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第三章
11:終話 黄泉野七瀬は呪われる
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その晩。わたしは大変まことに後悔していた。
昨晩と同じ客間にて、敷かれた布団の上で正座してその時を待っている。廊下から足音が近づいてきたと思ったら、目の前の襖が勢いよく開いた。
「やー、やっぱり我が家の風呂は一番ですなぁ~。生き返りますわ」
イヌの顔がプリントされたパジャマを着た橘さんが、首に掛けたタオルで頭を拭きつつ現われる。わたしはゴクリと唾を呑んで神妙に訊ねた。
「…………た、橘さん、本当に本気ですか」
「そりゃもちろん。約束したっしょ? 俺にも『今回だけいいよ』券をくれって」
橘さんはニッコリと笑う。
「一緒に寝てくれるなんて嬉しいよ。もう夫婦みたいだね、俺たち」
「布団は別々ですけどねっ。ていうかもう少し離してもらえませんか⁉ なんでこんなぴったりで敷くんですっ」
わたしは傍らに並んでいる布団をバシバシ叩く。熱に浮かされていたとはいえ、なんて愚かで浅はかなことを了承してしまったのだろう。もっとよく考えて答えるべきだった。彼のことだから、こんなことになるのは分かりきっていただろうに。
ハルトくんを見送ったあと、わたしたちは帰路についた。
家に帰ると居間には大地くんが寝かされていて、ゆかりちゃんの姿はなかった。座卓には職場に戻ることと、今日は春子さんの家に泊まるというメモが残されていた。橘さん曰く、えにしさんが出てきた日は毎度こうなるらしい。恥ずかしくてとても顔を見せられないそうだ。えにしさんとは一体何なのか気になってはいたのだけど、今はひとまずお預けである。
大地くんは一晩寝たら元気になるそうで、橘さんが二階に運んでくれた。橘さんはこのお彼岸中、爆速で除霊仕事を片付けていたらしく、最後の一日を残して全てを終わらせたという。明日は休みになったので一日のんびりできるらしい。だからなのか、はたまたヒイラギ荘内での諸々のタイミングがよかったのか知らないが、彼はわたしにあの約束を迫ってきた。『今回だけいいよ』券である。
結果、こうして布団を並べて一緒に寝ることになった。
「そりゃだって、七瀬ちゃんの寝顔を近くでよく見たいじゃない。せっかく同じ部屋なのに端っこ同士で寝るなんて意味ないし」
橘さんはわたしの抗議をあっさり受け流して隣の布団に座る。フッと、こちらに不適な笑みを向けた。
「それに、七瀬ちゃんだって満更でもないでしょ? なんたって君の好きな顔が近くで見られるんだからさ。この、俺という顔が」
「病人のうわ言です」
「弱っている時ほど本音ってのは出るもんよ。そんな恥ずかしがりなさんな、七瀬ちゃん。昨日はあれだけ甘いひとときを過ごした仲じゃないの。ほら、俺の胸に飛び込んできていいよ。俺は君の全てを受け入れよう」
わたしは枕を橘さんの顔面にぶん投げる。橘さんはぐえっふと鳴いて布団に倒れた。
「なにゆえ、なにゆえ枕」
「わたしの全てを受け入れると言ったので」
「枕は呼んでない。枕は呼んでないんだ、枕は」
「いいから絶対布団の境界線を越えないでくださいよ。今回だけいいのは、あくまでここで寝ることだけですから。それ以外は許可しませんから」
「相変わらずお堅いですのー七瀬ちゃんは。もー、昨日のでれでれ七瀬ちゃんが恋しいっスわぁ~。俺のこと、あれだけべた褒めして顔が好きって言ってくれたのにさぁ」
口を尖らせた橘さんは溜め息を吐く。こちらに体を向けて頬杖をついた。
「まぁ心配しなくても襲ったりしないよ。俺これでもけっこう疲れてるし。もう体も動かんし。ていうか、仮に今ここで子どもができるようなことが起きても、困るだけだから」
わたしは眉根を寄せた。
「……困るって?」
「子育てだよ。確かに子ができれば呪いと怨霊は俺から離れるけど、次の子に移る。その子が死んでしまうようなことがあれば、結局世が滅ぶわけよ。だから愛ある子育てと愛ある家族は大事だ。理想の家族を作るには、まずは俺たちがしっかり愛し合える関係にならなければなりません。つまり君の気持ちを無視するような行いはしないってこと」
頬杖をついたまま、ニコリとわたしに微笑みかける。丸襟のパジャマを着ているせいで、首筋の模様が見えた。あの、茨の輪っかみたいな痣。
……本当にまぁ、宿命に縛られた人だ。
「橘さんは」
わたしは気になっていたことを訊いた。
「自分の中にいるっていう怨霊が憎いですか」
「んー?」あくびを噛みつぶした彼は、口をむにゃむにゃさせながら呟く。
「そうだなぁ。ぶっちゃけ生まれたときからこうだから慣れてはいるんだよねぇ。アレルギーを持っている人と同じ感じっていうか? でもまぁ強いて言うなら哀れだとは思ってる」
「……哀れ、ですか」
「うん。コイツは永年、誰にも除霊できないほど憎しみに溺れた魂だ。まだそれなりに程度が分かる怨霊なら、除霊という形で救ってやることはできる。――今日のアイツみたいに」
ハルトくんのことを思い出す。自分を怨んでいた彼の最期は、とても満足げだった。他の怨霊はどうなのか分からないけど、苦しみから解放する意味では、除霊は救いなんだろう。
橘さんは胸のあたりを軽くさする。
「でも俺の中にいる怨霊は、それすらも拒絶する霊だ。まったく大した執念だよ。憎しみなんてちっぽけな感情のためだけに、何百年とこの世に縛られてさ。バカを通り越してもう哀れじゃん。いや、やっぱバカかも」
「そんなこと言って怒りませんか、中の怨霊さん」
「大丈夫、大丈夫。俺が生きている以上は絶対出てこないから。……まーだから、仕方ないのよ。俺の人生コイツに振り回され続けるのは。逆に俺くらいは振り回されてもいいかなって思ってる。誰か一人くらいは、傍で頷いてやっててもいいだろ。――お前の気の済むまで付き合ってやるよってさ」
さすっていた彼の手が、胸の真ん中で止まる。まるで、そこにいる存在に優しく言い聞かせるように。
わたしは、なんとなく思った。
彼のご先祖さんは、賢いのかいい加減なのか分からない。軽いノリだの閃きだので、どうにかして封じたという。
でも、もしかしたらご先祖さんは、除霊できなかったのではなく――除霊できなかったのかもしれない。
だって――橘さんがそうだから。
除霊が、好きじゃないそうだから。
「……お人好しですね」
「春子さんはアホってよく言うけどね」
くあ、と大きなあくびをした橘さんは首からタオルを取って立ち上がる。
「んじゃもう寝ますか。さっき言ったように、俺なんもしないから安心してね、七瀬ちゃん。どうしても不安なら、俺壁の方を向いて寝るし」
「……だったら布団を離した方がよくないですか」
「それは嫌ですぅー。布団はくっつけときたいんですぅ。七瀬ちゃんと繋がっときたいんですぅ」
「変なこと言わないでください」
横になって布団を首元まで掛ける。それを見届けてから橘さんは明かりを消した。部屋が真っ暗になって何も見えなくなる。布団を動かす布擦れの音がすぐ横でして、改めてというか、さっきまで遠くにあった緊張がこみ上げてきた。……本当に、橘さんと寝るのか。
「七瀬ちゃん」
暗闇から橘さんの声がした。いきなり呼ばれただけで、心臓が一つ跳ねる。
「な、なんですか」
「いよいよ寝るってなったら、なんかソワソワしない? 恋バナする?」
「寝てください」
「ひどい」
「ていうか、橘さんは今まで彼女さんがいたでしょうが。なんで緊張するんです」
「そりゃいたけど。今までこんな気持ちなかったもん。こんなソワソワするのは君とだけだよ。――あ、そうだ」
傍らでもそもそと動く気配がした。横に向いたんだろうか。
「七瀬ちゃん。言うの忘れてた。実は君の好きなところ、昨日一個見つけてたんだ」
心臓が、また強く跳ねる。
「君の目が好き」
「……? 目ですか」
「うん。目が好き。いつも真っ直ぐ俺を見てくれること。そうして言葉を選んでくれること。あの自縛怨霊が君に心を開いたのも分かるよ。妬けたけど。めちゃ我慢したけど」
「ご立派で」
「でも、これでもそれなりに時間かけて見つけたんだよ。たぶん――本心から好きだと思う。君の好きなところ、第一個目だ」
低く落ち着いた声音が耳朶に触れる。……なんで今、それを言うかね。
本当に彼が義務からじゃなく、心から、わたしを好きになろうとしているのが分かってしまうじゃないか。
こっちだって、きちんとした態度で迎えなければならなくなってしまう。
時には動かさないと、焦げ付いて不味くなってしまうそうだから。
「……橘さんに謝らないといけないことがあります」
「え、なに」
「この数日、朝に味噌汁作ってくれてましたよね。あれ、美味しかったんですけど……本当はちょっと、味が薄く感じてました」
本当は分かっている。どうして薄かったのか。風邪なんかのせいじゃない。
「どうしてでしょうねぇ。わたし、いつの間にか――あなたがいないと寂しいと、思ってしまっていたみたいなんです。きっと、それなりにあなたのことが好きなんだと思います」
隣からすぐに返答がなかった。しばらく経っても返ってこない。寝てしまったのかな、と思った頃、ようやく動く気配がした。なんだ、寝返りかな?――……なんて。
異性と寝たことないわたしは、どうやら橘さんのことを全面的に信用していたらしい。
いきなり彼に覆い被さられて、口から心臓が飛び出るかと思った。
昨日と同じように枕の横に両手を突いた橘さんが、たぶん間近にいると思う。わたしはまだ慣れない暗順応に感謝していいのかどうか頭がこんがらがった。
「これは、七瀬ちゃんが悪いです」
すぐ上から声が振ってくる。
「俺のこと好きって言ってくれるのは嬉しい。超嬉しい。でも時と場を考えなさい。昨日は君が熱を出していたから我慢したけど、今日はとくに気にするものも何も無い。しかもさっき俺が君に何もしない理由は話したよね? 同意のない子作りはしないって言ったよね」
「や、ちょ、同意はしてませんからっ。ど、どいてくださいっ」
「でも俺のこと好きなんでしょ?」
「ゆ、友愛ですっ。いろいろすっ飛ばし過ぎですって橘さん……っ!」
「まだるっこしいなぁ。顔、真っ赤のくせに」
ひんやりした指が、唇に触れる。わたしは一段と顔が熱くなったのが分かった。
「キスしたら友愛かどうか分かるだろ」
暗闇の先、彼の輪郭がぼんやりと見える。笑ってる――ように見えた。
唇に触れた指が頬に滑る。ぐっと、気配が近づく。
鼻先に息がかかり、熱を越えた耳はとうとう耳鳴りを発し始め、何も考えられなくなる。
ど、どうしよう、このまま――このまま、
わたしは大人の階段を上ってしまうんでしょうか。
ごんっ、と鈍い音がわたしの思考に待ったをかけた。一瞬の後、橘さんの全体重がわたしにのしかかる。わたしは潰れたカエルみたいな呻きを上げた。
「……え、ちょ、たちばなさん……っ?」
何が起きたのか分からずに肩口に頭を埋めた彼に呼びかける。応答がない。代わりに、健やかな寝息が聞こえていた。………………寝たのか。この一瞬で。この状況で。
……、…………、え、………………えー……?
始めから……寝ぼけてたとか? あり得る。さっきからすごく眠そうだったし。うん、あり得る。これはアレだ、寝ぼけてたんだ。そうだそうに違いない。忘れよう。ていうかわたしも寝よう。あ、邪魔だなコイツ。
わたしは上に乗っかる橘さんを横にどかそうと試みる。ビクともしない。顔面の毛穴をかっ開く勢いで全力を使い、どうにかこうにか横にずらした。そのまま放置して寝てもよかったのだけど、三月の夜は寒い。結局、布団を半分彼に掛けてやった。今になって暗さに慣れた視界の先では、寝息同様に健やかに眠る橘さんがいた。大変熟睡なさっているらしい。微かに白目を剥いていた。なんでこの顔が好きかもしれないと思ったんだろう。
けれどもそう思う一方で、胸の内は未だに大運動会が続いていた。大変まっこと馬鹿らしいのに胸の鼓動が鳴り止まない。最悪だ。こんなんじゃ、到底寝付けそうもない。
ああ――もう、どうしてくれる。こんなはずじゃなかったのに。
まるで呪われた気分だ。
この呪いは、しばらく解けそうにない。
昨晩と同じ客間にて、敷かれた布団の上で正座してその時を待っている。廊下から足音が近づいてきたと思ったら、目の前の襖が勢いよく開いた。
「やー、やっぱり我が家の風呂は一番ですなぁ~。生き返りますわ」
イヌの顔がプリントされたパジャマを着た橘さんが、首に掛けたタオルで頭を拭きつつ現われる。わたしはゴクリと唾を呑んで神妙に訊ねた。
「…………た、橘さん、本当に本気ですか」
「そりゃもちろん。約束したっしょ? 俺にも『今回だけいいよ』券をくれって」
橘さんはニッコリと笑う。
「一緒に寝てくれるなんて嬉しいよ。もう夫婦みたいだね、俺たち」
「布団は別々ですけどねっ。ていうかもう少し離してもらえませんか⁉ なんでこんなぴったりで敷くんですっ」
わたしは傍らに並んでいる布団をバシバシ叩く。熱に浮かされていたとはいえ、なんて愚かで浅はかなことを了承してしまったのだろう。もっとよく考えて答えるべきだった。彼のことだから、こんなことになるのは分かりきっていただろうに。
ハルトくんを見送ったあと、わたしたちは帰路についた。
家に帰ると居間には大地くんが寝かされていて、ゆかりちゃんの姿はなかった。座卓には職場に戻ることと、今日は春子さんの家に泊まるというメモが残されていた。橘さん曰く、えにしさんが出てきた日は毎度こうなるらしい。恥ずかしくてとても顔を見せられないそうだ。えにしさんとは一体何なのか気になってはいたのだけど、今はひとまずお預けである。
大地くんは一晩寝たら元気になるそうで、橘さんが二階に運んでくれた。橘さんはこのお彼岸中、爆速で除霊仕事を片付けていたらしく、最後の一日を残して全てを終わらせたという。明日は休みになったので一日のんびりできるらしい。だからなのか、はたまたヒイラギ荘内での諸々のタイミングがよかったのか知らないが、彼はわたしにあの約束を迫ってきた。『今回だけいいよ』券である。
結果、こうして布団を並べて一緒に寝ることになった。
「そりゃだって、七瀬ちゃんの寝顔を近くでよく見たいじゃない。せっかく同じ部屋なのに端っこ同士で寝るなんて意味ないし」
橘さんはわたしの抗議をあっさり受け流して隣の布団に座る。フッと、こちらに不適な笑みを向けた。
「それに、七瀬ちゃんだって満更でもないでしょ? なんたって君の好きな顔が近くで見られるんだからさ。この、俺という顔が」
「病人のうわ言です」
「弱っている時ほど本音ってのは出るもんよ。そんな恥ずかしがりなさんな、七瀬ちゃん。昨日はあれだけ甘いひとときを過ごした仲じゃないの。ほら、俺の胸に飛び込んできていいよ。俺は君の全てを受け入れよう」
わたしは枕を橘さんの顔面にぶん投げる。橘さんはぐえっふと鳴いて布団に倒れた。
「なにゆえ、なにゆえ枕」
「わたしの全てを受け入れると言ったので」
「枕は呼んでない。枕は呼んでないんだ、枕は」
「いいから絶対布団の境界線を越えないでくださいよ。今回だけいいのは、あくまでここで寝ることだけですから。それ以外は許可しませんから」
「相変わらずお堅いですのー七瀬ちゃんは。もー、昨日のでれでれ七瀬ちゃんが恋しいっスわぁ~。俺のこと、あれだけべた褒めして顔が好きって言ってくれたのにさぁ」
口を尖らせた橘さんは溜め息を吐く。こちらに体を向けて頬杖をついた。
「まぁ心配しなくても襲ったりしないよ。俺これでもけっこう疲れてるし。もう体も動かんし。ていうか、仮に今ここで子どもができるようなことが起きても、困るだけだから」
わたしは眉根を寄せた。
「……困るって?」
「子育てだよ。確かに子ができれば呪いと怨霊は俺から離れるけど、次の子に移る。その子が死んでしまうようなことがあれば、結局世が滅ぶわけよ。だから愛ある子育てと愛ある家族は大事だ。理想の家族を作るには、まずは俺たちがしっかり愛し合える関係にならなければなりません。つまり君の気持ちを無視するような行いはしないってこと」
頬杖をついたまま、ニコリとわたしに微笑みかける。丸襟のパジャマを着ているせいで、首筋の模様が見えた。あの、茨の輪っかみたいな痣。
……本当にまぁ、宿命に縛られた人だ。
「橘さんは」
わたしは気になっていたことを訊いた。
「自分の中にいるっていう怨霊が憎いですか」
「んー?」あくびを噛みつぶした彼は、口をむにゃむにゃさせながら呟く。
「そうだなぁ。ぶっちゃけ生まれたときからこうだから慣れてはいるんだよねぇ。アレルギーを持っている人と同じ感じっていうか? でもまぁ強いて言うなら哀れだとは思ってる」
「……哀れ、ですか」
「うん。コイツは永年、誰にも除霊できないほど憎しみに溺れた魂だ。まだそれなりに程度が分かる怨霊なら、除霊という形で救ってやることはできる。――今日のアイツみたいに」
ハルトくんのことを思い出す。自分を怨んでいた彼の最期は、とても満足げだった。他の怨霊はどうなのか分からないけど、苦しみから解放する意味では、除霊は救いなんだろう。
橘さんは胸のあたりを軽くさする。
「でも俺の中にいる怨霊は、それすらも拒絶する霊だ。まったく大した執念だよ。憎しみなんてちっぽけな感情のためだけに、何百年とこの世に縛られてさ。バカを通り越してもう哀れじゃん。いや、やっぱバカかも」
「そんなこと言って怒りませんか、中の怨霊さん」
「大丈夫、大丈夫。俺が生きている以上は絶対出てこないから。……まーだから、仕方ないのよ。俺の人生コイツに振り回され続けるのは。逆に俺くらいは振り回されてもいいかなって思ってる。誰か一人くらいは、傍で頷いてやっててもいいだろ。――お前の気の済むまで付き合ってやるよってさ」
さすっていた彼の手が、胸の真ん中で止まる。まるで、そこにいる存在に優しく言い聞かせるように。
わたしは、なんとなく思った。
彼のご先祖さんは、賢いのかいい加減なのか分からない。軽いノリだの閃きだので、どうにかして封じたという。
でも、もしかしたらご先祖さんは、除霊できなかったのではなく――除霊できなかったのかもしれない。
だって――橘さんがそうだから。
除霊が、好きじゃないそうだから。
「……お人好しですね」
「春子さんはアホってよく言うけどね」
くあ、と大きなあくびをした橘さんは首からタオルを取って立ち上がる。
「んじゃもう寝ますか。さっき言ったように、俺なんもしないから安心してね、七瀬ちゃん。どうしても不安なら、俺壁の方を向いて寝るし」
「……だったら布団を離した方がよくないですか」
「それは嫌ですぅー。布団はくっつけときたいんですぅ。七瀬ちゃんと繋がっときたいんですぅ」
「変なこと言わないでください」
横になって布団を首元まで掛ける。それを見届けてから橘さんは明かりを消した。部屋が真っ暗になって何も見えなくなる。布団を動かす布擦れの音がすぐ横でして、改めてというか、さっきまで遠くにあった緊張がこみ上げてきた。……本当に、橘さんと寝るのか。
「七瀬ちゃん」
暗闇から橘さんの声がした。いきなり呼ばれただけで、心臓が一つ跳ねる。
「な、なんですか」
「いよいよ寝るってなったら、なんかソワソワしない? 恋バナする?」
「寝てください」
「ひどい」
「ていうか、橘さんは今まで彼女さんがいたでしょうが。なんで緊張するんです」
「そりゃいたけど。今までこんな気持ちなかったもん。こんなソワソワするのは君とだけだよ。――あ、そうだ」
傍らでもそもそと動く気配がした。横に向いたんだろうか。
「七瀬ちゃん。言うの忘れてた。実は君の好きなところ、昨日一個見つけてたんだ」
心臓が、また強く跳ねる。
「君の目が好き」
「……? 目ですか」
「うん。目が好き。いつも真っ直ぐ俺を見てくれること。そうして言葉を選んでくれること。あの自縛怨霊が君に心を開いたのも分かるよ。妬けたけど。めちゃ我慢したけど」
「ご立派で」
「でも、これでもそれなりに時間かけて見つけたんだよ。たぶん――本心から好きだと思う。君の好きなところ、第一個目だ」
低く落ち着いた声音が耳朶に触れる。……なんで今、それを言うかね。
本当に彼が義務からじゃなく、心から、わたしを好きになろうとしているのが分かってしまうじゃないか。
こっちだって、きちんとした態度で迎えなければならなくなってしまう。
時には動かさないと、焦げ付いて不味くなってしまうそうだから。
「……橘さんに謝らないといけないことがあります」
「え、なに」
「この数日、朝に味噌汁作ってくれてましたよね。あれ、美味しかったんですけど……本当はちょっと、味が薄く感じてました」
本当は分かっている。どうして薄かったのか。風邪なんかのせいじゃない。
「どうしてでしょうねぇ。わたし、いつの間にか――あなたがいないと寂しいと、思ってしまっていたみたいなんです。きっと、それなりにあなたのことが好きなんだと思います」
隣からすぐに返答がなかった。しばらく経っても返ってこない。寝てしまったのかな、と思った頃、ようやく動く気配がした。なんだ、寝返りかな?――……なんて。
異性と寝たことないわたしは、どうやら橘さんのことを全面的に信用していたらしい。
いきなり彼に覆い被さられて、口から心臓が飛び出るかと思った。
昨日と同じように枕の横に両手を突いた橘さんが、たぶん間近にいると思う。わたしはまだ慣れない暗順応に感謝していいのかどうか頭がこんがらがった。
「これは、七瀬ちゃんが悪いです」
すぐ上から声が振ってくる。
「俺のこと好きって言ってくれるのは嬉しい。超嬉しい。でも時と場を考えなさい。昨日は君が熱を出していたから我慢したけど、今日はとくに気にするものも何も無い。しかもさっき俺が君に何もしない理由は話したよね? 同意のない子作りはしないって言ったよね」
「や、ちょ、同意はしてませんからっ。ど、どいてくださいっ」
「でも俺のこと好きなんでしょ?」
「ゆ、友愛ですっ。いろいろすっ飛ばし過ぎですって橘さん……っ!」
「まだるっこしいなぁ。顔、真っ赤のくせに」
ひんやりした指が、唇に触れる。わたしは一段と顔が熱くなったのが分かった。
「キスしたら友愛かどうか分かるだろ」
暗闇の先、彼の輪郭がぼんやりと見える。笑ってる――ように見えた。
唇に触れた指が頬に滑る。ぐっと、気配が近づく。
鼻先に息がかかり、熱を越えた耳はとうとう耳鳴りを発し始め、何も考えられなくなる。
ど、どうしよう、このまま――このまま、
わたしは大人の階段を上ってしまうんでしょうか。
ごんっ、と鈍い音がわたしの思考に待ったをかけた。一瞬の後、橘さんの全体重がわたしにのしかかる。わたしは潰れたカエルみたいな呻きを上げた。
「……え、ちょ、たちばなさん……っ?」
何が起きたのか分からずに肩口に頭を埋めた彼に呼びかける。応答がない。代わりに、健やかな寝息が聞こえていた。………………寝たのか。この一瞬で。この状況で。
……、…………、え、………………えー……?
始めから……寝ぼけてたとか? あり得る。さっきからすごく眠そうだったし。うん、あり得る。これはアレだ、寝ぼけてたんだ。そうだそうに違いない。忘れよう。ていうかわたしも寝よう。あ、邪魔だなコイツ。
わたしは上に乗っかる橘さんを横にどかそうと試みる。ビクともしない。顔面の毛穴をかっ開く勢いで全力を使い、どうにかこうにか横にずらした。そのまま放置して寝てもよかったのだけど、三月の夜は寒い。結局、布団を半分彼に掛けてやった。今になって暗さに慣れた視界の先では、寝息同様に健やかに眠る橘さんがいた。大変熟睡なさっているらしい。微かに白目を剥いていた。なんでこの顔が好きかもしれないと思ったんだろう。
けれどもそう思う一方で、胸の内は未だに大運動会が続いていた。大変まっこと馬鹿らしいのに胸の鼓動が鳴り止まない。最悪だ。こんなんじゃ、到底寝付けそうもない。
ああ――もう、どうしてくれる。こんなはずじゃなかったのに。
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