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第二章
7:見守り
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ふと気づくと、わたしはタジマさんになっていた。
窓から陽気な日が差し込む書斎で新聞を広げている。骨張った手が紙の端をつまんで滑らかにめくっていく。タジマさんの中にわたしという意識が入り込んでいるらしかった。
「どうして沙枝のことをもっと見てやれないの」
つと、後ろから女の人の声がする。タジマさんの、奥さんだ。
「さっきのヘアピン。あれ、あなたが喜ぶかもって沙枝が自分で選んだものだったのよ。それを『可愛い』とか『似合っている』とかの一言も言わないで。喜ぶ顔一つしない。褒めてあげなさいよ、ちゃんと」
タジマさんの脳裏によぎったものが、そのままわたしにも伝わってくる。
そう、昨日――奥さんは十歳の誕生日になる娘と一緒に買い物に出かけていた。「誕生日だからなんでも買ってあげる」と彼女に言われ、娘が選んだものが二つセットのヘアピンだったという。赤い小花の刺繍とドット柄のリボンがついたヘアピンを前髪に挿し、先ほどはにかみながら書斎に来た娘の姿が、瞼の裏に浮かんだ。
タジマさんは新聞に目を落としたまま、機械的な動きでページをめくる。
「可愛いかと訊かれたから、お前がそう思うならそうだろうと答えたまでだ」
「だったら『可愛いね』って言いなさいよ。なんであなたはいつもそういう言い方しかできないの。自分の娘じゃない」
書斎の隅にいる奥さんの声のトーンが少し上がる。身の内に苛立ちを募らせているのは背を向けていても分かった。同時に、タジマさんの胸のうちに葛藤に似た感情が沸いてくる。
――あの時の娘の問いには、それしか答えられなかったんだ。
妻ゆずりの白い肌を上気させ、無垢な黒い瞳でこちらの反応を窺い、ピンを挿した前髪を撫でつける娘の姿は、確かに可愛らしかった。そして綺麗でもあり、美しくもあり、可憐で、純真で、健気で、でも可愛らしくて――。そんな感情が一度に胸に湧き上がってきて、どう形容したらいいか分からず、僅かな逡巡の後に絞り出したのが、さっきの言葉だったらしい。
奥さんもタジマさんがこういう性格だということは知っている。知っているから一緒になってくれた。けれども、なかなか胸中の言葉を口に出さない彼に日々不満を募らせていることもまた、隠しようもない事実だった。タジマさんが、胸の内では奥さんと娘のことを愛していることは、痛いほど伝わってくるというのに。
「昨日の夜だって一緒にお祝いもせずに朝方に帰ってきて。ねぇ、本当に沙枝のことを大事に思っているの? あたしたちのことを愛してくれているの?」
「大事に思っているから、なに不自由ない生活が送れているんだろう。それとも今の私の稼ぎに不満でもあるのか」
タジマさんは、新聞から顔を上げて妻を振り返る。
奥さんはしばらくタジマさんを見つめた。何か言いたそうに一瞬口を開きかけたけど、結局なにも言わず引き結ぶ。話にならないとでもいうようにこちらに背を向けた。
「……どうしてそういう言い方しかできないのよ」
ああ、そうか。
タジマさんという人となりが、分かった気がする。
この人は――ひどく不器用だ。そして不器用であることを自負している。
だからせめて、奥さんと娘がこれ以上不自由な思いをしないよう、暮らしを充実させることに専念してきたんだろう。口ではうまく語れないが、背中なら語れると。仕事人間であることこそが、自分の精一杯の愛情表現だと。
朝が来て会社に出社し、夜遅くまで、休日すらも返上して働く。時には部下のクビを切ったり、部署の中で進めてきた企画を一言で破綻させる汚れ仕事もやってきたのかもしれない。それでも反感も陰口も聞き流していれば出世する。出世すれば金が増え、家族を養うことができる。
それが不器用なタジマさんにとっての、家族の愛し方だったのかもしれない。
不意に、書斎の景色が変わる。まるで映像を早送りするかのように、目まぐるしく時間が動いていく。いつの間にか家から奥さんと娘の物がなくなり、会社にいる景色が長くなり、だんだんと記憶が朧気に、断片的に――。最後には視界が大きく揺れて何も見えなくなった。
タジマさんは――奥さんと娘に出て行かれてすぐに、過労が祟って死んだのだ。
真っ暗闇の中、死に際の彼の声が、わたしの頭に直接響く。
――あまりにも理想からかけ離れた死に様じゃないか。
なにが愛情表現だ。何も表現できちゃいない。何も伝わっちゃいない。
伝えたい距離は縮まるどころか離れていき、そして途切れたのだ。
全ては自分が、自分の思いを伝えてこなかったから。
娘に背中で語ろうとするばかりで、ずっと目を合わせてこなかったから。
本当はこの先素晴らしい未来が待っているはずだった。運動会や参観日、卒業式、受験、成人式、そして結婚。あの子の前で素直になれていたら、どんなによかったことか。
後悔している。
娘に何もしてやれなかった自分を、しようとしなかった自分を、後悔している――。
***
「――七ちゃん!」
春子さんの声にわたしはハッと我に返る。いつの間にか視界が薄く潤んでいた。
お尻のあたりに鈍い痛みがある。どうも箱が落ちてきた拍子に、その場に尻餅をついたらしい。わたしは目尻を拭って瞬きする。ふと顔を上げて、目を丸くした。
わたしの目の前には大人サイズになったタジマさんが床に伏せっていた。傍らには落ちてきた箱が転がっている。春子さんたちも驚いた様子でわたしとタジマさんを囲んでいた。
「た、タジマさん、大丈夫ですか⁉」
わたしは急いで箱をどかしてタジマさんの肩に手を添える。タジマさんは呻き声を漏らしてゆっくりと半身を起こした。整えられていた髪は乱れて前髪の数本が目元に垂れている。彼はハタとわたしに顔を上げ、全身を見回した。
「君、怪我は」
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」
「七ちゃんから離れなはれ!」
我に返った春子さんが急いでわたしとタジマさんの間に入ってくる。わたしを背に回し、素早く胸元に剣印を作った。
「万引き未遂で逃げ出した挙げ句、ここにきてまた七ちゃんを狙いますんか。ええ加減せぇへんと、そろそろこっちもそれ相応の対処させてもらいますで」
「は、春子さんっ、待ってください、違います!」
わたしは慌てて春子さんにしがみつく。ギョッとして振り返る春子さんに懸命に訴えた。
「違うんです、タジマさんは変人じゃないです。タジマさんは何もしてないんです。この人はただ――えげつないくらい不器用な人なんです! もうそれは可哀想なほどに!」
「必死なんは分かるけど空回って貶しになってんで七ちゃん」
「と、とにかく違うんです! タジマさんのことは全部誤解です」
どうしてタジマさんはわたしの背中に張り付いていたのか、女子高生の部屋に潜んでいたのかはもう解けた。そもそもタジマさんは最初に「痴漢はしていない」って言っていたじゃないか。タジマさんの言葉には、最初から裏もなければ勘ぐることも何もない。この人は全部、事実だけを話していた――馬鹿正直に。言葉そのまま見守っていたのだ。
見守る。
見て、守る。
自分が守らなければならないというものから。
思えば背中がこそばゆくなったのは、橘さんに大地くん、そしてお客であるあのサラリーマンさん――いずれも男性と接触したときだ。タジマさんは背中で悪さをすることで、わたしが男の手に警戒するように仕向けたかったのかもしれない。
それに霊が見えるようになって生まれた抵抗感――一般家庭には、タジマさんと同じような浮遊霊が日夜問わず往来している。家族と生活しているならまだしも、一人暮らしをしている女子なら危険もあるだろう。他の霊から守ること。それなら背丈を変えたのも、異様に身のこなしがいいことも頷ける。
そう、全ては娘という存在を守るため――。
「でも娘さんは、どうされたんですか。どうして娘さんは見守らないんですか」
わたしは起き上がったタジマさんに顔を向ける。咄嗟に庇った女子の口からいきなり娘のことが出てくるのは、さぞや奇妙なことだろう。事実、春子さんも大地くんたちも話がよく分からない様子で首をかしげている。
タジマさんは銀縁眼鏡の奥から探るような目でわたしを見た。けれども不意に詮索をやめて、眼鏡を押し上げる。
「妻と娘が出て行ったあと過労で死んだ私は、二人を探してしばらく彷徨った。そして見つけた時、二人は別の男と一緒に暮らしていた。私と一緒にいたときよりも、幸せそうにね」
その瞬間だけ、タジマさんは表情を歪めた。
「今の娘を笑顔にさせているのは、紛れもなく今の夫だ。私が十分に与えられなかったことを、あの男は娘にしてやっている。それさえ分かれば私の出る幕はない。――私が見守る必要はないんだ」
春子さんたちは黙ってタジマさんを見つめている。わたしは尻ポケットに仕舞っておいた白い小花の刺繍がついたヘアピンを取り出した。
「これを盗もうとしたのはどうしてですか」
タジマさんはヘアピンをじっと見る。
「単純に、娘を忘れたくなかったからだ。もう娘の顔は見れない。何もしてやれない。だからせめて、己の欲を自分で満たすしかなかった。君を狙ったのもそういうことだ。自分の娘でなくても誰かの娘を守れば、この後悔も、やり切れなさも埋まる気がした。ただの自己満足に浸りたかったんだ」
タジマさんは、娘に何もしてやれなかった、しようとしなかった自分を後悔した。けれどもその後悔の償いは、自分の手で形にする前に、他の人の手によって埋められた。残ったのは、溜め込んで昇華しきれなかった愛情の行き場。だからそのはけ口を探した。
自分がそれで満足できるように。
自分で自分を許せるように。
全ての顛末は、不器用ながらも精一杯、愛情を表現した結果だった。
悩んで、迷って、もがいて、苦しんだ末の、結果――。
タジマさんはわたしに深く頭を下げた。
「すまなかった」
言葉が切れると、その場には重い沈黙が降りた。頭上から流れるBGMがやけに大きく聞こえる。わたしは二十歳以上も離れている男性の頭部を見つめて、言葉を探した。こういうときって、何を言えばいいんだろう。
手に持ったヘアピンに視線を落とす。
タジマさんはわたし以外の女の子のところを転々としてきた。それでもまだ、彼は成仏できていない。ここでわたしが許すと言っても、彼自身はこれからも彷徨い続けるんだろう。自分が満足するまで。それはつまり、裏を返すと――
タジマさんはまだ、自分の中でうまく折り合いがついていないんだ。
自分のことが許せる分だけの、やり残したことがまだある。
こんな小さなヘアピンに縋ってしまうほどの、大きな未練。
ヘアピン――……そうか。
「……タジマさん、どうでしょう」
わたしは前髪をまとめて値札がついたままのヘアピンを斜めに挿す。タジマさんにはにかみながら訊いた。
「似合いますか……?」
タジマさんはハタとこちらに顔を上げた。銀縁眼鏡の奥で一瞬目を見張って、口を微かに開ける。けれどもそこから言葉は出てこない。
「あら七ちゃん。急にどないしたん? まぁ似合うてるけども」
春子さんが訝しげにこちらを振り返る。わたしは慌てて顔の前で両手を振った。
「き、気にしないでくださいっ。その、試しにやってみたって感じで、お、男の人の感想がほしいなぁ~と思ったっていうか……!」
「あらそうなん? まぁ今までの会話で大体話は読めたわなぁ」
春子さんは別段気にする様子もなくあっさり流すとタジマさんに向き直る。すでにさっきまでの覇気は鎮火し、平常の温和な雰囲気が戻ってきていた。
「そやけどお客さん、万引きしようとするんはあきまへんで。ええ大人が情けない真似してから。うちは立派なスーパーなんです。お金払ってくれへんと困りますよって」
そう言ってタジマさんを軽く睨む。タジマさんはグッと眉間に皺を寄せて口を真一文字に引き結んだ。その場に居住まいを正し、「申し訳なかった」ともう一度頭を下げる。
春子さんは厳しい顔から一転、ふふ、と柔らかく笑った。
「そやったらさっきの感想、言うてあげたらどないです? ほら、どない思われますのや」
わたしの肩を引き寄せてタジマさんに見せる。タジマさんは戸惑った顔をしてわたしを見た。おじさんに真正面から見据えられてわたしも思わず尻込みする。自分から振ったけどちょっと恥ずかしい。
「自分は可愛いと思うっス。よく似合ってると思いますっスよ」
「わっきゃ姉っちゃみだいでぎれいだ」
座り込んでいるわたしたちの周りから、大地くんとゆかりちゃんも感想を言ってくれる。やだなぁ、鏡がないから自分が今どんな顔をしているのか分からない。口元が緩みまくってきっと変な顔になっているだろう。でも、これもタジマさんのためだ。
タジマさんはきっとまだ、娘に言えなかったあのヘアピンのことを後悔している。
だったら――それを叶えてあげたらいい。
「で、お客さんはどない思われます?」
改めて春子さんがタジマさんに訊く。
タジマさんは春子さんを見て、わたしを見て、自分の手元を見て、しばらく黙り込んだ。
やがて、その口からポツリと言葉が零れる。
「……可愛らしい」
一度出てきた言葉は、口から国旗が出てくるマジックみたいに次々と溢れてくる。
「可愛くて、綺麗で、可憐で、美しくて、純真で、健気で、でもやっぱり……可愛くて――……ああ、やっと言えた」
タジマさんはわたしたちに顔を上げて笑う。
「やっと、言えたよ」
その顔は、今ようやく重い荷物を降ろしたかのようで。
神経質そうな顔立ちからは想像もつかないくらい、晴れやかなものだった。
不意に、タジマさんの体が淡い光に包まれる。目の前で春子さんが立ち上がった。続いてゆかりちゃん、大地くんもお腹の前で手を重ねる。彼らの動きが読めて、わたしも慌てて立ち上がった。徐々に姿が薄れ始めているタジマさんの前で、教えてもらった通り両手をお腹の前で重ねて背筋を伸ばす。わたしたちは挨拶と一緒に頭を下げた。
「ご来店、ありがとうございました」
顔を上げると、タジマさんは満足そうに笑っていて。
光の泡となってその場から消えた。
◇◇◇
「はい、というわけで三人は閉店まで居残りでぇす‼」
一騒動を終えて昼が過ぎ、すっかり店内が通常営業に戻ったところで、橘さんはサビカに再集合したわたしたちにそう言い放った。正確には、わたしの隣で肩身を縮めている春子さん、大地くん、ゆかりちゃんにだ。
「今回の騒動でぇ、クレームも入りましたぁ。まずレジに誰もいなぁい、店内で従業員が暴れているぅ、あと危うく突き飛ばされかけたとかぁ! お前らアホかッ、従業員が何やってんの⁉ あと店壊す気か!」
「自分は橘さんの指示に従ったまでっス」
「俺がハエ叩きを持って追い回せっつったか、大地」
腕組みした橘さんに睨まれて大地くんは黙り込む。ぐうの音も出ないのが見てとれた。わたしは心の中で大地くんに合掌する。
結局あれからレジに戻ってくると、橘さんが代わりに接客をこなしていた。お菓子コーナーも綺麗に片付けられて、雑貨コーナーを除けば全て元通りになっていたあたり、腰が痛いと言っていながらも裏方に回ってくれていたらしい。わたしたちはそんな橘さんを全力で称賛し、全力で謝罪して、今お説教されているのだった。
「まぁ新太くん、そないカッカせぇへんでもええやないの。お客さんには『ゴキブリの霊が出て騒いでいた』言うて誤魔化したんやろ? 実際そんなもんやったし、仕方のうあらへんとちがう? それにほら、おかげでお客さんも成仏されたわけやし」
黙ってしまった大地くんに代わって春子さんが出撃する。橘さんは冷やかに目を細めた。
「戦犯が何言ってんですか、春子さん。たとえお客さんが成仏したとはいえ、それとこれとは話は別です。この事態の責任として特別手当はナシです」
春子さんは膝から崩れ落ちた。
「うちとのことは遊びやったんかッ!」
昼ドラか。
「嘘は吐いてないですよ。実際、途中までは本当に出そうと思っていたんです。でもあの雑貨コーナーの惨状といい、大地とゆかりちゃんに武器を強要したことといい、責任はとってもらわないと。あと俺も腰痛かったし? 当然の結果です」
「ひどいっ!」春子さんは手で顔を覆って泣いてしまう。でもまぁ妥当な処分だ。
春子さんも撃沈されて残る兵士はゆかりちゃんだけになったけど、ゆかりちゃんはすでに顔を真っ青にして半泣きになりながら猛省している。命を持って償うとでも言い出しそうな雰囲気だった。これはこれで心配になる。
「つーわけで、俺と七瀬ちゃんは帰るから。残業代は出るわけだし、ちゃんとレジ締めして戸締まりしろよ」
そう言いつつ橘さんはわたしの肩に腕を回す。湿布くさい。見かけによらずダメージがまだ残っているらしい。わたしは橘さんに小首をかしげた。
「わたしも帰っていいんですか」
「いいのいいの。つーかもう七瀬ちゃんは仕事終わってる時間だし。俺は腰痛で早退。さーけぇろけぇろ」
「飯抜きで閉店まで労働とか、そこらのブラック企業でもあり得ないと思うんスけど」
「労働基準法ガン無視やね」
「そこ聞こえてるぞ二人! あとでご飯もってくるし明日休みにするし残業手当もつけるので今日だけ頑張ってくださいお願いしますっ」
不満を呈すメンバーをあしらい、橘さんはわたしの背中を押して逃げるようにバッグヤードに行く。退社のタイムカードの切り方を教えてもらってから更衣室に入り、店を出た。
外に出ると、清々しい風が正面から吹き込んできた。今日半日の疲労を労るにはいい風だった。辺りは朝と変わらず夕暮れ時だけど、見上げた夕焼け空はなんだか来たときとは違う感じがする。赤い彼岸花が咲き乱れる野原から鬱蒼と茂る森へと歩きながら、わたしは傍らの橘さんに顔を上げた。
「そういえば橘さん、この店で六文銭を使い切ったお客さんは無事にあの世に渡れるんですか? 六文銭といったら三途の川を渡るための舟代でしょう」
「あー……泳いでいくんじゃね?」
「知らないんですか」
「そういうとこは死神さんの仕事だからね。専門屋にゃ管轄外さ」
「でも……せっかくこの世から離れることができたのに、お金がないせいであの世に逝けなかったらどうするんですか。タジマさんは大丈夫なんですか」
「さぁね。まぁそれもまた、あの人がした選択だよ」
橘さんは前を見据えながら言った。
「全てのものには因果がある。因果ってのは選択によって生まれるもんさ。タジマさんは自分にとっての最善の選択をしたに過ぎない。だから結果、川を渡れなくなっても、あの人は甘んじて受け入れるだろうよ。舟がないならきっと泳いでいく」
「……そうでしょうか」
「そういうもんよ。――でもね」
不意に、指先に何かが触れた。驚いて立ち止まる。
ひんやり冷えている長い指が、わたしの手先を握っている。それほど強くもなく、かといって簡単に振りほどけるほどでもない、枝に引っかかる蔦のような触れ方だった。
橘さんは微笑みながら、静かに続ける。
「俺の場合は選択しても後悔が残る。確かにあの人を成仏させたい気持ちはあったから、私情を押さえて仕事を優先したけどさ。本当は、ちゃんと嫌だったよ。七瀬ちゃん。俺以外の男が君の身体に触れたこと」
「……そう、ですか。全然そうは見えませんでしたけど。ていうか、嫉妬するほどまだわたしのこと好きじゃないでしょう、橘さんは。好きなところ一個も言えてないんですよ」
「うん。まぁ、そうなんだけど。これが嫉妬なのかどうかは俺も正直分からん。でも、いつでも正直でいろって君が言ったから、正直に言うけど――『俺以外見ないでほしい』とは思ったよ。だって君は俺に恋してもらわなきゃいけないからさ」
思わず息を止める。勝手に心臓が跳ねた。
「俺は君を好きになりたい。誰にも取られたくない。だからあの人に七瀬ちゃんが触られたのが、嫌だった。この気持ちは義務からきているのか本心からきているのかは分からないけど、嘘ではないよ。嫉妬じゃないけど危機感ってもんが働いたのかもしれない」
柔らかく穏やかに言葉を紡ぐ一方で。
手先を軽く握っていた指は、ゆっくり、深く、絡んでいく。
「だから七瀬ちゃんも、もし俺と一緒にいるのが嫌じゃないんなら、俺のこと意識してほしい。俺が七瀬ちゃんに何を思ってるのか、どうしたいのか、頭の隅にでも入れといてほしい。でないとこの先、また同じようなことが起きたとき、俺今みたいに理性的に動けるか分からないからさ。とりあえず今は無闇に死霊を招かないようにだけ気をつけて……って聞いてる? 七瀬ちゃん」
「あ、ひゃい」
急に呼びかけられ、声が裏返った。ただでさえ熱かった耳が、さらに熱くなる。心臓も運動会でも始めたんじゃないかというほど煩かった。だってこんな――こんな手の握られ方されちゃぁ誰だってこうなるだろ。反則だ。
橘さんは一瞬目をパチクリさせてから、なんとも嫌な笑顔になった。
「あっらぁ~、茹でタコみたいに真っ赤になってるじゃん、七瀬ちゃん。大丈夫?」
「………………誰のせいだと」
「俺にドキドキしちゃった? それでいいんだよ、俺のこともっと意識してよ」
「嫌ですよ。変態ですか」
「変態かもね。だから気をつけるんだよ、七瀬ちゃん。襲われないように」
絡みついた彼の手は、あっという間にわたしの手をすっぽりおさめてしまう。もう振りほどこうにも解けない。
後悔先に立たず――何かを始めるのであれば必ず一度は味わう苦汁であり、戒めの言葉。
ああ、まったく。その通り。
この人を正直者にするんじゃなかった。
窓から陽気な日が差し込む書斎で新聞を広げている。骨張った手が紙の端をつまんで滑らかにめくっていく。タジマさんの中にわたしという意識が入り込んでいるらしかった。
「どうして沙枝のことをもっと見てやれないの」
つと、後ろから女の人の声がする。タジマさんの、奥さんだ。
「さっきのヘアピン。あれ、あなたが喜ぶかもって沙枝が自分で選んだものだったのよ。それを『可愛い』とか『似合っている』とかの一言も言わないで。喜ぶ顔一つしない。褒めてあげなさいよ、ちゃんと」
タジマさんの脳裏によぎったものが、そのままわたしにも伝わってくる。
そう、昨日――奥さんは十歳の誕生日になる娘と一緒に買い物に出かけていた。「誕生日だからなんでも買ってあげる」と彼女に言われ、娘が選んだものが二つセットのヘアピンだったという。赤い小花の刺繍とドット柄のリボンがついたヘアピンを前髪に挿し、先ほどはにかみながら書斎に来た娘の姿が、瞼の裏に浮かんだ。
タジマさんは新聞に目を落としたまま、機械的な動きでページをめくる。
「可愛いかと訊かれたから、お前がそう思うならそうだろうと答えたまでだ」
「だったら『可愛いね』って言いなさいよ。なんであなたはいつもそういう言い方しかできないの。自分の娘じゃない」
書斎の隅にいる奥さんの声のトーンが少し上がる。身の内に苛立ちを募らせているのは背を向けていても分かった。同時に、タジマさんの胸のうちに葛藤に似た感情が沸いてくる。
――あの時の娘の問いには、それしか答えられなかったんだ。
妻ゆずりの白い肌を上気させ、無垢な黒い瞳でこちらの反応を窺い、ピンを挿した前髪を撫でつける娘の姿は、確かに可愛らしかった。そして綺麗でもあり、美しくもあり、可憐で、純真で、健気で、でも可愛らしくて――。そんな感情が一度に胸に湧き上がってきて、どう形容したらいいか分からず、僅かな逡巡の後に絞り出したのが、さっきの言葉だったらしい。
奥さんもタジマさんがこういう性格だということは知っている。知っているから一緒になってくれた。けれども、なかなか胸中の言葉を口に出さない彼に日々不満を募らせていることもまた、隠しようもない事実だった。タジマさんが、胸の内では奥さんと娘のことを愛していることは、痛いほど伝わってくるというのに。
「昨日の夜だって一緒にお祝いもせずに朝方に帰ってきて。ねぇ、本当に沙枝のことを大事に思っているの? あたしたちのことを愛してくれているの?」
「大事に思っているから、なに不自由ない生活が送れているんだろう。それとも今の私の稼ぎに不満でもあるのか」
タジマさんは、新聞から顔を上げて妻を振り返る。
奥さんはしばらくタジマさんを見つめた。何か言いたそうに一瞬口を開きかけたけど、結局なにも言わず引き結ぶ。話にならないとでもいうようにこちらに背を向けた。
「……どうしてそういう言い方しかできないのよ」
ああ、そうか。
タジマさんという人となりが、分かった気がする。
この人は――ひどく不器用だ。そして不器用であることを自負している。
だからせめて、奥さんと娘がこれ以上不自由な思いをしないよう、暮らしを充実させることに専念してきたんだろう。口ではうまく語れないが、背中なら語れると。仕事人間であることこそが、自分の精一杯の愛情表現だと。
朝が来て会社に出社し、夜遅くまで、休日すらも返上して働く。時には部下のクビを切ったり、部署の中で進めてきた企画を一言で破綻させる汚れ仕事もやってきたのかもしれない。それでも反感も陰口も聞き流していれば出世する。出世すれば金が増え、家族を養うことができる。
それが不器用なタジマさんにとっての、家族の愛し方だったのかもしれない。
不意に、書斎の景色が変わる。まるで映像を早送りするかのように、目まぐるしく時間が動いていく。いつの間にか家から奥さんと娘の物がなくなり、会社にいる景色が長くなり、だんだんと記憶が朧気に、断片的に――。最後には視界が大きく揺れて何も見えなくなった。
タジマさんは――奥さんと娘に出て行かれてすぐに、過労が祟って死んだのだ。
真っ暗闇の中、死に際の彼の声が、わたしの頭に直接響く。
――あまりにも理想からかけ離れた死に様じゃないか。
なにが愛情表現だ。何も表現できちゃいない。何も伝わっちゃいない。
伝えたい距離は縮まるどころか離れていき、そして途切れたのだ。
全ては自分が、自分の思いを伝えてこなかったから。
娘に背中で語ろうとするばかりで、ずっと目を合わせてこなかったから。
本当はこの先素晴らしい未来が待っているはずだった。運動会や参観日、卒業式、受験、成人式、そして結婚。あの子の前で素直になれていたら、どんなによかったことか。
後悔している。
娘に何もしてやれなかった自分を、しようとしなかった自分を、後悔している――。
***
「――七ちゃん!」
春子さんの声にわたしはハッと我に返る。いつの間にか視界が薄く潤んでいた。
お尻のあたりに鈍い痛みがある。どうも箱が落ちてきた拍子に、その場に尻餅をついたらしい。わたしは目尻を拭って瞬きする。ふと顔を上げて、目を丸くした。
わたしの目の前には大人サイズになったタジマさんが床に伏せっていた。傍らには落ちてきた箱が転がっている。春子さんたちも驚いた様子でわたしとタジマさんを囲んでいた。
「た、タジマさん、大丈夫ですか⁉」
わたしは急いで箱をどかしてタジマさんの肩に手を添える。タジマさんは呻き声を漏らしてゆっくりと半身を起こした。整えられていた髪は乱れて前髪の数本が目元に垂れている。彼はハタとわたしに顔を上げ、全身を見回した。
「君、怪我は」
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」
「七ちゃんから離れなはれ!」
我に返った春子さんが急いでわたしとタジマさんの間に入ってくる。わたしを背に回し、素早く胸元に剣印を作った。
「万引き未遂で逃げ出した挙げ句、ここにきてまた七ちゃんを狙いますんか。ええ加減せぇへんと、そろそろこっちもそれ相応の対処させてもらいますで」
「は、春子さんっ、待ってください、違います!」
わたしは慌てて春子さんにしがみつく。ギョッとして振り返る春子さんに懸命に訴えた。
「違うんです、タジマさんは変人じゃないです。タジマさんは何もしてないんです。この人はただ――えげつないくらい不器用な人なんです! もうそれは可哀想なほどに!」
「必死なんは分かるけど空回って貶しになってんで七ちゃん」
「と、とにかく違うんです! タジマさんのことは全部誤解です」
どうしてタジマさんはわたしの背中に張り付いていたのか、女子高生の部屋に潜んでいたのかはもう解けた。そもそもタジマさんは最初に「痴漢はしていない」って言っていたじゃないか。タジマさんの言葉には、最初から裏もなければ勘ぐることも何もない。この人は全部、事実だけを話していた――馬鹿正直に。言葉そのまま見守っていたのだ。
見守る。
見て、守る。
自分が守らなければならないというものから。
思えば背中がこそばゆくなったのは、橘さんに大地くん、そしてお客であるあのサラリーマンさん――いずれも男性と接触したときだ。タジマさんは背中で悪さをすることで、わたしが男の手に警戒するように仕向けたかったのかもしれない。
それに霊が見えるようになって生まれた抵抗感――一般家庭には、タジマさんと同じような浮遊霊が日夜問わず往来している。家族と生活しているならまだしも、一人暮らしをしている女子なら危険もあるだろう。他の霊から守ること。それなら背丈を変えたのも、異様に身のこなしがいいことも頷ける。
そう、全ては娘という存在を守るため――。
「でも娘さんは、どうされたんですか。どうして娘さんは見守らないんですか」
わたしは起き上がったタジマさんに顔を向ける。咄嗟に庇った女子の口からいきなり娘のことが出てくるのは、さぞや奇妙なことだろう。事実、春子さんも大地くんたちも話がよく分からない様子で首をかしげている。
タジマさんは銀縁眼鏡の奥から探るような目でわたしを見た。けれども不意に詮索をやめて、眼鏡を押し上げる。
「妻と娘が出て行ったあと過労で死んだ私は、二人を探してしばらく彷徨った。そして見つけた時、二人は別の男と一緒に暮らしていた。私と一緒にいたときよりも、幸せそうにね」
その瞬間だけ、タジマさんは表情を歪めた。
「今の娘を笑顔にさせているのは、紛れもなく今の夫だ。私が十分に与えられなかったことを、あの男は娘にしてやっている。それさえ分かれば私の出る幕はない。――私が見守る必要はないんだ」
春子さんたちは黙ってタジマさんを見つめている。わたしは尻ポケットに仕舞っておいた白い小花の刺繍がついたヘアピンを取り出した。
「これを盗もうとしたのはどうしてですか」
タジマさんはヘアピンをじっと見る。
「単純に、娘を忘れたくなかったからだ。もう娘の顔は見れない。何もしてやれない。だからせめて、己の欲を自分で満たすしかなかった。君を狙ったのもそういうことだ。自分の娘でなくても誰かの娘を守れば、この後悔も、やり切れなさも埋まる気がした。ただの自己満足に浸りたかったんだ」
タジマさんは、娘に何もしてやれなかった、しようとしなかった自分を後悔した。けれどもその後悔の償いは、自分の手で形にする前に、他の人の手によって埋められた。残ったのは、溜め込んで昇華しきれなかった愛情の行き場。だからそのはけ口を探した。
自分がそれで満足できるように。
自分で自分を許せるように。
全ての顛末は、不器用ながらも精一杯、愛情を表現した結果だった。
悩んで、迷って、もがいて、苦しんだ末の、結果――。
タジマさんはわたしに深く頭を下げた。
「すまなかった」
言葉が切れると、その場には重い沈黙が降りた。頭上から流れるBGMがやけに大きく聞こえる。わたしは二十歳以上も離れている男性の頭部を見つめて、言葉を探した。こういうときって、何を言えばいいんだろう。
手に持ったヘアピンに視線を落とす。
タジマさんはわたし以外の女の子のところを転々としてきた。それでもまだ、彼は成仏できていない。ここでわたしが許すと言っても、彼自身はこれからも彷徨い続けるんだろう。自分が満足するまで。それはつまり、裏を返すと――
タジマさんはまだ、自分の中でうまく折り合いがついていないんだ。
自分のことが許せる分だけの、やり残したことがまだある。
こんな小さなヘアピンに縋ってしまうほどの、大きな未練。
ヘアピン――……そうか。
「……タジマさん、どうでしょう」
わたしは前髪をまとめて値札がついたままのヘアピンを斜めに挿す。タジマさんにはにかみながら訊いた。
「似合いますか……?」
タジマさんはハタとこちらに顔を上げた。銀縁眼鏡の奥で一瞬目を見張って、口を微かに開ける。けれどもそこから言葉は出てこない。
「あら七ちゃん。急にどないしたん? まぁ似合うてるけども」
春子さんが訝しげにこちらを振り返る。わたしは慌てて顔の前で両手を振った。
「き、気にしないでくださいっ。その、試しにやってみたって感じで、お、男の人の感想がほしいなぁ~と思ったっていうか……!」
「あらそうなん? まぁ今までの会話で大体話は読めたわなぁ」
春子さんは別段気にする様子もなくあっさり流すとタジマさんに向き直る。すでにさっきまでの覇気は鎮火し、平常の温和な雰囲気が戻ってきていた。
「そやけどお客さん、万引きしようとするんはあきまへんで。ええ大人が情けない真似してから。うちは立派なスーパーなんです。お金払ってくれへんと困りますよって」
そう言ってタジマさんを軽く睨む。タジマさんはグッと眉間に皺を寄せて口を真一文字に引き結んだ。その場に居住まいを正し、「申し訳なかった」ともう一度頭を下げる。
春子さんは厳しい顔から一転、ふふ、と柔らかく笑った。
「そやったらさっきの感想、言うてあげたらどないです? ほら、どない思われますのや」
わたしの肩を引き寄せてタジマさんに見せる。タジマさんは戸惑った顔をしてわたしを見た。おじさんに真正面から見据えられてわたしも思わず尻込みする。自分から振ったけどちょっと恥ずかしい。
「自分は可愛いと思うっス。よく似合ってると思いますっスよ」
「わっきゃ姉っちゃみだいでぎれいだ」
座り込んでいるわたしたちの周りから、大地くんとゆかりちゃんも感想を言ってくれる。やだなぁ、鏡がないから自分が今どんな顔をしているのか分からない。口元が緩みまくってきっと変な顔になっているだろう。でも、これもタジマさんのためだ。
タジマさんはきっとまだ、娘に言えなかったあのヘアピンのことを後悔している。
だったら――それを叶えてあげたらいい。
「で、お客さんはどない思われます?」
改めて春子さんがタジマさんに訊く。
タジマさんは春子さんを見て、わたしを見て、自分の手元を見て、しばらく黙り込んだ。
やがて、その口からポツリと言葉が零れる。
「……可愛らしい」
一度出てきた言葉は、口から国旗が出てくるマジックみたいに次々と溢れてくる。
「可愛くて、綺麗で、可憐で、美しくて、純真で、健気で、でもやっぱり……可愛くて――……ああ、やっと言えた」
タジマさんはわたしたちに顔を上げて笑う。
「やっと、言えたよ」
その顔は、今ようやく重い荷物を降ろしたかのようで。
神経質そうな顔立ちからは想像もつかないくらい、晴れやかなものだった。
不意に、タジマさんの体が淡い光に包まれる。目の前で春子さんが立ち上がった。続いてゆかりちゃん、大地くんもお腹の前で手を重ねる。彼らの動きが読めて、わたしも慌てて立ち上がった。徐々に姿が薄れ始めているタジマさんの前で、教えてもらった通り両手をお腹の前で重ねて背筋を伸ばす。わたしたちは挨拶と一緒に頭を下げた。
「ご来店、ありがとうございました」
顔を上げると、タジマさんは満足そうに笑っていて。
光の泡となってその場から消えた。
◇◇◇
「はい、というわけで三人は閉店まで居残りでぇす‼」
一騒動を終えて昼が過ぎ、すっかり店内が通常営業に戻ったところで、橘さんはサビカに再集合したわたしたちにそう言い放った。正確には、わたしの隣で肩身を縮めている春子さん、大地くん、ゆかりちゃんにだ。
「今回の騒動でぇ、クレームも入りましたぁ。まずレジに誰もいなぁい、店内で従業員が暴れているぅ、あと危うく突き飛ばされかけたとかぁ! お前らアホかッ、従業員が何やってんの⁉ あと店壊す気か!」
「自分は橘さんの指示に従ったまでっス」
「俺がハエ叩きを持って追い回せっつったか、大地」
腕組みした橘さんに睨まれて大地くんは黙り込む。ぐうの音も出ないのが見てとれた。わたしは心の中で大地くんに合掌する。
結局あれからレジに戻ってくると、橘さんが代わりに接客をこなしていた。お菓子コーナーも綺麗に片付けられて、雑貨コーナーを除けば全て元通りになっていたあたり、腰が痛いと言っていながらも裏方に回ってくれていたらしい。わたしたちはそんな橘さんを全力で称賛し、全力で謝罪して、今お説教されているのだった。
「まぁ新太くん、そないカッカせぇへんでもええやないの。お客さんには『ゴキブリの霊が出て騒いでいた』言うて誤魔化したんやろ? 実際そんなもんやったし、仕方のうあらへんとちがう? それにほら、おかげでお客さんも成仏されたわけやし」
黙ってしまった大地くんに代わって春子さんが出撃する。橘さんは冷やかに目を細めた。
「戦犯が何言ってんですか、春子さん。たとえお客さんが成仏したとはいえ、それとこれとは話は別です。この事態の責任として特別手当はナシです」
春子さんは膝から崩れ落ちた。
「うちとのことは遊びやったんかッ!」
昼ドラか。
「嘘は吐いてないですよ。実際、途中までは本当に出そうと思っていたんです。でもあの雑貨コーナーの惨状といい、大地とゆかりちゃんに武器を強要したことといい、責任はとってもらわないと。あと俺も腰痛かったし? 当然の結果です」
「ひどいっ!」春子さんは手で顔を覆って泣いてしまう。でもまぁ妥当な処分だ。
春子さんも撃沈されて残る兵士はゆかりちゃんだけになったけど、ゆかりちゃんはすでに顔を真っ青にして半泣きになりながら猛省している。命を持って償うとでも言い出しそうな雰囲気だった。これはこれで心配になる。
「つーわけで、俺と七瀬ちゃんは帰るから。残業代は出るわけだし、ちゃんとレジ締めして戸締まりしろよ」
そう言いつつ橘さんはわたしの肩に腕を回す。湿布くさい。見かけによらずダメージがまだ残っているらしい。わたしは橘さんに小首をかしげた。
「わたしも帰っていいんですか」
「いいのいいの。つーかもう七瀬ちゃんは仕事終わってる時間だし。俺は腰痛で早退。さーけぇろけぇろ」
「飯抜きで閉店まで労働とか、そこらのブラック企業でもあり得ないと思うんスけど」
「労働基準法ガン無視やね」
「そこ聞こえてるぞ二人! あとでご飯もってくるし明日休みにするし残業手当もつけるので今日だけ頑張ってくださいお願いしますっ」
不満を呈すメンバーをあしらい、橘さんはわたしの背中を押して逃げるようにバッグヤードに行く。退社のタイムカードの切り方を教えてもらってから更衣室に入り、店を出た。
外に出ると、清々しい風が正面から吹き込んできた。今日半日の疲労を労るにはいい風だった。辺りは朝と変わらず夕暮れ時だけど、見上げた夕焼け空はなんだか来たときとは違う感じがする。赤い彼岸花が咲き乱れる野原から鬱蒼と茂る森へと歩きながら、わたしは傍らの橘さんに顔を上げた。
「そういえば橘さん、この店で六文銭を使い切ったお客さんは無事にあの世に渡れるんですか? 六文銭といったら三途の川を渡るための舟代でしょう」
「あー……泳いでいくんじゃね?」
「知らないんですか」
「そういうとこは死神さんの仕事だからね。専門屋にゃ管轄外さ」
「でも……せっかくこの世から離れることができたのに、お金がないせいであの世に逝けなかったらどうするんですか。タジマさんは大丈夫なんですか」
「さぁね。まぁそれもまた、あの人がした選択だよ」
橘さんは前を見据えながら言った。
「全てのものには因果がある。因果ってのは選択によって生まれるもんさ。タジマさんは自分にとっての最善の選択をしたに過ぎない。だから結果、川を渡れなくなっても、あの人は甘んじて受け入れるだろうよ。舟がないならきっと泳いでいく」
「……そうでしょうか」
「そういうもんよ。――でもね」
不意に、指先に何かが触れた。驚いて立ち止まる。
ひんやり冷えている長い指が、わたしの手先を握っている。それほど強くもなく、かといって簡単に振りほどけるほどでもない、枝に引っかかる蔦のような触れ方だった。
橘さんは微笑みながら、静かに続ける。
「俺の場合は選択しても後悔が残る。確かにあの人を成仏させたい気持ちはあったから、私情を押さえて仕事を優先したけどさ。本当は、ちゃんと嫌だったよ。七瀬ちゃん。俺以外の男が君の身体に触れたこと」
「……そう、ですか。全然そうは見えませんでしたけど。ていうか、嫉妬するほどまだわたしのこと好きじゃないでしょう、橘さんは。好きなところ一個も言えてないんですよ」
「うん。まぁ、そうなんだけど。これが嫉妬なのかどうかは俺も正直分からん。でも、いつでも正直でいろって君が言ったから、正直に言うけど――『俺以外見ないでほしい』とは思ったよ。だって君は俺に恋してもらわなきゃいけないからさ」
思わず息を止める。勝手に心臓が跳ねた。
「俺は君を好きになりたい。誰にも取られたくない。だからあの人に七瀬ちゃんが触られたのが、嫌だった。この気持ちは義務からきているのか本心からきているのかは分からないけど、嘘ではないよ。嫉妬じゃないけど危機感ってもんが働いたのかもしれない」
柔らかく穏やかに言葉を紡ぐ一方で。
手先を軽く握っていた指は、ゆっくり、深く、絡んでいく。
「だから七瀬ちゃんも、もし俺と一緒にいるのが嫌じゃないんなら、俺のこと意識してほしい。俺が七瀬ちゃんに何を思ってるのか、どうしたいのか、頭の隅にでも入れといてほしい。でないとこの先、また同じようなことが起きたとき、俺今みたいに理性的に動けるか分からないからさ。とりあえず今は無闇に死霊を招かないようにだけ気をつけて……って聞いてる? 七瀬ちゃん」
「あ、ひゃい」
急に呼びかけられ、声が裏返った。ただでさえ熱かった耳が、さらに熱くなる。心臓も運動会でも始めたんじゃないかというほど煩かった。だってこんな――こんな手の握られ方されちゃぁ誰だってこうなるだろ。反則だ。
橘さんは一瞬目をパチクリさせてから、なんとも嫌な笑顔になった。
「あっらぁ~、茹でタコみたいに真っ赤になってるじゃん、七瀬ちゃん。大丈夫?」
「………………誰のせいだと」
「俺にドキドキしちゃった? それでいいんだよ、俺のこともっと意識してよ」
「嫌ですよ。変態ですか」
「変態かもね。だから気をつけるんだよ、七瀬ちゃん。襲われないように」
絡みついた彼の手は、あっという間にわたしの手をすっぽりおさめてしまう。もう振りほどこうにも解けない。
後悔先に立たず――何かを始めるのであれば必ず一度は味わう苦汁であり、戒めの言葉。
ああ、まったく。その通り。
この人を正直者にするんじゃなかった。
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