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願い事
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いよいよ今日はクリスマス・イブ。
ホテルは大勢のお客様で賑わい、どの部署も大忙しになる。
今年もツリーの前には、チェックアウトの人達が写真を撮ろうと、朝から列が出来ていた。
早瀬は、ロビーの様子をしばらく見守ってから最上階に上がった。
「おはようございます」
総支配人室に入ると、一生は、お?と顔を上げた。
「おはよう。お前、今日は休まなくていいのか?クリスマス・イブだぞ?」
「一生さんは彼女出来たんですか?それなら休みますけど」
ぐっ…と一生がうめき声を上げる。
「けど、お前だって出来なかったんだろ?」
早瀬はコートを脱ぎながらサラッと答える。
「出来ましたよ。好きな人」
「えっ!ほんとか?」
(…まあ、嘘ではない)
「じゃあ今日は休め!待ってるんだろ?彼女」
「いや、仕事してます」
(…これもまあ、嘘ではない)
「そ、そうか。でもお前、今日はちゃんと定時で上がれよ。上がらせるからな!」
なぜそんな、気合いたっぷり?と苦笑いしつつ、早瀬は頷いた。
***
企画広報課の部屋は、朝から皆ソワソワとしていた。
デートや合コンの約束で、今日は誰もが浮き足立っている。
他の課と違い特に今日忙しくなる訳ではないので、青木も皆に、ちゃんと定時で上がれよと伝えていた。
「ね、瑠璃ちゃんって今夜予定あるの?」
隣の席の奈々がこっそり聞いてくる。
「何もないよー、いつもと同じ」
「そっか」
そう言って奈々は、ちょっとはにかみながら、少女のような笑顔でうつむく。
(ん?もしや…)
「奈々ちゃん、今夜はデートなの?」
「えっ!やだっ!瑠璃ちゃんたら」
「しーっ。声が大きいよ」
「あ、ご、ごめん」
「うふふ、そうかあ。楽しんできてね!奈々ちゃん」
「う、うん。でも初めてのデートで、緊張してて…」
「え、そうなの?」
「うん。先週告白されたばかりで…」
そう言って奈々は、ちらっと部屋の前方に目をやった。
ん?と思いつつその視線の先を追うと…
「えっ!奈々ちゃん、まさかっ!」
今度は瑠璃が、しーっと言われ、慌てて口を押さえる。
「ご、ごめん。でも、奈々ちゃん、もしや…」
青木課長と?と瑠璃がささやくと、顔を真っ赤にして奈々は頷いた。
***
予想していたとは言え、今日はひっきりなしに総支配人室に電話が入る。
宿泊部、調理部、宴会部…どこも忙しく、些細なトラブルやミスも起こる。
それらを吸い上げて報告してくる早瀬に、一生は的確に指示を出す。
あっという間に17時になった。
「早瀬、定時だ。上がれ」
書類に目を通しながら、一生が短く言う。
「しかし、どの部署もまだ状況が落ち着いていませんし、夜にはさらに忙しく…」
「いいから上がれ!上がれったら上がれ!」
論理的な中身など全くないセリフで、一生は早瀬を睨む。
やれやれ…と早瀬は帰り支度をする。
すると、デスクの電話がまたもや鳴り響く。
早瀬が手を伸ばすより早く、一生は自分のデスクで素早く受話器を上げた。
電話に応答しながら、早瀬に向かって、シッシッ!と手を振ってくる。
厄介者扱いか?と思いつつ、早瀬は一生に一礼した。
と、ちょっと待てと電話の相手に断った一生が、早瀬!と呼び止める。
「はい、何でしょう」
「メリークリスマス。楽しんで来いよ」
早瀬は一瞬瞬きしたあと、笑顔で頷く。
「メリークリスマス。一生さんも、すてきな夜を」
***
定時を過ぎた女子更衣室は、いつもより賑やかで華やいでいた。
皆、ロッカーからきれいなワンピースやよそ行きの服を取り出し、髪をアイロンで巻き、メイクを念入りに直す。
「る、瑠璃ちゃん。変じゃない?」
奈々が、自信なさそうな声で聞いてくる。
オフショルダーの、赤いベロア素材のワンピース。
いつもの奈々はあまり選ばないような色だったが、とてもよく似合っていた。
「かわいい!似合ってるよ、奈々ちゃん。クリスマスにビッタリだね」
青木課長もメロメロになっちゃうよ、と小声で付け加えると、奈々は耳まで真っ赤にした。
「ほら、早く行かないと。青木さんが待ってるよ」
「う、うん。じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい!すてきなクリスマスを」
「ありがとう!瑠璃ちゃんもね」
***
オフィス棟の入口。
着飾った女子社員が次々と退社していく。
中には、待っていた男性社員と落ち合って、嬉しそうに腕を組みながら出ていくカップルもいる。
(社内恋愛か…くー!うらやましい)
そう思っていると、背後から、あれ?早瀬?という声が聞こえてきた。
振り向くと、青木が階段を下りてくるのが見えた。
「珍しいな、お前がこんなところにいるなんて」
「お疲れ様。お前こそ、なんかいつもと違う感じの私服だな」
そこまで言って、早瀬はハッとする。
「お前…もしや」
すると、コツンと階段を下りてくる足音がし、お待たせしました、と小山 奈々が現れた。
青木の隣に早瀬がいることに気づいて、驚いたように頭を下げてくる。
「あ、う、うん。じゃあ…行こうか」
青木は、奈々の私服に顔を赤らめつつ、早瀬に、じゃ、またと手を挙げる。
奈々も、失礼しますと早瀬にお辞儀をしてから、タタッと青木に追いついた。
(くーっ!なんだよ、青木もか!)
思わず地団駄を踏みそうになった時、早瀬さん?と優しい声がした。
顔を上げると、瑠璃が階段を下りてくるところだった。
真っ白なニットに、アイスブルーのフレアスカート。
胸元には、清河のネックレスが光っている。
ふんわりとした袖と、生地をたっぷり使ったスカートの広がりが、瑠璃の雰囲気にとてもよく合っていて、早瀬は思わず言葉を失って見とれた。
「お疲れ様です。どうかしましたか?早瀬さんもどなたかと待ち合わせですか?」
「あ、いや、違うんだ。実は君を待っていて…」
ドギマギしながらそう言うと、瑠璃は驚いたように首をかしげる。
「私を?何かご用ですか?」
「あ、うん、その…不躾なんだけど、瑠璃さん、今夜は何か予定ある?」
「いいえ、このまま家に帰るところです」
「そ、そうか!なら、良かった。あの、少し残業をお願い出来ないかな?」
「残業ですか?」
「うん。実は俺、今日は定時で退社することになって。でも一生さんはこのあとも仕事がある。それで、総支配人室に夕食が運ばれてくるから、それを一生さんにサーブしてくれないかな?俺の分も運ばれてくるから、それは君に」
「ええ、それは構いませんけど…」
そこまで言って、瑠璃は、あっと何かに気づいたような表情をした。
「かしこまりました。どうぞご心配なく。さあ、もう行ってくださいね。メリークリスマス!すてきな夜を」
そう言って瑠璃は、笑顔を残して去っていった。
「メリークリスマス。どうか俺の大切な二人が幸せになりますように…」
瑠璃の背中を見ながらそっと呟く。
「さてと!サンタクロースはこれから忙しくなりますよ」
自分に気合いを入れると、早瀬はフロントへと向かった。
***
コンコンと部屋がノックされる。
パソコンに向かったまま、どうぞと返事をした一生は、失礼致しますと言って入って来た瑠璃を見て、驚いて立ち上がる。
「る、瑠璃さん?!どうされました?」
「はい、あの。早瀬さんの代わりに参りました」
「早瀬の?」
「ええ。早瀬さんが今夜、心置きなくデートを楽しまれるように。私では早瀬さんの代わりとはいきませんけれど、精いっぱいお手伝いさせて頂きます」
そう言って頭を下げた。
「あ、そ、その…」
と、ふいに電話が鳴る。
「はい、総支配人室でごさいます。はい、はい、少々お待ち頂けますか?」
早速、早瀬のデスクで電話に出た瑠璃が、一生に声をかける。
「総支配人、バンケットマネージャーの福原さんからです。懇意にしているお客様から、
ご予算よりかなり多めの追加注文を頂いているそうで、どこまでをサービスにしていいのかと」
「分かった。回してください」
「はい」
瑠璃は手早く一生のデスクに内線を繋いだ。
そのあとも2回ほど電話が鳴ったが、それ以降びたりと来なくなる。
「どうしたんでしょう。急に静かになりましたね」
「ああ、確かに」
首をひねる二人は知らない。
各部署に、今後何かあった時は、まずフロントに連絡を入れるようにという早瀬の指示があったこと、そして早瀬はずっとフロントに待機し、ひっきりなしにかかってくる電話の対応に追われていることを。
「コーヒーでも淹れますね」
瑠璃は立ち上がり、カウンターキッチンでコーヒーを淹れると、一生のデスクにどうぞと置く。
ありがとうと言う一生に微笑んだ瑠璃は、ふと、デスクの花瓶に目をやった。
「あの、少し席を外してもよろしいですか?」
「ああ、もちろん」
瑠璃は、すぐに戻りますと言って、バッグを手に部屋をあとにする。
一生は、静かになった部屋でコーヒーを飲みながら、急に幸せがこみ上げてくるのを感じた。
瑠璃が入って来たあとも、仕事に追われて実感がなかったが、今夜、瑠璃の姿を見られたことがとても嬉しかった。
白いニットと水色のスカート姿の瑠璃が、ふんわりと笑顔を浮かべて入って来た時は、一瞬夢の世界にいるのかと思った。
(ふふ、思いがけず俺にとっても良いクリスマス・イブになったな)
きっと、早瀬が瑠璃に頼んでくれたのだろう。
一生は心の中で、早瀬に礼を言った。
***
ほどなくして戻って来た瑠璃は、手に真っ赤なバラの花束を抱えていた。
その姿に、一生はまたドキッとする。
「花瓶、失礼しますね」
そして瑠璃は、一生と早瀬の花瓶を手に、カウンターの奥に消えた。
パチンッと枝を切る音や、うーん、と考え込むような瑠璃の声が聞こえてくる。
やがて、うん!と納得したような様子の瑠璃が、花瓶を手に一生のデスクに戻って来た。
「メリークリスマス!」
赤いバラに緑のヒイラギ、そして白いコットンフラワーと、クリスマスらしい雰囲気の花を見て、一生はありがとうと礼を言う。
「あのツリーも、あなたが飾ってくださったのですよね?ありがとう。とても嬉しかった」
やっと素直にお礼が言えたことに、大人げもなくホッとする。
瑠璃はそんな一生に、輝くような笑顔を向けた。
***
やがて総支配人室に夕食が運ばれてきた。
瑠璃は早速ダイニングテーブルに食器を並べていく。
「一生さん、どうぞ」
準備が整うと一生に声をかけて、テーブルにうながす。
一生が腰を下ろすと、瑠璃は部屋の照明をぐっと落とした。
ツリーの煌めきが、より一層鮮やかに浮かび上がる。
一生は立ち上がり、瑠璃の椅子を引いて、どうぞと微笑んだ。
お互い席に着いて向かい合うと、なんだか急に照れてしまい、ぎこちなくなる。
まずは乾杯しましょうと言って、一生は瑠璃のグラスにシャンパンを注ぐ。
「メリークリスマス!」
グラスを合わせてから、瑠璃はゆっくりと口をつけた。
「美味しい!」
「それは良かった」
そう言ってもう一度瑠璃のグラスに注ごうとした一生に、瑠璃は首を振る。
「これ以上は頂けません。仕事中ですし」
「それを言ったら俺だって仕事中です」
「一生さんは構いません。総支配人ですもの。それにそんなにすぐに酔ったりしないでしょう?」
「まあ、これくらいでは。瑠璃さんは?酔っ払ったりするんですか?」
すると、瑠璃はみるみるうちに顔を赤らめた。
「あ!そうでしたよね。あれは…ちょうど1年前か」
「も、もう、忘れてください」
瑠璃はうつむきながら、消え入るような声で言う。
「酔っ払っても大丈夫ですよ。ほら、部屋もすぐそこですし。またお運びしますよ」
「もう!一生さん!」
瑠璃は頬を膨らませて睨んでくる。
「あはは!」
全く凄みのない、逆にかわいらしい瑠璃の睨みに、一生はおかしそうに笑った。
フレンチレストランのシェフが用意してくれた料理は、どれもとても美味しかった。
味わいながらも一生は、正面の瑠璃の笑顔に時々ぽーっと見惚れてしまう。
食事のあと、一生は冷蔵庫に入れてあったケーキを取り出し、紅茶を用意した瑠璃と一緒に戻ってソファに座る。
ケーキ皿のフタをそっと開けると、わあ!と瑠璃は目を輝かせた。
チョコレートのホールケーキに、キラキラ輝く白い飾り。
まるで雪が降り積もった夜の風景のようだ。
ケーキに細くて長いろうそくを立てると、火を灯す。
「一生さん、お願い事!」
「あ、ああ、うん」
吹き消す前に瑠璃にそう言われ、一生は慌てて目を閉じて心の中で呟く。
(どうかどうか…)
***
切り分けたケーキを食べ、紅茶を飲んでいた一生は、ふと隣の瑠璃に目を向ける。
瑠璃はツリーを見ながら、優しい笑みを浮かべていた。
「心がきれいな人ですね」
えっ?と瑠璃は、真顔に戻って一生を見る。
「あ、失礼。思わず…」
そう言って下を向いたが、やはり思い直して顔を上げる。
「あなたは、本当に心のきれいな方です。花を見る時、ツリーを見る時、料理やケーキを見ても、とても嬉しそうに輝くような笑顔を向ける。そんなあなたを見ていると、自分の周りにあるものが、こんなに素晴らしいものだったのかと気づかされます」
そして、瑠璃に正面から向き合った。
「最初に会った時は、か弱くて、誰かが守ってあげないといけないような、そんな印象でした。でも、サザンカの写真では凛とした強さを感じ、清河さんとのことでは、営業マン顔負けの仕事ぶり。そして麗華さんのことでは…」
そう言って一度下を向いてから、噛みしめるように言葉を続ける。
「あなたに、どんなに助けてもらったか。あなたの強さ、優しさ、そして深い愛情…私はあなたに、人としてあるべき姿を教えられ、そして救われました。本当にありがとう」
瑠璃は、首を振りながら、照れたようにうつむく。
「私の方こそ、一生さんに感謝してもしきれません。自分の人生をどう歩いていけばいいのか、どうすれば幸せになれるのか、ずっと悩んで辛かった私を、このホテルが救ってくれました。ここで働いていなければ、私…どうなっていたんでしょう。考えるのも恐ろしい…」
真顔で考えたあと、ふっと笑顔になる。
「1年前、酔いつぶれた私を運んでくださって、ありがとうございました。このホテルで働かせてくださって、見守ってくださって…そして私の身に危険が及んだ時は、全力で助けてくださって、ありがとうございました。誕生日には祝ってくださって、今日も、私の願いを叶えてくださって…」
そこまで言って言葉を止めた瑠璃の顔を、一生がのぞき込む。
「君の、願い…?」
コクリと頷く瑠璃に、何のことだろうと一生は視線を上げて考える。
「私の誕生日に、一生さんがおっしゃったでしょう?ろうそくを吹き消す前に、願い事をって」
「ああ、うん」
「あの時、とっさに心の中で願ったんです。何も考えずにとっさに。自分でも、そんな事を願うなんてってびっくりしたんですけど…それが今日叶って、さらに驚いてます」
ふふっと瑠璃は無邪気に笑う。
「だからさっき一生さんが願った事も、きっときっと叶いますよ」
「俺の…願い」
さっき、ろうそくを吹き消す前に、同じように瑠璃に言われてとっさに自分も心の中で呟いた。
「叶う…俺の願いが?」
「ええ、きっと。私の願い事が叶ったんですから」
そう言って満足そうに紅茶を飲む瑠璃に、一生はちょっと意地悪っぽく聞いてみた。
「瑠璃さんは、どんな願い事をしたの?」
「え…それは」
ぽっと顔が赤くなったのが分かる。
「え、なになに?どんな事?」
一生はますます、瑠璃を問い詰める。
「いえ、そんな…申し上げるほどの事では」
「じゃあもったいぶらないで、サラッと教えて、ね?」
「え、そ、それなら、一生さんは何をお願いしたんですか?」
「いやー、俺はいいよ。瑠璃さんの願い事を聞きたい」
「一生さんが教えてくれないなら、私も教えません」
そう言って、また頬を膨らませて拗ねる。
「ふーん…じゃあさ、せーので一緒に言う?」
「え、ええっ?」
「お互いサラッと言おうよ、ね?いくよ」
「ちょ、ちょっと待って」
「せーの!どうかどうか…」
『ずっと一緒にいられますように』
重なった二人の声。
驚いてお互い見つめ合う。
「え、同じ…?」
「そ、そうみたい…ですね」
「そんなこと、ある…?」
しばらく二人で照れまくる。
やがて一生は、ふと顔を上げた。
「ね、俺の願い事も叶うんだよね?」
「そ、そう言いましたね、私ったら」
「じゃあお願いしよう。瑠璃さん」
「は、はい」
「ずっと一緒にいてください」
真剣な眼差しで見つめる一生に、瑠璃は言葉を失う。
「返事は?」
「…はい」
恥ずかしそうにようやく頷いた瑠璃に、一生はとびきりの笑顔になった。
「これでお互い、願いが叶ったね」
瑠璃は、顔を真っ赤にしたままうつむいている。
一生は、優しく「瑠璃」と呼びかけた。
「これからもずっとそばにいる。ずっと君を守っていく。そして必ず幸せにする。だから」
おずおずと顔を上げた瑠璃の瞳をとらえて、一生は真っ直ぐ瑠璃を見つめた。
「結婚してください」
瑠璃はポロポロと目から涙を溢れさせる。
「返事は?」
優しく顔をのぞき込む一生に、瑠璃は頷いて答えた。
「はい」
一生は、ホッとしたように微笑むと、瑠璃の涙をそっと拭う。
その手でそのまま瑠璃の頬を優しく包むと、愛おしそうに瑠璃にキスをした。
幸せで胸がしびれる。
やがて顔を離すと、まだ顔が真っ赤な瑠璃に笑いかけ、自分の胸に抱きしめた。
「ずっとずっと一緒にいよう」
腕の中で、瑠璃が確かに頷いた。
ホテルは大勢のお客様で賑わい、どの部署も大忙しになる。
今年もツリーの前には、チェックアウトの人達が写真を撮ろうと、朝から列が出来ていた。
早瀬は、ロビーの様子をしばらく見守ってから最上階に上がった。
「おはようございます」
総支配人室に入ると、一生は、お?と顔を上げた。
「おはよう。お前、今日は休まなくていいのか?クリスマス・イブだぞ?」
「一生さんは彼女出来たんですか?それなら休みますけど」
ぐっ…と一生がうめき声を上げる。
「けど、お前だって出来なかったんだろ?」
早瀬はコートを脱ぎながらサラッと答える。
「出来ましたよ。好きな人」
「えっ!ほんとか?」
(…まあ、嘘ではない)
「じゃあ今日は休め!待ってるんだろ?彼女」
「いや、仕事してます」
(…これもまあ、嘘ではない)
「そ、そうか。でもお前、今日はちゃんと定時で上がれよ。上がらせるからな!」
なぜそんな、気合いたっぷり?と苦笑いしつつ、早瀬は頷いた。
***
企画広報課の部屋は、朝から皆ソワソワとしていた。
デートや合コンの約束で、今日は誰もが浮き足立っている。
他の課と違い特に今日忙しくなる訳ではないので、青木も皆に、ちゃんと定時で上がれよと伝えていた。
「ね、瑠璃ちゃんって今夜予定あるの?」
隣の席の奈々がこっそり聞いてくる。
「何もないよー、いつもと同じ」
「そっか」
そう言って奈々は、ちょっとはにかみながら、少女のような笑顔でうつむく。
(ん?もしや…)
「奈々ちゃん、今夜はデートなの?」
「えっ!やだっ!瑠璃ちゃんたら」
「しーっ。声が大きいよ」
「あ、ご、ごめん」
「うふふ、そうかあ。楽しんできてね!奈々ちゃん」
「う、うん。でも初めてのデートで、緊張してて…」
「え、そうなの?」
「うん。先週告白されたばかりで…」
そう言って奈々は、ちらっと部屋の前方に目をやった。
ん?と思いつつその視線の先を追うと…
「えっ!奈々ちゃん、まさかっ!」
今度は瑠璃が、しーっと言われ、慌てて口を押さえる。
「ご、ごめん。でも、奈々ちゃん、もしや…」
青木課長と?と瑠璃がささやくと、顔を真っ赤にして奈々は頷いた。
***
予想していたとは言え、今日はひっきりなしに総支配人室に電話が入る。
宿泊部、調理部、宴会部…どこも忙しく、些細なトラブルやミスも起こる。
それらを吸い上げて報告してくる早瀬に、一生は的確に指示を出す。
あっという間に17時になった。
「早瀬、定時だ。上がれ」
書類に目を通しながら、一生が短く言う。
「しかし、どの部署もまだ状況が落ち着いていませんし、夜にはさらに忙しく…」
「いいから上がれ!上がれったら上がれ!」
論理的な中身など全くないセリフで、一生は早瀬を睨む。
やれやれ…と早瀬は帰り支度をする。
すると、デスクの電話がまたもや鳴り響く。
早瀬が手を伸ばすより早く、一生は自分のデスクで素早く受話器を上げた。
電話に応答しながら、早瀬に向かって、シッシッ!と手を振ってくる。
厄介者扱いか?と思いつつ、早瀬は一生に一礼した。
と、ちょっと待てと電話の相手に断った一生が、早瀬!と呼び止める。
「はい、何でしょう」
「メリークリスマス。楽しんで来いよ」
早瀬は一瞬瞬きしたあと、笑顔で頷く。
「メリークリスマス。一生さんも、すてきな夜を」
***
定時を過ぎた女子更衣室は、いつもより賑やかで華やいでいた。
皆、ロッカーからきれいなワンピースやよそ行きの服を取り出し、髪をアイロンで巻き、メイクを念入りに直す。
「る、瑠璃ちゃん。変じゃない?」
奈々が、自信なさそうな声で聞いてくる。
オフショルダーの、赤いベロア素材のワンピース。
いつもの奈々はあまり選ばないような色だったが、とてもよく似合っていた。
「かわいい!似合ってるよ、奈々ちゃん。クリスマスにビッタリだね」
青木課長もメロメロになっちゃうよ、と小声で付け加えると、奈々は耳まで真っ赤にした。
「ほら、早く行かないと。青木さんが待ってるよ」
「う、うん。じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい!すてきなクリスマスを」
「ありがとう!瑠璃ちゃんもね」
***
オフィス棟の入口。
着飾った女子社員が次々と退社していく。
中には、待っていた男性社員と落ち合って、嬉しそうに腕を組みながら出ていくカップルもいる。
(社内恋愛か…くー!うらやましい)
そう思っていると、背後から、あれ?早瀬?という声が聞こえてきた。
振り向くと、青木が階段を下りてくるのが見えた。
「珍しいな、お前がこんなところにいるなんて」
「お疲れ様。お前こそ、なんかいつもと違う感じの私服だな」
そこまで言って、早瀬はハッとする。
「お前…もしや」
すると、コツンと階段を下りてくる足音がし、お待たせしました、と小山 奈々が現れた。
青木の隣に早瀬がいることに気づいて、驚いたように頭を下げてくる。
「あ、う、うん。じゃあ…行こうか」
青木は、奈々の私服に顔を赤らめつつ、早瀬に、じゃ、またと手を挙げる。
奈々も、失礼しますと早瀬にお辞儀をしてから、タタッと青木に追いついた。
(くーっ!なんだよ、青木もか!)
思わず地団駄を踏みそうになった時、早瀬さん?と優しい声がした。
顔を上げると、瑠璃が階段を下りてくるところだった。
真っ白なニットに、アイスブルーのフレアスカート。
胸元には、清河のネックレスが光っている。
ふんわりとした袖と、生地をたっぷり使ったスカートの広がりが、瑠璃の雰囲気にとてもよく合っていて、早瀬は思わず言葉を失って見とれた。
「お疲れ様です。どうかしましたか?早瀬さんもどなたかと待ち合わせですか?」
「あ、いや、違うんだ。実は君を待っていて…」
ドギマギしながらそう言うと、瑠璃は驚いたように首をかしげる。
「私を?何かご用ですか?」
「あ、うん、その…不躾なんだけど、瑠璃さん、今夜は何か予定ある?」
「いいえ、このまま家に帰るところです」
「そ、そうか!なら、良かった。あの、少し残業をお願い出来ないかな?」
「残業ですか?」
「うん。実は俺、今日は定時で退社することになって。でも一生さんはこのあとも仕事がある。それで、総支配人室に夕食が運ばれてくるから、それを一生さんにサーブしてくれないかな?俺の分も運ばれてくるから、それは君に」
「ええ、それは構いませんけど…」
そこまで言って、瑠璃は、あっと何かに気づいたような表情をした。
「かしこまりました。どうぞご心配なく。さあ、もう行ってくださいね。メリークリスマス!すてきな夜を」
そう言って瑠璃は、笑顔を残して去っていった。
「メリークリスマス。どうか俺の大切な二人が幸せになりますように…」
瑠璃の背中を見ながらそっと呟く。
「さてと!サンタクロースはこれから忙しくなりますよ」
自分に気合いを入れると、早瀬はフロントへと向かった。
***
コンコンと部屋がノックされる。
パソコンに向かったまま、どうぞと返事をした一生は、失礼致しますと言って入って来た瑠璃を見て、驚いて立ち上がる。
「る、瑠璃さん?!どうされました?」
「はい、あの。早瀬さんの代わりに参りました」
「早瀬の?」
「ええ。早瀬さんが今夜、心置きなくデートを楽しまれるように。私では早瀬さんの代わりとはいきませんけれど、精いっぱいお手伝いさせて頂きます」
そう言って頭を下げた。
「あ、そ、その…」
と、ふいに電話が鳴る。
「はい、総支配人室でごさいます。はい、はい、少々お待ち頂けますか?」
早速、早瀬のデスクで電話に出た瑠璃が、一生に声をかける。
「総支配人、バンケットマネージャーの福原さんからです。懇意にしているお客様から、
ご予算よりかなり多めの追加注文を頂いているそうで、どこまでをサービスにしていいのかと」
「分かった。回してください」
「はい」
瑠璃は手早く一生のデスクに内線を繋いだ。
そのあとも2回ほど電話が鳴ったが、それ以降びたりと来なくなる。
「どうしたんでしょう。急に静かになりましたね」
「ああ、確かに」
首をひねる二人は知らない。
各部署に、今後何かあった時は、まずフロントに連絡を入れるようにという早瀬の指示があったこと、そして早瀬はずっとフロントに待機し、ひっきりなしにかかってくる電話の対応に追われていることを。
「コーヒーでも淹れますね」
瑠璃は立ち上がり、カウンターキッチンでコーヒーを淹れると、一生のデスクにどうぞと置く。
ありがとうと言う一生に微笑んだ瑠璃は、ふと、デスクの花瓶に目をやった。
「あの、少し席を外してもよろしいですか?」
「ああ、もちろん」
瑠璃は、すぐに戻りますと言って、バッグを手に部屋をあとにする。
一生は、静かになった部屋でコーヒーを飲みながら、急に幸せがこみ上げてくるのを感じた。
瑠璃が入って来たあとも、仕事に追われて実感がなかったが、今夜、瑠璃の姿を見られたことがとても嬉しかった。
白いニットと水色のスカート姿の瑠璃が、ふんわりと笑顔を浮かべて入って来た時は、一瞬夢の世界にいるのかと思った。
(ふふ、思いがけず俺にとっても良いクリスマス・イブになったな)
きっと、早瀬が瑠璃に頼んでくれたのだろう。
一生は心の中で、早瀬に礼を言った。
***
ほどなくして戻って来た瑠璃は、手に真っ赤なバラの花束を抱えていた。
その姿に、一生はまたドキッとする。
「花瓶、失礼しますね」
そして瑠璃は、一生と早瀬の花瓶を手に、カウンターの奥に消えた。
パチンッと枝を切る音や、うーん、と考え込むような瑠璃の声が聞こえてくる。
やがて、うん!と納得したような様子の瑠璃が、花瓶を手に一生のデスクに戻って来た。
「メリークリスマス!」
赤いバラに緑のヒイラギ、そして白いコットンフラワーと、クリスマスらしい雰囲気の花を見て、一生はありがとうと礼を言う。
「あのツリーも、あなたが飾ってくださったのですよね?ありがとう。とても嬉しかった」
やっと素直にお礼が言えたことに、大人げもなくホッとする。
瑠璃はそんな一生に、輝くような笑顔を向けた。
***
やがて総支配人室に夕食が運ばれてきた。
瑠璃は早速ダイニングテーブルに食器を並べていく。
「一生さん、どうぞ」
準備が整うと一生に声をかけて、テーブルにうながす。
一生が腰を下ろすと、瑠璃は部屋の照明をぐっと落とした。
ツリーの煌めきが、より一層鮮やかに浮かび上がる。
一生は立ち上がり、瑠璃の椅子を引いて、どうぞと微笑んだ。
お互い席に着いて向かい合うと、なんだか急に照れてしまい、ぎこちなくなる。
まずは乾杯しましょうと言って、一生は瑠璃のグラスにシャンパンを注ぐ。
「メリークリスマス!」
グラスを合わせてから、瑠璃はゆっくりと口をつけた。
「美味しい!」
「それは良かった」
そう言ってもう一度瑠璃のグラスに注ごうとした一生に、瑠璃は首を振る。
「これ以上は頂けません。仕事中ですし」
「それを言ったら俺だって仕事中です」
「一生さんは構いません。総支配人ですもの。それにそんなにすぐに酔ったりしないでしょう?」
「まあ、これくらいでは。瑠璃さんは?酔っ払ったりするんですか?」
すると、瑠璃はみるみるうちに顔を赤らめた。
「あ!そうでしたよね。あれは…ちょうど1年前か」
「も、もう、忘れてください」
瑠璃はうつむきながら、消え入るような声で言う。
「酔っ払っても大丈夫ですよ。ほら、部屋もすぐそこですし。またお運びしますよ」
「もう!一生さん!」
瑠璃は頬を膨らませて睨んでくる。
「あはは!」
全く凄みのない、逆にかわいらしい瑠璃の睨みに、一生はおかしそうに笑った。
フレンチレストランのシェフが用意してくれた料理は、どれもとても美味しかった。
味わいながらも一生は、正面の瑠璃の笑顔に時々ぽーっと見惚れてしまう。
食事のあと、一生は冷蔵庫に入れてあったケーキを取り出し、紅茶を用意した瑠璃と一緒に戻ってソファに座る。
ケーキ皿のフタをそっと開けると、わあ!と瑠璃は目を輝かせた。
チョコレートのホールケーキに、キラキラ輝く白い飾り。
まるで雪が降り積もった夜の風景のようだ。
ケーキに細くて長いろうそくを立てると、火を灯す。
「一生さん、お願い事!」
「あ、ああ、うん」
吹き消す前に瑠璃にそう言われ、一生は慌てて目を閉じて心の中で呟く。
(どうかどうか…)
***
切り分けたケーキを食べ、紅茶を飲んでいた一生は、ふと隣の瑠璃に目を向ける。
瑠璃はツリーを見ながら、優しい笑みを浮かべていた。
「心がきれいな人ですね」
えっ?と瑠璃は、真顔に戻って一生を見る。
「あ、失礼。思わず…」
そう言って下を向いたが、やはり思い直して顔を上げる。
「あなたは、本当に心のきれいな方です。花を見る時、ツリーを見る時、料理やケーキを見ても、とても嬉しそうに輝くような笑顔を向ける。そんなあなたを見ていると、自分の周りにあるものが、こんなに素晴らしいものだったのかと気づかされます」
そして、瑠璃に正面から向き合った。
「最初に会った時は、か弱くて、誰かが守ってあげないといけないような、そんな印象でした。でも、サザンカの写真では凛とした強さを感じ、清河さんとのことでは、営業マン顔負けの仕事ぶり。そして麗華さんのことでは…」
そう言って一度下を向いてから、噛みしめるように言葉を続ける。
「あなたに、どんなに助けてもらったか。あなたの強さ、優しさ、そして深い愛情…私はあなたに、人としてあるべき姿を教えられ、そして救われました。本当にありがとう」
瑠璃は、首を振りながら、照れたようにうつむく。
「私の方こそ、一生さんに感謝してもしきれません。自分の人生をどう歩いていけばいいのか、どうすれば幸せになれるのか、ずっと悩んで辛かった私を、このホテルが救ってくれました。ここで働いていなければ、私…どうなっていたんでしょう。考えるのも恐ろしい…」
真顔で考えたあと、ふっと笑顔になる。
「1年前、酔いつぶれた私を運んでくださって、ありがとうございました。このホテルで働かせてくださって、見守ってくださって…そして私の身に危険が及んだ時は、全力で助けてくださって、ありがとうございました。誕生日には祝ってくださって、今日も、私の願いを叶えてくださって…」
そこまで言って言葉を止めた瑠璃の顔を、一生がのぞき込む。
「君の、願い…?」
コクリと頷く瑠璃に、何のことだろうと一生は視線を上げて考える。
「私の誕生日に、一生さんがおっしゃったでしょう?ろうそくを吹き消す前に、願い事をって」
「ああ、うん」
「あの時、とっさに心の中で願ったんです。何も考えずにとっさに。自分でも、そんな事を願うなんてってびっくりしたんですけど…それが今日叶って、さらに驚いてます」
ふふっと瑠璃は無邪気に笑う。
「だからさっき一生さんが願った事も、きっときっと叶いますよ」
「俺の…願い」
さっき、ろうそくを吹き消す前に、同じように瑠璃に言われてとっさに自分も心の中で呟いた。
「叶う…俺の願いが?」
「ええ、きっと。私の願い事が叶ったんですから」
そう言って満足そうに紅茶を飲む瑠璃に、一生はちょっと意地悪っぽく聞いてみた。
「瑠璃さんは、どんな願い事をしたの?」
「え…それは」
ぽっと顔が赤くなったのが分かる。
「え、なになに?どんな事?」
一生はますます、瑠璃を問い詰める。
「いえ、そんな…申し上げるほどの事では」
「じゃあもったいぶらないで、サラッと教えて、ね?」
「え、そ、それなら、一生さんは何をお願いしたんですか?」
「いやー、俺はいいよ。瑠璃さんの願い事を聞きたい」
「一生さんが教えてくれないなら、私も教えません」
そう言って、また頬を膨らませて拗ねる。
「ふーん…じゃあさ、せーので一緒に言う?」
「え、ええっ?」
「お互いサラッと言おうよ、ね?いくよ」
「ちょ、ちょっと待って」
「せーの!どうかどうか…」
『ずっと一緒にいられますように』
重なった二人の声。
驚いてお互い見つめ合う。
「え、同じ…?」
「そ、そうみたい…ですね」
「そんなこと、ある…?」
しばらく二人で照れまくる。
やがて一生は、ふと顔を上げた。
「ね、俺の願い事も叶うんだよね?」
「そ、そう言いましたね、私ったら」
「じゃあお願いしよう。瑠璃さん」
「は、はい」
「ずっと一緒にいてください」
真剣な眼差しで見つめる一生に、瑠璃は言葉を失う。
「返事は?」
「…はい」
恥ずかしそうにようやく頷いた瑠璃に、一生はとびきりの笑顔になった。
「これでお互い、願いが叶ったね」
瑠璃は、顔を真っ赤にしたままうつむいている。
一生は、優しく「瑠璃」と呼びかけた。
「これからもずっとそばにいる。ずっと君を守っていく。そして必ず幸せにする。だから」
おずおずと顔を上げた瑠璃の瞳をとらえて、一生は真っ直ぐ瑠璃を見つめた。
「結婚してください」
瑠璃はポロポロと目から涙を溢れさせる。
「返事は?」
優しく顔をのぞき込む一生に、瑠璃は頷いて答えた。
「はい」
一生は、ホッとしたように微笑むと、瑠璃の涙をそっと拭う。
その手でそのまま瑠璃の頬を優しく包むと、愛おしそうに瑠璃にキスをした。
幸せで胸がしびれる。
やがて顔を離すと、まだ顔が真っ赤な瑠璃に笑いかけ、自分の胸に抱きしめた。
「ずっとずっと一緒にいよう」
腕の中で、瑠璃が確かに頷いた。
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