黄泉の七瀬は呪われる?

冬野一

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第三章

7:激怒

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 襖一枚隔てた居間から時計の音が微かに聞こえる。閉め切られた客間は薄暗い。障子の外はもう夜だった。

 熱でも出ているのだろう。綿布団が首元まで掛かっているのに酷く寒かった。体も、指一本動かせない。重しを乗せられた漬物みたいな気分だ。

 わたしは回らない頭をどうにか働かせて、枕元にいる橘さんを見上げた。

「……帰ってたんですね」
「うん。仕事の合間に飛んで帰ってきたんだ。大地から連絡受けてね」

 橘さんは穏やかに答える。最初に出会った時と同じ、黒のジャージ姿だった。わたしはもう少し会話を繋げる。

「今、何時ですか」
「さっき午前零時を回ったとこ」
「……わたし、倒れたんでしょうか」
「うん。玄関で倒れているのを、バイトから帰ってきたゆかりちゃんが見つけたんだ。俺が帰るまでずっと看病してくれてたみたい」
「それは……迷惑をかけてしまいましたね」
「シェアハウスじゃ持ちつ持たれつだよ。気にすることない」
「…………あ、味噌汁。美味しかったです。毎朝ありがとうございました」
「七瀬ちゃんが喜んでくれたなら嬉しいよ」

 模範解答みたいな答えを続けて返され、わたしはついに逃げ場をなくす。いやべつに逃げていたわけではないけど。橘さんは微笑を浮かべながら小首をかしげた。

「他に、何か訊きたいことは?」
「……、…………ないです」
「そっか。なら本題に入ろうか」

 今までの会話はまったくどうでもよかったらしい橘さんは、不意に身を乗り出す。
 枕の脇に両手をついて覆い被さる。至近距離でわたしを覗きこんだ。

「地縛霊の場所を教えなさい」

 橘さんは、もう笑っていなかった。

「生気を根こそぎ持っていかれている。よくない霊と干渉した結果だ。大方、俺の言いつけを言われたそばからソッコーで破って会いに行ってたんだろ。違うか?」
「……仰る通りです」
「近づくなって言ったよね」
「……放っておけなかったんです」
「俺が帰ったらどうにかするって言ったの、信用できなかった?」

 ぐっと、言葉に詰まる。見据える先、彼の視線が揺れることはない。

「七瀬ちゃん。君は今回、一つ間違いを犯した。――それは善意で行動したことだ」

 抑揚のない声が淡々と振ってくる。

「君は優しい。優しいから分かってない。この世に居残る死霊ってのは皆、死んでも死にきれない思いに囚われてるから彷徨っている――言わば妄執だ。それは君が気安く介入していい話でも、生きている俺たちがどうこうできる話でもない。結局のところ全て、死霊自身の問題なんだよ」
「……でも、橘さんだって、アンコさんやタジマさんに、あれだけ親身になってたじゃ……」
「俺が、いつ、彼らの人生相談まで乗った?」

 言われて、鳩尾のあたりが冷える感覚がした。ああ、そうだ――最初、アンコさんの時、橘さんと春子さんは、ただ彼女を放置していた。『自我が残っているうちは本人の意志を尊重したい』と。

 タジマさんの時も、あくまで過去を覗いたのはわたしだけで、皆は『万引き未遂犯』として事情を聞こうとしていただけだった。

 線引きは、始めから正しくそこにあった。

 わたしが。わたしだけが、今回勝手に見誤ったのだ。

「君は今回、『善意』で俺の言いつけを破り、『善意』で地縛霊と関わった。そして『善意』でソイツの問題を中途半端にかき乱し、『善意』の結果として今その報いを受けている。まったく綺麗な自業自得だよ。だけど俺はべつに怒っちゃいないから安心して。だって君は今月視えるようになったばかりの一般人で、境界線なんて分かるはずがないんだ。一度くらい痛い目を見とかないと時には分からないことだってある。だから七瀬ちゃん――俺は君を許すから教えてほしい。その地縛霊……いや、怨霊はどこだ」
「…………怒ってる人ほど怒ってないって言うんですよ」
「俺が本当に怒ってるのは君をこんなにしたその怨霊だから。いや、たぶん複合霊かな。すこぶる厄介で面倒でしかない死霊さんだ。残念だけど、話を聞いても同情はできないな」
「それは……本当に残念です」

 心からの言葉だった。ぼんやり彼を見上げていたわたしは小さく息を吸う。

「橘さん、すみません。地縛霊の場所は言えないです」
「……どうして?」
「除霊してほしくないからです。確かにわたしは、自分の浅はかさで彼を中途半端に振り回していると思いますが、だから、見捨てたくないんです。ちゃんと成仏してほしいと思ってしまうんです。ここまで善意で動いてしまったら、最後まで善意を貫きたいです」
「そりゃ自己満足だろ」
「そうです。自己満足です。わたしは身勝手に彼を助けたいんです」

 言葉に力を込める。もう開き直るしかなかった。開き直ったと思われても仕方がなかった。

 あっちとこっちの境界線。それを跨いでしまったハルトくんは、もうこっちには戻ってこられない。戻りたくても戻れない。望んでも叶わない。分かってる。それが死者だ。

 でもじゃあ、わたしはどうして視えるようになったんだろう。

 どうして黒い影だったアンコさんが、お婆さんとして視えるようになったんだろう。
 どうしてわたしにだけ、タジマさんの過去が見えたのだろう。

『もしやお前には死霊に何かしら影響を及ぼす力があるんじゃないか』

 ハルトくんが言っていた。――うん、そうかも。あるかもしれない。

 視えるようになったわたしには、きっとわたしにしかできない何かがあるんだ。

 だからここで、何もしない人間にはなりたくない。

 橘さんは冷やかにわたしを見つめている。薄暗くても分かる双眼は、一切の波が立たない静かな湖面だ。

「……変わったもんだね、七瀬ちゃん。最初、アンコさんのときは除霊をいの一番に言ってたのに」
「橘さんが教えてくれたんですよ。人に悪さをする霊は、成仏できないからするんだって。人に縋ってでも答えを探していると」

 悩み、苦しみ、迷って、もがきながら。

「わたしも最近、その考えがいいなと思ってきていたんです。わたしを変えたのは、あなたですよ。橘さん。あと――この際だから言っておきますが、橘さんはとても顔が綺麗です」

 率直に口にすると、目の前の凪いでいた双眼が簡単にゆらいだ。

「は、顔?」
「出会った時から思っていましたが、こうも間近で見つめると改めてといいますか。本音を言うとわたし、あなたの顔は好きかもしれないです。面食いだとか思われても仕方ないですけど、こんなに整った人、今まで見たことなかったし。なんか知りませんが世界の平和(笑)のために結婚してくださいとか言われるし。そんで同居生活となったら嫌でも意識せざるを得ないでしょうが。今まで友達一人としていなかったわたしには異世界転移ものですよ。あなたのせいで普通で無難な人生が台無しです。分かります?」
「え、ちょ、なにいきなり。なんで急にべた褒め始めてんの七瀬ちゃん。熱上がったんじゃない――って、アツっ。冷えピタいる、冷えピタっ」
「あー、ちょっと、手がいいです。手が。橘さんの手、ひんやりしてて気持ちいー」

 鉛のように重い腕を動かして、額にのった彼の手を留める。そうか、いつの間にか熱が上がってしまっていたらしい。なんだかけっこうなことを暴露したような気もするけど、熱のせいだ。もうなんでもありだ。

「橘さんは顔もいいですけど、他にもいいところたくさんありますよ。スタイルいいし、副店長代理を任されるほど実力あるし、いつもニコニコで人当たりもよくて、全然文句言わないし。毎朝の味噌汁も美味しい。まぁちょっと気持ち悪いところもありますけど、わたしなんかには勿体ない人です。もう何なんですかねぇ、あなたは。蓼食う虫も好き好きとは言いますが、前世は蓼食ってたんですか。虫だったんですか」
「分かった、分かったからストップ、七瀬ちゃん。悪かった。病床のところ無理に聞き出そうとした俺が悪かった。今はもう休んで。ほら冷えピタ張るから」
「でしたら、これだけでも聞いてください」

 わたしは橘さんの手をどけて、訴える。

「正直言うと、ハルトくんとは友達になりたかったんです。いい友達になれるような気がしたんです。それもこっちの勝手な気持ちですが、でもだから、できるところまで付き合いたいと思ってるんです。ですからせめて除霊するのは、お彼岸最終日にしてください。まだ、彼は何も思い出せていないんです」
「……思い出すって?」
「事故で亡くなったときの記憶がないそうです。だから、自分がどうして地縛霊で怨霊なのかも分からなくて……。家族に会いたくても会えないって悲しんでました。でもそれが自分の罪なのかもしれないとも――ハルトくんは、怨霊だけど、まだ怨霊じゃないんです」

 橘さんの目が細められる。「なるほど」と零した。

「だから除霊は嫌なのか」
「はい。……成仏させてあげることは可能でしょうか」
「知らんよ。さっきも言ったけど、全ては死霊自身の問題だ。俺らがどうこうできる話じゃないし、どうこうしていい話でもない」

 やはり冷たく切り捨てた彼は、乗り出していた身を引っ込める。傍らに揃っていた看病グッズから冷えピタの箱を取り、中から一枚シートを出した。

「ただまぁ、なんだ。俺はまだソイツのことぶち殺したいと思っているから手ぇ貸すことはないけど、ここで君の望みを無視して監禁でもしたら、二度とべた褒めされることも、顔が好きと言ってくれることもなかろう。だから――今回だけだ。今回だけ、大目に見る」

 透明フィルムを剥がし、額に張ってくれる。ひやっと、一瞬頭が冴えた。

「地縛霊は思いに囚われた霊だ。そしてだ。結果には原因がある。ソイツが記憶をなくした霊だというなら――
「……記憶を、なくすことを……?」
「それが怨霊になったことにも繋がっているだろうよ。だから、一人じゃ危ないので今後は大地を連れて行きなさい。あいつはまだ見習いだけど怨霊の対処はできる。いいか、俺が帰るまでだからだな。俺が帰ったらもう終わりだ。待ったはナシだからな」

 念に念を押されて額から手が離れる。わたしはおずおずとお礼を言った。

「ありがとう、ございます……」
「代わりに。七瀬ちゃんもなんか今回だけいいよってやつを俺に用意しとけ」
「えっ」
「だって不公平だろ。俺が今どんだけ耐えに耐え忍んで了承したと思っている。断腸の思いだぞ。血涙ものだぞ。今の俺を絵に描くならそれはそれはグロテスクな姿になるだろうよ。だから割に合わない。君からも何か欲しい。いいね」
「はぁ、分かりました……」

 ハルトくんのことを知ってもなお、好きにさせてくれるのだ。当然といえば当然の等価交換だろうか。

 わたしが頷いたことでいくらか機嫌が直ったのか、橘さんの眉間からようやく力が抜ける。また身を乗り出してくるとわたしの頬を優しく包んできた。

「じゃあ俺もう行くから、おまじない。目、閉じて」
「……変なことする気ですか」
「してもいい?」
「どいてください」
「冗談だって。健全なおまじないだよ。ほら、目ぇ閉じて」

 再度促され渋々閉じる。冷えピタ越しに、額が当たる感触がした。

「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」

 低くて穏やかな声音。鼻先に軽く息がかかって、心臓が跳ねる。

 でもなぜか、閉じた瞼をもう一度開けることはできなかった。橘さんの声がすうっと体に染みこんで、それまで寒かった身の内に広がる。冬空に出てきた太陽みたいな、じんわりした温もりがわたしを眠りにいざなった。わたしはそのまま、意識を手放す。

 最後に頭を過ぎったのは。

 あの交差点の電柱で、ぼんやり立ち尽くしているハルトくんの姿だった。
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