黄泉の七瀬は呪われる?

冬野一

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第二章

2:躾のできたいい子です

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【同居契約書】

 黄泉野七瀬(以下「甲」という)と橘新太(以下「乙」という)は、次の通り、同居契約書(以下「本契約」という)を締結する。

一、  乙は甲に対し、過度な接触を控え適切な距離をとる。(熱烈アプローチと意味もなくパーソナルスペースを侵すのやめれ)。
二、  乙は甲に対し、同棲者ではなく同居人として接する。(嫁だのなんだのぬかすな)。
三、  乙は甲に対し、好きなところを百個述べられない以上、甲に求婚することを禁ずる。

 本契約を一つでも違反した場合、甲は乙の求婚を生涯呑まないものとする。
 以上

「ではここに、判子を」
「……七瀬ちゃんってホントに十八歳?」

 切ったメモ帳で作成した契約書を差し出す。向かいでは、橘さんが顔を引きつらせていた。
 わたしは至った真面目に答える。

「これくらい誰でも書けるでしょう。ここできちんとした生活を送るためにも、わたしと橘さんの間には決まりが必要です」
「主に俺の決め事だけどね」
「橘さんのアプローチが度を超えているからです」
「ははぁ、そんなにひどいかねぇ。こっちは真剣なのに」

 とほほ、と吐息を漏らしつつ、橘さんは用意した印鑑を契約書につける。一応こちらの流れに付き合ってくれるらしい。わたしも印鑑の代わりに名前を書いて、契約書は完成した。

「というわけで、改めて今日からよろしくお願いします」
「真面目だねぇ、七瀬ちゃんは。うう……せっかく一週間かけて準備してたのになぁ」
「橘さんのそれは、義務からくるものでしょう。わたしのことべつに好きでもないのに、丹精込めてあの部屋を準備されても嬉しくないんです。……申し訳ないですけど」

 そりゃ、心からお互いしか見えていないバカップルなら、あの部屋はぴったりだろう。バカップルでなくても、好きという感情がある男女なら少しくらい嬉しいと思うかもしれない。でもわたしと橘さんの間には、それがない。

 橘さんは義務でわたしを好きだと言っている。そうしなければならないからはそう言っている。だから、今まで告白どころか友達すらいなかったわたしには、勿体ないくらい整った人だけど、素直に喜べない。冴えない小娘のくせに我儘で傲慢でこだわり派なのだ。

 これでも一応、女の子。

 好きと言われるにしても――ちゃんと心から言ってほしいじゃないか。

「なるほど。それで最後の契約文ね」

 橘さんは契約書を取り上げてひらひら揺らす。

「好きなところを百個言えるようになってから求婚しろ――。百個言ったら義務的恋愛じゃないって認めてくれるってこと」
「百個言えたら考えなくもないという話です」
「ちなみに今言ったら結婚してくれるの」
「言えるんですか」
「もちろん! えっと、まず一つ目は、」

 橘さんはさっそくぱかっと口を開ける。そのまましばらく固まった。わたしは辛抱強く待ってみる。
 五分経っても橘さんの口からは、わたしの好きなところ第一個目すら出てこなかった。

「出直してこいですね」
「や、いっぱいあり過ぎてどこから言おうかなって……!」
「べつに今すぐ言わなくたっていいでしょう。わたしもあなたのこと好きじゃないですし、今百個言われても困りますから」
「くっ……まだ恋路は長いか……っ。――あ、ところで七瀬ちゃんさ。俺ちょっと気になったんだけど」

 橘さんは持っていた契約書をわたしに見せた。

「これ、この三つだけでいいの? この際だからもう少し書き足しちゃえば?」

 わたしは背筋が寒くなるのを感じた。

「………………ドMなんですか、橘さん」
「え、や、違う違うッ! 違うからちょっと、何よドMって! いや、こういう感じのルールって今までの彼女さんともやったことあったからさ。みんな最低五個はルール作ってたから、これでいいのかなって。後々ルール増やされるのも面倒だし」
「それは……これと同じ、主に橘さんが守るべきルールだったんですか」
「うん。いろいろあったよ」

 言って、橘さんはすらすらと指折り数え始める。

「買い物と料理は当たり前でしょ、月一でご飯奢るとか、付き合ったら別の女の子と話さないとか、デートのエスコートは必須だったね。あと出かけるときは行き先と目的を必ず報告することと、お酒は飲まない。ダサい格好をしない。それから」
「ちょちょちょちょ」

 あまりにすらすらが続くので急いで止める。

「なんですか、その縛りの数々。お、重くないですか、今までの彼女さんたち」
「え? そう? やだなぁ七瀬ちゃん、今の時代は女性をいかに丁寧に扱うかで男の器が決まるんだよ? これくらいできて当然っしょ。だから七瀬ちゃんも他に俺に守ってほしいことがあれば言っていいよ。俺なんでも守るから」

 なんでもないかのように橘さんは笑う。あたかもそう躾られた犬のように。

 わたしは呆気にとられて、固まった。

 これが彼の本質といえば、そうなのだろう。目的のための恋愛。宿命が第一の行動。

 でもこれは――、これはちょっと、やり過ぎやしないか。

 彼のことだからたぶん、相手に不満を言ったこともないのでは。いやもしからしたら、不満すら抱いたことないかもしれない。いつもニコニコ笑って、できる男を装って。

 ここまで人に尽くしてなんでもかんでも呑み込まないと、この人は生きている意味がないのだろうか。宿命を負えないのだろうか。

 ……疲れやしないだろうか。心が。

 乾いていた唇を、湿らせる。

「……なら、もう一つだけいいですか」

 おずおずと切り出すと、橘さんは見えない尻尾を振って身を乗り出してきた。

「なに?」
「えっと……いつも――正直でいてください」
「……正直?」
「正直です。なんでも素直でいてください」
「ほぉ、なんでも……」

 乗り出していた身を引いた橘さんは、わたしが言ったことを咀嚼するように呟く。ふむ、と腕を組んだ。

「……正直ってことは、俺けっこういい加減になるよ? 『どっちでもいい』とか『なんでもいい』とかめっちゃ言うし。好みもそれほどないし」
「構いませんよ。わたしもそういう時ありますし。とにかく橘さんが宿命に従順であることが嫌なだけですから」
「嫌なんだ? ありのままの俺でいてほしいって?」
「はい」

 率直に答えると、橘さんの目が丸くなる。たぶん初めて見る、心から驚いた顔だった。

「……七瀬ちゃん、もしかして俺のこと好き?」
「んなわけないでしょう」
「えぇ~っっっ、絶対好きじゃんっ! ヤダ俺ちょっと嬉しいんだけどぉ~っ!」
「勝手に言っててください。それより本当にわたしの部屋はあの部屋になるんですか。他にまともなところないんでしょうか。ないなら本当に帰りますよ」
「だから帰るったって、どこに帰るのよ。君の家は今日からここですぅ~。あの部屋はあくまで俺と君が一緒に過ごすことを想定した部屋だよ。拒否された以上は、無難に二階へ案内しますとも」

 るんるん気分で腰を上げた橘さんは、今度こそわたしを二階に案内する。

 古き趣ある荘の二階は、計六部屋が入っていた。各部屋の扉にはネームプレートが下げられており、手前から『橘』、『柏木』、『金城』。そして一番奥に『黄泉野』。ありがたいことにわたしと橘さんは端っこ同士で最も距離が開いていた。

 さぁどうぞ、と部屋の扉を開けた橘さんに続いて部屋に入る。一瞬、さっきのことが頭をよぎり身構えたけど、目の前に広がったのはがらんとした殺風景な部屋だった。青い空を額縁におさめたような窓が一つと、壁際にデスク、ベッド、クローゼット。それだけ。これぞ一人暮らしのスタート地点といえるほど、こざっぱりとしていた。

「ふおおおお、部屋だぁ」
「七瀬ちゃんから『ふおおおお』が出た」
「だって、先にあんな絶望的な部屋を見せられたら誰だって絶望しますよ。ついさっきまで生きた心地がしませんでした」
「悪かったねっ。――ていうか、七瀬ちゃん、霊視は本当にもう安定してんの? 大丈夫?」

 壁に寄りかかった橘さんが腕を組んで訊ねる。わたしはこくりと頷いた。

「そりゃまぁ……。最初の死霊モドキにしか見えなかった頃と比べたら、こっちの方がすぐに馴染みましたよ。見分けも簡単でしたし」

 アンコさんの正体がごくごく普通のお婆さんであった通り、今ではそこらに浮かぶ霊はすっかり見慣れたものになっている。町を歩けば生者よりも半透明の姿をした浮遊霊の方が多いほどだ。時々目が合うのだけど憑いてこないあたり、橘さんのいう『祓い屋の縁』が作用しているらしい。でも蒼ちゃんの家に勝手に侵入してくるのは最後まで慣れなかった。たぶん幽霊だから、プライバシーの感覚も麻痺してしまうのだろう。そこまで思い返して、わたしはふと気づいた。

「そういえば……この家って全然霊がいませんね。普通ならもう何人か視ていてもおかしくないのに……」
「そりゃ専門屋の荘ですからね。結界くらい張ってるよ。あ、そうだ。結界で思い出した。七瀬ちゃん、この家に霊を招いちゃダメだからね」
「招く?」
「そう招く。おいでおいでをするなってこと」

 小首をかしげるわたしに、橘さんは神妙な面持ちで招く仕草をする。

「この家は外からの霊は弾くけど、中にいる住人が招くと容易く入れるんだ。人畜無害な善霊ならまだいいけど、中には性格ひね曲がった霊が悪さするために入ろうとするときもあるから、十分に注意するように。いい、絶対招いちゃダメだからね? 絶っっっ対」
「はぁ……招くも何も、接触することもないと思いますけど」
「うん、それでいい。とにかく覚えていてくれるだけでいいから。んじゃあ、荷物置いたら職場行ってみようか。開店前にみんなに紹介しないと。俺先に下りとくね」
「分かりました」

 橘さんを見送って、わたしはベッド脇にキャリーを置く。と、視界の端をサッと動くものがあった。
弾かれたようにそちらを見ると、ほとんど同じタイミングで、何か黒いものが窓の枠外に隠れた。ちょっと気になって窓辺に歩み寄り窓を開けてみる。

 ふんわりとした柔らかい風が頬を撫でた。窓の外は一面春の花が咲く田んぼが広がっており、遮るものは何もない。少し視線を落とすと、うちの荘の仕切りであるブロック塀の上で白猫が日向ぼっこしていた。でも猫がここまで登れるわけがないから、きっとさっきのは鳥だろう。

 視線を感じたのか、白猫がふとこちらに顔を上げる。幽霊は招いちゃダメだけど猫ならいいだろうと、わたしは軽い気持ちで「おいで~」と手招きしてみる。白猫は少しの間こちらを見上げていたが、やがてあくびを一つしてそっぽを向いた。哀しい。

「七瀬ちゃーん、まだー?」

 下から橘さんが声をかけてくる。我に返ったわたしは、慌てて窓を閉めて部屋を出た。
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