銀翼に乗せて舞う僕らの恋

路地裏乃猫

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開戦前夜

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 最後にキッペーと会ったのは、その真珠湾から遡ること僅か二ヶ月前のことだ。
 その日、約一年ぶりにまとまった休暇をもらったレイは、当時、故郷ロサンゼルスで暮らしていたキッペーに会いに行った。
 日本の大学を卒業後すぐに帰米したキッペーは、ほどなくロサンゼルスにある日本語新聞の会社に勤め口を見つけ、以来、そこで記者としてはたらいていた。
 その頃、中国大陸の利権をめぐるアメリカの対日交渉はいよいよ大詰めを迎えていた。
 アメリカ在住の日本人たちは、みな、自分たちの運命を左右するその交渉のなりゆきを固唾を飲んで見守っていた。当然、彼らの関心に応えるべき日本語新聞の記者が忙しくないわけがなく、当然のようにキッペーは会社に缶詰め状態で原稿書きに追われていた。
 とはいえレイ自身、次はいつ帰れるかも――あるいは二度と帰れなくなるかも――わからない身分である以上、わがままと知りつつ会えるときに会っておきたかったのだ。
 ビルは、入る前からすでにして物々しい雰囲気に包まれていた。
 ガラスは例外なくテープで目張りがされ、あるいは新聞紙でぴったりと覆われている。よく見ると、そのガラスには投石でできたと思しき罅(ひび)がいくつも走っていて、どうやらそれは、破片が部屋に飛び散るのを防ぐための対策らしかった。そして壁には一面、日本人を蔑む心ない落書きが。
 こんな光景を毎日眺め暮らしながら、昼夜なく働いているのか……
 受付に応じた若い女性社員は、レイの軍服姿を見るなりさっと表情を強張らせた。抜き打ちの検閲に来た憲兵とでも思ったのだろう。慌ててレイが用向きを説明すると、彼女は逃げるように廊下の奥に駆けていった。
 やがて薄暗い廊下の奥から、アームカバーをつけたままの友人が姿を現した。
 ほぼ一年ぶりに会ったキッペーは、ただでさえ白い顔がさらに青褪め、目の下には殴られたのかと思うほど黒々とした隈を浮かべていた。そのくせ眼光だけはやけに鋭く、飢えた獣を思わせる危うい雰囲気を放っていた。
「久しぶりだね、レイ」
 友人の言葉に、レイは魔法を解かれたように我に返った。
「あ、ああ……それより大丈夫なのか? えらく忙しそうだが」
「今のところは、何とか……」
 そう答えるキッペーの声は、疲れた中にも厳しいものが混じっていた。
 とりあえず、と通された応接室でソファに腰を下ろす。煙草を差し出すと、キッペーは快く一本受け取り、片手で器用にマッチを擦った。大学時代に日本で煙草を覚えたというキッペーは、帰米後も、給油が面倒だといってライターではなくマッチを愛用していた。
 一服つけると、胸につかえていた何かが煙と一緒に吐き出されたのか、ようやくキッペーはぽつぽつ現状を語りはじめた。
 現在進められているアメリカ‐日本間の交渉の経緯。両国が主張する条件と、それについての相手国の顔色。今後の交渉の展望。……等々。
「この交渉のなりゆき次第では」
 キッペーは、いつの間にか短くなっていた煙草を灰皿に押しつけた。
「この国に住む日本人、それに日系アメリカ人は、いよいよ生きるよすがを失ってしまうだろう……だが、このままでは間違いなく二つの国は衝突する。そうなれば、この国に住む日本人は一体どうなってしまうのか……みんな明日が見えずに怯えているんだ。その見えない明日に光を当てられるのは、僕らしか……僕らのペンしかないんだ……」
 ほとんど譫言のように呟くキッペーに、レイはかける言葉が見つからなかった。
 現在、軍上層部が進めている武器増産などの軍備増強は、いずれ来る対日開戦への準備ではないかとレイは想像していた。現在の交渉がどのような道をたどるにしろ、いずれ行きつく先は変わらないのだと、レイの軍人としての勘が冷酷にも告げていた。
 あんな約束さえ交わさなければ――
 日本の大学を優秀な成績で卒業したというキッペーには、そのまま日本の会社に勤めるという選択肢もあったはずなのだ。なのに、わざわざ反日感情高まるロサンゼルスに戻ったのは、ひょっとしたら、あの日交わした〝ユビキリ〟を律儀に叶えるためだったのかもしれず、だからこそ、二つの国のあいだで引き裂かれそうになっているキッペーを見るのが、レイは何よりも辛かった。
 入り口の方でガラスの割れる音がして、振り返ると、数人の白人少年が新聞社に向かって石を投げつけているところだった。
「あいつら!」
 追いかけようとソファを立ったレイを、キッペーの鋭い声が呼び止める。
「やめてくれ、レイ! 追わないでくれ!」
「は? なぜだ!?」
「なぜも何もないだろう! 少しは君自身の立場を考えたらどうなんだ!」
 ほとんど雄叫びに近いキッペーの声に、レイは気圧されるように口を閉ざした。以前までのキッペーなら、こんなふうに声を荒らげることさえなかった。
 諭すように、だが有無を言わせない口調でキッペーは続けた。
「いいかい、君は軍人だ。それも前途あるアナポリス出身の海兵隊の将校だ。その前途ある君が、こんな日本語の新聞社を庇ったとなれば、下手をするとスパイと疑われて経歴に瑕がつきかねないんだぞ」
「瑕?」
 思わずレイは問い返す。――なぜだ。友人のために正しく怒ることが、どうして、なぜ、俺の経歴に瑕をつけるんだ。 
「それと」
 混乱するレイに、さらに追い打ちをかけるようにキッペーは告げた。
「もう二度と、ここに来ない方がいい。……僕とも、もう、会わない方がいいと思う」
「は……」
「下手に僕とつきあったら、FBIに日本のスパイと疑われてしまう。君の、軍人としての将来が潰されてしまうんだよ……わかるだろう?」
 わからない。いや、大切な友人に会ってはならない理屈など、分かりたくもない。
「そ、そんなの、俺は別にどうでも、」
「よくない!」
 跳ねるようにキッペーはソファを立つと、ぎらつく眸でぎゅっとレイを睨んだ。
「君じゃない……僕が、つらいんだ」
 小刻みに肩を慄わせ、ただでさえ青褪めた下唇を真っ白になるほど噛みしめたキッペーの表情は本当に苦しげで、決して冗談や意固地で口にしているとは思えず、今度こそレイはかけるべき言葉を失った。
 昔からそうだった。キッペーは、自分よりもむしろ他人が傷つくことに痛みを感じてしまう、そういう奴だった。
「……わかった」
 辛うじてそれだけ絞り出すと、レイは応接室に背を向け、落書きと罅割れだらけの社屋を後にした。
 その二か月後、あの真珠湾攻撃によってついに対日戦が勃発する。
 そして、年が明けた一九四二年二月一九日――
 アメリカ西海岸に在住する日本人および日系アメリカ人を、現住居から強制的に退去させる大統領令、いわゆる九〇六六号が発布された。この命令により、当地に住まう日系人は、それまで彼らがこつこつと積み上げてきた財産、築いた社会的地位、耕し切り拓いた土地をすべて放棄させられた挙句、収容所への強制移住を余儀なくされた。
 そのニュースを、レイは西太平洋に向かう空母の上で聞いた。
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