海賊ダンの恋

Rachel

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16. ペラムの港町

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 夕食後。
 シルヴィアが全ての食器を洗い終え、空に星がちらちらと瞬き始めたとき、見張り台を担当している男の声が甲板に響いた。

「陸だぞーっ! 11時の方向!」

 その声に乗組員たちはダダダと左舷に駆け寄った。いよいよだ。

「おー灯りだ!」

「ついたついた」

「浴びるほど酒飲むぜえ!」

「俺は娼館!」

「俺も!」

「俺も!」

「俺も!」

 調理場まで聞こえてくる乗組員たちのはしゃいだ声に、シルヴィアはくすりと笑った。
 彼らは長いこと港に入っていないと言っていたから喜びもひとしおだろう。
 着港に関しても問題なさそうだ。港が混み合っている様子はないし、軍艦もない。桟橋で少し税を納める程度だとピーターが言っていた。

 わあわあと騒ぐ甲板で、一際「野郎ども、聞きやがれっ!」と大きな怒鳴り声が響いた。クレイヴン船長の声だ。
 シルヴィアは調理場から出てそちらを見た。甲板に備えられたランタンの灯りは少なかったが、クレイヴンが真ん中の大きな樽の上に仁王立ちしているのは見えた。
 乗組員たちが彼を見上げると、クレイヴンは言った。

「あと半刻でこのバートラム号は港に着く。それにともなってこれからお前らに給料を渡す」

 “給料”という言葉に乗組員たちはわいわいぎゃあぎゃあと嬉しそうな歓声を上げた。そして「俺まずは一張羅買わねえと!」「それで娼館に行くんだろ」「そしたらいい女が寄ってくるかも」「馬鹿、一張羅買ったらすかびんで女なんか買えねえよ」など好き勝手に話し始めたので再びクレイヴンが怒鳴った。

「うるっせえ、最後まで聞きやがれっ!」

 また乗組員たちはスンと静かになる。

「いいか、それぞれ役割がある奴がいるな? 水樽、酒樽に関してはデニス、ジェイク、ポール、デレクに頼んでる。食糧に関してはピーター、シルヴィア、ギレムだ。俺はこの船の見張りを引き受ける。船体の直しは今回は特にやらんつもりだ。それ以外は役割の奴らに十分感謝して、好きなところで好きなように過ごしていいこととする。だが掟は守れ、はめは外し過ぎるなよ。出発は明後日の正午、いいか、水曜の正午だ。遅れたやつは置いてくからな」

「「アイアイ、船長!」」

 乗組員たちは聞き分けよく揃って返事をした。そしてそのあとはピーターが列を作らせて給料を配り始めた。きちんと並ぶようにネヴィルが監督し、金がよく見えるようにあちこちにランタンに灯りを入れてくれている。

 シルヴィアは、列を作っている海賊たちの中にダンの姿はないかと探したが見当たらなかった。まだ寝ているのだろうか。
 シルヴィアは気にしてもしかたないわと諦めて調理場に戻った。
 さて、新しい食材を買ったときに保管しておく場所を確保しておかなければならない。かごや木箱、石鹸の入れ物など、シルヴィアは物をいれやすいように調理場の整頓を始めた。しばらく調理場を整理していると、貯蔵庫や使い終えた瓶などに汚れがあることに気づいた。新しい物を入れる前に水洗いした方がいいわね。まだ洗い物用の水は桶に溜まっているが、もう少しあった方がいいだろう。そう思ったシルヴィアは、桶を手に取って調理場を出た。


 ****


 クレイヴン船長は乗組員たちへの話を終えると、船長室へ向かった。
 扉を開け、まっすぐ奥の寝室の方に向かう。そして青年がまだシーツにくるまって寝息を立てているのを見ると小さく笑った。
 もう起こしてやらねえとな。クレイヴンは彼を揺さぶって声をかけた。

「ダン、おいダン。そろそろ起きろ、おい」

「……ん」

「ダン、起きろって。もうすぐペラムに着くぞ」

「んー……ん?」

 ダンはもぞもぞとベッドの中で身体を動かした。

「んあ、あれ……俺、寝たの」

「ああぐーすかぐーすか朝飯のあとから日が沈むまで1日しっかり寝てたぜ。もう星も出てる」

「え、そんな、にか……」

 ダンはむくりと起き上がって窓に目をやると、辺りが暗いことにダンは驚いた。どうやらクレイヴンにからかわれているわけではないらしい。

「すっげえ寝たな……めっちゃくちゃすっきりしたぜ」

 ダンは幸せそうにうーんと伸びをした。クレイヴンはその様子に軽く笑ってから言った。

「ったく、入港前のくそ忙しいときに丸1日休むたあいい度胸してやがる」

「わりわり、これからずっとこき使ってくれていいからさ。もうみんな給料もらったのか?」

「今ピーターが甲板で渡してる。それよりも」

 クレイヴンはベッド傍に置かれた茶器を指して真面目な声で言った。

「まずはその茶の礼をシルヴィアに伝えろ。シルヴィアのやつ、お前のことずっと心配してたんだぞ。お前が寝たって聞いたらすごい嬉しそうだったって、ピーターからも報告があった」

「へえ……ピーターから」

低い声で目を細めたダンに、クレイヴンは「おいおい」と言った。

「代わり頼んだのはお前だろうが。んな嫉妬全開の顔すんじゃねえ。とにかく、シルヴィアとは距離が近くなきゃ平気なんだろう。礼だけ言って、あとはさっさと娼館行っちまえ」

「わ、わかってあ……ジェフ、おめえは? どっか行くのか?」

「俺は船に残る。財宝も積んでるし姫さん残しとくわけにもいかんからな。それと、いいか? 明日は朝から1日この船長室にゃ入れんことになってるからな。戻ってくんじゃねえぞ」

「え、なんで?」

「なんでもだ。今のお前には言わねえでおく。早く調理場行ってこい。ぐずぐずしてると港に着いちまうぞ」

 クレイヴン船長に追い立てられて、ダンは茶器を手に船長室を飛び出した。


 ダンは、自分が彼女に面と向かって礼を言うことができるとは到底思えなかった。
 茶器を渡して、うまかったありがとうと言って引き返す。簡単なことだ。だが彼女が笑みを浮かべたら? 大丈夫なのと言って駆け寄ってきたら? そうなれば確実にアウトだ。

 ダンが迷いながら甲板を歩いていたとき、反対の右舷側で上甲板の方に歩いているシルヴィアの姿が目に飛び込んできた。
 桶を持っている。ということは、きっと水汲みをするのだろう。風はすでに穏やかで、船の速度も落ちているから彼女でも桶を引き上げられるはずだ。

 そうだ、今のうちにカップを置いとこう。
 ダンは慌てて調理場に駆け込んだ。持ってきた茶器を洗い場に置く。そしてすぐに調理場を出ようとして、ダンは足を止めた。
 このまま洗わねえで行くのか? シルヴィアに礼言うんならちゃんと洗った方がいいんじゃねえか。
 そう思ったダンは破れないように気をつけながらも茶器を急いで洗った。布巾で拭き終えると、調理台にきれいに並べて再びその場を出る。そして柱の陰に隠れて彼女が戻ってくるまで待った。
 そのうちに、シルヴィアが桶を持って戻ってきた。どうやら水汲みもうまくできたらしい。


 シルヴィアは調理場に入ると「ふう」と息を吐いて桶を置いた。と、そのとき調理台に茶器が置いてあることに気がついて「あら、これ……」と声をあげる。

「シルヴィア」

 ふいに名前を呼ばれ、彼女ははっと顔を上げて入り口の方を向いた。

「ダン? あなたなの?」

「……ああ、俺だ。調理場の外にいる。だが悪りい、このままで勘弁してくれるか……その、礼だけ言いにきたんだ」

 そう言われたシルヴィアは調理場の入り口に近づこうとしていた足を止めた。

「……忙しいのに、わざわざそれだけのために来てくれたなんて、律儀ね」

「え、いやその、だってジェフが言えって……あ、いや、俺が言いたかったからだ、うん。おめえの茶のおかげでほんとによく眠れた。正直ずっとしんどかったから助かった」

 シルヴィアは微笑みを浮かべた。

「お役に立ててよかった。姫様にもお礼をお伝えしなきゃね、あのお茶は姫様のものだもの」

「そっか、そんなら俺からも言わねえわけにはいかねえな……結局、このあとピーターと買い物すんのか?」

「ええ、だいたい欲しい物はリストにあげたわ。でも今夜はどんな市場が出てるか、先にピーターが下調べしてくれることになったの。ピーターが言っていたけど、夜と昼では売られている物がちがうんでしょう? 夜は物騒だから、必要な物を短い時間でさっと買うつもりなのよ」

 確かに夜ならほんとうに買いたい物だけを買うのがベストだ。余計な物まで買わされる可能性だってある。けど二人じゃ危険だよな。

「護衛はギレムか?」

「ええ、荷物持ちと護衛をしてくれるんですって。ギレムさんとピーターにはいろいろとお世話になりっぱなしで申し訳ないわ」

 ダンはふっと笑った。

「ピーターはもともと世話好きだし、ギレムは嫌なときゃ嫌だって言うから気にすんな。おめえがやってることは船の生活で大事なことなんだからよ。それがわかってっから、あいつらだって協力してんだぜ」

「……そう、そうよね。ふふっ!」

 シルヴィアが嬉しそうに小さく笑う声が聞こえた。

「よかったわ、またあなたと話せて。あなたの声を聞くと安心するわ」

 なんだよそれ。
 ダンは少し顔が熱くなるのを感じながら咳払いをして言った。

「……褒めてももうレリーフは彫らねえぞ」

「あっそうそう、それなんだけど、ごめんなさい、姫様とマギーに見せてしまったの。二人ともあなたの器用さにとっても驚いていたわ。姫様も華やかで素敵ねとおっしゃっていたのよ」

「え?」

 嘘だろ、あれを!? そんなの恥ずかしすぎるじゃねえか!

「……姫さんとマギーさんに顔合わせらんねえじゃねえか」

 ダンが小さい声で言ったのに、シルヴィアが申し訳なさそうに言った。

「私だって見せるつもりはなかったわ。でも枕のポケットに入れていたら、マギーが見つけてしまって」

 枕のポケットに入れてただと? 勘弁してくれ、まったくいちいちかわいいことしやがる。

「でもね、二人ともあなたを悪くは言っていなかったと思うわ。むしろ褒めてたわ」

「そりゃ、シルヴィアが俺のこと良いように話してくれてるからだろ。話が肥大化してねえといいけどな」

「そんなことないわ、ほんとうのことを話してるだけだもの……ねえ、ダン」

 ダンは肩をこわばらせた。
 だめだ、顔も見てねえのに名前を呼ばれただけで心臓が暴れるようになっちまった。動悸もする。くそ、もう潮時かよ。

「私がこの船が海賊船に襲われた時、剣を交えたのがあなたでほんとうによかったと思ってるのよ、私、あなたに謝らなきゃいけないって……」

「シルヴィア、悪りい」

 シルヴィアが一生懸命言葉を紡ぐのをダンは聞いていられず、申し訳なさそうな声で遮った。

「俺……もう行かねえと。たぶんすぐにまた、ちゃんと話せるようになるからよ。そしたら声かけるから。悪りいな」

 シルヴィアは少し黙っていたが「……わかったわ」と聞き分けよく頷いた。

「早くあなたの元気な顔を見せてね」

 シルヴィアの言葉に、ダンは目を細めて「ああ」と頷いた。
 船下りる前に髭剃っとくか。身を翻したダンは頬を触りながらそう思った。いつでも彼女に会えるようにしておきたかった。


 ***


 バートラム号は、ペラムの港にその日の夜7時頃に到着した。錨が下ろされ、ロープが港の波止場に結ばれる。渡板が置かれると、乗組員たちはドタドタと楽しそうに陸に下りていった。

 シルヴィアは、港町を歩くために、ズボンを履き帽子も用意していた。女性だと分かる姿では危ないからだ。サイズが大きかったズボンも器用なマギーがいつのまにか手直してくれていたので、シルヴィアにぴったりだった。

「それで、下調べを終えたらピーターは戻ってくるの?」

 カドーシャ嬢が尋ねたのに、シルヴィアは「はい」と頷いた。

「彼の話だと、スパイスや干し肉はおそらく夜の方が良い物が安く売っているんだそうです。野菜や果物などは出港する水曜の朝に市場で買うと言っていました」

「ふうん、そういうものなのね。よくわからないけど、少なくとも港に降りてすぐに滅多刺しにされることはなさそうね」

 カドーシャ嬢が頷いたのに、マギーが「ペラムにはペラムの法則というのがあるんですよ、きっと」と言った。

「スパイスなんかは私たちの故郷ではどこにだってありますが、ペラムの港ではたぶん手に入りにくいんですよ。安いのは夜の闇市のみということです」

「ふんマギー、それが密貿易というやつね」

「そうです、おかみに見つかったらまずいですよ」

 二人が意味ありげな顔をして話しているのをシルヴィアは生温かい目で見守った。

「ところで、シルヴィアの愛しい人は? 一緒に買い物をしないのかしら」

 カドーシャ嬢に言われて、シルヴィアは顔を赤くして顔をしかめた。

「どの人物か特定できませんのでお答えいたしかねます」

「何言ってるのよ。ちゃんと“ダン”って名前を言えばわかるのかしら」

 カドーシャが口の端を上げてにやりと笑みを浮かべた。マギーは「姫様のその顔、いかにも意地悪な悪役でしっかりはまってますね」とぼそりと言ったので、カドーシャはキッと彼女を睨んだ。

「ダンは」

 シルヴィアは窓辺に視線をやった。

「わかりません。港に着いたら用事があると……そう言っていました。それを済ませたらまたいつものように会えると」

 カドーシャは眉を寄せた。

「どういうこと? あなたたち、今は会えないの?」

 シルヴィアは肩をすくめた。

「少し前から彼は様子が変だったんです。昨日の夜から急に会えなくなりました。病気なのか、何か大変なことがあるのか、不眠に悩んでいるようでした。それで姫様のお茶をいただいたんです」

 カドーシャ嬢は目を細めた。

「不眠……ふうん、検討はつく気がするけど、まあいずれわかることだわ……でも、シルヴィア。あなたは大丈夫? 乗組員たちはみんな娼館に行くと息巻いていたんでしょう? その、ダンも同じだと思うわ。買い物をしているときに彼が娼婦と歩いているのを見てあなたがショックを受けたらと思うと……」

 シルヴィアは「私がショックを、ですか?」と笑った。

「ふふ、どうでしょうね。でもダンはともかく、乗組員の皆さんには娼館に行っていただいた方が安心ではありませんか。もしも誰かが姫様に触れでもしたら、私は正気を失ってしまいます」

「そうですね、娼館とはそういうためにあるものですから」

 マギーはうんうんと頷く。

「でもこんなに艶麗な姫様を前に、あの海賊船長もよく手を出さなかったと思いますよ。きっと姫様が船を降りて港を歩いたら口笛が鳴りっぱなしですから」

「マギー、あんまり嬉しくない褒め方はやめてちょうだい」

 カドーシャは仏頂面をして言った。

「私はあの男とは馬が合わないのよ。互いに張り合ってしまうんだわ。あの人は私みたいな貴族の高飛車な女は嫌いでしょうし、私は私を嫌いな人はみんな嫌いだもの」

「姫様……これからストマン帝国の皇妃を目指すという方がそんなことでよろしいとお思いですか」

 シルヴィアが残念そうな顔を向けたのに、カドーシャはツンと上を向いた。

「わかってるわよ。やろうと思えばできるの。王侯貴族の娘としてとるべき行動は、豆つぶみたいに小さな頃から延々と聞かされてきましたからね。カッとなったり冷静でいられなくならないように、礼儀正しく令嬢然としていることはできるわ」

 マギーはわけ知り顔で頷いた。

「あー、だから海賊船長と話すときはあんなご令嬢みたいな態度だったんですね。ボロがでると困るから」

「……“ご令嬢みたいな”って、マギー、姫様は正真正銘名家マル家のご令嬢よ」

 シルヴィアの指摘に加えて、カドーシャも咳払いをして言った。

「それにボロが出るって何よ、あなた相変わらず私に失礼よね」

 そのとき、コンコンと扉を叩く音がした。この控え目な音。
 シルヴィアが扉に近づいて「どなた?」と聞く。

「失礼。ピーターだ、シルヴィア。下調べしてきたところだよ。準備はできているかい?」

「ええ、ばっちりよ」

 シルヴィアは答えてから、鞄を肩にかけ、カドーシャ嬢とマギーに「では行ってまいります」と言った。

「早く帰ってくるのよ」

「くれぐれもお気をつけください」

「お金が足りなかったら言ってちょうだいね」

 こうしてシルヴィアは船室を出て、ピーターとギレムとともに船を下り、夜の港町に繰り出した。



 久しぶりの地面に足をつけ、シルヴィアはなんだか変な感じがした。揺れていないのに自分の身体が揺れそうになるわ。船上での生活に慣れていたのだということに気づき、シルヴィアは心の中で笑った。

 夜だというのにもかかわらず、ペラムの港町はランタンや街灯があちこちに吊るされており、とても明るかった。波止場から通りを抜けると、酒場がずらりと並んでいる広場があった。まだ夜になったばかりなので酔っぱらいは少ないが、あちこちからやかましく騒ぐ人々の声が聞こえる。
 広場を見渡しながらピーターが言った。

「昼間はこの真ん中にたくさん野菜と果物が並んでるんだ。オレンジもタマネギもあるはず。それから砂糖もここがいいかな。出航直前の水曜の朝市がいいと思ってるからよろしく」

 シルヴィアが「砂糖も買えるのね、よかった」と頷くと、ピーターは続けた。

「それで、今日買うのはスパイスとかハーブ、あと干し肉だからね。ほら、あそこの隅にいくつかハーブの屋台があるだろう。いいやつがあるかちょっと見てくれないかい。向こう側にもあったけど、あっちの方はいかがわしかったから避けた方がいいと思ってさ」

「いいわ、スパイスとハーブね、行きましょう」

 並んでずんずん歩く二人の後ろを、ギレムがのそのそついていった。

 ずらりと並ぶ屋台にはあらゆる種類の物が売っていた。乾燥させたハーブがたくさん吊るされてある店や干し肉の店だけでなく、毛皮や帽子、宝石、高級織物などが売られている。
 姫様とマギーが“密貿易”と言っていた会話が頭によぎる。なるほど、おそらくそうなのだろう。宝石など売り方が雑で、正規に仕入れたものとは思えない。

 ピーターはハーブ店の店主にスパイスがどれくらいあるかなどと聞くと、店主はシルヴィアの知らない言葉であれこれ説明し始めた。
 シルヴィアは店内の傍に置いてあるたくさんのハーブの束ーーとりわけシナモンに目を細めた。質も悪くなく、きれいに見えるが、スンと鼻を効かせてみるとわずかにしか匂わない。香りが飛んでしまっているんだわ。長時間潮風にさらされていれば仕方のないことだ。吊るされているハーブのうち、ローズマリーは摘みたてのようだが、香りの薄いハーブで剥き出しになって売られているものは買わない方がいいわね。

「瓶や袋に入れられているものはないのかしら」

 シルヴィアが手振りをつけながら尋ねると、店主は奥の木箱からガチャガチャと取り出して見せてくれた。
 ハーブの入った細い瓶がいくつか差し出され、シルヴィアはその一つを手に取ってみた。コルクを抜いて香りを確かめてみると、やはりしっかり匂いが残っている。これがいいわ。
 価格が気になったが、店内に剥き出しに吊るされている物に瓶代が加わった程度で、そんなには変わらない。
 シルヴィアはピーターに言った。

「この瓶、全部もらいましょう。あと、あそこのローズマリーの束を。それ以外はいらないわ」

 ピーターは「え、そ、そう?」と一瞬驚いたような顔をシルヴィアに向けたがすぐに笑みを浮かべると、「アイアイ、マダム」と言った。そして店主には例の金の粒をいくつか渡す。
 店主は目を見張ったが、その輝きと重量に満足したようで、手提げの袋までつけてくれた。


「よかったわ、ほんとうにあの金の粒で買えるのね」

「ここは物々交換もできる市場だからね。たぶん金貨に替えたらそれ一枚で済むんだろうけど。まあご令嬢の持ち物を勝手に換金するわけにもいかないしね」

「ふふ、お気遣い感謝いたします。次は干し肉よ」

 少し先に並んでいる店に行こうとしたとき、ギレムがピーターとシルヴィアの前にズザッと立ち塞がった。

「どうした、ギレム」

 ピーターが聞くと、ギレムは言った。

「……あそこよりもっと質が良いでかくて安い干し肉が売られてるとこを知ってる」

「まあほんとう?」

「こっちだ」

 そう言ってギレムがのそのそ歩き出したので、シルヴィアとピーターは顔を見合わせてついていった。

 ギレムが案内してくれた店は屋台ではなく、町の住宅地と並ぶ小さな店だった。
 もうすぐ店じまいをしようとしているところだったが、ギレムの姿を見ると、店主が「おんや」と声をあげた。

「あんたあ、久しぶりだなあ! 買いに来たのかい?」

「……干し肉はあるか。なるべくでかいのが欲しい」

「あるある、奥にあるやつ全部持ってくるから選んでくれ、待ってな」


 店主の男が店内の棚にズラズラと並べてくれるのを見て、シルヴィアは目を見張った。
 こんなに大きなお肉、初めて見たわ。港に近くて船乗りが多いからかしら。それに香りも良い。
 しかしこれだけあれば航海が長引いても心配なさそうだ。

 シルヴィアは値段と種類、また味付けを聞きながら品を選んでいった。
 ピーターが再びあの金の粒で会計をしている横で、ギレムは売れ残っていた串焼きの肉を何本か買って食べていた。シルヴィアにも一本くれたので礼を言って食べてみる。

「まあ、おいしい!」

 脂がのって肉汁と胡椒がちょうどいいうまさを引き出していた。
 会計を済ませたピーターも、ギレムからもらって「どれどれ」と口に入れると目を丸くさせた。

「めちゃくちゃおいしいな! ギレム、君、いいとこ知ってるねえ」

「……前にここで2週間滞在したことがあっただろう。そのときに見つけた」

「あー船底修理しなきゃならなかったときだね……って、それならそのとき教えてよ」

 ギレムは無表情のまま答えた。

「お前も誘ったけど疲れて動けないって断られた」

「え? そうだったっけ……あーそうだった、あのときはまだ新人扱いされててバラスト運びばっかりやらされてたんだったなあ」


 シルヴィアは二人の会話を興味深々で聞いていた。ピーターが新人だった頃のことを、ギレムは知ってるんだわ。彼も海賊になって長いのかしら。

「ギレムさんは……長いことクレイヴン船長と一緒にいるの?」

 シルヴィアの問いに、ギレムは一瞬考え込むように目を細めてから言った。

「十年以上はいる」

「「十年?」」

 シルヴィアとピーターは同時に声を上げた。

「そんなに長く?」

 ギレムはなんてことのないように肩をすくめた。

「船に乗ってるとあっという間だ。長いとは感じてない」

 シルヴィアは目の前に立つ筋肉質で長身な男をまじまじと見つめた。十年も甲板作業をしていればこういう身体になるのかもしれない。彼の締まった太い腕を見てから、シルヴィアは自分の頼りない腕を見下ろした。

「そんなに長く海賊やってて、よく海軍に捕まらないねえ。結構厳しい時期があったでしょ、ほら、5、6年前に海賊討伐隊が出回ったときとか」

 不穏なことを問いかけるピーターにシルヴィアは肝を冷やしたが、ギレムは無表情のまま答えた。

「あのときは私掠船のふりしてた。ジェフはそういうことに用心深いし、運もいい。いざってときも慌てないし見栄もはらないし、確実に助かる道を見つけられる。だから俺はずっと一緒にいるし、乗組員もいつも尽きない」

 ギレムの語るクレイヴン船長は決して嘘ではなく、確かにシルヴィアの知るクレイヴン船長で、言葉にして聞くとカリスマ性のある人だわと心の内で感心した。
 きっと姫様が聞いたら顔を歪めて「誰の話よ?」と言うに違いないわね。

 肉店を後にした三人は、本日の買い物を終えたのでさっさと帰路に着いていた。
 思いのほか大きかった干し肉は、ギレムがしっかり抱えてくれている。今のところトラブルにも巻き込まれていない。居酒屋の並ぶ通りの方からは先ほどより騒がしくなった声が聞こえるが、ピーターはそういう道を避けてくれているようだった。

 波止場まで来たちょうどそのとき、「おおーい」という呼び声がして、三人は振り向いた。

「あれ……チャーリー?」

 ピーターが呟いた通り、繁華街の通りの方から走ってくるのはバートラム号の乗組員で、シルヴィアも見たことのある顔の男だった。背格好は中肉中背で猫背のダンと似ているのだが、ダンがくせのある赤毛である一方で、この青年は短く切り揃えた金髪であった。
 チャーリーは三人に追いつくと、はあはあと息を切らしながら「ああよかった、お前らに会えて!」言った。

「何かあったの、チャーリー?」

 ピーターが尋ねると、チャーリーはこくこくと頷いた。

「俺、ネヴィルと一緒に酒場で飲んでたんだけどよ、ネヴィルが喧嘩おっぱじめやがって、相手が複数だったもんだから部が悪くてよ、結局椅子でやられちまって……野郎、床でのびちまってるんだ。店主がどうにかしてくれって言ってきたんだけど、連れは俺しかいねえし、俺があのネヴィルを一人で運べるわけねえだろ? ほかの連中はみんな娼館行っちまったしどうしようって思って、ここまで助けを呼びに来たんだ」

「まあ大変だわ」

 シルヴィアが驚きの声を漏らしたが、ピーターは顔を歪めた。

「まったく、はめを外し過ぎるなよって船長に言われたばっかりなのに、陸に上がったとたんこれだ……しかたない、ギレム。俺がその肉持つから、君が行ってやってよ」

 ギレムは眉を寄せた。

「だが、護衛は……」

「もう波止場まで来たから大丈夫だと思う。少し歩いたら船も見えてくるよ。それよりもネヴィルの方が心配だな。明日の朝機嫌が悪くなきゃいいけど」

 そういう心配なのねとシルヴィアは心中で思ったが、迷っているギレムに「行ってあげて」と微笑んだ。

 ギレムは「距離は短いだろうが気をつけろ」と言ってら干し肉を束ねた包みをピーターに渡すと、チャーリーとともに繁華街の方へと消えていった。

「よし、じゃ俺たちも行きますか……うう、案外重いな、干し肉って」

 そう言いながらピーターは先ほどより歩みを早め、シルヴィアもそれについていった。

 波止場はランタンが吊るされて明るかったが、あまり人気がなく、シルヴィアには虫や鳥の鳴き声が妙に大きく聞こえた。
 波止場にはいろいろな船が並んでいた。繁華街に近いところは大きな商船が何艘か見えたが、港の正面からどんどんはずれた方に歩くにつれて、古ぼけたスループ船が多くなっているように感じた。きっと目立たないようにしている海賊船に違いない。クレイヴン船長はそれも考えてバートラム号を端に停泊させたのだろう。

 その中で、ひときわ目立つ船がふとシルヴィアの目に入った。
 その船は船体が赤黒く染められていた。他の船と比べて灯りが一つもついていない。暗闇の中、月明かりでわずかに見える帆はほとんどぼろぼろで、異様な雰囲気を漂わせている。
 幽霊船みたいだわ。シルヴィアは背筋が寒くなるのを感じながら早くその船の前を通り過ぎようと速足になった。
 しかし、そのとき突然ピーターが「うわ、まずいな」と言って立ち止まった。

「どうし……」

 シルヴィアが聞こうとしたとき、歩いた少し先に、男たち4人がこちらに立ち塞がっているのがわかった。
 知らない顔だ、それににやにやしている。買ってきた肉を狙っているのかしら。追いはぎ?
 シルヴィアは冷や汗が出るのを感じた。



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