海賊ダンの恋

Rachel

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34. 別れの杯

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 コンコン。
 シルヴィアが船倉の扉を叩くと、中からカドーシャの「どうぞ」という返事が聞こえた。
 シルヴィアは扉を開けた。

 部屋の中央のテーブルには主人が座って本を読んでいた。マギーは部屋の隅でまだ荷物の中身をごそごそと整理をしているようだったが、シルヴィアが来たことがわかると「おっ来ましたね」と言ってくるりとこちらを向いた。

 シルヴィアは「今夜のお茶とラム酒をお持ちいたしました」と言いながら、テーブルにお盆に乗ったそれらを運ぶ。マギーがささっと駆け寄ってきて、盆の上の茶器をカチャカチャと並べ始める。

 カドーシャ嬢はシルヴィアの淹れるカップの茶の香りを嗅ぎながら「ありがとう、いい匂いね」と言った。

「このラム入り紅茶も今夜が最後ということだわ……あら、ダンはついてきていないの?」

 カドーシャ嬢が扉の方を見る。いつもならば、カップやポットを運ぶのを手伝っているはずである。

「はい、ダンは上の仕事を手伝っています。お茶ですが、明日のこともありますので今夜はラム酒を少量にいたしまして、あらかじめ紅茶のポットに入れてまいりました」

「今夜は別れのために盛大な酒盛りだものね……そうね、なんだかんだ無事に目的地に辿り着けたことに彼らに感謝しないと」

 カドーシャがそう言うと、背後からマギーが首だけこちらに向けて「えっ?」と声を上げた。

「姫様……あの、今からでもシルヴィアさんと上に行かれますか? 私は遠慮しますが」

「え? まさか、行かないわよ! 酒に酔った獣たちなんて視界に入れるのも嫌だわ」

 カドーシャはそう言ったが、シルヴィアに嗜めるような視線を受けて、ばつが悪くなったのか「でも、もしかしたら明日出発するときに彼らに挨拶くらいはするかもしれないわ」と言った。

「なんだ、そうですか」

 マギーはそう言ってから自分のカップを手にして嬉しそうにすんすんと匂いを嗅ぐ。

「うーん、この香りも今日で最後ですね。鼻の奥に残しておこう」

 マギーが言うことにはまったくかまわず、カドーシャは“別れの杯”に参加する侍女の方を向いた。

「シルヴィア。わかっていると思うけど、くれぐれも気をつけるのよ。掟があろうと男は酒が入ると最低最悪の下劣なくそ野郎になるのだから」

「姫様……乱暴なお言葉も今日で最後にしてくださいね」

 シルヴィアが言うと、カドーシャ嬢は悪びれるふうもなくツンとした顔でカップを手に取った。

「あら、間違いとは思っていなくてよ。いい? もしも何かあったら私の名前を出しなさい。それから……ダン以外の男には警戒しなさい。長居はあまりしないこと」

「姫様、いつも通りにこちらに帰ってまいりますからご安心ください」

「そう? まああなたなら大丈夫ね、私は先に寝させてもらうけど……何かあったら遠慮なく起こしなさい」

 心配そうに言う主人に、シルヴィアは微笑んで胸に手を当てて頭を下げた。

「お心遣い感謝いたします」

 姫様はほんとうに素晴らしい主人だわ。やはり仕えるべきお方だとシルヴィアは思いながら「おやすみなさいませ」と挨拶をして船倉をあとにする。
 そうしてシルヴィアは、甲板に続く階段をトントンと上がった。



 甲板は酒の日と同様普段よりも明るく、灯りのついたランタンがあちこちにぶら下げられていた。
 酒はすでに配膳が済んだようで、皆がマグを片手にざわざわしながら船長室の前でずらっと樽や木箱の上に座っていた。彼らの方に行こうとしたとき、すっとダンが現れた。

「待ってたぜシルヴィア! ほら、おめえのだ」

 ダンが差し出したのはラム酒と紅茶の入った木のマグだ。調理台に用意しておいたものを持ってきてくれたのだろう。
 シルヴィアは微笑んで「ありがとう」と言って受け取った。

「俺たちはあっちに座ろうぜ。右舷側にジョシュ、その奥にデレクがいるからな。そいから一応ネヴィルからも距離取ったとこにしてある」

 歩きながらダンがそう言ったのにシルヴィアはふっと笑って「わかったわ」と言った。
 ダンのあとに続いて歩くシルヴィアは、甲板にいる乗組員たちがベラベラと話しながらもまだカップに口をつけていないことに気がついた。

「まだみんなも飲み始めていないのね」

「そりゃあ一応別れの杯だからな、おめえが来てからじゃねえと。まずはジェフがちょこっと喋ってから乾杯ってことになってんだ」

 ダンが立ち止まったところには二つ並んだ木箱があった。どうやらそれも用意しておいてくれたらしい。そのうちの一つにシルヴィアが座ると、ダンもとなりに腰かけた。すぐ近くの樽にはレイモンドが座っていて、「よっ」とシルヴィアに挨拶するように片手を上げてくれた。
 彼の横にはチャーリーが立っていて、こちらを見ると「おー、やっとご登場か」と声をかけてきた。

「あんたの料理が食えなくなんのは残念だなあ、俺いっつも楽しみにしてたんだぜ。明日っからまたまずい飯に戻んのかあ」

 チャーリーが言うと、レイモンドが「しかたねえだろ」と眉をしかめた。

「文句あんならお前がまともな飯作れるようになりやがれ」

「無理言うなよ、調理場なんかおっかなくて入れやしねえって。火使うんだよな? 火事起こして船長にどやされるのがオチだ。おっかないぜー、俺は絶対無理だな」

 レイモンドが「自信満々に言うんじゃねえ」と眉をしかめた。

「火使わねえ料理だってあるだろ。というか火事起こすのはお前だけだ。ほかはちゃあんと用心してる」

 レイモンドとチャーリーの会話に、ダンがシルヴィアに解説を入れた。

「チャーリーの奴、前にほんとにぼや騒ぎ起こしたんだ。ジェフは気にしてねえが、ピーターが警戒して、一時期俺に四六時中チャーリーを見張ってくれってうるさかったんだぜ。もしかして反乱企ててんじゃねえかってな。はた迷惑もいいとこだ」

 ダンがシルヴィアにそう言ったのを聞いて、チャーリーはばつが悪そうな表情を浮かべた。

「あ、あれは悪かったって……! うっかりしててランタン持ったまま寝ちまったんだよ」

「飲み過ぎたからってランタン抱きしめて寝るやつがあるかよ」


 そんな会話をしているうちに、船長が姿を現した。ジェフリー・クレイヴンは酒の入ったマグを持ったまま大樽の上にがばっと乗り上げ、その上に仁王立ちした。

「ようし、てめえら聞きやがれっ!」

 クレイヴンはがなり声を出して乗組員たちを黙らせた。

「まずはだ……乾杯する前に、今夜の舵取りを引き受けてくれたピーターに礼を言おうじゃねえか!」

 クレイヴンがそう言うと、乗組員たちは一斉に後甲板の舵輪のある方を見た。舵輪を握るピーターに、「ありがとよ、ピーター!」「さすが航海士」「空気読んでくれるぜ」「頼んだぞ」などと口々に声がかけられる。ピーターは舵輪の後ろから小さく笑って手を振った。
 クレイヴンは「それから」と続けた。

「見張りをやってくれんのはギレムだ!」

 クレイヴンが指したマストの上を見上げると、確かに大きな身体の男が檣楼にいるのがわかった。彼がこちらを見下ろしたのがわかると、乗組員たちは歓声をあげてギレムの名前を呼んだ。「ありがとなー!」「お前が下戸で助かった!」「愛してるぜ!」「お前は酒より夜風が似合う!」とひと通り彼へのメッセージが叫ばれる。
 そしてクレイヴンは「ってなわけで」と乗組員たちの方に向き直った。

「俺は演説は得意じゃねえ。細けえこたなしにして、明日下船するシルヴィアに乾杯だ。短え間だったがよく動いてくれた……俺たちの仲間の健康に!」

 クレイヴンがそう言ってシルヴィアに向かってマグを掲げると、乗組員たちも「健康に!」と声を上げる。
 シルヴィアは眉尻を下げて少し照れたように首をすくめていたが、「ありがとう、皆さん……皆さんの健康に!」と返した。
 そうして皆が一斉に杯を傾けた。
 シルヴィアも同じようにマグに口をつける。
 ひと口飲んでから周りを見ると、ダンやほかの乗組員はしばらく杯を傾けたままだった。

「かーっ! うめえっ!」

 少ししてから隣のダンがそう言って杯をおろした。ひと口で杯を空にしてしまったらしい。そしてそれはほかの乗組員も同じようであった。
 酒を飲み干すと、彼らはすぐに二杯目の酒を注ぎにいき、それぞれぎゃあぎゃあと騒ぐように話し始めた。
 ダンも同じようにマグに新たに酒を入れてもらうとすぐにシルヴィアの座る木箱まで戻ってきた。
 そしてシルヴィアの隣に座り、にかっと笑って再びマグに口をつけて半分くらいまでごくごく飲んだ。

「ちょっとダン、そんな飲み方をして大丈夫なの?」

 シルヴィアは目を丸くさせたが、ダンは「平気平気」と手をひらひらさせて言った。

「ジェフの野郎から特別に今夜は何杯でも飲んでいいって言われてんだ。こんなこたあめったにねえからな、飲めるだけ飲むつもりだ! へへっ!」

 陽気に笑って言うダンに、シルヴィアは眉尻を下げると、彼のマグを取り上げた。そして彼の顔をまっすぐに見て言った。

「あまり無茶な飲み方はしないで。明日はちゃんとお別れを言いたいの。あなたが明日起きれなくて、会えないままで船を降りるのは嫌だわ。あなたがお酒に強いのは知ってるけど、やっぱり心配なの」

 シルヴィアが真剣な目をして言ったのに、ダンは彼女を見つめていた。

「ダン、聞いてるの?」

 シルヴィアに言われてダンは慌てて「わわ、わ、わかってらい」と返事をした。

「……そ、その、さ、シルヴィア」

 ダンが遠慮がちに言った。

「明日の上陸んときだけどよ、もしもよ、その、もしも時間あったら、ちょっとだけ二人で話したり……」

 ダンがそう言いかけたとき、シルヴィアのすぐ近くにいた乗組員たちが飲みながら「うおおい!」と大声を上げた。

「誰か歌えっ! 別れの杯だろ、うまいやつがいい!」

「ネヴィルの野郎はどうした?」

「そうだ!」

「頼むぜ、ネヴィル!」

 乗組員たちからそう言われ、スキンヘッドの甲板長はわかったというように片手を挙げて頷いた。そして大樽に座り込むと片手に酒を持ち、もう片方の手をすぐそばにいたジェイクの肩に置いて歌い始めた。


 確かあの老人がこう言った
「降りろよジョニー、降りるんだ」
 明日お前は給料をもらう
 そう、船を降りるときなんだ


 ネヴィルがここまで歌うと、他の乗組員たちがリフレインを歌った。


 降りろよジョニー、船を降りるんだ
 さあ降りろよジョニー降りるんだ
 航海は長いし、風は吹かない
 そう、船を降りるときなんだ


 曲調は単純で、ネヴィルが歌うとそれに続いて皆がリフレインを歌った。歌詞はどことなく寂しい別れの歌だったが、歌っている乗組員たちはなんとも楽しげだ。
 隣で彼らの合唱に合わせて口ずさむダンを見て、シルヴィアは目を細めた。彼はシルヴィアに取り上げられた酒のマグを取り返そうとしない。返してくれと怒っても良さそうなのに。
 シルヴィアはダンの方にすすっと身を寄せると彼にマグを返した。肩が触れ合うほどの距離と返されたマグに、ダンは驚いた顔でシルヴィアを見つめたが、眉尻を下げて微笑むとそれを受け取った。

 “降りろよジョニー”の歌を最後まで歌い終えると、皆は歓声を上げ再び杯を煽った。
 ネヴィルはひと口瓶を煽ると、大樽からぴょんと飛び降り、今度はダンとシルヴィアの方にずんずんと歩いてきた。
 そしてダンの肩に太い肘をどさりと置くと、ダンが「うげ、重た」と言ったのにかまわず、がなり声で言った。

「ようし、今度はこいつらと乾杯の歌だ! 今回はヤジは飛ばさねえでくれよ、リフレインは全員参加で頼むぜ!」

「「うえーい」」

 乗組員たちがわめき声で応える中でネヴィルは酔いで赤くなった表情のまま歯を見せて笑った。

「シルヴィア、お前は1番を歌え。2番はダン、お前だ。3番は俺だ。シルヴィアのために歌ってやるからよおく聞けや」

 シルヴィアは目を瞬かせて「さ、最初に一人で歌うのね」と緊張した表情になったがこくりと頷いた。一方でダンは眉をぎゅんと寄せて渋い顔を浮かべた。
 ネヴィルは太い指が並ぶ手でダンの頬をパシパシと軽く叩いて言った。

「そんな顔すんじゃねえ、2番はお前に譲ってやるって言ってるだろ。いいか、こいつは甲板長命令だ、しっかり歌いやがれ!」

 ダンは「くそ、何が命令だ、まだ全然酔ってねえってのに」と小さくため息を吐いて俯く。
 それがあまりに嫌そうなので、シルヴィアは、ネヴィルの腕が乗っかっていない方のダンの肩にぴったり寄せてダンに言った。

「そんなに歌いたくないなら、誰かほかの人にお願いする?」

 すると、ダンは何とも言えない表情を浮かべた。そして困ったような表情を浮かべて「うーん、うーん」と唸ってからはあとため息を吐いた。

「……音がはずれても笑わねえでくれよ」

 どうやら引き受けてくれるらしい。シルヴィアは「もちろんよ、ダンの声だもの」と微笑むと、ダンは照れたように下を向いた。

 ネヴィルが片手を挙げると、乗組員たちが口をつぐんで彼女の方を向いた。
 シルヴィアは座ったまま大きく息を吸った。


 友よ、同胞たちよ、さあ歌に参加してくれ
 さあ大きく声を出して私と共に歌おう
 さあ大きく声を出して、悲しみは御法度だ
 二度とここで会うことがなかろうとも


 シルヴィアは歌いながら、かつて自分がダンに、“人前で歌うような安い女ではない”と言ったことを思い出していた。
 彼らの前でこうして歌う日が来るなんて。
 隣でダンが目を細めてこちらを見ていることに安心を感じ、嬉しくて笑みが浮かんだ。
 シルヴィアが数日前に教わった歌の1番を高らかに歌い上げると、乗組員たちも声を合わせてリフレインを歌ってくれた。


 皆の健康を祈って
 愛しき人にも乾杯だ
 声を出して共に歌おう
 酒を酌み交わし楽しくやろうじゃないか
 悲しみはここでは御法度だ
 二度とここで会うことがなかろうとも


 リフレインが終わると、ダンは咳払いをしてシルヴィアの隣に座りながら、そして歌の2番を歌い始めた。


 愛しい人の健康を祝って乾杯だ
 彼女の姿、美しさに勝るものは何もない
 微笑みの表情を浮かべて私の膝に座っている
 この世で私ほど幸せな者などいないだろう


 シルヴィアは、すぐ隣で歌う彼の横顔に見惚れ、そして彼の歌声に聞き入った。
 ところどころ音程がはずれているが、歌からは彼の心が伝わってくるようだ。数秒の間シルヴィアには周りの視界がぼやけ、彼だけがはっきりと目に映っているように感じた。愛を語るように歌う彼は、まるで絵を見ているように美しい。
 ダンは照れているからかこちらをちっとも見ず、むしろ反対の方に視線を注いでいるようだった。乗組員たちからはその様子を茶化す声が上がったが、ダンは歌うのをやめず、頬を赤く染めながらも全部歌った。
 ダンが歌い終えるとすぐ力強いわめくような男たちのリフレインに入ったので、シルヴィアははっと我に返った。
 そのあとにネヴィルは立ち上がって、ダンとシルヴィアの肩に手を置いて3番を歌った。


 船が港に入り、彼女の下船の準備だ
 どうか彼女が何事もなく
 無事に陸に上がれるように
 陸か海でまたあなたに会うことができたなら
 あなたの優しさを私は決して忘れはしない


 シルヴィアは胸に温かいものが流れていることを感じていた。
 ああ、ここで乗組員になれてよかった。
 かつて思いもしなかっただろうことを、シルヴィアは歌を聴きながらひしひしと感じていた。
 歌がリフレインに入ると、歌い手のネヴィルをはじめ、隣のダンも、周りの乗組員たちも皆声を合わせて歌った。
 最後まで歌い終えると、乗組員たちは歓声とともに再び杯を煽った。
 それからは乗組員たちもひとしきり騒がしい歓談に入ったようだった。


「……今更だけど、大丈夫だったのかよ」

 歌い終えてからひと口ふた口と酒を飲んでいたダンが言った。

「その、あんな風に無理やり俺たち海賊の前で歌わされて、みんなからじろじろ見られて、嫌じゃなかったのかよ」

 シルヴィアは「いいえ、ちっとも」と首を振った。

「私は歌姫じゃないし特別うまいわけではないけど、みんなが聞いてくれて、それに一緒に歌ってくれて嬉しかったわ。甲板の仕事をしているときもみんなが息を合わせられるのはこういう前提があるからだわ……仲間とはこういうものなのね」

 シルヴィアの言葉に、ダンは少し誇らしげに「まあ、そうだな」と頷いた。

「確かに息合わせんのは俺たちゃ得意中の得意だ。船乗ってる連中全員がこうってわけじゃねえけどよ、こうあるべきだって俺あ思う。ジェフの船が一番理想だなってさ……まあ無理やり歌わされんのは嫌だけど」

 最後の方は嫌そうにぼそぼそ低い声で言ったのに、シルヴィアは小さく笑った。

「前にも言ったけど私はダンの歌、好きよ。あなたの声をずっと聞いていたいもの。さっきはなんだか甘い言葉で口説かれているような気分になったわ。2番の歌詞はあんな風だったのね」

「……だから歌いたくなかったんだ、口説くときゃ二人だけのときがいいのによ、あんなに大勢見物人がいたんじゃ雰囲気もなんもねえ」

 ダンは頬を赤くさせてそう言うと、照れ隠しにぐびりと瓶を煽った。

「そんなことないわ。歌っているあなたがほんとうに素敵でどきどきしたもの。良い声だし……思わずキスしてしまいそうになったわ」

 シルヴィアの軽口に、ダンは「ごふっ!」と飲んでいた酒を吹き出した。そしてごほごほごほと咳き込む。

「ちょっと大丈夫!?」

 シルヴィアはエプロンのポケットから出したハンカチでダンの顔や服を拭いてやる。
 咳を収めたダンは小さくはあと息を吐いた。

「ありがと……だけどおめえなあ、そういうことを軽々しく言うんじゃねえ。御法度なんだからよ」

 シルヴィアは口元に手をやって「ご、ごめんなさい」と言った。

「だけどほんとうにそう思ったから……いいえ、なんでもないわ」

 彼から少し身を引き、少し控えめな態度になったシルヴィアに、ダンは頭をかいた。

「いや……その、御法度だけど、お、俺は嫌じゃねえから……」

 そう言ったダンは赤い顔を隠すように酒瓶を煽った。シルヴィアも少し恥ずかしくなって同じようにカップを傾ける。
 照れた二人は、そのまましばらく皆が騒いで楽しんでいる様子を眺めていた。

 時折誰かが歌うと、騒がしい中にもかかわらず全員がリフレインを歌った。
 相変わらずうまく調和されており、どんな歌が来ても和音が聞こえてくる。きっと歌い慣れているのだろうが、それでもシルヴィアには見事だと思えた。
 シルヴィアはふと思ったことを言った。

「こんなに音楽のセンスがあるのに、誰も楽器を持っていないのね。あればもっと盛り上がるでしょうに」

 するとダンは「あー、楽器か」と頷いた。

「前に笛とか弦楽器みてえなの持ってたやつもいたんだがよ、そういうもんは結局売り払っちまうんだ。金にしちまう方が優先順位が高えんだ、俺たちゃ演奏家の前に海賊だからさ。まあ他の船にゃちゃんと楽器持ってるやつがいるんだろうけどよ」

 シルヴィアは「売ってしまうですって?」と驚いてからくすりと笑った。

「それで歌だけなのね……なんだか単純」

「単細胞ばっかだからよ。売れそうなもんは売っちまうんだ。前なんか賭博好きのボリスが、ピーターのなんとかメーターって海上の距離測る道具をよ、勝手に港で売ろうとしてたんだぜ」

「まあ! それでどうなったの?」

「すんでのところで俺が止めたんだよ、あぶねえとこだったがな。そのあとでボリスのやつピーターから大目玉くらってさ、2週間も1人で甲板掃除やらされてた」

 シルヴィアは「当然ね」と言った。

「賭け事にお金を使うことが好きだなんて損だわ。海賊はお金持ちにはなれないわね」

 シルヴィアが言うと、ダンは「確かに金持ちの海賊ってのは聞いたことねえや」と笑い声を上げた。

「みんなが賭博好きってわけじゃねえが、ぱあっと使うのが俺たちだからな。大事に貯め込んでんのはたぶんピーターぐれえだぜ。収入があったときゃみんなすぐ何かしらに使っちまう。ボリスは賭博、ギレムとジェフは武器、チャーリーは食いもんだし、それ以外は女か酒だ。俺は大体いつも酒」

 ダンがにっと笑ってそう言うと、シルヴィアは眉尻を下げて呆れたように笑って言った。

「潔くていいわね。私はお給料をいただいたときいつも何に使うか迷ってしまうけど……ああ、でも待って。確かに考えてみたら紅茶の茶葉を買うことが多いわね。私もダンと同じで飲み物の類いを買ってしまうわ。おいしいものを飲むと幸せな気持ちになれるものね。結局私も一緒だわ」

 シルヴィアがふふっと肩をすくめて笑った。それをじっと見つめていたダンはまた酒瓶を煽った。
 ごくごくと飲み進めてから酒瓶から口を離すと、はあと息を漏らした。

「……やっぱり今夜の酒は格別にうめえや。おめえが横にいるだけで何倍もうまくなる。どんなに高え酒でも敵わねえ」

 真面目な顔で言う彼に、シルヴィアが微笑んで返事をしようとしたとき、突然後ろから「ダン、シルヴィア」と声がかけられた。
 振り返ると、船長のジェフリー・クレイヴンが少し赤ら顔で大きなマグを片手にすぐ後ろに立っていた。
 クレイヴンが言った。

「さっきは二人ともいい歌いっぷりだったぞ。姫さんにゃ怒られるかもしんねえが、シルヴィア、やっぱりお前は俺たち向きだ。もしも戻りてえってなったらいつでも歓迎してやるからな」

 シルヴィアは「ありがとう」と微笑んだが、ダンは「おい、ジェフ……」と諫めようと声を上げた。クレイヴンは「わーってるわーってる」とマグを持っていないもう片方の手を上げた。

「ただ言ってみただけだ、そう睨むんじゃねえよ……俺は別れの杯の歌を歌おうと思ってきたんだ。そんくれえいいだろう?」

 クレイヴンがそう言ったのに、ダンは口をへの字に曲げていたが「別にかまわねえよ」と小さく言った。
 クレイヴンはへへっと笑うと、シルヴィアの方を向いた。

「俺はいつも去る者追わず、だ。あばよ、シルヴィア。元気でな」

 酔っ払った様子のクレイヴンは、にっと笑いかけてから咳払いをすると大きく響く声で歌い始めた。
 がやがや騒いでいた乗組員たちもいつのまにか聞き入るように耳を傾けていた。


 持っていた金は
 気のいい仲間たちのために
 すべて使い果たしちまった
 これまでやってきた悪事
 ああそうさ、それは全部自分に返ってきた
 後先考えずにやったことなんざ
 何にも覚えちゃいない
 だから俺に別れの杯を一杯注いでくれ
 あばよ、みんなと楽しんでくれ


 クレイヴンの抑揚の効いた歌声は静かに甲板に響き、水面にまで反響しているかのようだった。
 クレイヴン船長とその歌に、シルヴィアはきゅっと鼻が詰まったような気がした。歌の内容は彼らしいが少しもの寂しく、別れを突きつけられたようにも思えた。
 自分は明日ここを去りみんなと離れる。送り出す歌なのだとシルヴィアは感じた。
 これがクレイヴン船長の別れ方なのだわ。惜しんではくれているが、引き留めはしない。
 それが船乗りの船長らしさなのか、海賊の船長らしさなのかはわからないが、シルヴィアはその姿にある種の憧れのようなーー自分の主人に抱いたようなものを感じていた。

 その後も誰かが歌ったり冗談話をしたり騒がしくヤジを飛ばしたりなど続いた。シルヴィアはダンと並んでその様子を楽しそうに見ていた。


 乾杯から一刻ほど経った頃。
 酔いつぶれた乗組員たちが寝床に戻ったり甲板のあちこちで座り込み出したりし始めた。シルヴィアはそんな様子を見ながら笑っていたが、やがて「そろそろ下に行くわね」と切り出した。

「明日は朝から姫様の準備をしなきゃ。髪もドレスもお化粧も、やることがたくさんあるの」

 シルヴィアはすっと木箱から立ち上がる。
 ダンは彼女を見上げて「え……も、もう行っちまうのかよ、もう少しいいじゃねえか」とだだをこねるように言った。

 シルヴィアはふっと微笑んで首を振った。

「だめよ、あなたも早く寝ないと明日つらいわよ」

 しかしダンは「おめえが行っちまう方がつれえんだよ」と言うと、シルヴィアの袖口をきゅっと掴んだ。酔いがまわっているようで、ふてくされたような顔をしている。

「なあ頼む、あともうちょっとだけここにいてくれよ……もう最後なんだぜ? 明日の朝飯は作らなくていいんだろ」

 ダンの寂しそうな言い方に、シルヴィアは「ダンったら」と眉尻を下げた。

「朝食を作らなくても早起きはするのよ。ほら、空のマグを貸して。私が洗っておくから」

 シルヴィアが手を差し出すと、ダンはぎゅんと眉を寄せて「嫌だい、こいつあ俺が洗う、おめえの分も俺が洗うんだい」と言った。
 少し言動が幼く思えるのはやはり酔っているからだろう。
 シルヴィアは小さく笑みを浮かべて言った。

「それじゃあ一緒に調理場に行きましょう、それならいいわね」

 ダンは眉を寄せたまま疑るような目をシルヴィアに向けた。

「……俺が洗ってる間に黙って下に降りたりしねえだろうな」

「しないわよ、下に行く前にちゃんとおやすみを言うわ。嘘じゃないわ」

 シルヴィアがそう言うと、ダンは口をむっとさせたままゆっくりと立ち上がった。そのとき少しだけふらついたので、シルヴィアはあっと声を上げそうになったが、ダンは自分で重心を立て直した。そのあとはもうしっかり歩けるようだった。

 調理場に入ると、ダンは慣れたように流し台でマグを洗い始めた。洗いながら「もうちょっと、もうちょっとシルヴィアと飲みたかったのに」などとぶつぶつ呟いている。
 シルヴィアはふふっと笑って「もうじゅうぶん飲んだわよ」と返した。

「それにとても楽しかった……信じられないわ、まさか自分が海賊たちに見送ってもらうなんて……こうしてお酒を飲みながら過ごすことができたなんて」

 呟くように言うと、ダンはマグを布巾で拭きながらちらと振り返った。

「後悔してんのか」

 シルヴィアは「いいえ、ちっとも」と即座に首を振った。

「心に刻むわ、素敵な仲間の一員になれたことを。あなたを心から愛したことも」

「あ、あ、愛し……!? わわっ!」

 聞き慣れぬ言葉に、ダンは動揺して持っていたマグを床にコトンと落としてしまった。
 シルヴィアがすぐに拾いあげてダンに差し出すと、彼は恥ずかしそうに「わ、わり」と言いながら受け取った。

「そ、その……そんな風に言われるなんて初めてだぜ、あ、あ、愛し、た、とか」

 シルヴィアはふっと笑った。

「私も初めて言ったわ。まさか海賊を愛するなんて思いもしなかったけど、でも訂正するつもりはないの。それにきっと……今後あなた以外に言うことはきっとないと思うわ」

 それを聞いたダンはマグをぎゅっと掴んだが、調理台にそれを置くと「お、俺も」と言いながらくるりとシルヴィアの方を振り向いた。

「お、俺もさ……俺もおめえのこと、ほんとに、この世の何より、あ、あ、愛してる」

 ダンが辿々しくも真剣な顔でそう言ったのに、シルヴィアは嬉しそうに「ありがとう」と肩をすくめた。
 そうしてしばらく二人は見つめ合っていた。
 ダンがこちらを見つめる視線は泣きそうなくらいに切なくすがりつくようで、耐えきれずにシルヴィアはすっと目を逸らした。

「……もう、行かなきゃ」

 いつも通りの声になるように努めてシルヴィアはちらと彼に視線を合わせて言った。

「明日、また会いましょう」

「……」

「ダン?」

「……ああ、よく休め」

 ダンの声はひどく寂しそうだったが、顔はいつもと同じ、へらっとした笑みを浮かべていた。
 シルヴィアは胸がずきんと痛むのを感じたが、今夜はこれ以上ここに留まってはいけないと自分を制した。

「ダンも今夜はゆっくり休んでね。もうこれ以上飲まないでね」

「わかってらあ、心配すんな」

「それじゃあ……おやすみなさい、ダン」

「……ああ、おやすみ」

 ダンがそう言うのを聞くと、シルヴィアは身を翻して、とうとう調理場を出ていった。






補足: 今回登場した歌は以前ご紹介した「Here's a Health to the Company」と、「The Parting Glass」を意訳したものです。どちらもアイルランド、スコットランドの伝統的な歌です。

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