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第二章
6:万引き騒動
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わたしたちはキョトンとしてタジマさんがいた場所を見つめる。それから目を剥いた。
「消えたっ⁉」
「あすこさいる!」
いの一番にゆかりちゃんが気づいて中空に指をさす。初めてまともに言葉が聞き取れた。
ゆかりちゃんの指先を辿れば、お菓子コーナーの陳列棚の上を飛び跳ねながら店内の奥へと逃げていくタジマさんの姿が見えた。すでにサビカからかなりの距離が開いている。容姿も小さいだけに近眼には少しきつい。
「逃げる気だ! 捕まえるぞ!」
同じくタジマさんの姿を確認した橘さんが声を上げる。しかしそれよりも早くサビカからミサイルダッシュをキメたのは春子さんだった。
「うちから逃げれるやこ思わへんことやで! 跡形ものう消しちゃるわぁぁああああ‼」
「あ、予定変更! 春子さん確保しようか! 大地行くぞ!」
鬼気迫る形相で走って行く春子さんを橘さんと大地くんが追いかける。わたしと『伯方の塩』を持ったゆかりちゃんも急いで後に続いた。もう仕事どころじゃない。
タジマさんはアクション映画並みの身のこなしで、陳列棚の上に積んである商品群を巧みに飛び越えつつ周囲の物を下に落としていく。春子さんは落下物を避けて、走りながら器用に履いていた靴を片方脱いだ。目標に照準を定めてぶん投げる。靴は的確な軌道でタジマさんに迫まったが、直前で手前にあった商品に妨害された。春子さんは「チッ」と鋭く舌打ちする。怖ぁい。
「ゆかりちゃん! 塩投げるんや、塩!」
春子さんは肩越しに追ってきているわたしたちを振り返る。『伯方の塩』を持っているゆかりちゃんに声を上げた。
「足で追いつくより塩投げて弱らせた方が早いわ! 塩投げるんや!」
ゆかりちゃんはギョッとして春子さんを見て、意を決したようにコクリと頷く。その決然たる横顔に、わたしはなんだかちょっと嫌な予感がした。咄嗟にゆかりちゃんに声をかける。
「あの、ちょっとゆかりちゃん――」
しかし時すでに遅し。
「せいやッ」
ゆかりちゃんは『伯方の塩』一キログラムを勢いよく振りかぶると、文字通りタジマさんにぶん投げた。流星の如く宙を駆けた『伯方の塩』は陳列棚の上部あたりに直撃する。ぐわしゃんっと一際派手な音が響いて、棚からスナック菓子が大量に通路に飛び出した。
「あああああッ、何やってんのゆかりちゃん! 塩投げるってそうじゃない! そういうことじゃない‼」
前方を走っていた橘さんが散らばった商品を無視できずに立ち止まる。大急ぎで拾い集めにかかった。ご丁寧に幕板にセットされた値札の位置まで直していく。さすが十代から働いているだけあって職業病が出ている。
その橘さんの背中にタジマさんが軽やかに飛び降りてきた。途端、春子さんの双眼が鋭く光る。右手を鞭のようにスイングさせた。
「チェストぉッ!」
「はうがッ」
勢いよく繰り出された平手は狙いから十センチ以上外れて橘さんの腰に命中する。不運にも、彼の腰は今朝ろくでもない悲劇に遭ったばかりだ。橘さんは磨き上げられたフロアに膝から崩れ落ちる。倒れて動かなくなった。屍となった彼の上をタジマさんが「失礼」と律儀に一言添えて飛び越えていく。
「あ、堪忍! 新太くん。間違えてもうた! 新太くんの仇は必ず取るさかい!」
「自分も橘さんのこと忘れないっス」
「○×□△、□&△○……!」
片手を上げて颯爽と走っていく春子さんに続いて、大地くんとゆかりちゃんも拝みながら前を通過する。怒濤の勢いで騒々しい足音が遠のき、お菓子コーナーに残されたのはわたしと橘さんだけになった。
「……橘さん、大丈夫ですか」
さすがに三人のようにスッパリ切り捨てるのは憚られて、わたしは遠慮がちに床で伸びている橘さんに声をかける。橘さんはしばらく無言だった。やがて一筋の涙を流して顔を上げる。
「俺……この店辞めていい?」
泣くな。
「メンタルよ……もうメンタルの問題よ。熟女呼ばわりされた先輩は靴ぶん投げるし、一年可愛がってきた後輩は塩ぶん投げるし、しかも負傷した俺をみんな置いていくし。俺って何? みんなにとっての俺って何なの? 使い勝手のいいただのチャラ男なの?」
「そ、そんなことないですよ。ほらみんな、橘さんのことは忘れないって言ってたし、今世はダメでも来世はきっといいことあります」
「ねぇそれ慰めてる? とどめ刺しにきてない?」
「そうネガティブにならずに楽しいことを考えましょうよ。知ってますか、人の脳ってネガティブな思考になっても九十秒後には忘れているらしいです」
「もう何もかも忘れたい。全部なかったことにして赤ちゃんに戻りたい」
無理がある。
「それより、早く春子さんたちを追いかけましょうよ。閑散としているとはいえ、一応店内には他のお客さんもいるわけだし、これ以上騒動が大きくなったら大変じゃないですか?」
わたしは橘さんを起こしつつ周囲を見渡す。春子さんと一緒に店内に入った時はお客さんの数も片手で数えられるくらいだったけど、だからといってずっとレジをガラ空きにしておくのはよくないことくらい分かる。でもわたしはまだレジの知識なんて全然ないわけだし、早く通常営業に戻るには、やはりタジマさんを捕まえなければならない。
「あーもう、なんであの人逃げんのよ。万引きしようとしていたのは認めてんのに」
腰に片手を当てながらゆっくりと身を起こした橘さんは忌々しげに呟く。春子さんたちが走って行った通路に視線を上げた。
「……タジマさんって人、何をもう後悔したくないのかね。つーか本当に変人なのかな」
「同じ変人のよしみとして庇っているつもりですか」
「えー、バストとブラのことまだ引きずってんの? もうそれは水に流そうよ七瀬ちゃん。ていうか正味スリーサイズは目測できるし、ワンチャン当たっている自信があああああッ、痛い痛い痛いッ!」
「次言ったら容赦しませんよ」
わたしは後ろから前屈させるつもりで押していた手を止める。前屈は腰痛持ちに効くという。橘さんは「ひっでぇ」と腰をさすりつつ吐息を漏らした。
「まーあれだ。確かに七瀬ちゃんに悪さしていたってのは許せないことだけど、あの人一応善霊ではあるみたいだからさ。何か事情でもあんのかねって気にはなるのよ。普通、変質者っていう奴は悪霊の状態になっていることが多いから」
「悪霊……ですか。アンコさんみたいな?」
「うん、そう。人に霊障を与えて悪戯すんのが悪霊ね。――そもそも変質者は死後悪霊に転化しやすいもんなんだ。もしもあの人が生粋の変質者なら、もうとおの昔に人格ねじ曲がってどえらい有り様になっていると思う。でも彼は全然まっとうな人に見えるし、この世を彷徨う目的もきっちりしている。だから変人と決めてかかりたくないわけよ」
「……身体にひっつく時点で十分まっとうじゃないと思いますが」
「うー、そう言われたらそうなんだけど……。じゃあ仮にわいせつ目的だとしたら、なんでヘアピンを万引きしようとしたの」
そこは、わたしもすぐに反論が出てこない。純粋に女子の体が目当てなら、ヘアピンを万引きしようとするのはおかしい。
「……じょ、女装の趣味があったとか」
「ほう、あのバリバリのエリートサラリーマン風の男がですか」
「人は見かけによらないものですよ。橘さんみたいに見た目はよくても中身が絶望的な人だって世の中五万といると思います」
「おー、メンタル死にかけの俺を殺す気か」
顔を引きつらせた橘さんは、ワシワシと頭を掻く。
「でも、七瀬ちゃんの言う通り。人は見かけによらないもんだよ。女子高生の部屋に潜んでいたにしても、馬鹿正直に言っちゃうような変質者なんてそういないと思うし。だからさ、ちょっと立ち止まって考えてみない? 俺はできるならそうしたい」
……相変わらず、こういうところは寛容な人だなと思う。仮にも射止めたい女性によからぬ変質者が張り付いていたというのに、そちらに心を割こうとするとは。でも、わたしも気にはなるから責められない。なんでタジマさんはあのヘアピンを盗もうとしたのか。
タジマさんは――何を後悔したくないんだろう。
不意に、派手な物音が店内の一角から響く。通路の先でお客さんが何ごととばかりに音のした方へ向かうのが見えた。橘さんは口をつぐんで、音がした方へ顔をしかめる。
「あいつら店壊す気かよ……。誰が後片付けすんだよもう」
「橘さん、立てますか?」
「いや、俺はいい。それより早くあいつら止めてきて。春子さんは『特別手当を出すと橘さんが言ってます!』って言えば止まるから。封じ手だけど」
金で解決する気らしい。
「えっと、とりあえず行ってきます」
わたしは立ち上がって店内の一角へ向かう。さほど広すぎるほどでもない店内だから、音がしたのがどこかはすぐに分かった。先を行くお客さんに「すみません、すみません」と謝りながら走って雑貨コーナーまで行く。またも何かを倒すような音が響いて春子さんの声が聞こえてきた。わたしは戦闘に巻き込まれないよう陳列棚を回り込み、息を詰めて現場に顔を覗かせる。
通路の先でグリーンジャケットを着た三人組が空き缶くらいの小人を取り囲んでいた。ハエ叩きを持った大地くんとお玉を持ったゆかりちゃんが、世界卓球に挑む選手が如く腰を低く落として真剣に向かい合っている。その傍にいるセコンドの春子さんが、二人の間にいるタジマさんを見据えて「そこや! いてまえッ」と指示を出していた。ただの関西人だ。
大地くんが素早くハエ叩きを繰り出す。タジマさんは華麗に宙返りをきめてハエ叩きを躱し、傍に並んであるクルマのおもちゃの上に着地した。すかさずゆかりちゃんがタジマさんのいるクルマに向かってお玉を振り下ろす。クルマ数台が宙を舞い、陳列棚がぐらりと揺れた。どう見ても店を荒らしてんの従業員なんだよなぁ~。
けれどもタジマさんはやっぱり無傷を保っている。今さらながら見た目おじさんなのにとんでもない運動神経をしていると思う。背が小さいから柔軟性もあるんだろうか。
「春子さん! もうやめてください! 橘さんが特別手当を出してくれるそうです!」
見る間に惨状と化していく現場に耐えきれず、わたしは隠れていた陳列棚から飛び出す。春子さんが驚いた様子で走り寄ってきたわたしに顔を向けた。
「え、いくらっ⁉」
あ~、ちょっと見たくなかったかな~。汚い大人が見えちゃったなぁ~。
けれども、そこで僅かに場の空気が緩んでしまったのがいけなかった。ゆかりちゃんが揺らした陳列棚の上に積んでいた箱が、揺れた拍子に通路へ身を乗り出し、堪えきれず落下する――。運が悪いことに、そのちょうど真下にわたしがいて、誰もすぐに反応できなかった。
「七ちゃんッ!」
春子さんが咄嗟に声を上げる。わたしは眼前に影を落として迫る箱を見上げて固まった。実際、数秒の世界で瞬時に体が反応するわけがない。思わず息を呑んで身を硬くする。
その刹那、箱とわたしの僅かな間に小さな影が飛び出してきた。まるで一コマずつ区切ったスローモーションのような世界だった。タジマさんの着ている質の良さそうなスーツが、目を見開いたわたしの視界を覆う。ふと、ある言葉が頭をよぎった。
――後悔先に立たず。
すでにしてしまったことを後から悔やんでも取り返しはつかない。だから後悔しないように事前に十分注意することは大切だという先人の教え。
じゃあ、すでにしてしまったことって……?
わたしの背中にいたこと。
過去に何人もの女子高生の部屋に潜んでいたこと。
ヘアピンを盗もうとしたこと。
見守ることが第一だと主張したこと。
立ち止まって、考えろ。
どうして見守る。
タジマさんは――何を後悔している?
……後から思えば、それはおそらくシンパシーというやつだったのだろう。端から見ればほんの数秒の世界で、わたしはタジマさんの精神を想像し、感情移入したのだと思う。あるいはタジマさんが何かスピリチュアルな力を使ったのかもしれない。どちらにしても二人の精神が共鳴して、それが奇妙な奇跡をもたらした。
わたしの頭の中に、タジマさんの記憶が流れ込んできたのだ。
「消えたっ⁉」
「あすこさいる!」
いの一番にゆかりちゃんが気づいて中空に指をさす。初めてまともに言葉が聞き取れた。
ゆかりちゃんの指先を辿れば、お菓子コーナーの陳列棚の上を飛び跳ねながら店内の奥へと逃げていくタジマさんの姿が見えた。すでにサビカからかなりの距離が開いている。容姿も小さいだけに近眼には少しきつい。
「逃げる気だ! 捕まえるぞ!」
同じくタジマさんの姿を確認した橘さんが声を上げる。しかしそれよりも早くサビカからミサイルダッシュをキメたのは春子さんだった。
「うちから逃げれるやこ思わへんことやで! 跡形ものう消しちゃるわぁぁああああ‼」
「あ、予定変更! 春子さん確保しようか! 大地行くぞ!」
鬼気迫る形相で走って行く春子さんを橘さんと大地くんが追いかける。わたしと『伯方の塩』を持ったゆかりちゃんも急いで後に続いた。もう仕事どころじゃない。
タジマさんはアクション映画並みの身のこなしで、陳列棚の上に積んである商品群を巧みに飛び越えつつ周囲の物を下に落としていく。春子さんは落下物を避けて、走りながら器用に履いていた靴を片方脱いだ。目標に照準を定めてぶん投げる。靴は的確な軌道でタジマさんに迫まったが、直前で手前にあった商品に妨害された。春子さんは「チッ」と鋭く舌打ちする。怖ぁい。
「ゆかりちゃん! 塩投げるんや、塩!」
春子さんは肩越しに追ってきているわたしたちを振り返る。『伯方の塩』を持っているゆかりちゃんに声を上げた。
「足で追いつくより塩投げて弱らせた方が早いわ! 塩投げるんや!」
ゆかりちゃんはギョッとして春子さんを見て、意を決したようにコクリと頷く。その決然たる横顔に、わたしはなんだかちょっと嫌な予感がした。咄嗟にゆかりちゃんに声をかける。
「あの、ちょっとゆかりちゃん――」
しかし時すでに遅し。
「せいやッ」
ゆかりちゃんは『伯方の塩』一キログラムを勢いよく振りかぶると、文字通りタジマさんにぶん投げた。流星の如く宙を駆けた『伯方の塩』は陳列棚の上部あたりに直撃する。ぐわしゃんっと一際派手な音が響いて、棚からスナック菓子が大量に通路に飛び出した。
「あああああッ、何やってんのゆかりちゃん! 塩投げるってそうじゃない! そういうことじゃない‼」
前方を走っていた橘さんが散らばった商品を無視できずに立ち止まる。大急ぎで拾い集めにかかった。ご丁寧に幕板にセットされた値札の位置まで直していく。さすが十代から働いているだけあって職業病が出ている。
その橘さんの背中にタジマさんが軽やかに飛び降りてきた。途端、春子さんの双眼が鋭く光る。右手を鞭のようにスイングさせた。
「チェストぉッ!」
「はうがッ」
勢いよく繰り出された平手は狙いから十センチ以上外れて橘さんの腰に命中する。不運にも、彼の腰は今朝ろくでもない悲劇に遭ったばかりだ。橘さんは磨き上げられたフロアに膝から崩れ落ちる。倒れて動かなくなった。屍となった彼の上をタジマさんが「失礼」と律儀に一言添えて飛び越えていく。
「あ、堪忍! 新太くん。間違えてもうた! 新太くんの仇は必ず取るさかい!」
「自分も橘さんのこと忘れないっス」
「○×□△、□&△○……!」
片手を上げて颯爽と走っていく春子さんに続いて、大地くんとゆかりちゃんも拝みながら前を通過する。怒濤の勢いで騒々しい足音が遠のき、お菓子コーナーに残されたのはわたしと橘さんだけになった。
「……橘さん、大丈夫ですか」
さすがに三人のようにスッパリ切り捨てるのは憚られて、わたしは遠慮がちに床で伸びている橘さんに声をかける。橘さんはしばらく無言だった。やがて一筋の涙を流して顔を上げる。
「俺……この店辞めていい?」
泣くな。
「メンタルよ……もうメンタルの問題よ。熟女呼ばわりされた先輩は靴ぶん投げるし、一年可愛がってきた後輩は塩ぶん投げるし、しかも負傷した俺をみんな置いていくし。俺って何? みんなにとっての俺って何なの? 使い勝手のいいただのチャラ男なの?」
「そ、そんなことないですよ。ほらみんな、橘さんのことは忘れないって言ってたし、今世はダメでも来世はきっといいことあります」
「ねぇそれ慰めてる? とどめ刺しにきてない?」
「そうネガティブにならずに楽しいことを考えましょうよ。知ってますか、人の脳ってネガティブな思考になっても九十秒後には忘れているらしいです」
「もう何もかも忘れたい。全部なかったことにして赤ちゃんに戻りたい」
無理がある。
「それより、早く春子さんたちを追いかけましょうよ。閑散としているとはいえ、一応店内には他のお客さんもいるわけだし、これ以上騒動が大きくなったら大変じゃないですか?」
わたしは橘さんを起こしつつ周囲を見渡す。春子さんと一緒に店内に入った時はお客さんの数も片手で数えられるくらいだったけど、だからといってずっとレジをガラ空きにしておくのはよくないことくらい分かる。でもわたしはまだレジの知識なんて全然ないわけだし、早く通常営業に戻るには、やはりタジマさんを捕まえなければならない。
「あーもう、なんであの人逃げんのよ。万引きしようとしていたのは認めてんのに」
腰に片手を当てながらゆっくりと身を起こした橘さんは忌々しげに呟く。春子さんたちが走って行った通路に視線を上げた。
「……タジマさんって人、何をもう後悔したくないのかね。つーか本当に変人なのかな」
「同じ変人のよしみとして庇っているつもりですか」
「えー、バストとブラのことまだ引きずってんの? もうそれは水に流そうよ七瀬ちゃん。ていうか正味スリーサイズは目測できるし、ワンチャン当たっている自信があああああッ、痛い痛い痛いッ!」
「次言ったら容赦しませんよ」
わたしは後ろから前屈させるつもりで押していた手を止める。前屈は腰痛持ちに効くという。橘さんは「ひっでぇ」と腰をさすりつつ吐息を漏らした。
「まーあれだ。確かに七瀬ちゃんに悪さしていたってのは許せないことだけど、あの人一応善霊ではあるみたいだからさ。何か事情でもあんのかねって気にはなるのよ。普通、変質者っていう奴は悪霊の状態になっていることが多いから」
「悪霊……ですか。アンコさんみたいな?」
「うん、そう。人に霊障を与えて悪戯すんのが悪霊ね。――そもそも変質者は死後悪霊に転化しやすいもんなんだ。もしもあの人が生粋の変質者なら、もうとおの昔に人格ねじ曲がってどえらい有り様になっていると思う。でも彼は全然まっとうな人に見えるし、この世を彷徨う目的もきっちりしている。だから変人と決めてかかりたくないわけよ」
「……身体にひっつく時点で十分まっとうじゃないと思いますが」
「うー、そう言われたらそうなんだけど……。じゃあ仮にわいせつ目的だとしたら、なんでヘアピンを万引きしようとしたの」
そこは、わたしもすぐに反論が出てこない。純粋に女子の体が目当てなら、ヘアピンを万引きしようとするのはおかしい。
「……じょ、女装の趣味があったとか」
「ほう、あのバリバリのエリートサラリーマン風の男がですか」
「人は見かけによらないものですよ。橘さんみたいに見た目はよくても中身が絶望的な人だって世の中五万といると思います」
「おー、メンタル死にかけの俺を殺す気か」
顔を引きつらせた橘さんは、ワシワシと頭を掻く。
「でも、七瀬ちゃんの言う通り。人は見かけによらないもんだよ。女子高生の部屋に潜んでいたにしても、馬鹿正直に言っちゃうような変質者なんてそういないと思うし。だからさ、ちょっと立ち止まって考えてみない? 俺はできるならそうしたい」
……相変わらず、こういうところは寛容な人だなと思う。仮にも射止めたい女性によからぬ変質者が張り付いていたというのに、そちらに心を割こうとするとは。でも、わたしも気にはなるから責められない。なんでタジマさんはあのヘアピンを盗もうとしたのか。
タジマさんは――何を後悔したくないんだろう。
不意に、派手な物音が店内の一角から響く。通路の先でお客さんが何ごととばかりに音のした方へ向かうのが見えた。橘さんは口をつぐんで、音がした方へ顔をしかめる。
「あいつら店壊す気かよ……。誰が後片付けすんだよもう」
「橘さん、立てますか?」
「いや、俺はいい。それより早くあいつら止めてきて。春子さんは『特別手当を出すと橘さんが言ってます!』って言えば止まるから。封じ手だけど」
金で解決する気らしい。
「えっと、とりあえず行ってきます」
わたしは立ち上がって店内の一角へ向かう。さほど広すぎるほどでもない店内だから、音がしたのがどこかはすぐに分かった。先を行くお客さんに「すみません、すみません」と謝りながら走って雑貨コーナーまで行く。またも何かを倒すような音が響いて春子さんの声が聞こえてきた。わたしは戦闘に巻き込まれないよう陳列棚を回り込み、息を詰めて現場に顔を覗かせる。
通路の先でグリーンジャケットを着た三人組が空き缶くらいの小人を取り囲んでいた。ハエ叩きを持った大地くんとお玉を持ったゆかりちゃんが、世界卓球に挑む選手が如く腰を低く落として真剣に向かい合っている。その傍にいるセコンドの春子さんが、二人の間にいるタジマさんを見据えて「そこや! いてまえッ」と指示を出していた。ただの関西人だ。
大地くんが素早くハエ叩きを繰り出す。タジマさんは華麗に宙返りをきめてハエ叩きを躱し、傍に並んであるクルマのおもちゃの上に着地した。すかさずゆかりちゃんがタジマさんのいるクルマに向かってお玉を振り下ろす。クルマ数台が宙を舞い、陳列棚がぐらりと揺れた。どう見ても店を荒らしてんの従業員なんだよなぁ~。
けれどもタジマさんはやっぱり無傷を保っている。今さらながら見た目おじさんなのにとんでもない運動神経をしていると思う。背が小さいから柔軟性もあるんだろうか。
「春子さん! もうやめてください! 橘さんが特別手当を出してくれるそうです!」
見る間に惨状と化していく現場に耐えきれず、わたしは隠れていた陳列棚から飛び出す。春子さんが驚いた様子で走り寄ってきたわたしに顔を向けた。
「え、いくらっ⁉」
あ~、ちょっと見たくなかったかな~。汚い大人が見えちゃったなぁ~。
けれども、そこで僅かに場の空気が緩んでしまったのがいけなかった。ゆかりちゃんが揺らした陳列棚の上に積んでいた箱が、揺れた拍子に通路へ身を乗り出し、堪えきれず落下する――。運が悪いことに、そのちょうど真下にわたしがいて、誰もすぐに反応できなかった。
「七ちゃんッ!」
春子さんが咄嗟に声を上げる。わたしは眼前に影を落として迫る箱を見上げて固まった。実際、数秒の世界で瞬時に体が反応するわけがない。思わず息を呑んで身を硬くする。
その刹那、箱とわたしの僅かな間に小さな影が飛び出してきた。まるで一コマずつ区切ったスローモーションのような世界だった。タジマさんの着ている質の良さそうなスーツが、目を見開いたわたしの視界を覆う。ふと、ある言葉が頭をよぎった。
――後悔先に立たず。
すでにしてしまったことを後から悔やんでも取り返しはつかない。だから後悔しないように事前に十分注意することは大切だという先人の教え。
じゃあ、すでにしてしまったことって……?
わたしの背中にいたこと。
過去に何人もの女子高生の部屋に潜んでいたこと。
ヘアピンを盗もうとしたこと。
見守ることが第一だと主張したこと。
立ち止まって、考えろ。
どうして見守る。
タジマさんは――何を後悔している?
……後から思えば、それはおそらくシンパシーというやつだったのだろう。端から見ればほんの数秒の世界で、わたしはタジマさんの精神を想像し、感情移入したのだと思う。あるいはタジマさんが何かスピリチュアルな力を使ったのかもしれない。どちらにしても二人の精神が共鳴して、それが奇妙な奇跡をもたらした。
わたしの頭の中に、タジマさんの記憶が流れ込んできたのだ。
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