、想像の中の彼に背中を押されて、スマホにメモをしている住所まで、バスで向かった。
茶色い壁のマンションにたどり着いたとき、時刻はお昼過ぎだった。
「大丈夫、大丈夫」
優奈がくれた呪文を心の中で唱えてから、インターホンを鳴らす。「はあい」と聞き覚えのある声が聞こえて、玄関の扉がガチャリと開かれた。
「夕映ちゃん、いらっしゃい」
現れたおばさんが、明るい表情で私を出迎えてくれた。確かに昔よりシワが増えているけれど、優奈を失った直後に比べると顔色はだいぶ明るい。私は、「こんにちは」と声をうわずらせながら挨拶をした。
「そんなに緊張しなくてもいいわよ。事情はお母さんから聞いてるわ。さあ、上がって」
「ありがとうございます。失礼します」
おばさんが言う“事情”とは、私の記憶障害についてだ。
実は今日、優奈の家を訪ねたいと決めてから、事前に母に連絡を入れてもらっていた。その際に、おばさんには私の記憶障害について話して、以前瑠伊と訪れた時の記憶がないということも伝えてもらった。
だから事情を知ってくれているおばさんに対して、私も安心して対面することができた。
「今日は主人と涼真は二人で出かけてるから、家にいるのは私だけよ。気兼ねなくゆっくりしていって」
「はい、お邪魔します」
ぺこりと頭を下げてから、優奈の新しい家に上がる。前回来た記憶が抜けているので、初めて上がらせてもらう気分だ。早速仏壇の前で手を合わせた。そんな私の様子を、おばさんは黙って見守ってくれていた。
「優奈は幸せ者ね。こんなふうに何度も訪ねてきてくれる友達がいて」
「私はそんな。幸せなのは私のほうなんです。優奈みたいな明るくて優しい子が友達で……私は、本当に幸せでした」
心から感じていたことをおばさんに伝える。おばさんの目尻にうっすらと涙が溜まり始める。
「ごめんなさいね。私、優奈がいなくなってからずっと涙腺が緩くて……」
「お気になさらないでください。私も一緒です」
「あら、そうなの? でも今日はなんだか、頼もしい顔をしてるわね」
おばさんがふっと笑みを浮かべる。頼もしい顔、か。自分では何も意識したことがなかった。私はいま、そんなにしっかりしてるように見えるだろうか。もしそうなら、それは——。
「瑠伊のおかげなんです。私、優奈を亡くしてずっと塞ぎ込んでいて、記憶障害に悩まされるようになって、消えたいって思って生きていました。でもそんな中、同じ記憶喪失に悩む瑠伊に出会って……優奈のこともまるで自分の友達のように考えてくれて、一緒に悩んで、隣で歩いてくれて。気づいたら、前を向けるようになっていました」
「そうだったの。お友達の瑠伊くんの存在が、夕映ちゃんにとってとても大きなものなのね。確かに前に来てくれた時、彼からは夕映ちゃんを想う気持ちがあふれているように感じたわ。あ、もしかして二人は恋人同士だったりする?」
おばさんが、ちょっとからかうように私に問いかける。
友達のお母さんからこの手の話を振られるとは思っておらずあたふたと取り乱してしまう。そんな私の姿を見て、おばさんは「かわいいわねえ」と笑った。
そして、もう一度ふっと真面目な表情になると、「あのね」と静かに続けた。
「前回夕映ちゃんがお友達と来てくれた時にも言ったけどね、夕映ちゃんにはとても感謝しているの。あの時の夕映ちゃんは、優奈が亡くなったことを責めていたけど、夕映ちゃんのせいじゃないって伝えたわ。だからこれからもし、夕映ちゃんがまた今日の記憶を忘れても、おばさんが何度も伝えてあげる。優奈は幸せ者だったし、優奈が亡くなったのは夕映ちゃんのせいじゃない。夕映ちゃんがいてくれて、私も私の家族も優奈もみんな、本当に良かったと思ってるって」
おばさんの言葉に、ついに涙腺が決壊した。
やっぱり私のほうがずっと涙脆い。
夕映ちゃんがまた今日の記憶を忘れても、おばさんが何度も伝えてあげる。
その言葉が、不完全な私を丸ごと受け入れてくれた瑠伊と重なる。それから、いつどんな時でも、「大丈夫」と私に優しい言葉をかけてくれた優奈とも。
自分がいかに、周りの人たちから愛されているのかをこの時改めて実感した。
「おばさん、ありがとうございます。今日、ここに来て本当に良かったです。また絶対来ます。何度も、優奈に会いに来ます」
力強くそう告げると、今度はおばさんのまなじりに涙が浮かんでいくのが分かった。
ぎゅっと膝の上で両手を握りしめて、瞳からそっと涙をこぼす。
「ええ、ありがとうね」
くしゃりと頬を綻ばせたその笑顔が記憶の中の優奈の笑顔と重なって、私はまた一つ、心に灯火がついた。
瑠伊とお別れをしてから、二ヶ月と少しが過ぎた。
十月、吹き始めた秋の風が私の頬を滑るようにして飛んでいく。夏の暑さがすっかり消え去って、金木犀の香りがあたりを包み込む。真白湖の周りの木々たちはいつのまにかほんのり紅く色づいている。本格的な紅葉はまだまだ先だが、名前の知らない葉はすでに紅く染まっていた。
「お母さん、行ってきます」
「行ってらっしゃい。あ、帰りは明日の夕方ごろよね?」
「うん。ちょっとゆっくりしてくる予定」
「分かった。気をつけて行ってきんしゃい」
小さめのキャリーケースを引いて、真白湖の真横を通り過ぎるバスに乗り込んだ。新幹線の最寄駅まで、そのまま三十分ほど揺られる。土曜日の今日は久しぶりの一人旅。高校一年生の私に、一泊の許可を与えてくれたのは、それだけ母が私のことを信頼してくれている証拠だ。
無事に新幹線に乗り込むと、窓際の指定席に座る。
移り変わる景色を眺めていると、いつか瑠伊と優奈の家に弔問に行った時も、同じ景色を眺めたのかなと感慨深い気分にさせられた。
私はいま、再び福岡の地に向かっている。
いわずもなが、もう一度優奈に会いにいくためだ。
前回同窓会に参加した時には気が動転して優奈に会いにいくことができなかった。
あれから時が経ち、少しずつ私の記憶障害は治ってきている。
医者が言うには、記憶障害の発端となっていたストレスが少しずつ和らいでいるのがその理由らしい。瑠伊と出会い、確かに私の中で未来を前向きに生きられるようになった。まだ記憶がなくなってびっくりしてしまうこともあるけれど、瑠伊に言われた通り日記をつけることで、なんとか気持ちが上下するのを抑えられている。
それに、過去の記憶が消えて未来の記憶を見るとき、瑠伊の顔を思い浮かべると不思議と不安な気持ちが安らぐのだ。
瑠伊が私の中でお守りみたいな存在になっている。
遠く離れていても、私のことを守ってくれている。
だからいつか、この記憶障害も治ると信じられた。
気がつけば新幹線の中でうたた寝をしていた。
「次は、博多」という社内アナウンスの音で目を覚ます。周りをキョロキョロと見回すと、みんな荷物を取ったり上着を羽織ったりして降車する準備を始めていた。私もいそいそと降りる準備をする。
それから少しして新幹線が博多駅に到着した。
約三ヶ月ぶりの故郷だ。前回は博多駅近くのお店で友達と会ってすぐに帰ってしまったので、ちゃんと滞在するのは本当に久しぶりだ。瑠伊と来た時の記憶がないので、引っ越し前以来かもしれない。
今は隣にいない瑠伊の笑った顔を思い浮かべながら、想像の中の彼に背中を押されて、スマホにメモをしている住所まで、バスで向かった。
茶色い壁のマンションにたどり着いたとき、時刻はお昼過ぎだった。
「大丈夫、大丈夫」
優奈がくれた呪文を心の中で唱えてから、インターホンを鳴らす。「はあい」と聞き覚えのある声が聞こえて、玄関の扉がガチャリと開かれた。
「夕映ちゃん、いらっしゃい」
現れたおばさんが、明るい表情で私を出迎えてくれた。確かに昔よりシワが増えているけれど、優奈を失った直後に比べると顔色はだいぶ明るい。私は、「こんにちは」と声をうわずらせながら挨拶をした。
「そんなに緊張しなくてもいいわよ。事情はお母さんから聞いてるわ。さあ、上がって」
「ありがとうございます。失礼します」
おばさんが言う“事情”とは、私の記憶障害についてだ。
実は今日、優奈の家を訪ねたいと決めてから、事前に母に連絡を入れてもらっていた。その際に、おばさんには私の記憶障害について話して、以前瑠伊と訪れた時の記憶がないということも伝えてもらった。
だから事情を知ってくれているおばさんに対して、私も安心して対面することができた。
「今日は主人と涼真は二人で出かけてるから、家にいるのは私だけよ。気兼ねなくゆっくりしていって」
「はい、お邪魔します」
ぺこりと頭を下げてから、優奈の新しい家に上がる。前回来た記憶が抜けているので、初めて上がらせてもらう気分だ。早速仏壇の前で手を合わせた。そんな私の様子を、おばさんは黙って見守ってくれていた。
「優奈は幸せ者ね。こんなふうに何度も訪ねてきてくれる友達がいて」
「私はそんな。幸せなのは私のほうなんです。優奈みたいな明るくて優しい子が友達で……私は、本当に幸せでした」
心から感じていたことをおばさんに伝える。おばさんの目尻にうっすらと涙が溜まり始める。
「ごめんなさいね。私、優奈がいなくなってからずっと涙腺が緩くて……」
「お気になさらないでください。私も一緒です」
「あら、そうなの? でも今日はなんだか、頼もしい顔をしてるわね」
おばさんがふっと笑みを浮かべる。頼もしい顔、か。自分では何も意識したことがなかった。私はいま、そんなにしっかりしてるように見えるだろうか。もしそうなら、それは——。
「瑠伊のおかげなんです。私、優奈を亡くしてずっと塞ぎ込んでいて、記憶障害に悩まされるようになって、消えたいって思って生きていました。でもそんな中、同じ記憶喪失に悩む瑠伊に出会って……優奈のこともまるで自分の友達のように考えてくれて、一緒に悩んで、隣で歩いてくれて。気づいたら、前を向けるようになっていました」
「そうだったの。お友達の瑠伊くんの存在が、夕映ちゃんにとってとても大きなものなのね。確かに前に来てくれた時、彼からは夕映ちゃんを想う気持ちがあふれているように感じたわ。あ、もしかして二人は恋人同士だったりする?」
おばさんが、ちょっとからかうように私に問いかける。
友達のお母さんからこの手の話を振られるとは思っておらずあたふたと取り乱してしまう。そんな私の姿を見て、おばさんは「かわいいわねえ」と笑った。
そして、もう一度ふっと真面目な表情になると、「あのね」と静かに続けた。
「前回夕映ちゃんがお友達と来てくれた時にも言ったけどね、夕映ちゃんにはとても感謝しているの。あの時の夕映ちゃんは、優奈が亡くなったことを責めていたけど、夕映ちゃんのせいじゃないって伝えたわ。だからこれからもし、夕映ちゃんがまた今日の記憶を忘れても、おばさんが何度も伝えてあげる。優奈は幸せ者だったし、優奈が亡くなったのは夕映ちゃんのせいじゃない。夕映ちゃんがいてくれて、私も私の家族も優奈もみんな、本当に良かったと思ってるって」
おばさんの言葉に、ついに涙腺が決壊した。
やっぱり私のほうがずっと涙脆い。
夕映ちゃんがまた今日の記憶を忘れても、おばさんが何度も伝えてあげる。
その言葉が、不完全な私を丸ごと受け入れてくれた瑠伊と重なる。それから、いつどんな時でも、「大丈夫」と私に優しい言葉をかけてくれた優奈とも。
自分がいかに、周りの人たちから愛されているのかをこの時改めて実感した。
「おばさん、ありがとうございます。今日、ここに来て本当に良かったです。また絶対来ます。何度も、優奈に会いに来ます」
力強くそう告げると、今度はおばさんのまなじりに涙が浮かんでいくのが分かった。
ぎゅっと膝の上で両手を握りしめて、瞳からそっと涙をこぼす。
「ええ、ありがとうね」
くしゃりと頬を綻ばせたその笑顔が記憶の中の優奈の笑顔と重なって、私はまた一つ、心に灯火がついた。
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